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2017年01月09日 「ジャーナリスト同盟」通信
<タカ派=右翼=改憲派>
人間は得てして安易に流される。嫌な人間には近づかない、近付きたくない。新聞人にも同じことが言える。戦後教育を受けた人間は、民主的なものにあこがれる。暴力に反対しながら、暴力から遠ざかろうとする。結果的に右翼研究がおろそかになってしまう。筆者はそんな甘い新聞人だったことを反省している。右翼・改憲派と距離を持つことを、むしろいいことだと考えてきた。新聞は右翼と書かない、書けなかった。鳥になぞえて、鷹・タカと鳩・ハトに区別し,タカ派と表現した。
この鷹と鳩という区別は、実に巧妙な知恵が働いている。問題だが、的を射た表現方法でもあろう。鷹は弱い小鳥をつかまえて食い殺す。鳩は平和の象徴である。つまり、右翼は鷹だから、弱者を食い殺して生きる。いまの安倍内閣のやっていることを見ていると、どう転んで見ても鷹そのもので、弱者への配慮は弱い。完全に無視されている。
経済政策のアベノミクスがその象徴である。富者を喜ばせたが、貧困層はその逆だった。
<平和憲法を食い殺す鷹>
もっとも、現実の鳩は増えすぎて、都内の住宅や電車のホームを汚染するなど被害が目立つ。筆者が10年住んでいた品川区のマンションのベランダは、鳩の糞で迷惑を受けている。中国では、人気の鳩肉料理がある。東京でも始めてはどうか。益鳥も限界を超えると有害である。
ただし、人間社会はハト派が多いほど社会は安定する。平和が人間の幸福の最大の要素だからである。ハト派が踏ん張らないと、鷹に食い殺されるという戦争へと突き進む。
日本における鷹派・タカ派は、平和憲法を食い殺して、武器弾薬の国家主義・軍国主義を招来させて、国際環境を緊張させる。ハト派が衰退すると、戦争への危機が増大することになる。今が、今年2017年がそうである。
<右翼と書けなかった、右翼を恐れる新聞人>
72年に永田町の住人になると、真っ先にハト派の重鎮のような宇都宮徳馬のもとへ駆け込んだものである。彼の発言を「ハト派の宇都宮徳馬氏は」と紹介して繰り返し書いた。
パソコンなどない時代である。社用の原稿用紙に書きなぐると、それを、本社から「坊や」というバイト生が、国会記者会館2階に来て、運んでもらった。
反対に、中曽根康弘や福田赳夫をタカ派と決めつけた。当時、政治家としてはヒヨコのような石原慎太郎らもタカ派に分類した。タカとハトの区別は、日本国憲法や中国問題に対する立場で分類した。
現在もそうだが、右翼という表現を使わない新聞である。「日本に右翼はいない」と勘違いされる。同じく「日本に財閥は存在しない」ことになっている。
戦後、反省して再スタートを切った新聞だったが、それでも右翼と財閥には、最初からひれ伏してしまっていた。
東條内閣の商工大臣・岸信介は、財閥に囲われたような商工官僚だった。それゆえに戦後、A級戦犯。しかし、それでいて戦後の首相就任になってしまうのだが、戦後もまたこれが、背景にあるのだろうが、駆け出し記者には理解できなかった。
しかも、徹底追及することなく、いい加減にやり過ごしてしまった。このことは、議会・司法もいい加減に対応してきたことを裏付けている。言論も議会・司法も右翼に屈していたことになる。ドイツとの落差は、いかんともしがたい。結果、アジア諸国民の信頼が確保されない原因であろう。
そのことを許した無数の国民が存在した。戦後70年を経て、いまだ隣国の信頼を勝ち得ていない日本と日本人である。問題は、こうした情けない日本という事実を、新聞もテレビも政治家さえも気づいていないことである。分かっていても報道できない。
日本の言論の自由の限界なのだ。
<岸・福田派は台湾派>
憲法観での右翼VSリベラルの戦いは、靖国参拝を繰り返した小泉内閣で決着を付けたかに見られるが、72年当時はリベラルが圧倒していた。新聞テレビも野党もやや健在さを残していたためである。新聞テレビを、強引にねじ伏せて、配下に置いてしまった安倍内閣のもとでは、独裁政治が爆走することになる。
小選挙区制と信濃町の裏切りによる3分の2議席である。
右翼と連携を図る財閥も、公然とNHKのみならず、新聞テレビをコントロールしていることが、日本とアジアを混迷化させている元凶でもある。このままの状況が、今後とも継続してゆくのであろうか。 それはともかく、72年からゴングが鳴ったタカとハトの攻防戦は、台湾問題についての立場の違いからだった。親中派か台湾派かで、自民党内は激しく揺れたが、大勢は前者にあった。理由は、財閥の主流が「日中友好」による経済利益を優先したためだ。新聞テレビは、この局面では親中派を名乗り、台湾派のタカ派を厳しく批判した。
田中・大平連合に、三木派と中曽根派が支援、7年8か月の佐藤内閣の後継者には、田中角栄が就任した。
<吉田茂の保守本流>
自民党を二つの勢力に分類することが出来る。日本国憲法を制定した吉田茂のリベラル・保守本流と、戦前派・国家主義の岸信介や中曽根康弘の保守傍流である。
吉田・自由党と鳩山・岸の民主党の、いわゆる保守合同が、現在の自由民主党の基盤となっている。この場面で、CIAの支援を受けていた民主党の意向で「自主憲法制定」という野蛮な綱領が組み入れられてしまった。
実際は、森喜朗や小泉純一郎の背後で、日本会議が政権を主導するまでは、右翼の暴走は制約を受けてきた。したがって、日本会議の正体である神社本庁、戦前の国家神道を継承したカルトの宗教右翼が理解できないと、右翼分析は無理というものだ。
国家神道が理解できないと、日本の右翼・国粋主義はわからない。国粋主義の牙城は東京帝国大学である。岸は、そこで学んでいる。彼の薫陶を受けて大人になったのが、今の安倍晋三なのだ。明治に引きずり込もうとする右翼に警戒が必要である。
この岸の戦前派・国粋主義と対抗した吉田茂の自由主義は、池田勇人を経由して、大平正芳や宮澤喜一・加藤紘一へと連なる保守本流である。加藤の後継者はいるのかいないのか。今は筆者にも見えない。
戦争法や特定秘密保護法が実現した、変質した永田町の土壌といってもいい。
<宏池会ブレーンの一言>
政府自民党を担当することが、政治記者の憧れの一つだった。理由は、自民党が権力を独占していたためだ。それは派閥政治を意味していた。
派閥が一つの政党として機能していた。言ってみれば、自民党は派閥の連合体だった。派閥記者は、所属する派閥の政権担当に汗をかく。その点、政治部の規模が小さかった東京タイムズは、どこの派閥にも首を突っ込んだ。そのことで派閥の特徴をいち早く掴むことが出来た。
記者としてのバランス感覚を体得できたことだ。いまは存在しないが、恐らく小さい首都圏紙だったが、働き甲斐のある新聞だった。言論の自由を謳歌することが出来た。いまも感謝している。先輩の早坂茂三は、田中角栄秘書として大活躍したが、筆者は無冠と帝王を選択した。
「うちには右翼・暴力団はいない」という一言を記憶している。宏池会、当時の大平派のブレーンの安田正治の指摘である。どういうことかというと、わが宏池会は福田派や中曽根派とは違う、右翼ではない、という自信に満ちた言葉だった。彼は京都新聞OBとして、前尾繁三郎秘書から宏池会ブレーンになっていた。
2017年1月9日記(政治評論家・日本記者クラブ会員)
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