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中国提出の「南京大虐殺」資料を密室の審査で世界遺産に登録された、日本政府は分担金拠出を拒否した。KGBとも繋がる腐敗した
http://www.asyura2.com/16/senkyo217/msg/146.html
投稿者 怪傑 日時 2016 年 12 月 06 日 02:22:52: QV2XFHL13RGcs ifaMhg
 

中国提出の「南京大虐殺」資料を密室の審査で世界遺産に登録された、日本政府は分担金拠出を拒否した。KGBとも繋がる腐敗した旧ブルガリア共産党系社会党のイリナ・ボコバ ユネスコ事務局長の中国との癒着など、汚れた経歴と不透明な個人資産等々、調査・追及して現在世界最大のユネスコ分担金拠出国の日本はアメと鞭で、ユネス コを改革すべき
http://gansokaiketu.sakura.ne.jp/20161205-chugokuteishutuno-nankindaigyakusatushiryouwo-misshitudenoshinsade-sekaiisanni-tourokusareta------------nipponha-ametomutideyunesukowo-kaikakusubeki.htm

月刊正論12月号】
「南京大虐殺」を世界遺産にしたユネスコ事務局長のトンデモない経歴 ミロスラフ・マリノフ(ジャーナリスト)

※この記事は、月刊「正論12月号」から転載しました。ご購入はこちらへ。

 近年、日本の歴史問題が日本、中国、韓国の三国間で政治的対立の中心となっている観がある。「慰安婦」や「南京大虐殺」をめぐる激しい論争は歴史の教科書を越えて、ユネスコ(国連教育科学文化機関)や国連本体などのさまざまな国際機関にまで及び、その結果、日本に対する攻撃は驚くべきレベルに達している。日本人を含む世界中の人々は、国連やユネスコはすべての加盟国を尊重し、それぞれに利益をもたらすような合理的な意思決定ができる組織であると信じているのだろうか。これは真実から遠い。私は、国連やユネスコはどちらも極めて政治色が強い腐敗した組織であると思っている。

 この国連やユネスコに対する筆者の意見は正しいのか、と読者は思うかも知れない。そこで、本稿ではユネスコの腐敗の象徴として、私の祖国・ブルガリア出身であるイリナ・ボコバに焦点を当ててみたい。

「赤い貴族」階級の出身

 ユネスコ事務局長のイリナ・ボコバ(女性)は、典型的なブルガリア共産主義体制の申し子であり、このことがボコバを良くも悪くも興味深い人物にしている。彼女の個人的な性格は別として、ボコバや彼女の父親はブルガリア共産党の幹部で、我々庶民とはまるでかけ離れた世界に住む特権階級の出身だった。

 一般庶民は日用品や食料品など必要最低限のモノを買うために毎日店の前に並ばなければならなかったのだが、ボコバ一家のような特権階級の人々が住むのは門で囲まれた特別居住区だった。ここにはトラックで豊富な食料品やさまざまなモノが運び込まれ、何の苦労もなくすべてが手に入った。しかも、これらは政府によって無料またはかなりの低価格で提供されたのである。


ボコバが受けた教育やキャリアは特権階級に属していた家族によるところが大きい。ボコバの父、ゲオルギ・ボコフは共産党機関誌の編集長で、プロパガンダ活動の中心人物であり、1954年から89年までブルガリアで独裁体制を敷いていたトドル・ジフコフ国家評議会議長と近い関係にあった。筆者がソフィア大学に在学していた時に、何度かボコフの講義を聞かなければならないことがあった。大学で講義をするだけの知識がなく、自分の意見を主張するわけでもない。最初から最後まで共産党の政策を賛辞するだけの話は、まったく退屈だった。このような話を聞かなければならない学生は不運だったと思っている。

 ボコフは、第二次世界大戦中に反政府のゲリラとして活動を始めた。ソ連軍がブルガリアに侵攻し占領した後、ボコフのキャリアは飛ぶ鳥を落とす勢いだった。その一方で大戦中に、著名なジャーナリストで漫画家であるライコ・アレキシエフがスターリンの風刺画を描いたという理由で殺害しただけでなく、人民裁判所による処刑にも関与していた。1944年以前にファシズム政権に加担した、とされた数千人の政治家や知識人の殺害を許可する弾圧的な人民裁判所がソ連の命令により設置されたが、ボコフはここでの処刑にも関与していたのである。

 そうした父のもとで、ボコバと兄のフィリップ・ボコフは特権階級に与えられた無限の恩恵を受けて育った。彼らは共産党幹部だけに入学が許可された首都ソフィアのエリート英語学校で学んだ。1976年、将来の外交官を養成し、KGBと近い関係にあったとされるモスクワ国際関係大学を卒業したボコバは西側諸国を何度も訪問している。さらに82年から84年まで、ブルガリア政府の代表としてニューヨークに赴任した。

 この時代、一般のブルガリア人は移動が厳しく制限されていた。共産圏内の隣国へ行くにも、毎回ビザを申請しなければならず、地元の警察(民兵)が出国の許可を出さないこともあった。出国できるかどうかは民兵の判断次第だったが、ボコバはこのような不便を味わったことは一度もなかった。

生き残った共産党系人脈

 1989年、東欧諸国の共産主義体制は終焉に向い、ブルガリアでは11月にジフコフ評議会議長が退陣した。この後「進歩的」な新政権が誕生したはずだったが、ブルガリア共産党は社会党に党名が変わっただけで、実態は何も変わらなかった。90年の初の議会選挙で社会党は勝利し、89年以前の共産主義独裁体制への反対派は徐々に隅に追いやられた。イリナ・ボコバのような人物が再び政権の重要な位置を占めるようになった。

 1995年、ボコバはジャン・ヴィデノフ政権下で外務副大臣に、そして翌年外務大臣に任命された。しかし、この政権はブルガリアの歴史で最悪の政権のひとつだった。恐るべき無能さで財政破綻を引き起こし、それにより暴動が発生した。多くの銀行が倒産し、ブルガリアは債務不履行に陥った。ハイパーインフレは国民の貯蓄を奪い取り、国民一人当たりの平均月給が10ドルにまで落ち込んだ。このため社会党政権は退陣に追い込まれ、より保守的な連立政権が誕生した。

 日本人がイリナ・ボコバという人物を見る時に、ボコバを含めたブルガリア共産党特権階級の精神構造とブルガリアの腐敗した共産党の実態を理解する必要がある。現在のブルガリアで、ボコバのような人物は珍しくなく、中には犯罪組織と関係のある政治家もいる。

 2001年、元国王シメオン2世(シメオン・サクスコブルグ)率いる連立政権が樹立し、サクスコブルグ政権が発足した。この時の財務大臣だったミレン・ヴェルチェフも、父親はジフコフ時代に著名な外交官であり、祖父も影響力のある共産党政治局員だった。ヴェルチェフは外務大臣の在任中に、ブルガリアで最も強力なマフィアの幹部と一緒にヨットに乗っているところを写真を撮られ、大きなスキャンダルになった。このマフィア幹部は数年後に銃撃されて死亡した。また、現在はブルガリアメディア界の大物で大学教授のデミタール・イワノフは、共産主義政権時代に反体制派を暴行、投獄、迫害したことで悪名高いブルガリアKGBの最後の長官だったが、起訴されることなく現在に至っている。

 日本の人たちには理解しがたい話かもしれないが、現在のブルガリア政権の要職を占める政治家のほとんどは元共産党員である。ボイコ・ボリソフ首相は父親が共産党政権下で内務省の幹部だった。ボリソフ自身も、ジフコフの独裁支配が崩壊し、共産主義から社会党に移行する過程においても共産党党員の立場を維持していた。彼は1991年、ジフコフ議長のボディーガードになり、その後もシメオン2世のボディーガードとして仕えた。ボディーガードとしてのキャリアがこの後のボリソフの出世の道を開いた。ブルガリア大統領のロセン・プレヴネリエフは共産党時代にある都市の共産主義青年団の要職に就いていた。彼の父親は同じ都市の共産党委員会で宣伝活動推進の主要人物の一人だった。


トルコ系少数派が支持する政党「運動の権利と自由」はつい最近まで、筆者の大学の同級生だったトルコ系ブルガリア人のアマメド・ドガンが党首だった。ドガンは1980年代半ばにトルコのテロリスト組織のメンバーで、数人が殺害された事件に加担し逮捕された。その時のことをいまでも鮮明に覚えている。彼は数年間刑務所に服役していたが、ジフコフ政権の崩壊後に釈放された。その後公開された文書でわかったことは、ドガンはブルガリアKGBのエージェント(工作員)だった。日本でこのような人物が政党の党首になることは考えられるのだろうか。ブルガリアではこのような疑わしい人物がメディアやビジネスで成功している。ボコバもこのような仲間の一人なのだ。

 ユネスコの腐敗と偏向

 そのような理由で2009年、ボコバのユネスコ事務局長就任のニュースは多くのブルガリア人を憤慨させた。独立系の報道機関は次のように指摘した。「ボコバのキャリアの成功は彼女がその残忍性を決して否定したことのない、共産主義によるところが大きい。そのことをブルガリア国民に思い出させた。共産主義の原則は体制が崩壊し社会党政権へと移行してもブルガリア国民は苦しい生活を強いられてきたのである」。また、あるコメンテーターは「1970年代から共産主義国の影響を強く受けている腐敗したユネスコのトップにボコバはふさわしい」と皮肉った。まさに「類は友を呼ぶ」ということである。

 ボコバのもとで、ユネスコはますます政治的になり、不健全な運営が見られるようになったのではないだろうか。2011年、ユネスコはパレスチナという国家が存在しないにもかかわらず、パレスチナ自治区の加盟を認めた。これを受けて、米国はユネスコへの供出金を即座に停止した。2015年、イスラエルの首都であるエルサレムの「神殿の丘」の管理をめぐり、アラブ諸国主導でイスラエルを批判する決議案を採択した。ここはもともとユダヤ人が住んでいた土地であり、1967年までエルサレムの半分はヨルダンが支配していた。そして1948年から1967年、ヨルダンの支配下で多くのユダヤ教礼拝堂、墓地が破壊されたのだ。


 イスラエルだけでなく、日本もユネスコの「世界の記憶(記憶遺産)」を通して非難されるべき国としてターゲットになっているようにみえる。「世界の記憶」の本来の目的は、歴史的記録物を保全し、一般人に広く公開することだが、ユネスコによってこの目的が捻じ曲げられ、ひどい方向に向かっているのではないか。

 2015年、ユネスコは中国の「南京虐殺」の記録を登録した。南京虐殺については日中で激しい議論の的になっているにもかかわらずである。歴史の真実は歴史家によって議論されるべきであるが、ユネスコは歴史家よりも先を行き、不必要な議論を引き起こす元凶になっているのではないか。中国が登録申請した文書の内容は非公開で、日本はその詳細を確認することが許されなかった。サウス・チャイナ・モーニングポストは、「登録に強く反発した馳浩文科省大臣はボコバと会談をして、日本国内からは分担金供出の停止または減額の声が出ている」と報じた。日本はユネスコに申請書類やプロセスの中立性や透明性を求めたのである。日本の要求は当然であろう。同紙はまた、テンプル大学のジェフ・キングストン教授の「日本は南京虐殺資料の申請を非難し、同時にシベリア抑留資料を申請したのは偽善である」というコメントを伝えた。しかし、第二次世界大戦後に日本人がシベリアに抑留されたのは議論の余地がない事実であり、「南京虐殺」とはまったく違う。シベリア抑留の事実は誰も否定できまい。

「南京虐殺」文書の申請には頭をひねってしまう。仮にユネスコのロジックに従うならば、もっと多くの文書記録が登録されるべきだろう。1945年の英米軍によるドレスデン爆撃では推定2万5000人以上の一般市民が犠牲になった。広島と長崎への原爆投下や中国によるチベット人虐殺も申請するべきではないか。1500万人が餓死したとされる毛沢東による大躍進政策や、1989年の天安門事件は申請に値しないのか。このような歴史的イベントの申請に対してイギリスやアメリカ、中国はどう反応するのだろうか。

 日本人は、ユネスコという国際機関を通して中国や韓国の格好の標的となっており、不当な扱いを受けていることをしっかりと認識すべきである。また中国のメディアは日本が、200人以上の日本人が中国人に惨殺された通州事件を申請して反撃に出たと報じた。「新しい歴史教科書をつくる会」が5月に「通州事件・チベット侵略」と「慰安婦と日本軍規律に関する文書」資料を、ユネスコ記憶遺産に登録申請したと発表した。これは大きな一歩であり、日本人が一丸となって支援すべき活動であろう。

 【注】「世界の記憶(記憶遺産)」の英語の原文は「memory of the world」である。日本ユネスコ国内委員会はこれを「記憶遺産」と訳してきたが、「遺産」に当たる言葉は原文にはない上に、条約に基づく「自然遺産」「文化遺産」と同様に扱うのは妥当ではないという判断から、最近は「世界の記憶」という直訳調に訳語を変えた。ただ、従来の「記憶遺産」になじんでしまっていることと、「世界の記憶」だけでは文章構成上つながりが悪いことなどから、今後も「記憶遺産」という言葉は使われていくと推測される。

中国とユネスコの癒着

 次のユネスコの動きで注目すべき点は、却下された慰安婦の関連資料の登録が決定されるかどうかだろう。ユネスコは中国に対し、関係国と共同での再申請を奨励した。最近のユネスコは隠すことなく中国寄りの姿勢を見せている。2015年9月の新華社通信社のインタビューで、ボコバは「中国が世界平和の理解や概念を推進する上で、ユネスコにおいてますます重要な役割を担っている」と述べている。このような賛辞は中国が近隣諸国に対して軍事的な脅威になっている事実を見ると、まったく偽善であると言うしかない。その同じ月に、ボコバは北京での抗日戦勝記念行事に出席した。

 中国もボコバに対して賛辞を述べている。ブルガリアのメディア24Chasaが中国ユネスコ国内委員会委員長のハオ・ピンにインタビューをした。「中国の13億の国民は皆イリナ・ボコバを良く知っている。彼女は卓越した指導者で、並外れた能力、優れたグローバルなビジョンを持っている。ユネスコで財政の問題に直面したときも素晴らしい指導力を発揮した」と褒めちぎり、最後に「ボコバ事務局長が示した知恵とビジョンに感謝する。彼女こそ多くの若者の手本となり、憧れる人物です」と締めくくった。中国を代表するハオ・ピンのボコバを最大限に絶賛する言葉を聞くと、ボコバがどこの国に奉仕しているのかが簡単に想像がつく。

 幸いというべきか、彼女は国連事務総長にはなれなかったが、事務総長への立候補を決めてからのボコバは元共産党員として中国やロシアに擦り寄り、両国からの支持を期待していたのである。

 ボコバが事務総長に立候補したことで、彼女のユネスコでの“実績”が、これまで以上にメディアで取り上げられるようになった。メディアは政治的な問題だけでなく、ボコバの個人的な腐敗ぶりにも注目した。

 まず、ボコバはブラジルの支持を得るために、まったく経験のないアナ・ルイザ・トンプソン−フローレスを、Bureau of Strategic Planning(BSP)のディレクターに任命した。この時、ロシアの著名なビジネス紙Kommersantは、採用基準に手を加え、卒業証明を改ざんしてまで、このポストにトンプソン−フローレスを任命するのは重大なルール違反だと、ボコバを激しく非難した。BSPは、戦略的なプログラムや予算を管理し、ユネスコの予算外の財源を扱う重要な部門である。前局長は後任者は博士号取得者を条件にと言い残していたが、公募の原稿からは博士号が消えて「望ましい資格保有者」に変わっていた。さらに、ボコバが承認した最終案には、この必須条件が無くなっていたのである。採用のハードルを低くしてトンプソン−フローレスがディレクターのポストを得られるように便宜が図られたのである。その後トンプソン−フローレスは、取得していない経営学修士の嘘が発覚してディレクターの職を解任されている。


さらに、ブルガリアのニュースサイトBivol.bgは、アルメニアの新聞報道を次のように紹介し、ボコバが独裁政権を支持していると非難している。ユネスコは、アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領夫人のメーリバン・アリイェーヴァをユネスコ親善大使に任命していた。これに強く抗議しているのが、欧州で報道の自由を守るために設立されたNGOのThe European Centre for Press and Media Freedom(ECPMF)である。アゼルバイジャンでは、ジャーナリストが拘束、投獄され時には殺害されている。このような国の大統領夫人をユネスコの親善大使に任命することは、恐るべきことで到底受け入れられない。2015年、ECPMFはメーリバン・アリイェーヴァをユネスコ親善大使から直ちに解任するよう求める公開書簡をボコバに送った。ボコバはアリイェーヴァ一家からの金銭の供与と引き換えにアリイェーヴァをユネスコの次期事務局長の候補に推薦するつもりではないか、と私は考えている。

 Bivol.bgの調査はボコバ一家の個人資産にも及んでおり、ボコバと夫のカリン・ミトルフがブルガリア国外に所有する不動産と2人の給与について詳細を公表している(これらの文書は公開されておりすべてインターネットで検索できる)。ボコバは2012年、マンハッタンの国連ビル近くにコンドミニアムを、14年にも同じく国連ビル近くに2件目を購入した。さらに、11年にパリ、14年にロンドンにそれぞれ不動産を購入している。

 住宅ローンで購入したパリの物件を除く、3件はすべて現金で購入しており、約450万米ドル(約4・5億円)を支払っている。ボコバは、ニューヨークでのインタビューで、年収は15万米ドル(ほぼ同額の調整手当も別途支給)だと答えているが、Bivol.bgの調査では16万ドルであり、ロンドンの欧州復興開発銀行(EBRD)の代理代表取締役のミトルフの給与もほぼ同額である。Bivol.bgは、ユネスコやEBRD、ブルガリア外務省に情報の公開を求め、それを元にボコバとミトロフの過去数年間の収入を調査した(その細かい数字はここでは省略する)。ボコバとミトルフが二人の収入から食費、衣服、旅行、その他の支出がまったくなかったとしても、支払える現金は約250万米ドルである。残りの200万米ドルは出所が不明である。Bivol.bgはユネスコにボコバの不動産購入に関し質問状を送ったが、「事務局長の不動産の所有に関しては職務とは関係がない」が報道担当者からの答えだった。


これだけではない。ボコバは事務局長に就任するとすぐに出張費の増額を要求した。ミッションのための2011年度の予算としてボコバが要求したのは80万ドルである。これは潘基文国連事務総長の年間出張予算より多い金額である。国際機関の予算の使われ方をモニターするイギリスMultilateral Aid Review(MAR)は2011年の報告書で「ユネスコは管理や運営に問題あり」と低い評価を下している。ユネスコの分担金では世界第2の日本は、ボコバの、そしてユネスコの実態をもっと知るべきではないだろうか。

 2009年にユネスコ親善大使に任命されたフランスの著名な音楽家ジャン・ミッシェル・ジャールのようなボコバのファンクラブのメンバーはボコバの支持を表明している。しかしブルガリア国民は騙されない。ボコバの立候補はブルガリアではほとんど支持されず、支持をしてるのは一部のエリート政治家だけである。立候補のニュースはブルガリア国民にボコバの後ろ暗い過去を思い出させただけだった。

 密室審議の根源

 ブルガリアの映画監督のエフゲニー・ミハイロフは、ボコバの不誠実さ、共産党員としての過去、ユネスコでの疑わしい運営、そしてボコバが国連事務総長に立候補したことにブルガリア国民は愕然として、国を二分する大きな論争になったこと、ボコバに対する国民からの幅広い支持はブルガリアには存在しないことを伝える手紙を国連加盟各国に送った。

 この手紙にブルガリアのエリート政治家はすぐに反応した。ミハイロフは国賊と罵られ、ブルガリア人の誇りとなるであろうボコバが国際的な地位を得るチャンスを台無しにしたと非難された。ボリソフ首相は、安倍首相を含む数カ国の首脳に手紙を送り、ブルガリア政府は引き続きボコバを支持することを表明した(しかし、のちにブルガリア政府はなぜかボコバへの支持を取り下げている)。

 そして、ミハイロフを積極的に攻撃したのがブルガリアの社会学者であるアンドレイ・ライチェフだ。共産主義のブルガリアで筆者はライチェフと同じアカデミーで働いていたので、今でも覚えている。彼は進歩的なインテリとして振るまっていたが、実際はジフコフ政権に近い人物だった。ライフェフはブルガリア軍の高官の娘と結婚したので、共産主義体制が崩壊し「新しい」ブルガリアになっても特権階級を謳歌していた。

 ブルガリアの60名の知識人がミハイロフの反ボコバの行動を非難する公開書簡をメディアや国際機関などに送ったが、ライチェフもそこに名前を連ねていた。これらの知識人は、ボコバはバルカン半島の複雑な関係だけでなく、世界の外交や国際関係、宗教紛争を最も良く理解しており、国連をリードするにふさわしい人物である…とあきれた持論を展開した。

 インターネットで公開されているブルガリアテレビの討論会にも筆者のソフィア大学時代のクラスメートが出演していた。カリン・ヤナキエフといい、現在大学で神学を教えている。彼もミハイロフと同様、ボコバのこれまでの出世は共産党幹部だった父親の七光りであり、彼女を支持することは倫理に反する、とボコバの立候補を批判した。

 例えば、ナチス・ドイツの高官だったヘルマン・ゲーリングの娘が立候補することは、国際的に認められることだろうか。ファシズムと違い、共産主義がきっちりと非難されたことはなかったのであり、重大な問題であろう。

 イリナ・ボコバのユネスコでの腐敗ぶりは、ブルガリアの戦後の歴史と深く関係している。共産主義体制下で特権を享受してきた党幹部とその家族は、皆ボコバと同様の思考回路であるといっていいだろう。不正行為を働くことに罪の意識を感じないボコバが、ユネスコ記憶遺産の申請審議を密室で行ったことは驚くべきことではない。ボコバの腐敗の芽はブルガリア共産体制下で養われ、ユネスコ事務局長に就任後も続いた。ボコバの腐敗は中国共産党の腐敗の実態とぴったりと重なるように、私には思えてならない。

 さて、日本はどのようなユネスコ対策を講じるべきだろうか。まず、ユネスコの腐敗ぶりや不正の数々を調査しすべて公開することである。日本人が持っていると思われる、「ユネスコは国際平和と人類の福祉を促進する」という幻想を捨てなければ、組織の実態は分からない。そして、米国が分担金支払いを停止している今、世界最大の分担金を払っている日本はユネスコに対して毅然とした態度で、アメとムチを使いながら、組織の改革を要求すべきであると、私は考えている。


10月の中旬にユネスコで新たな展開があった。イスラエルの東エルサレムの聖地に関する決議案が採択され、イスラエルがこれに抗議している。そしてこれより大きな展開は、日本政府がユネスコへの分担金を保留していることである。政治的なゆすりのための道具に成り下がったボコバ率いるユネスコは今、岐路に立っている。

 当事国の主張が対立する歴史問題にユネスコが関わることは、さらに対立を深めることにしかならない。対立する歴史問題は歴史家に任せるべきである。そして、日本政府に望むことは、制度改革を含めた日本のすべての要求をユネスコにのませるために決して妥協しないことである。

 ■ミロスラフ・マリノフ氏 1958年、ブルガリア生まれ。ソフィア大学哲学科を卒業後、ブルガリア科学アカデミー哲学研究所にて博士課程修了。ソフィア大学准教授を経て、現在はカナダで、政治や社会哲学を中心にフリージャーナリストとして執筆活動中。

※この記事は、月刊「正論12月号」から転載しました。
 

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コメント
 
1. 中川隆[5292] koaQ7Jey 2016年12月06日 05:26:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5727]

日本人はこういうのが大好きだからね:


860 :名無しさん :02/07/04 01:33 ID:03UDq1eg

死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。
漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。

漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。

『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。

ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』


____

まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。

___


仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html


南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。

南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。

また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。

日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。

中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。

この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。

女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。

生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。

街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)

乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。

子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。

このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。


" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。


2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。


日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html

日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。

突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。


8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。

輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。

タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。

銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。

更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html


2. 2016年12月06日 07:36:00 : Vb7XxsTcK2 : IL2t0H1mCKc[22]
まさに戦争は殺し合い、地獄を作るのですね。

で、ユネスコの活動がその戦争をなくす目的に沿ったものであればいいが。

意図的に政治利用される面があります。

残虐行為は日本軍がおこなった、ならば、中共軍ノチベット弾圧1500万人もの民族

浄化、 米国の原爆 みな公平に世界遺産に登録すればいい。

戦争全体をみましょう、日本の反省はもちろん、米国、中国も反省すべき点は多多

有る。

人間愚かな面をもつ存在、あやまちを犯す、戦争もする、どうするか

根源的な問題。 ユネスコが解決できる問題でもあるまい。


3. 2016年12月06日 07:40:58 : 2RcIJgwo4k : w698touoFY0[2]
「他人の口に戸はたてられない。」だよ

日本の主張を登録する程度が対抗策。
外交交渉を重ねても主張を引っ込める事は
ないのでしょう。双方とも。



4. 2016年12月06日 10:15:37 : m4658yx2Ag : wo@m6Re59c8[74]
>>1
んじゃ中川テメエがシナ畜生に勝手に償っていれば良いだけのことだろう

それとも既にシナ畜生傀儡となっていたりして?


5. 2016年12月06日 10:30:32 : gQLsp2sX2k : 0vWaCsP7GlA[6]
南京にしろ満州にしろ日本軍が勝利し治安が回復すると流入する中国人が増え人口が増加した。たちまち露天で商売が始まり、戻ってきた人達や噂を聞きつけて近隣から移り住んだ人達により活気づいた。日本でも震災や津波の際には逃げ惑うが、一旦落ち着けば、炊き出しやボランティアの活動が始まる。
戦争に参加していない現地の人達にとって大事なのは治安の安定であって、日本軍であろうが、国民党であろうが、残虐行為があれば逃げ惑う。
戦闘以外で残虐行為があったのであれば、当時南京に派遣さてていた各国の新聞社は何を伝えていたのだろう?
当時の中国大陸は国家としての体をなしていなかった。
権力闘争と武装闘争の只中。
言わば現在のISの様に世界が認めないテロ集団が跳梁跋扈していた。

6. 中川隆[5301] koaQ7Jey 2016年12月06日 10:54:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5736]
>>5
>戦闘以外で残虐行為があったのであれば、当時南京に派遣さてていた各国の新聞社は何を伝えていたのだろう?


30万人殺害は長江デルタ 南京大虐殺で英記者電報

【ロンドン21日共同】1937年12月中旬に始まった旧日本軍による南京大虐殺から65年。当時、「長江(揚子江)デルタで市民30万人以上が虐殺された」と上海から打電しようとし、日本人検閲官に差し止められた英紙記者の電報記事コピーを21日までに共同通信が入手した。

犠牲者数について、中国側の公式見解は南京だけで30万人とするが、日本では数千人−20万人など諸説ある。

電報では、犠牲者「30万人以上」は、南京だけではなく、上海なども含む長江デルタ地域全体の数字として記されていることが確認された。

電報は38年1月16日付。書いたのは英マンチェスター・ガーディアン(現ガーディアン)紙の中国特派員ハロルド・ティンパリー記者(54年死去)。 電報のコピーは、英中部マンチェスター大学のジョン・ライランズ図書館書庫に保管されていた。

___

広田弘毅は南京大虐殺の報告を電報で受け取って直ちに昭和天皇に虐殺中止を具申したけど断られた。

「数日前、上海に戻り、日本軍の南京とその他の一部地方での残虐行為に関する報道について調べた。
信頼できる目撃者が直接数えた、また信頼度の極めて高い一部の人の書簡にもとづけば、
それは十分に証明できるであろう。
少なくとも30万の中国平民が殺戮に遭い、その多くは極めて残虐で血なまぐさい虐殺だった」

広田弘毅の直属の部下、石射猪太郎は『外交官の一生』に

「南京は暮れの一三日に陥落した。
わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。
南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である」

と書いた。


7. 2016年12月06日 12:35:15 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[22]
>>1
通名や帰化の中川隆は、ベトナム戦争中に韓国軍がやった住民に対する強姦や殺人をや、通州事件で日本人住民や軍属が、中国軍から受けた虐殺を、日本軍が南京でやったように仕立てているが、これはまさに、大戦中に中国が仕掛けた対日プロパガンダそのものの手法だね。ばかめいい加減にしろよ。

あと土に体を埋めて飢えた犬に体を食わせるのは中国国内か、北朝鮮の伝統な残虐な処刑方法も列記してあるね。

「それと外国人がみた蛮行」なんて本はどこにもないな、英語ならそれを原典をだせ 
 よ、朝鮮人の中川隆くん

>>6
 30万人説は、中国の内戦数千万人の犠牲者の一部が、いつの間にか日本軍の仕業にし
 てされてしまっているね。いい加減にしろよ、馬鹿め

 これも英国の植民地だったインドや東南アジアから英軍を叩きだした大日本帝国
 軍を、徹底的に貶めたい英国が絡んだ対日プロパガンダと言えるな。


8. 2016年12月06日 12:36:42 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[23]
>>7
 訂正
 通名や帰化  →  通名か帰化

9. 中川隆[5302] koaQ7Jey 2016年12月06日 12:38:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5737]
>>7
関東大震災の時の朝鮮人虐殺も南京とそっくり同じ虐殺の仕方だったよ

日本人に特有のやり方だよ


10. 2016年12月06日 12:59:37 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[24]
>>9
 関東大震災の虐殺なんかより、戦後のGHQの番犬の朝鮮人進駐軍はもっとひどい
 ことを半島や日本全土で働いているだろ。
 これをどう言い訳するんだね。中川隆くん

11. 2016年12月06日 13:19:06 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[25]
工藤美代子
関東大震災朝鮮人暴動は「皇太子暗殺」を狙ったテロだった
流言飛語ではなく実話!
http://d.hatena.ne.jp/hannitigaku20/20120216/p1

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これじゃ虐殺が起きても不思議じゃないな。自警団を作ったり、戒厳令が敷かれるわけだ。


12. 中川隆[5303] koaQ7Jey 2016年12月06日 13:20:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5738]
>>10
『朝鮮進駐軍』の嘘 _ こんなのに騙されるアホが居るんだ
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/535.html

13. 2016年12月06日 13:27:03 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[26]
南京虐殺のデマと同じ
http://ksmworld.blog.jp/archives/1061451934.html

平成7年(1995年)に起きた阪神淡路大震災や平成23年(2011年)の東日本大震災時における日本人の規律正しさ、他を思いやる無私の精神は世界の人を驚かせ、称賛の的となりました。大きな略奪も起こらず、整然と行動する罹災者の姿は日本人ならではの美徳です。
しかし、今から88年前の大正12年(1923年)9月1日に関東地方を襲った関東大震災においては、人々は「流言飛語」に惑わされ、何の罪もない朝鮮人を虐殺した---それは日本人の大きな汚点であると言われています。
 作家の大江健三郎は「ウルトラナショナリズムの異様な突出」と厳しく批判している。しかし、本当にそれは事実なのでしょうか。
 阪神淡路、東日本大震災においてあれほど冷静に行動した日本国民が、関東大震災のときだけ我を失い非人道的な行為に走ったというのでしょうか。虐殺された朝鮮人の数は2,600人とも6,400人とも言われ、果ては23,000人とした文書まで存在します。「南京大虐殺」のデマゴーグを彷彿とさせるではありませんか。
 もしかしたら、日本人はとんでもない謀略宣伝の渦に呑まれ、根拠もなくそう信じ込まされてきたのではないでしょうか。
 私はあらゆる資料を再検証してその真相を探り「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」(産経出版社2009年)を上梓しました。ここでは、その要点をかいつまんでお話したいと思います。

朝鮮人は何人いたのか

地震発生時刻は9月1日午前11時58分44秒。震源地は相模湾海底、マグニチュード7.9。
軟弱な地盤に家屋が密集する東京下町一帯は、地震による倒壊にとどまらず、大規模な火災の発生によって未曾有の大被害を受けました。
関東全域の被害はおおむね次の通りです。
死者・行方不明者 105,385人 (約10万5千)
家屋全壊     128,000戸
家屋半壊     102,000戸
家屋全焼失    447,000戸
避難人数     190万人以上

そして東京の総被害状況は・・。

死者  58104人 (本所・深川両区の死者 51168人)
全半焼家屋    1,383,849戸
倒壊家屋(焼失しなかったもの)   11842戸
行方不明(大正14年5月現在)  10556人
(内務省調査資料「東京府大正震災誌」など)

では、震災当時の東京における人口、および在日した朝鮮人の人口はどれくらいだったのか。
東京市15区部人口  約226万5千人
郡部人口   約174万人
合計    約405万人
全国に在日した朝鮮人人口80617人
(内務省警保局統計)

このうち、震災時の東京には何人の在日朝鮮人がいたのか。季節労働者や、住所不定者などが多かったため、正確には解りませんが、政府の計算では東京在住者はおよそ9千人(労働者6千、学生3千)とされています。(「現代史資料6」朝鮮総督府警務局文書)。横浜ほか東京近県には3千人が住んでいたので、合計1万2千人。夏休みで帰郷していた学生がこのうち2200人(東京1800、その他400)と推定され、差し引き9800人が東京・横浜附近にいた。これは多くの関係資料が認めるところです。ただし、「多くの虐殺があった」と主張する関係書では、在日の全朝鮮人数、東京および近郊在住の朝鮮人数ともに、これより多めの数字があげられています。
問題は、この1万人弱のうち、「虐殺」があったとすれば、何人が殺されたのか、地震で死んだ朝鮮人は何人なのか、関東を脱出した者は何人いたのか、ということです。


朝鮮人の犯罪が多発

天皇の御不例が巷間噂されはじめた大正6年(1917年)10月にはロシア革命が成立して、労働運動の波が朝鮮半島をも席捲し、大正デモクラシーの風潮にのって、日本本土でも社会主義・共産主義が勢いを得ました。
ロシア革命の成功からコミンテルン創立への一連の趨勢が民族主義と一つになって発火したのが大正8年(1919年)3月、韓国における「三・一独立運動」です。暴動は鎮圧されましたが、同年9月12日、テロリストによる総督府爆弾投擲事件が発生。犯行は組織的テロ集団「義烈団ウイヨルダン」の金益相(キムイクサン)によるものとわかり、金は上海で逮捕されました。
独立運動の中心人物たちは上海へいったん上陸し、満洲の間島(現・中国吉林省東部、ロシア、北朝鮮に向かい合う一帯)であらためて武装闘争の準備をはじめます。
別の一群は日本を運動拠点に定め、密入国して朝鮮独立と社会主義運動の拡大を目指しました。以来、日本における朝鮮人の犯罪が新聞に載らない日はないと言っていいくらい、活動資金調達のための現金強奪事件、首相官邸の爆破襲撃未遂事件などが多発します。
地震発生直後から自警団が組織されたのは、そういう社会不安が背景にあったからかもしれませんが、自分の住む町内は可能な限り自力で守るという伝統は、江戸時代の「自身番」からつづく我が国の慣習です。そこへ朝鮮人襲撃の情報が入ってきたのですから自衛に立ち上がるのは当然でしょう。

なぜ「皇太子暗殺」か

この震災のため、11月17日に予定されていた御大典、摂政宮(皇太子)と久宮良子女王の御婚儀も、摂政宮の御要望によって延期となりました。
摂政宮は一刻も早く市内の惨状視察と慰問を兼ねた行幸を実現させたいと側近を急かせていました。けれど、宮中には戒厳令司令部からとくに厳しい規制と警戒が届いていた。朝鮮人の襲撃が万が一にもあってはならないからです。
この年の4月、皇太子は軍艦「金剛」で台湾行啓に赴きましたが、このときすでに「義烈団」のテロ行為が危ぶまれていました。「義烈団」は台湾で早くから皇太子暗殺計画を練り、団員はすべてピストルを携行し爆弾部隊も編成されていましたが、結果として、厳重な警戒態勢が功を奏し、ぶじ台湾視察から帰国できました。
しかし、「義烈団」をはじめとする朝鮮人過激派は皇太子暗殺を諦めたわけではなく、実は摂政宮の御婚儀の機会を虎視眈々と狙っていたのです。摂政宮を暗殺し、日本の国体を揺るがせて独立運動の勝利に結びつけようという朝鮮独立運動家たちのたくらみは政府も重々承知して、警戒を強めていました。
目標達成のため日本国内への侵入をくりかえし、時機をうかがっていた上海の大韓民国臨時政府とその庇護を受けたテロ集団にも路線をめぐる党派争いがあり、その結果、いくつかに分裂した集団は個々に計画を練り、日本内地襲撃を狙っていたと考えられます。とはいえ、いずれの分派も目標の第一は摂政宮の御成婚当日、それも摂政宮そのものを目標とし、一斉に暴動を起こすことが画策されていました。ところが、テロリスト集団さえ予想もしなかった大震災が、まだ準備の整わない9月1日に起きてしまった。彼らにとっても想定外の混乱が生じたようです。
本所深川あたりから避難してきた罹災者約3千名が集まっていた越中島の糧秣廠(りょうまつしょう)を爆破し、多くの避難民を殺害して逮捕された朝鮮人テロリストの証言によれば、目標は11月27日の御大典だったが、大震災が起こって予定どおり行われるかどうかわからなくなったので、大震災という好機を逸すべからずと決断したとのことでした。同じように「目標は御大典だったが、大震災に乗じてことを起こした」と自白したテロリストはずいぶん多かったようです。

朴烈・金子文子逮捕

9月3日、戒厳令発令直後の東京淀橋警察署は朝鮮人無政府主義者朴烈とその愛人金子文子を逮捕した。朴烈は御成婚の折に皇太子をはじめ政治経済界の大物たちを爆殺する計画をたてていました。
こうした大胆な計画の実行と資金調達は組織力や指導部なしに実行することはできません。いかに朝鮮独立運動の志が堅いとはいえ、抗日パルチザンの主力は満洲北辺の間島と上海にいるのですから、内地にも有力な支援組織があると考えるのが当然でしょう。
黒龍会の主宰者内田良平は、震災時における朝鮮人の謀略をいちはやく告発した人物です。彼は、それを政府に訴えた文章のなかで、朝鮮独立運動家の背後にいるのは社会主義者であり、日本の赤化運動を狙うロシアが日本の社会主義者と朝鮮人を扇動し、社会主義者と朝鮮人は気脈を通じ合っていると指摘しました。
その言葉どおり、大震災のニュースを聞いた朝鮮の過激派労働者集団は「共産主義を鼓吹する者及之等に依り組織せられたる各種の労働団体は、今次の震災は地震の被害より之に伴ふ火災の損害が最甚大なる模様なるが、火災は我等と志を同ふせる主義者同人が革命の為放火したるに因るものなり」と喜んだといいます。(「現代史資料6」)
「義烈団」の団長金元鳳(キムウオンボン)は震災の8日後の9月9日、日本の民心動揺を好機ととらえ、部下を集めて天津から東京へ向かわせました。「義烈団」は保管していた爆弾50個を安東(アンドン・韓国慶尚北道の日本海に近い都市)に発送したという情報を警務局がキャッチしています。
市民に厳重な警戒を求めるよう報道を指揮してきた内務省ですが、震災翌日には風向きが変わりはじめます。最初の異変は「東京朝日新聞」の4日付手書き号外に現われました。
「武器を持つ勿れ 朝鮮人は全部が悪いのではない。鮮人を不当にイヂメてはならぬ」
ほぼ同じ内容の「善良な鮮人を愛せよ」という告示が翌朝、他紙にも掲載されます。これらの記事では、朝鮮人の襲撃がなかったとは一言も書いていませんが、戒厳令が発令された以上は軍にまかせて市民は武器を持つな、善良な朝鮮人もいるのだから、そういう者は敵視するなという限定した意味が込められています。
はじめのうちはそのようにゆるやかな表現でしたが、それが一転、強制力をもった指令の形をとるようになりました。9月6日に「三大緊急勅令」なるものが公布され、朝鮮人襲来記事を流布すれば処罰するという強硬手段に出たのです。

ミソもクソも「強制連行」に

同時に一般朝鮮人への保護具体策が次々にとられました。市内の朝鮮人を千葉県習志野、および下志津の兵舎に収容し、衣食住と医療を安定させました。朝鮮人収容能力は1万5千人分にも達しました(これは収容能力であって、実際に収容された人数ではありません)
ところが、それさえ歩かされて「強制連行」されたと主張する史料が多いのです。自動車などあるはずがないではありませんか。市民への食糧、医薬品、警備に使う車さえこと欠き誰もが歩いていたのです。
新聞は手のひらを返したように、「鮮人団相愛会が無償で道路工事 誤解をとく為に奉仕」「鮮人に救はれた老婆」などという朝鮮人の“美談”を載せ始めましたが、「道路工事」というのは要するに道路の障害物を取り除く作業です。有料で震災のあとかたづけをする日本人がいたとしたら教えてほしいものです。

こうした一連の措置は、内務相兼帝都復興院総裁に就任した後藤新平の発案によるものでした。後藤は、「朝鮮人の暴動があったことは事実だが、このまま自警団にまかせて力で押しづぶせば、彼らはそのままでは引き下がらないだろう。その報復の矢先が万が一にも御上(皇室)に向けられたら大変なことになる」と、当時、警視庁官房主事であった正力松太郎に語ったといいます。やはり、皇太子暗殺の懸念が強かったのでしょう。
やむを得なかったとといえばその通りなのですが、こうして朝鮮人の暴動はなかったこと、あるいはデマだった、「流言蜚語」に惑わされたのだ、という虚構にすりかえられていったのです。

死体がないのに「虐殺」

やはり朝鮮人による暴動はあった、それも皇太子暗殺という恐るべき計画が進められていたのだということがはっきりしたうえで、では、どれだけ「朝鮮人虐殺」が行われたというのか、表面に表れてきた数字を見ていくことにしましょう。
多くの朝鮮独立独立運動家が結集していた上海の大韓民国臨時政府が発行する機関誌「独立新聞」が報じた数は6,419人です。これは多くの関係書に翻訳引用され、「虐殺人数の原典」扱いされているものですが、ここには「屍体を発見できなかった同胞」実に2,889人としています。死体が発見されないまま、それを「虐殺された」と主張してカウントするのは道理が通りません。それは「行方不明者」であって、「行方不明だから殺された」というのは非論理的です。震災によって圧死したか、焼死したと考えるのが当然でしょう。
「屍体を発見した」とされる1,274人も、殺害されたのか震災による死体なのかの判断はどうしたのか。どうやって日本人と朝鮮人の死体を見分け、どうやってカウントしたのか、さっぱり要領を得ない。「同胞同志の勘で被害者を集計したものもある」とある調査員自身が告白しています。すべてがこの調子です。
「独立新聞」とは別に、学生を中心とした「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」に所属する崔承万(チェスンマン)の調査によれば、虐殺された人数は「2,607人または3,459人」となっています。「または」という根拠薄弱な表記や、500人、80人、200人といった大雑把な内訳の数字をみただけも、その信憑性を疑わざるを得ません。
ところが、大正時代を代表する民本主義者として著名な吉野作造が主張する2,613人という数字も、崔承万の調査をもとにしているのです。
もう一つ、私は取材の過程でロンドン・ナショナル・アーカイブスから新たな資料を発見しました。それは横浜の英国総領事が郵送で受け取った「朝鮮独立運動の朝鮮人」発行の小冊子とチラシで、そこには関東大震災時に23,059が虐殺されたと記載されています。この途方もない異常な数字は、まさに「南京大虐殺」のプロパガンダさながら。世界に向けて彼らが日本を陥れようとしていたことがうかがえます。
もっとも、「(その内容は)筆者によって著しく誇張されており、日本の当局が虐殺を煽動したという筆者の指摘には根拠がないと考えます」という在京イギリス大使の添え書きがるので、これはまともに受け取られなかったようです。
前述したように、震災直後に東京およびその周辺にいた朝鮮人の総人口は9,800人。そのうち、3,169人が習志野の陸軍廠舎に、2,500人が市内各警察署に、617人が目黒競馬場に、471人が埼玉・栃木の各警察署に、40人が神奈川県庁にそれぞれ収容保護されていました。ここまでで6,797人。その収容中の待遇に不平不満をいいつのり「飯がまずい」「強制連行された」「扱いが乱暴だった」と口々に文句を並べた記録が残されています。しかし、保護された朝鮮人は食糧を与えられ、テントで雨露がしのげました。一方、被災した日本人の大多数は野宿をしたり、食糧も不足し、トイレもない生活を強いられていたことを忘れてはなりません。
さて、戒厳令司令部は自警団等による過剰防衛容疑の日本人367人を起訴しています。その調査に基づいて、殺害された無辜の朝鮮人の人数は233人であると公表されました。さらに、朝鮮人と間違えられて殺害された日本人57名、中国人4名となっています。
東京およびその周辺にいた朝鮮人の人口9,800人からこの無辜の被害者数233人を差し引くと2,770人となります。このなかに、不幸にして震災の犠牲になった者や行方不明者が含まれるはずです。

震災の朝鮮人死者はゼロ!?

東京府全体の死者、行方不明者は7万人余(死者総数は10万5千人余)、下町界隈の死者は実にその80%といわれ、朝鮮人も多く居住していた本所、深川一帯での死者、行方不明者は5万8千人を超えています。
本所区、深川区における日本人の対人口死亡率は約15%にのぼりました。多くの朝鮮人の家屋はおそらく耐震性も低く、劣悪な環境だったと推察されるので、それより多めの20%を対人口死亡率とし、被災基礎人口9,800人に乗ずると、1,960人という数字が死者、行方不明者として算出されます。
2,770人からこれを引けば810人となり、これがテロリストやその賛同者、または付和雷同して殺害されたおよそその人数と推定していいでしょう。
収容保護された6,797人、政府発表の被殺害者数233人に加えて、「独立新聞」の主張する被殺害者数6,419人を加えてみると、それだけで、13,449人にふくれあがる。都合13,449人の朝鮮人が「殺害ならびに強制連行された」とすると、あの大震災によって死亡した朝鮮人は一人もいないことになってしまいます。
仮に崔承万の調査による2,607人余を加算しても9,613人となり、震災による朝鮮人死者はやはりほとんどいないことになる。
いったい、吉野作造や松本清張、大江健三郎、吉村昭といった「朝鮮人虐殺」を糾弾した学者や作家たちは、この単純な数字のトリックに気づかなかったのでしょうか。

市民の自衛は正義の戦い

日本人と朝鮮人の衝突は不幸な事件であることは事実ですが、もとはといえば、横浜から押し寄せてきた朝鮮人の一団をはじめ、多くのテロリストが目の前に現れたゆえの結果です。ゲリラと呼んでもいいでしょう。自警団は自らの命をかけて、民族独立のためには手段を選ばない、皇太子暗殺さえ計画していた朝鮮人テロリストの襲撃から町を、家族を守ったのです。そうでなければ、組織的な主義主張をもって日本を大混乱に陥れようとするテロリストたちに組み伏せられ、町の破滅が国家への破滅へと進んだに違いありません。これは正義の戦いです。
もう「朝鮮人虐殺」という謀略宣伝から日本人は自由になるべきです。


ちなみに、この年の11月23日、摂政宮は新嘗祭において初めての重要な祭祀を執り行いました。この時、警備の武官たちは儀礼用のサーベルではなく、太身の日本刀に替えるよう奈良侍従武官長から命じられています。まだまだ安心は出来なかったのです。
そして12月27日、第48回通常国会の開会式に臨むため議事堂に向かう摂政宮を乗せた車に、一人の男がステッキに仕込んだ散弾銃で皇太子の車に向けて発砲しました。犯人は社会主義にかぶれた難波大助という青年で、過激派朝鮮人とは無関係でした。
この事件をきっかけに、震災特別内閣ともいえる山本内閣は総辞職し、その使命を終えます。我が国の国体そのものを破壊しようとしたコミンテルンの方針の下にテロ集団が押し寄せてきた、というのが実態なのです。
数千人を虐殺した、などという数字の根拠は皆無で、単なる謀略宣伝にしか過ぎないことがおわかりいただけたと思います。


14. 中川隆[5304] koaQ7Jey 2016年12月06日 13:37:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5739]
>>13
証拠が残ってるからね:


朝鮮人の言うことが誇張表現ではなかった例


■「虐殺」という表現について

 関東震災後の日本人による朝鮮人殺害について、「虐殺」と表現するのが適当かどうか。今回の参考文献に、以下のような記述があった。俄かに信じられない(あるいは信じたくない)内容だと感じると同時に、ここに書かれているのはやはり事実なのではないかと思う。正直に言って、どう取り扱うべきかは手に余る問題だったので、虐殺と言う表現の妥当性については、各位の判断にお任せする。


 朝鮮人による、さらにすさまじい回想がある。
 
 所謂自警団、青年団等は「朝鮮人」と叫ぶ高声に一呼百応して狼の群の如くに東西南北より集まり来たり、一人の吾が同胞に対し数十人の倭奴<日本人>が取り捲きつつ剣にて刺し銃にて射、棒にて打ち、足にて蹴り転がし、死せしものの首を縛り曳きずりつつ猶も刺し蹴りつつし屍体にまでも陵辱をくわえたり、

婦人等を見れば両便(ママ)より左右の足を引き張り生殖器を剣にて刺し一身を四分五裂にしつつ、女子は如斯にして殺すこと妙味ありと笑ひつゝ談話せり……

身体を電信柱に縛り付け先ず眼球を抉り鼻を切り落とし、其の哀痛の光景を充分眺めた上、腹を刺して殺したるものあり……。

(姜徳相・他編『現代史資料・6』みすず書房、一九六三年)


 
 考えられないような殺害方法であるが、朝鮮人すなわち被害者側の怨念のこもった誇張した表現ではない。実は私は最初これだけ読んだ時には、朝鮮人の表現にはしばしば誇張表現がみられるので、その特有の誇張表現ではと思ったのである。そのように思わせるほどの残虐な殺し方である。

しかし誇張表現ではなかった。補強証言がある。


 まだ若いらしい女(女の死体はそれだけだった)が腹をさかれ、六、七ヵ月になろうかと思われる胎児が、はらわたのなかにころがっていた、その女の陰部に、ぐさりと竹槍がさしてあった、

という記録を日本人自身が残している(姜徳相・他編『現代史資料・6』田辺貞之助「女木川界隈」みすず書房、一九六三年)。なお、付近の別の住民も同じ光景を見ている(『労働運動研究・三七号)湊七良「その日の江東地区」労働運動研究所、一九九二年)。


 女性の陰部へ竹槍を刺したという目撃証言は、場所が特定できるものは江東のもの。したがっておそらく一つの事件、行為が複数の口で語られ、伝聞されていった結果であろう。
(『関東大震災と朝鮮人虐殺』 pp.102-104)


当時の日本人の多くは、自分達が朝鮮人から恨まれているという自覚を持っていました。背景には、朝鮮の植民地化と、そこに住んでいた朝鮮人に対する苛烈な差別待遇がありました。

植民地化に伴って、日本政府は朝鮮の土地所有に関する調査を行いました。そして、朝鮮人の土地を没収して日本人に分け与えました。その結果、土地を奪われ働き口をなくした朝鮮人は、生きる道を探して日本へ渡ります。しかし、そこでも差別待遇が待ち受けていました。

日本国内における朝鮮人の賃金は、日本人最低ランクに位置していた被差別部落出身者や沖縄出身者の5〜7割程度だったと言われています。日本に渡ってきた朝鮮人は同胞コミューンを形成しましたが、多くの場合そこはスラム化していきました。小規模ながら犯罪者集団も発生し、こうした朝鮮人の実情を目の当たりにする事で、日本人の朝鮮人に対する潜在的な不安感が醸成されていきました。
http://www5d.biglobe.ne.jp/DD2/Rumor/column/earthquake_demagogie.htm

〈関東大震災から80年〉 朝鮮人女性への残虐な性的虐待


荒川放水路の四ツ木橋付近での虐殺に関する証言に次のようなものがある。


 「22、3人の朝鮮人を機関銃で殺したのは四ツ木橋の下流の土手だ。

西岸から連れてきた朝鮮人を交番のところから土手下におろすと同時にうしろから撃った。

1挺か2挺の機関銃であっという間に殺した。

それからひどくなった。

四ツ木橋で殺されるのをみんな見ていた。

なかには女もいた。


女は……ひどい。

話にならない。

真っ裸にしてね。いたずらをしていた」

(関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会「風よ 鳳仙花をはこべ」教育史料出版会、1992年、58〜59ページ)


 これは朝鮮人女性を性的にもてあそんだうえで虐殺したということなのであろう。

これは例外的な事件ではない。

女性に対する性的虐待、虐殺の事例は数多くあった。


 東京府南葛飾郡での朝鮮人女性に対する虐待、虐殺事件

 湊七良、亀戸五の橋で朝鮮人女性のむごたらしい惨死体を見た。

「惨殺されていたのは30ちょっと出たくらいの朝鮮婦人で、性器から竹槍を刺している。

しかも妊婦である。

正視することができず、サッサと帰ってきた」

と回想した。
(「その日の江東地区」『労働運動史研究』第37号、1963年7月、31ページ)


 亀戸署内では習志野騎兵連隊の軍人たちが朝鮮人や日本人労働者たちを虐殺した。

この状況を目撃した羅丸山の証言によると、殺された朝鮮人のなかには「妊娠した婦人も一人いた。

その婦人の腹を裂くと、腹の中から赤ん坊が出てきた。

赤ん坊が泣くのを見て赤ん坊まで突き殺した」

(崔承万「極熊無筆耕−崔承万文集−」金鎮英、1970年、83ページ)


 当時砂町に住んでいた田辺貞之助は多数の朝鮮人惨殺死体を見た。


「なかでも、いちばんあわれだったのは、まだ若い女が、腹をさかれ、6、7カ月くらいと思われる胎児が、腹ワタの中にころがっているのを見たときだ。


その女の陰部には、ぐさりと竹槍がさしてあった。

なんという残酷さ、

あのときほど、ぼくは日本人であることを恥ずかしく思ったことはなかった」

(「恥ずべき日本人」『潮』1971年9月号、98ページ)


 野戦銃砲兵士第一連隊兵士の久保野茂次は1923年9月29日の日記に岩波少尉たちが小松川で

「婦人の足を引っ張り又は引き裂き、あるいは針金を首に縛り池に投げ込み、苦しめて殺した」

ことを記した。

(関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会編「歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺」現代史出版会、1975年、18ページ)


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺の歴史的意味


 上記のような朝鮮人女性に対する言語に絶する虐殺の残酷さは、民族差別にさらに女性差別が加わって行われた結果であろう。

このような日本人の行動は、朝鮮人が暴動を起こしたとデマが流されたので、自衛のために自警団を結成したといったものではなく、極めて攻撃的である。

それは民族的には支配民族としての優越心、性的には男性としての優越心に発した行動であったと思われる。


 朝鮮人女性に対する虐待、虐殺に関しては、当時も、その後も議論、反省されることは皆無だった。

その無反省がアジア・太平洋戦争の時期の「従軍慰安婦」制度を生み出したといえないだろうか。

吉野作造は、千葉で行われた朝鮮人少年に対する日本人の虐殺事件をつぶさに日記に記し、その末尾に「これを悔いざる国民は禍である」と記した。

(「吉野作造著作集」14、岩波書店、1996年、357ページ)


 日本人拉致事件発表後の他者のみに厳しく自己に甘い日本人の二重基準を見ると、朝鮮や中国に対する日本人の良心喪失を憂慮し続けた吉野の言葉を日本人は今もう一度かみしめなければならないように思われる。

(山田昭次、立教大学名誉教授)

http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2003/j05/0305j0827-00001.htm


関東大震災直後の朝鮮人に対する殺人行為


 当時,埼玉県の「児玉郡本庄町」や「大里郡熊谷町」(いずれも当時の名称,現在の本庄市・熊谷市)で発生した朝鮮人殺戮事件は,関東大地震発生後,東京方面ですでに起きていた朝鮮人などに対する殺人行為から彼らを保護する目的で,その被害の少なかった埼玉県や群馬県方面に彼らを避難させようとする最中に起こされた出来事である。

 本庄町のばあい,地元の住民たちによって結成された自警団が,本庄警察署に到着したトラックに乗っていた朝鮮人たちに襲いかかり,リンチに発展した。

警察は人員不足から阻止することもできないまま,この事件で50人から100人程度の朝鮮人を殺させた。

しかも,殺された朝鮮人たちは,妊婦の女性や子どもたちも大勢含まれていた。


 それでも,このリンチにくわわった者の多くは,事後に開廷された裁判の判決では「執行猶予付の騒擾罪」を受けるだけの「穏便な処分」で済まされていた。

さらにあとでは「恩赦」があり,彼らの刑罰は免除されてもいた。


これが,朝鮮人の子どもたちの首を刎ね,女性(妊婦)にも竹槍を突きさし,男性を日本刀で切りさいて殺す,などという凶行を働いた人たちに対する「事後の法的刑罰」であった。 


この歴史的な殺人事件の犯人たちは,大地震後の社会不安の状況のなかで「流言蜚語」に惑わされてしまった結果,本庄町では,警察が避難させるために保護し護送してきた子どもや妊婦も含む朝鮮人たちを,50人か100人くらい殺してしまった。

けれども,事後にいちおう裁判がおこなわれたものの,犯人たちは「執行猶予」付きの判決で「実質無罪にされ」だけでなく,さらに恩赦もあって,受けた刑をとり消してもらっていた。


第2次大戦後後に法務省の高官は,外国人〔=在日韓国・朝鮮人など〕は「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」(1965年の発言)と言ってのけた。


 関東大震災直後に起きた朝鮮人〔など〕の虐殺事件は,それよりも32年も前の悲惨な出来事であったけれども,すでに庶民の次元で「朝鮮人はけしからぬ奴ども」だから,「煮て食おうと焼いて食おうと自由だ」という残虐な情念に即して,同じ地震の被災者でもあった朝鮮人たちを「殺してもかまわぬ」という気持を実行に移していた。


裁判の最中に殺人行為に関してみなで哄笑する

 1) 殺人行為の様子

 1910年に朝鮮〔当時は大韓帝国と称していた〕を軍事的に脅して合邦し,植民地にした日本帝国であった。

朝鮮民族の底しれぬ怒り・恨みを買ったことはいうまでもない。

この事実が反転されて,日本人・日本民族側の気分においてはどうなったかといえば,朝鮮民族を心底でひどく恐れる感情を醸成してもいた。

 関東大震災直後,官庁関係〔警察・政府・戒厳司令部など〕から意図的に提供された《流言蜚語》を真に受けた庶民たちは,

「朝鮮人が井戸に毒を撒いている」

「朝鮮人たちが徒党を組んで攻めてくる」

と聞かされたのだから,大地震のために混乱した状況のなかで自衛し,朝鮮人どもを「捕まえてなんとかしてもかまわぬ」と考えた。

ある意味でこの考えは理の必然でもあった。


 国家当局側,それも一部で作為的な虚報を流した部署の関係者においては,たとえば軍隊は「東京などでは朝鮮人が反抗したといった理由で銃剣で刺殺或いは射殺するなどの虐殺をおこなった。

こうしたことは,目撃者の談話などでも明らかにされている」。


さらに,その「流言の拡大に驚いて,日本刀,竹槍,鳶口,棍棒などで武装した自警団が各地に出現したが,こうした軍隊,警察の行動をみて,凶暴な行動に出たことはいうまでもない」。

 「各地で “鮮人狩り” がはじまった」。

その「あまりのひどさに驚いて出したと」いう「9月3日の警視庁の宣伝ビラ『急告』も」「鮮人の大部分は順良にして・・・」といいながらも「『不逞鮮人の妄動』を否定していない」始末であった(前掲『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』13頁)。

萱原白洞「東都大震災過眼録(1924)」の写真は,震災後にその記憶を頼りにして描かれた絵画であるが,よくみると右下部分には「虐殺された朝鮮人の死体」が転がっていた(つぎの左側にその部分を切りとった画像をかかげておく)。

まわりの人たちは「朝鮮人をやっつけたぞ!」といって「歓声を挙げている」図である。

これは,萱原の網膜に焼きついて忘れられなかった記憶を復元させたものである。

     

 この絵画全体(9月1日参照)を観察すると,警察官をはじめ,法被を着た男,そして手に棒切れをもった子どもまで描かれていることに気づく。

前段の著作『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』に説明された当時の,官民一体になる殺人実行の現場の様子がこの絵画には正直に写されている。

 前掲右側の写真は,関東大震災時における殺人行為を現わした〈有名な1葉〉である。

警察官と民間人が「殺した朝鮮人2体」を,それも民間人は棒で突くかのような格好で,あたかも記念写真を撮るかのように構えている(前掲書,口絵より)。


「凶器は日本刀,鳶口,竹槍,鉄棒や長さ6尺位の棍棒,小刀,包丁或いは石棒など奇抜なものがズラリ」(同書,167頁)。


 2) 裁判の様子

 さて,警察が東京方面からトラックに乗せて避難させてきた朝鮮人を殺した人たちのうち,埼玉県熊谷市の人びとに対する裁判もおなわれていた。『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件−』はその一場面をつぎのように描写している。


 a) ある被告の答弁。

裁判長から「お前は首を落とす積りで再びやったというぢゃないか」と叱られると

「そうです。そうですが首は落ちませんでした」

といい,石を打ちつけたことについては,「黒い石はこの位でした」と大きな輪を作る。

満廷もクスクス笑う。

事件とは思われぬ光景だ(158−159頁,1923年10月22日『東京日日』夕刊)。


 b) 「裁判長の突っ込みも茶気たっぷりで曽我廼家の芝居でも見ているようだ」。

「裁判長が『お前は一番最年長だのにどうしてそう無分別だ』と揶揄すると『毎晩4合ずつ引っかけやすのでツイその』と満廷を笑わせてひとまず休憩・・・」。

〇〇万治は

「私は倒れていた鮮人を殴っていると警官が『もう死んでいるからいいじゃないか』と申しました」
(159頁,1923年10月23日『東京日日』)。


 c) 「〇〇隣三郎は事実を是認したがこの樫棒で殴ったろうといわれた時ヘイそのちょっとやったまででと答え,

裁判長からこの6尺もある樫棒ではちょっとやられたってたまるものかといわれ,判官はじめ満廷も吹き出させた。

また,それがそのちょっと飲んでいたものですからというのに,裁判長が酒を飲んでいたのか,ちょっととはどの位飲んでいたのかと問われ,4合ですと答えてまた満廷を吹き出させた」(161頁,同上)。


 d) 「『本庄警察の方が騒がしかったのでいって見ますと,3台の自動車に鮮人が乗せられてその内ころがり落ちた3鮮人の胸を刺しました。

一ぱい機嫌でしたからついへゝゝ』

とありのままを申し立て『お前のやった事について今日はどう思っている』ときかれても返事も出来ぬ程の被告である」(175頁,1923年10月25日『東京日日』朝刊)。


それにしても,殺人事件の裁判であるにもかかわらず,この法廷に関する当時の報道をとおしても「ずいぶんに和気あいあい」とした雰囲気が,よく伝わってくるではないか。


 そもそも,関東大震災時のこうした虐殺事件で犯人=被告となって裁判を受けた人びとは,関係した非常に多人数の犯行者全員を被告とするわけにもいかない事情があったため,しかたなくその代表として選ばれ応じて出廷していた一部の者であった。

したがって,前段 a) b) c) d) に紹介した法廷におけるやりとりのように,人殺しの犯人たちにしてはふざけたような口調さえ聞こえてくる。

 つまり,関東大震災のさい「惹起された他民族殺戮行為」は,官憲がわがでっち上げた朝鮮人騒擾「説」を契機に起こされていた。

しかもこのように,殺人事件の審理とも思われない〈身内を庇うかのような共有の感情〉のなかで,被告たちが裁かれていた(!?)のであるから,その「異常な事態を異常とも思わない」当時の時代精神の恐ろしさがあらためて疑われてよい。


 要するに,この大量殺人事件を裁くために開廷された場所においては,裁判官にも被告にも傍聴席にも「満廷に笑いの渦」が吹き出ていたというのである。

そもそも軍隊が,多数の朝鮮人・中国人を大衆の面前で虐殺していただけでなく,社会主義者・無政府主義者もついでにといっていいように,無法なかたちでもって捕縛・虐殺していた。

これでは,国家機関である裁判所が,関東大震災時において殺人行為を犯した一般庶民をまともに裁けるはずもなかった。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2394667

歴史の汚点といえば、大正12年(1923年)関東大震災のときの朝鮮人虐殺はどうであろう。

日本人はよくアメリカ人のマネが得意だといわれるが、なぜこのような、おぞましいことまでまねる必要があったのだろうか。

それもたんなる排斥にとどまらず、虐殺の挙にでたところなど、出藍の誉れというべきか。

しかもその虐殺は、政府筋の計画的煽動に乗って一般の民間人がおかした犯行だという点で、アウシュビッツのことは、その存在さえも知らなかったというドイツ人のばあいとも異なる。


震災がおそった9月1日の午後、東京市内の被害状況を巡視した内務大臣水野錬太郎(元朝鮮総督府内務総監)は、その惨状のなかにあえぐ人々のいら立ちがが支配階級に向けられることを防ぐためには、朝鮮人と社会主義者の弾圧が必要であると判断し、

1日夜から2日夜にかけて、東京、神奈川の各警察署に朝鮮人暴動のデマを流させ、

さらに3日午前、朝鮮人暴動の「事実」についての電文を作成、船橋海軍無線送信所から全国地方長官当宛に打電させた。


中山競馬場の名物になっていたこの無電台が1971年夏撤去され、「なつかしい風物詩」が消え去ったことを嘆く人も少なくないという。

しかしわたしはあの不気味な鉄塔をながめるたびに、背筋に寒気をおぼえずにいられなかった。



朝鮮人暴動のデマは、またたく間に日本全国にひろまり、警察とそれに呼応した民間の自警団は、政府公認の朝鮮人虐殺を開始した。


竹槍で刺し、トビグチで頭を割り、ノコギリで首をひき、さしみ包丁で妊婦の腹をさく……


阿鼻叫喚の地獄絵図のなかで、抵抗のすべもなく殺されていった朝鮮人の数は6,000人をこえた。



「ハダカ同然の死がいが、目をあけたまま頭を北にして空地に並べられていました。

数は二百五十ほど。

ノドを切られて気管や食道が見えている人、

首筋を切られて肉がザクロのようにわれている人、

無理に首をねじ切られたらしく、皮と筋がほつれている人…


なかでもあわれだったのは、まだ若い女性の腹が真一文字に切りさかれ、その中に六、七ヶ月の胎児が目をとじて姿でした」



以上は仏文学者田辺貞之助氏が目撃した、その日の朝鮮人の姿である。



「旦那、朝鮮人はどうですい。

俺ァきょうまで六人やりました。…

天下晴れての人殺しだから、豪気なもんでさァ。…

電信柱へ、針金でしばりつけて、…

焼けちゃってナワなんかねえんだからネ…。


そして、殴る、蹴る、鳶で頭へ穴あける、竹槍で突く、めちゃめちゃでさァ。



けさもやりましたよ。…

奴、川へ飛び込んで、向かう河岸へ泳いで逃げようとした。…

みんなで石を投げたが、一つも当たらねえ、でとうとう舟を出した。


ところが旦那、強え野郎じゃねえか。十分位も水の中へもぐっていた。

しばらくすると、息がつまったとみえて、舟のじきそばへ頭を出した。

そこを舟にいた一人の野郎が、鳶でグサリと頭を引掛けて、ズルズル舟へ引きよせてしまった。…

舟のそばへ来れば、もうめちゃめちゃだ。

トビグチ一つでも死んでいる奴を、刀で斬る、竹槍でつく…」


『横浜市震災誌』に記録されている、ある日本人のその日の武勇談である。



サンフランシスコ震災で、日本人排斥運動が燃えあがったとき、大統領テオドル・ルーズベルトは怒りにふるえてこれを非難したという。

大統領が国会に送った年頭教書(1906年12月4日)を読むと、大統領は日本人排斥運動を「ウィキッド・アブサーディティー(悪辣な愚行)」と痛罵し、これがアメリカの恥であることを述べ、もしこのような愚行がやまないならば、日本人保護のために、軍隊を動員するとまでいきまいている。



日本のばあいどうか。


虐殺が行われた大正12年から今日にいたるまで、わたしたちは、責任ある日本の為政者から、一言たりとも陳謝の言葉を耳にした記憶はない。

いや、「貧乏人は麦を食え」で勇名を馳せた池田勇人元首相からは一言きいたことがある。


「朝鮮を併合してから、日本の非行に対しては私は寡聞にして存じません」。

http://blog.livedoor.jp/danjae/archives/51404976.html


15. 2016年12月06日 15:09:11 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[27]
>>14

日本国内で関東大震災の混乱に乗じて、皇太子の暗殺を企てたり、各地で暴動を起こした
のはゲリラのような「義烈団」なんだろうな。

朝鮮独立運動の秘密結社「義烈団」・大韓民国上海臨時政府の活動実態、英SIS秘密文書で判明
http://gansokaiketu.sakura.ne.jp/chosen-dokurituundouno-himitukessha-giretudan-daikanminkoku-shanhai-rinjiseifuno-katudoujittai-ei-sis-himitubunshode-hanmei.htm

これじゃ、虐殺が起きても不思議じゃない気がするな。戒厳令はこれら不逞鮮人の暴動を
に対処したり、自警団の過剰防衛を止めたりしたようだね。


16. 2016年12月06日 15:19:14 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[28]
>>14
 陰部に棒を差し込むなんて虐殺の手口はシナ人が通州事件で行った、シナ伝統の虐殺
 方向が書いてあるね
 これらもねつ造南京大虐殺事件の手口を使った、関東大震災のねつ造虐殺は日本の貶
 め工作そのものだよ。

17. 2016年12月06日 15:49:45 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[29]
まあ、>>14に事実の如く、チンタラチンタラ書いてある、吉野作造や伊藤作之助や姜徳相の書物での記述なんてのは、朝日新聞などが慰安婦の強制連行があったか如く報道し、マスゴミが幅を利かせた時流に乗って、いくらでも嘘が言えた時代なんだろうね。

左翼の歴史研究の朝鮮人虐殺の記述なんかもこの部類なんだろう。


18. 2016年12月06日 16:00:38 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[30]
>>17
 訂正
 伊藤作之助  →   田辺貞之助

19. 2016年12月06日 16:14:43 : G1qHQlqxxI : n2Ov0HeFmHo[31]
>>17
 吉野作造は取り消し
 時代背景が大正ー昭和初期時代なので

20. 2016年12月06日 16:58:18 : m4658yx2Ag : wo@m6Re59c8[79]

結論

中川隆名乗る奴が独自で謝罪賠償すれば良いだけの話

他人を巻き込むな

認めたい奴だけが自己責任で償え

これで解決


21. 2016年12月06日 20:39:24 : qfR6kHfZAU : IQtEqYhKUXc[10]
南京大虐殺のストーリーはアメリカ人が書いたものだからね。
アメリカや中国で起こったことをステレオタイプにまとめたもの。

記事を書いた本人も後の世にこんなに大騒ぎになるとは思っていなかったろう。

現代に蘇った南京大虐殺は本多勝一中国の旅に始まる。
アメリカが東アジアで再び政治を始めようとした時にはじまる。
これもアメリカ製の疑いが濃厚。

ネチネチと痛めつけるのは日本を再び立ち上がらせないための方策。
アメリカはとんでもない国です。


22. 中川隆[5310] koaQ7Jey 2016年12月06日 21:28:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5745]
>>21
本多勝一は天才ルポライターで取材力は日本で断然No.1だったから否定するのは不可能だよ

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