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改憲勢力が3分の2を占めたのに、なぜ改憲論議は盛り上がらないか そもそも憲法って何ですか?
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50211
2016.11.23 木村 草太 憲法学者 首都大学東京法学系教授 現代ビジネス
2016年7月の参議院選挙で、改憲勢力と呼ばれる自民党・公明党およびおおさか維新の会(現・日本維新の会)が3分の2を占めたこともあり、憲法改正の行方に注目が集まっている。
もっとも、これまで焦点とされることの多かった憲法9条については、しばらく議論は進みそうにない。
7月の選挙では、公明党とおおさか維新の会は、9条改正に反対の姿勢をとった。自民党の選挙戦略も、「この選挙は国防軍創設選挙だ!」とアピールすることはなく、経済政策を中心としたものだった。
また、国民の義務を増やす2012年の自民党改憲草案への支持は、国民の間にほとんど広がっていない。義務を増やせば、権利は制限されやすくなるのだから、国民の反発を受けるのも当然である。
今後、議論が進むとすれば、9条や自民党草案的なものではないだろう。検討の可能性のある2つのテーマを見てみたい。
■一票の格差問題の行方
まず、「一票の格差」について考えてみよう。
参議院議員定数252、半数改選と約半分を全国比例区に配分することを前提に、都道府県を単位とした選挙を行うと、現在の人口分布の下では、どんなに努力をしても5倍弱の格差が生じる。そうした事情を考慮してか、以前の最高裁は、6倍未満の格差であれば許容する姿勢を示してきた。
しかし、最高裁は、2010年代に入り、一票の格差について非常に厳しい態度をとりはじめた。
2012年10月17日の大法廷判決は、「都道府県を各選挙区の単位とする仕組みを維持しながら投票価値の平等の実現を図るという要求に応えていくことは、もはや著しく困難な状況に至っている」とし、従来、許容範囲とされてきた5倍の格差を違憲状態と判断した。
2014年11月26日の判決でも、この態度は維持され、4.77倍の格差が違憲状態とされている。
最高裁の強いメッセージを受け、2015年7月に選挙区割と定数配分が改正された。地方の定数が都市部に配分されるとともに、島根・鳥取と徳島・高知はそれぞれ合区とされた。この改正後に施行された2016年7月の参院選では、格差は約3倍に縮小した。
これを裁判所がどう評価するかに注目が集まったが、複数の高裁が違憲状態との判断を示した。こうなると、最高裁が違憲状態を宣言する可能性も十分にある。そうなれば、さらに多くの都道府県を合区にせざるを得なくなる。
政治参加への平等な権利を実現するためには、一票の格差はなくすべきだ。しかし他方で、参議院の創設以来、都道府県が国民の意思決定の単位として尊重されてきた。合区とされた4県では不満を訴える声は強い。
この点、自民党は、7月の選挙公約で次のように述べていた。
都道府県が、歴史的にも文化的にも意義と実態を有している中で、二院制における参議院のあり方、役割を踏まえ、参議院の選挙制度については、都道府県から少なくとも一人が選出されることを前提として、憲法改正を含めそのあり方を検討します。
さらに、10月19日には、自民党の高村正彦副総裁が、合区を解消するための憲法改正を検討する姿勢を示したと報道されている。
合区解消のための憲法改正について、どう考えればよいだろうか。一票の格差に関する現行憲法の内容を確認しよう。
日本国憲法44条は、「両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によつて差別してはならない」と定める。
ここから「平等選挙」の要請が導かれ、全ての人に同数の票を配分することのみならず、投票価値を平等にすべきことも要請されると理解されている。もちろん、完全な平等は、よほど特殊な選挙区割りをしない限り不可能だ。それゆえ、やむを得ない理由があれば、一票の格差が生じてもやむを得ない、とされる。
では、都道府県の単位を維持することは、やむを得ない理由だと言えるだろうか。
この点、憲法43条は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と規定している。国会議員は、全国民の代表なので、自分が選出された都道府県の利益や意見のために活動するわけではない。
とすれば、都道府県単位の選挙区にこだわる必要はなく、それを維持するために一票の格差を生じさせることは正当化されない。現行憲法の理屈では、このようになる。
では、合区解消のためには、どのような選択肢があるか。
第一は、憲法44条を削除するというものだ。しかし、そうなれば、特定の人種、性別、宗教などを理由に投票価値を重くしたりできる。そんなことに賛成する人は、いないだろう。
第二は、参議院を国民代表ではなく、都道府県代表からなる院に改組する選択肢である。アメリカの上院やドイツの連邦参議院のように、連邦制国家では、地域代表からなる第二院が設置される例は多い。
ただし、参議院を地域代表に改組するのであれば、各都道府県選挙区の定数は、人口にかかわらず同数にするのが素直である。そうなると、一票の格差は、今の比ではない巨大なものになる。
実際、アメリカの上院では、州の人口にかかわらず等しい数の議席が割り当てられるので、人口最大のカリフォルニア州(約3700万人)と最小のワイオミング州(約60万人)で、60倍近い格差が生じている。
日本でも、人口最大の東京都(約1200万人)と最小の鳥取県(約58万人)との間で、約20倍の投票価値の格差が生じることになる。これほど大きい格差が生じるとなると、国民の理解を得るのは容易ではないかもしれない。
かといって、「人口の少ない県にも最低限1だけ配分して合区をなくす」ということでは、その原理を説明するのはかなり難しい。自民党に有利な選挙区割りをしたいだけではないか、という疑念を生むだろう。
合区解消それ自体は、検討に値すべき提案のように思われる。しかし、それが、単なる党利党略で行われるようなことは、あってはならない。合区解消のためには、多くの人が共感できる理念を提示する必要があろう。
■教育無償化、実現への道
もう一つ注目される憲法改正提案として、日本維新の会(旧・おおさか維新の会)による「教育無償化」が挙げられる。
維新の会は、3月に、@教育無償化、A道州制、B憲法裁判所設置の三つの事項について、憲法改正を提案している。これらは、7月の選挙公約にも盛り込まれた。
このうち、A道州制とB憲法裁判所設置は、かなり大規模な制度変更を伴うので、提案としてもまだまだ詰めなければいけないことが多い。いきなり実現に向けて議論される可能性は小さい。
他方、@教育無償化は、それらに比べれば、制度変更の規模は小さい。国民の権利を拡張するもので、国民の支持が得やすい提案でもある。維新の会自身も、改憲提案の冒頭に掲げており、これについて議論が深まって行く可能性もある。そこで、教育無償化について検討してみよう。
現在、憲法26条は次のように規定する。
【日本国憲法】
第26条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
維新の会は、これを次のように改め、幼稚園・保育園などの幼児段階から、大学など高等教育まで、無償の幅を広げようという提案している。
【維新の会 教育無償化憲法改正案】
第26条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その適性に応じて、ひとしく教育をうける権利を有し、経済的理由によって教育を受ける機会を奪われない。
すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。
法律に定める学校における教育は、すべて公の性質を有するものであり、幼児期の教育から高等教育に至るまで、法律に定めるところにより、無償とする。
(下線部が改正部分。おおさか維新の会*「憲法改正原案」平成28年3月24日より)
親の経済力格差のために進学を断念する人がいる状況は、先進国としては改善していくべきだ。ただ、教育無償化は、憲法で禁じられているわけではない。それを実現する法律を制定し予算をつければ、憲法を改正せずとも実現できる。
憲法改正発議には、衆参両院で総議員の3分の2以上の賛成が必要だ。それだけの賛同があれば、当然、法律が作れるし、そう簡単には廃止されないだろう。
また、憲法改正には、国民投票が必要だが(憲法96条)、その実施には850億円もの費用がかかるとの試算もある。その費用を給付型奨学金などに回した方が、有益な使い方ではないか。
維新の会も、こうした指摘を無視しているわけではなく、法律による実現も試みている。2016年9月29日には、衆議院に、「教育無償化等制度改革の推進に関する法律(案)」を提出した。法案は、予算を付けて具体的に無償化を実現するものではないが、国に対し、教育無償化を推進する責務を課すものとなっている。
■多くの国民が望むのだから…
維新の会は、教育無償化について、多くの国民の賛同を得られると確信している。
しかし、報道を見る限り、国会内では、あまり賛同が集まっている状況にはない。主権者国民の望みを国会が邪魔しているわけだから、憲法改正手続を通じて、国民が意思を表明する機会を設けようというのが、教育無償化を改憲という形で提案する狙いだろう。
一般論として言えば、憲法改正を国民の多数派の意思で政治を動かす手段として、軽々しく用いるのは適切ではない。なぜなら、憲法の中には、多数派の意思で奪われてはならない人権を保障する規定や、その時々の多数派の独裁を防ぐための権力分立の規定もあるからだ。
ただ、教育無償化は少数派の人権を侵害するものではないから、多数派による横暴を心配する必要はそれほどない。国会がしり込みする中で、その是非を国民自身に決める機会を与えようという提案は、それなりに魅力的である。
安倍首相はかつて、「二分の一以上の国民が変えたいと思っていても、三分の一をちょっと超える国会議員が反対すればできないのはおかしいと考える方が常識ではないのか」と述べたことがある(衆議院予算委員会平成25年4月9日)。
維新の会は、多くの国民が教育無償化を望んでいるのだから、安倍首相は維新の提案に協力するのが筋だ、と迫ることもできるだろう。
■今よりも素晴らしい憲法を手にするために
このように、自民党や日本維新の会の改憲提案の中にも、議論してみる価値のあるものはある。
しかし、9月26日に召集された臨時国会の議論は低調だ。国会議員から賛否のメッセージが発せられたり、メディアで熱い議論が交わされたり、という状況にはない。
改憲派として知られる安倍首相も、どの条項をどう改正すべきかについて積極的に発言することはなく、憲法審査会の議論に期待すると述べるに止まっている。発議に向けた政党間の調整や、世論形成が、面倒くさくなってしまったのではないか、とも見える態度だ。
なぜ、改憲をめぐる議論は、低調になってしまうのだろうか。それは、憲法改正の提案に、国民を惹きつける「希望」が欠けているからだろう。
憲法は、過去の様々な国家権力の失敗の経験から、そうした失敗を繰り返さないようにするためのチェックリストだ。憲法を創るときには、現に生じた国家の失敗を分析した上で、「より良い解決を導くにはどうしたらいいか」と徹底的に考えられているはずだ。
だからこそ私たちは、国家が何らかの失敗をしていると感じた時、憲法の条文を読み、そこに託された先人たちの知恵に学ぼうとする。例えば、憲法97条を見てほしい。
【日本国憲法】
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
この条文には、「自由で民主的な国家をつくり、基本的人権の尊重を確立しよう」という、当時の人々の強い希望が込められている。この条文を読むことで、現在を生きる私たちは、先人たちの希望を思い出すことができるのだ。
憲法改正を提案するのであれば、その憲法条文にどんな希望を込めたいのか、明るく前向きに語るべきだ。強い希望が込められた条文であれば、将来の世代の人が、それを読み、私たちがどのような理想を持っていたか、思い起こすことができる。
参議院合区の解消であれば、人口の少ない県の住民がいかに困っているか、国の政治から見放されているかを説明し、合区を解消することにどんな希望があるのかを示すべきだ。維新の会も、教育無償化がいかに今の日本社会にとって大事なのか、もっと強いメッセージを出すことができるのではないか。
ところが、現在の憲法改正論議は、残念ながら、党利党略、占領軍への憎悪、細かな技術論に主導される傾向がある。それでは、国会内での広い合意も、国民投票での承認につながる世論形成も無理だろう。
こう考えてくると、憲法公布70年の節目に、もう一度、憲法を読み返し、そこに込められた「希望」を思い起こすことが重要なのではないか。
本当に辛い戦争の時代を生き抜いた先人たちが、日本国憲法にどんな希望を託したのか。それをしっかりと知ったうえで、それを超える理想像を描くことができたときにはじめて、私たちは今よりも素晴らしい日本国憲法を手にすることができるだろう。
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