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たぶん、もう、どうにもとまらない
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
2017年1月13日(金)
小田嶋 隆
「共謀罪」の成立が現実味を帯びてきている。
時事ドットコムニュース(こちら)によれば、
《共謀罪「一般人は対象外」=菅官房長官
菅義偉官房長官は1月6日の記者会見で、いわゆる「共謀罪」を創設するための組織犯罪処罰法改正案を20日召集の通常国会に提出することについて「政府が検討しているのはテロ等準備罪であり、従前の共謀罪とは別物だ。犯罪の主体を限定するなど(要件を絞っているため)一般の方々が対象になることはあり得ない」と述べ、理解を求めている。 》
とのことだ。
共謀罪を盛り込んだ法案については、野党などの反対で、これまでに3回廃案となっている。昨年9月の臨時国会でも、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)の関連審議を優先させるなどとして、法案提出が見送られた。
今回の共謀罪成立への4度目のチャレンジは、2020年のオリンピック・パラリンピック開催をにらんで、政府が、不退転の決意で臨んでいるところのものだと言って良い。
会見の中で菅官房長官が伝えようとしていたのは、
「今回政府が提出するいわゆる『共謀罪』は、戦前に猛威をふるった『治安維持法』とは違って、思想犯や社会運動家を大雑把に網にかけるようなものではない。対象はテロ犯罪に限定しているし、逮捕に至る要件も厳しく制限している。だから、テロ犯罪の準備にかかわることのない一般人がこの法律によって逮捕されたり、普通の人間の言論や行動の自由が制限されるリスクを言い立てる一部の人間たちの言説は、ためにする議論に過ぎない」
といったほどのお話なのだろう。
言いたいことの主旨はよくわかる。
政府が組織犯罪処罰法を改正しようとしている主たる目的が、あくまでも五輪開催に向けたテロ犯罪を防止するところにあることも、基本的には理解できる。安倍政権が、政府に批判的な市民を片っ端から逮捕する一大ファシズム国家の実現を夢見ているってな調子の近未来予測を並べ立てるつもりもない。
が、それでもなお、私は、この法律に感じている不気味さを、どうしてもぬぐい去ることができずにいる。
ここまでのところを読んで、「考えすぎだ」ということを私に伝えようとする人が、一定数あらわれるはずだ。
実際、菅官房長官の「一般の方々が対象になることはあり得ない」という発言を受けて、私がツイッター上に、
《「一般人は対象外」という理屈の背後には、「共謀に与するような人間は一般人ではない」というトートロジーが隠れている。この言い方を応用すると、たとえば道路交通法も「一般人は対象外」として運用されているてな話になる。なぜなら「信号を無視するような市民は一般人ではない」わけだから。》
《「犯罪者以外は罰せられないのだから一般人には関係ありません」という説明で簡単に安心してはいけない。犯罪者以外が罰せられないのは、どの法律でも同じことで、この言明そのものにさしたる意味は無い。大切なポイントは「その法律が想定している『犯罪者』がどういう人間なのか」ということだぞ。》
《これってつまり「誰が一般人でどんな人間が犯罪予備軍であるのかはオレらが決めるんでよろしく」ということだよね? 共謀罪「一般人は対象外」=菅官房長官 【時事ドットコムニュース】》
という一連のツイートを書き込んだところ、私のツイッターの@欄には、
「『テロ等準備』の文字が読めないの? なんですぐに妄想で語っちゃうの?」
「特定テロ組織と共謀してテロを起こす一般人は確かにいますね。ISのテロなんかそうですね。 しかし、テロを起こした時点で一般人に分類するのは、かなり無理ですなw」
「不安を煽るのがライターさんの重要なお仕事なのでは?」
といった感じの、嘲笑を含んだ複数の反論や疑問が、間髪を置かずに寄せられている。
こういうことが起こるのは、「テロ等組織犯罪準備罪」の必要性を感じている人がたくさんいることの現れでもあるのだろう。
が、それ以上に、私が強く感じるのは、「共謀罪」に懸念を表明する人間に反発を感じる人々が増えているということだ。
私は、いま、まわりくどい書き方をしている。
こういう書き方は、本来好ましくない。
が、実際に事態は、まわりくどい段階に到達しているのだから仕方がない。
つまり、いま起こっていることは、目に見えているカタチとしては「政権の意向に何がなんでも賛成する人々が増えている」ように見えるわけなのだが、実際に起こっているのは「何がなんでも権力に反発してみせる人間に対して何がなんでも反発する人々が増えている」事態だということだ。
どうしてこういうことが起こっているかについての分析は、とりあえずここではしない。別の機会に書くことがあるかもしれない。とりあえず、今回は、共謀法の話を進める。
共謀法に関して私が感じている不気味さは、2年前に特定秘密保護法が制定されようとしている時に抱いていた懸念とほとんど同質のものだ。
私は、この組織犯罪防止法の改正案が、特定秘密保護法案などが成立した時とまったく同じような経緯で、たいした議論も経ぬままにずるずると成立することを、半ば以上のあきらめとともに、強く予感している。同時に、私は、自分たちが、あの自民党の憲法改正草案の実現に向かって進む一本道の途中段階に立っていることにあらためて思い至っている。
憤っているとか反発しているというのとは少し違う。
事態がある段階に立ち至ると、恋愛であれ、ギャンブルであれ、事業であれ、一度動き傾きはじめた流れは、結局のところ誰にも止めることのできないものなのだなあと、静かに落胆している、といったあたりが正確なところだ。
テロ犯罪をたくらむテロ組織なりテロリストたちが、自らテロ集団なりテロリストなりの看板を掲げて堂々とテロの準備を敢行しにかかるのかというと、コトは必ずしもそういうわかりやすい手順では進まない。現実には、悪質なテロ組織であればあるほど、自分たちの正体を隠蔽ないしは偽装する。そして、その悪賢くも周到な彼らは、およそ考え得る限りのあらゆる迷彩を施して、自分たちが善良な一般人であるかのような外面を整えにかかる。
対抗上、捜査機関の人間は、当然のことながら、市民団体を装っていたり、無害な私企業のふりをしていたり、NGOの看板をかかげて市民を欺罔する国家転覆計画者や無差別殺戮テロ準備組織の正体を暴こうとする。つまり、テロ組織の犯罪に対峙する捜査員が犯罪捜査に従事する時には、まず、一般市民としてふるまうテロリストを疑ってかかるところからとりかからないと、仕事にならないのである。
であるからして、捜査の現場では
「私は一般市民です」
という供述は、まず間違いなく一蹴される。
「テロリストはみんなそう言うんだよw」
と、たぶん、逮捕にやって来た人間は、「一般市民」の言葉をテンから信じないだろう。
「共謀罪」の不気味さは、「為したこと」(事実として行われた行為)ではなく、「考えたこと」(アタマの中で考えている計画や謀議)を裁くその前提の特殊さにある。
普通の刑法は、原則として、犯罪行為の「結果」を裁くことになっている。
ところが、「共謀罪」は、犯罪企図や犯行の準備や共同謀議をその対象にしている。
ということは、この法律に関しては、「共謀」の主体なり対象なりをどれほど厳しく限定したところで、さしたる歯止めにはならない。
なぜなら、いざ法を運用する場面では、法を執行する側の解釈次第で、「共謀」の解釈をどうにでも拡大できてしまうからだ。
というよりも、捜査する側が、自分たちの見込みに従って、ある程度恣意的に「共謀」の範囲を勘案できるのでなければ、この法律は有効に機能しないのだ。
たとえば、1990年代のオウム真理教事件の捜査では、
《カッターナイフを所持していたために銃刀法違反、職務質問から逃げようとして公務執行妨害、マンションや東京ドームでのビラ配布で建造物侵入、ホテルの宿泊者名簿に偽名を記入したことによる旅館業法違反容疑、自動車の移転登録をしなかったために道路運送車両法違反容疑で逮捕など通常では考えにくい微罪逮捕が行われ、信者四百数十名が別件逮捕・微罪逮捕で拘束された》←ウィキペディアより
といった野放図な操作手法が、堂々と繰り広げられたとされる。
ほかにも、いわゆる過激派と呼ばれた左翼運動家の捜査では、「転び公妨」(捜査員が捜査対象に意図的にぶつかって転ぶことで、公務執行妨害を成立させる手口)と呼ばれる捜査手法が頻繁に使われている。
凶器準備集合罪も、その制定過程では、暴力団の抗争が、具体的な殺傷事件に発展する前に取り締まることを目的として準備されたものだと言われている。ところが、実際に法律が制定されてみると、1960年代以降、凶器準備集合罪は、主として学生のデモを規制する手段として用いられることになった。
これらの例からわかるのは、法律が、運用次第で、かなり恐ろしいツールになり得るということだ。
共謀罪のような「人間がアタマの中で考えている犯罪」を裁く法律の場合、その運用の幅は、原理的に、どこまでも拡大することができてしまう。
旅館業法や道路運送車両法は、「一般人」を捕縛する目的で制定された法律ではない。公務執行妨害にしても、普通は歩いているだけの人間にいきなり警察官がぶつかって来て転ぶようなやりかたで適用される法律ではない。
というよりも、言葉のアヤみたいな話になるが、どんな法律であれ、それは本来「法を犯す者」を裁くために書かれたものであるはずで、その意味では、法律は、法の枠内で暮らす善良な一般市民とは無縁なものだ。
もう一度繰り返すが、旅館業法や道路運送車両法は、一般市民を捕縛するために制定された法律ではない。
にもかかわらず、現実の犯罪捜査の現場では、旅館業法違反や道路運送車両法違反を拡大解釈して市民を捕縛するようなことが起こっている。また、われら「一般市民」の多くも、オウム事件が世間を騒がせていた当時には、道路交通法や有印私文書偽造などの不可思議な罪名でオウム真理教の信者を大量に検挙する警察官の態度を、大いに支持していた。
つまり、現場で法執行に当たる人間は、敵(捜査員から見た「犯罪者」のことだが)を捕らえる目的のためには、どんな手段でも使おうとするものなのであって、だからこそ、法律の条文は、なるべくなら野放図な拡大解釈を許さないものであることが期待されている。
もっとも、仮に、警察官が多少強引なやり方で市民の身柄をおさえて拘束するようなことが起こったのだとしても、法の番人である裁判所が正しく基本的人権を守る立場で審理を行い、判決を出すことが間違いなく保障されているのであれば、そんなに大きな心配をすることはない。
万が一、末端の捜査官の勇み足の結果、罪を犯していない人間が逮捕されるようなことがあったのだとしても、裁判が正しく行われ、裁判官が正しい判断を下すのであれば、正しい行いをしている市民が不当な罪を着せられることはあり得ないからだ。
とはいえ、わが国の司法制度とそれを支える裁判官の全員を完全に信用できるのかどうかというと、実のところ、私は確信を持てない。
裁判所は、時に冤罪をつくっている。
このことは、誰もが知っていることだ。
名張毒ぶどう酒事件の裁判をめぐる一連の出来事や、袴田事件、免田事件に関する詳細を知れば知るほど、自分が無実である限り、できれば裁判の被告として裁かれるような事態は、全力で忌避したいものだと考えざるを得ない。
思うに、裁判官の中には、一般人の中で広く共有されている常識よりは、身内のメンツや法曹人としての体面の方を重視するタイプの人々が、一定の割合で含まれている。
とすれば、われわれの中にある何らかの要素(思想、信条、好みの下着などなど)が、彼らの好みに合わない時は、どんなひどい目に遭わされるのかわかったものではないわけで、だとしたら、私は彼らの手に「共謀罪」のような解釈の余地の大きい条文を与える決断には賛成できないのである。
東京新聞が11日の紙面で伝えたところでは、
安倍晋三首相は、十日、共同通信社との単独インタビューに応じ、政府が通常国会に提出する方針を固めた「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案に関し、成立させなければテロ対策で各国と連携する国際組織犯罪防止条約が締結されず「2020年東京五輪・パラリンピックが開催できない」と指摘。懸念がある「共謀罪」には、「一般の方々が対象となることはない」と理解を求めた。−−略−−
ということになっている。
五輪の開催にかこつけて、共謀罪の必要性を訴えているカタチだ。
別の確度から見れば、五輪という錦の御旗が、共謀罪創設のための道具として利用されている局面と見なすこともできる。
「もう止めることができない」などと言いつつも、この件に関して個人的な見解を述べるなら、たった2週間で終わるイベントを無事に開催するために、わが国の法典の中に永遠に残る厄介な法律を書き込まなければならないのだとしたら、その取引はあまりにもベネフィットに対して、コストが高すぎると思う。
逆に言えば、もし仮に、五輪というイベントが、本当に共謀罪を創設したり、基本的人権を制限しないと開催できないような空恐ろしいイベントであるのだとしたら、そんな剣呑なイベントの開催は、いまからでもぜひ辞退するのが賢明だということだ。
五輪の開催と引き換えに共謀罪をあきらめるというのなら、まだ交渉の余地はある。
共謀罪を成立させる代わりに五輪の開催を断念するという選択肢も、まるで理解できないわけではない。
でも、安倍さんが言っているのは、五輪を開催するためには共謀罪の成立が前提条件になるということで、これは、私にとっては大嫌いなものが二つ並んでふところに飛び込んでくるタイプの交渉になる。
到底話を聞ける条件ではない。
なめくじを食べるのならミミズも食べないとスジが通らないみたいな、両睨みの地獄じみた話に聞こえる。
私はどっちもゴメンだ。
というわけで、安倍さんには、
「つまり、五輪の開催を辞退すれば、共謀罪の成立も回避できるわけですね?」 と答えておくことにする。
ちなみにこれは私の側からのファイナルアンサーなので、返事は要りません。あしからず。
「普通である」と他人に認証してもらう、
そんな社会は相当息苦しそうです。
全国のオダジマファンの皆様、お待たせいたしました。『超・反知性主義入門』以来約1年ぶりに、小田嶋さんの新刊『ザ、コラム』が晶文社より発売になりました。以下、晶文社の担当編集の方からのご説明です。(Y)
安倍政権の暴走ぶりについて大新聞の論壇面で取材を受けたりと、まっとうでリベラルな識者として引っ張り出されることが目立つ近年の小田嶋さんですが、良識派の人々が眉をひそめる不埒で危ないコラムにこそ小田嶋さん本来の持ち味がある、ということは長年のオダジマファンのみなさんならご存知のはず。
そんなヤバいコラムをもっと読みたい!という声にお応えして、小田嶋さんがこの約十年で書かれたコラムの中から「これは!」と思うものを発掘してもらい、1冊にまとめたのが本書です。リミッターをはずした小田嶋さんのダークサイドの魅力がたっぷり詰まったコラムの金字塔。なんの役にも立ちませんが、おもしろいことだけは請け合い。よろしくお願いいたします。(晶文社編集部 A藤)
このコラムについて
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/011200077
「家族葬」は誰のもの?
遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」
思いについて思うこと
2017年1月13日(金)
遙 洋子
ご相談
年末年始、実家に帰り、両親とあれこれ話をしていた折、「私たちは家族葬でいいからね」と言われました。突然のことに驚きながら、両親も年を取り、そんなことを考えているのだと思うと、何だか胸が締め付けられるような気持ちになりました。改めて両親を大事にしようと思いながら、自分もそうしたことも考えておかなければいけないのだなと気づかされました。「おくり方」も多様化する中、遙さんが考える「いい葬儀」について教えてください。(40代女性)
遙から
新年早々こういうテーマはいかがなものかとも思いつつ、最近の潮流としての"家族葬"などについて考えてみたい。
折しも、私の身内に不幸があり、家族葬を経験することになった。年末のことだ。
大阪市内では焼き場がなく、葬儀は大阪で、火葬は隣接した他の市にバスで移動となった。どうやら年末はもっと不幸が多かったようで、年末ぎりぎりに身内をおくった知人は火葬場待ちで4日間もご遺体をそのままの状態で保存せねばならなかったという。
いずれ、団塊の世代が終焉を迎える頃には葬儀場が足らなくなるとは聞いてはいたが、すでにそれが始まっていると実感した。
自宅から斎場へ
過去、いろいろなおくり方を経験してきた。
最初は、自宅での葬儀。町内会の婦人会の方たちがこぞって朝5時から起きて準備してくれ、そういった地元ならではの人のつながりにも感謝できる経験だった。家での葬儀には、故人が在りし日々を過ごした場所で偲べる情緒がある。が、慌ただしい中で慣れぬ準備にあれこれ追われ、来客を迎えるための食事の準備や接客など大変さも半端ではない。
その経験をもとに、次の葬儀は大きな斎場に委ねることにした。場所も分かりやすく弔いの宴席もすべてセット。どういう葬儀にするかを業者と打ち合わせ、当日はその通りに、恙なく葬儀が運ばれることとなった。
大きな斎場はさすがに慣れていて、例えば喪服の着付けについても「帯締めは通常のように二重で結ばず、不幸が続かぬように一重で結ぶんです。そして、ヒモの端の処理は端を上に挟むのではなく、悲しみ事なので端が下に来るように仕上げるのです」などと係の人が教えてくれる。
日本古来の着物の着方にも、ハレの場、悲しみの場、それぞれに着つけが異なる。分からないことが次々に出てきて不安になりがちな葬儀に関して、そういったプロがいてくれるのは何かと心強い。
そして今回は家族葬。どんどん葬儀が簡略化、効率化、プライベート化されていく中で登場したスタイルを初体験することになった。
家族葬のいいところは、葬儀が終わって以降の弔花の返礼などの手間が省け、あっという間に終えられるところだ。つまり、“楽ちん”なところだ。
謳い文句は謳い文句
だが、「?」が浮かぶことも、いろいろ見えてきた。
家族葬と低価格というのはセットだ。業者も低価格を謳い文句に営業する。だが、後に喪主に聞くと、「どんどん追加料金が派生し、当初の謳い文句どおりの料金で収まらなかった」という。
例えば、セット料金にある棺には遺体が微妙に納まりきらない。両手足を伸ばした状態で納棺するには大きいサイズの棺に変更する必要があり、「膝を折って棺に入れますか? ヒザを伸ばして棺に入れますか?」と喪主は選択を迫られる。おくる側の心として後者を選ぶと「追加料金」となる。その理由は「通常、棺はすでに身体が委縮した高齢者向けの小さめのサイズにしており、普通の体格の人のサイズの棺は別料金」という理屈だそうだ。
故人は特別デカい体格ではないが、普通の身長であることですでに「小さくないから特別料金」ということだった。
そして、そこからが次々と追加料金が発生することとなる。
「大きい棺なので車も大きめのものになります」。だから追加料金。
「棺だけではなく家族も同行するならそれ用の車に変更しますので」。さらに追加料金。
といった風に。
高齢社会をすでに背負う読者の皆様に、ごく個人的な経験ながらお伝えしておきたい。良心的な家族葬を営む業者も当然あるだろうが、低価格を謳う業者の中にはこうやって、やむなくどんどん追加料金が重なるケースもある。“謳い文句通りにいかない家族葬”があることにご注意いただきたい。
参加する側の「?」も発見した。"家族"つまり"来るのは身内だけ"という意識から、これまでの葬儀とは異なるシーンが展開された。
まず服装。パリッとした喪服ではなく、黒ならとりあえず何でもいいだろう的な、アイロンなどかかっていない普段着の黒のよれよれパンツで来る。その場が"式"だと思えば、それが他人の眼もある斎場なら、最低限のマナーとして喪服を着ていた人が、身内だけ意識から正装という概念を崩す。
また、子連れの多さ。いわゆる通常の葬儀では、厳粛な式の間、静かにしているのが難しい幼い子供たちは連れていかないケースが多いのだろう。斎場で大勢の子供たちが所狭しと走り回るような光景をあまり見た記憶がない。
だが、家族葬だ。気を使う必要はないのだから、子供をみんな連れて行こう、となる。そうして各家族の子供たちが出会うと斎場の親族待合室は保育園化する。家族葬専門の業者が仕切る待合室がいくつも並ぶロビーでは、子供たちが走り回り、はしゃぐ声が響く。
これは骨です
焼き場ではちょっとした議論が噴出した。あまりの子供たちの明るい騒ぎ様に、ある親族が提言した。
「火葬場のお骨拾いの時は、子供の参加はマナーとして避けるべきではないか」
諸々意見が出た末の結論は
「それぞれの親に判断を委ねる」
結果、それぞれの親が出した答えは、同じだった。
「子供の教育にもなるからお骨拾いの場にも参加させる」
そして、ひとりの人間が人生を終焉させる式のクライマックスともいえるお骨拾いの場で、何やら違和感のある光景を目撃することになる。
幼児が母に聞く。
「これなに?」
「これはね。骨よ。ホネ」
「ホネ?」
「そう。ホネ。熱いから触っちゃダメよ」
「ホネ、あっちー?」
「そう。あっちっちだからね」
…葬儀の場を教育の場にしたっていいじゃないか。だって、家族葬だものね…。
お隣のご遺体
ちょうど、お隣りのご遺体も焼き上がった。
隣りの方の骨の周りには、悲しみを隠さない喪服姿のご高齢のご身内方が神妙に厳粛に、ひとつひとつご遺骨を骨壺に収めていった。
私は素直にうらやましかった。せめてその日一日くらいは、悲しみと厳粛さをしっかり感じていたいと思い、そんな自分の気持ちにしっくりくる光景だったからだ。
現実に戻れば、帰りのバスの中もキャッキャと賑やかだ。子供好きの青年たちが幼児をあやす。まるでピクニックに行くような雰囲気だ。喪主が膝に乗せた骨壺がピクニックのお弁当かと思えるくらいに。
最近、地域レベルでの家族葬専門の業者が増えている。まさしく駅前葬儀と言おうか。私の経験では"身内だけ"ということが厳粛さを溶解させ、緊張からも他者の眼からも解放され、安く、気軽に、手軽に、自由な、葬儀だった。
盛大な葬式を手放しで肯定するつもりはない。高い金を払えばいいというわけではないし、カジュアルな葬儀も、明るい葬儀だってありだと思う。
例えば、故人が明るい葬儀を望み、おくる側も「いかにも彼・彼女らしい」と故人を存分に偲びながら、泣き笑いしながらドンチャン賑やかにやるなんてオシャレじゃないか。
料金でもなく参列者数でもなく
しかし、故人の扱いが軽くなるのは、違うと思う。
家族葬にしても、「真にその人を想う人だけで」の家族葬。「いいじゃん。家族だし」が優先される家族葬。金銭的な制約からやむなく選んだ家族葬。様々な家族葬があるだろう。
私は近い将来、「いいじゃん。地味なジャージで」の家族葬の時代が来ることを確信する。その先、「いいじゃん。焼くだけで」との境界線は、もう紙一重に感じる。
故人を偲ぶ列が絶えない盛大な葬儀も、ジャージ家族葬も、私は否定しない。
私の小さな望みは、故人に思いを致し、厳粛に過ごすしばしの時間を大事にしたいということだけだ。
遙洋子さん新刊のご案内
『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』
『私はこうしてストーカーに殺されずにすんだ』
ストーカー殺人事件が後を絶たない。
法律ができたのに、なぜ助けられなかったのか?
自身の赤裸々な体験をもとに、
どうすれば殺されずにすむかを徹底的に伝授する。
このコラムについて
遙なるコンシェルジュ「男の悩み 女の嘆き」
働く女性の台頭で悩む男性管理職は少なくない。どう対応すればいいか――。働く男女の読者の皆様を対象に、職場での悩みやトラブルに答えていきたいと思う。
上司であれ客であれ、そこにいるのが人間である以上、なんらかの普遍性のある解決法があるはずだ。それを共に探ることで、新たな“仕事がスムーズにいくルール”を発展させていきたい。たくさんの皆さんの悩みをこちらでお待ちしています。
前シリーズは「男の勘違い、女のすれ違い」
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213874/011200040/
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