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(回答先: 2010年日本政治を転落させたメディアの大罪−(植草一秀氏) 投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 20 日 20:55:05)
世論調査の現実と公議輿論の理想
民主党代表選と世論調査を考える
佐藤卓己 (京都大学大学院准教授[2010年当時])
http://www.chosakai.gr.jp/news/pdf/2210.pdf
メディア展望 平成22[2010]年10月1日 第585号
民主党代表選挙は9月14日に行われ、世論調査の結果通り、菅直人首相が再選された。今回の 選挙では9月1日告示前から、新聞各社が菅直人、小沢一郎の両候補の「人気」調査を発表して いた。いずれも、RDD(ランダム・ディジッ ト・ダイヤリング)方式の電話調査である。その見出しを並べてみよう。「菅氏69%、小沢氏15% 民主代表選で緊急世論調査」(共同通信社、 8月28日)、「代表にふさわしいのは? 菅氏67%・小沢氏14%」(読売新聞社、8月29日)、「首相にふさわしい人、菅氏78%、小沢氏17%」(毎日新聞社、8月30日)、「『首相にふさわしい』菅氏60.1%、小沢氏16.4%」(産経新聞FNN合同世論調査、8月30日)、「『首相は菅氏』65%、小沢氏17%」(朝日新聞社、9月5日)……。おおむね7割が菅氏支持、2割弱が小沢氏支持という傾向を示しており、国民一般の「空気」を測るという意味では世論調査の結果は妥当だったと言えるかもしれない。
しかし、今回の代表戦をめぐる新聞社等の世論調査に対しては、マスコミへのカウンターメディアであるインターネットばかりか、一部の週刊誌なども含め数多くの批判が展開されている。世論の操作あるいは誘導をめぐる単純な「陰謀説」は度外視しても、吟味に値する批判も少なくなかった。その論点は大きく3つに整理できるだろう。
「新聞は世論調査を使うべきだ」
1つは、公示前からのマスコミ報道の流れの中で世論調査が小沢出馬を批判する政治的手段として利用されたというものだ。実際、そうした意図を公的に語るマスコミ人も存在した。オンラインニュースポータルサイト「あらたにす」の8月25日付「民主代表選・新聞は世論調査を使うべきだ」で池内正人(元日本経済新聞経済部長・東京テレビ副社長)はこう結んでいる。
「国民は民主党の規約に文句は言えない。それならば新聞が世論調査で、外部からの影響力を行使する。これが民主主義における力のバランスというものではないのか」
実際、「小沢支持15%前後」という結果は全国調査をしなくても事前に予想できたはずである。「政治と金」をめぐる報道に連日接した新聞読者、テレビ視聴者の間で小沢氏のイメージは悪化しており、電話口で即答を求められた場合、政策よりもイメージで反応する方が自然である。だとすれば、15%であれ、17%であれ、その数字はそもそもニュース、つまり報道に値する「新しい出来事」だっただろうか。こうした世間の空気を数値としてニュース報道したいという動機は、やはり政治的と呼ぶべきだろう。
世論調査の手続きがどれほど「客観的」「科学的」であっても、その世論調査報道が「中立的」に作用するわけではない。ただし、後述するように世論(世間の空気)と輿論(公的意見)の使い分けを主張する筆者は、「中立的」であることが必ずしも正しい報道姿勢だとは考えていない。小沢氏の政治手法を批判したいのであれば、地道な取材を通じて論理的な調査報道がなされるべきである。単なる電話調査の数字で批判しようとする姿勢に私はジャーナリズムの衰弱を感じる。
世論調査は国民投票か
2つ目は、総選挙など国政選挙ではなく、民主党代表選挙に関して民主党党員、サポーターでなく国民一般を調査対象とすることへの疑問である。分かりやすく言えば、自民党や共産党の支持者に「菅と小沢のどちらが民主党代表にふさわしいか」と問うことの意味は何かということである。もし政権交代を期待する自民党支持者が戦略的に判断するならば、より無能な候補者を「代表にふさわしい」と答えても不思議ではない。いや、不思議でないというよりも、政権交代を前提とする政党政治においては、それこそが合理的な発想である。
そうした点が世論調査であまり問題とされない理由は、世論調査が模擬的な「国民投票」と信じられているためだろう。実際、終戦直後から世論調査は民主化に向けた「動態的な国民投票」として喧伝されてきた。例えば、戦後初期の世論調査テキストである時事通信社調査局編『輿論調査』(1946年)で、内閣参事官・吉原一真は次のように述べている。吉原は同盟通信社から情報局に移り、世論調査を担当した人物である。
「デモクラシーが実現されるためには自由な人民の意志に基礎を置いて輿論の動向に準拠した政治を行ふことにより新日本の再建が行はれねばならないのでありまして、国民投票(レフェレンダム)が必要とされる所以であります」
もちろん、実質において民主党代表選挙は首相選挙である。しかし、この実質をあまり強調すると、すなわち与党代表選挙に世論調査(≒国民投票)を重ねて判断すると、建前としての国会投票、議員による首班指名の意味をますます空洞化させることになるだろう。一政党の代表選挙と世論調査を結び付けたいというのであれば、論理的には首相公選制の導入を視野に置くべきではないだろうか。代表選での権謀術数や国会指名での党利党略によって選ばれた首相では、国民一人ひとりが政治的な自己責任を実感できない。私は短命内閣を繰り返さないためにも首相公選制を考える時期に来ていると考えている。
「ネット世論」は不信のバロメータ
3つ目は、各新聞社でほぼ一致する世論調査結果とは異なる「ネット世論」に注目が集まったことである。特に、小沢支持派においてはそれがマスメディアの世論誘導を批判する論拠として引用された。「菅首相より小沢新首相 サイト調査で圧倒8割」(『スポニチ』、8月28日)、「世論調査と逆 小沢氏ネット人気≠フ理由とは」(共同通信、9月10日)など新聞等でも紹介されている。例えば、ヤフー「みんなの政治」アンケート(9月1日開始・10日現在)の小沢氏支持63%、菅氏25%などである。
こうしたネット世論調査は希望者が勝手に回答する方式であり、サンプリング処理がないため統計的には無意味な数値である。世論調査の専門家からすれば、「興味本位のおもしろさ以上に考えることは極めて危険である」ということになる(遠藤薫「「ネット世論」という曖昧」『マス・コミュニケーション研究』77号・2010年)。
さらに世論を厳密な世論調査から得られた数値と定義するならば、次のような批判も妥当だろう。
「ネットに世論がある、世論が表出されていると想定すること自体、バカげている。「ネット世論」という言葉も不適切で、「ネット小言」あたりに言い換えたほうがよい。」(菅原琢『世論の曲解』光文社新書・2009年)
こうした「ネット世論」の怪しさにもかかわらず、それが世論調査を批判する対抗物として提示されていることは重要である。つまり「ネット世論」の盛り上がりはマスメディアの世論調査とその報道に対する不信感のバロメーターなのである。
世論調査・選挙・視聴率至上主義
そうした不信感を引き起こした直接的原因としては、近年の劣化した電話世論調査の量産を挙げることもできるだろう。今日では、平均すれば約3日置きに内閣支持率が各メディアから発表されているという。簡単な電話応対だけの調査結果が、あたかも国民投票のごとく「民意」として政治プロセスに組み込まれ、内閣支持率がストレートに政局に反映される政治状況を、私はファスト(高速)政治と評した(「内閣支持率とファスト政治」『東京新聞』2010年6月15日夕刊)。
そもそも「科学的」世論調査とは20世紀の観客民主主義において、大衆の声を政治に反映する「合意の製造」(ウォルター・リップマン)のために開発されたものである。
科学的世論調査の始まりは1935年、ジョージ・ギャラップによるアメリカ世論研究所設立とされている。その政治利用は同時期にニューディールを掲げたルーズベルト政権下で飛躍的に発展した。長期化する議会審議を打ち切って法案を通すべく、民意の科学的根拠として世論調査が繰り返された。それは大統領が直接ラジオで呼び掛けて「参加なき参加感覚」を国民に与える炉辺談話と不可分の国民統合システムである。第2次世界大戦への参戦に向けた総力戦体制の中で、慎重な政策論議よりも迅速な政治行動が必要とされていたのである。
その意味では「Yes」か「No」か二者択一を迫り、統計的な民意を背景に即決を迫るファスト政治は、ファシズム時代の産物である。さらにいえば、1930年代の「非常時」政治たるニューディール・デモクラシーは、即断即決を求める戦争民主主義にほかならない。こうした世論動員のニューディール批判は、日本でも占領終了直後から存在していた。統計学者・上杉正二郎は「世論調査のはなし」(『産業月報』 1953年7・8月号)でこう批判している。
「アメリカの世論調査はリンカーンの民主主義ではなくルーズベルトの民主主義以後の産物であつた。……『世論調査によると』という口実が、議会の存在に代つて重要となる」
ちなみに、ファストフードの代名詞「マクドナルド」の創業も同じ政権下の1940年である。総動員体制が求めた食生活の合理化が、ファストフード化を加速させた。それは世論調査についても言えることで、ハーバード・シラー『世論操作』(青木書店・1979年)は戦時体制下における世論調査の発展をこう総括している。
「マーケティングの必要が世論調査の生みの親だとすれば、戦争は調査技法の開発をうながす育ての親だった。第2次大戦の勃発によって、世論調査の技法にお誂え向きのさまざまな情報ニーズが生じた」
マーケティング(市場調査)との関連でいえば、世論調査がアメリカで始まった一因は、ラジオがヨーロッパや日本のような公共放送ではなく、商業放送として始まったためである。ラジオという広告媒体の効果は新聞、雑誌のように販売部数で計測できないため、クライアントへの説明材料としてラジオ聴取を示す統計数値が必要とされた。実際、G・ギャラップ、E・ローパー、A・クロスレーなど世論調査会社の創業者はいずれもマーケティング業界の出身である。
結局、世論調査主義と政治の選挙至上主義、放送の視聴率至上主義は三位一体である。いずれも、観客(有権者・視聴者)の「思考」ではなく「嗜好」を計量するシステムの思想なのだ。
主権者不在のポリズム
アメリカで発展したポリズム(世論調査主義)は、戦後日本にもアメリカ占領軍によって持ち込まれた。その政治的含意については、井川充雄「もう一つの世論調査史〜アメリカの〈広報外交〉と世論調査」(『マス・コミュニケーション研究』第77号 2010年)が的確に要約している。
「〔日本で〕USIA(合衆国情報庁)の実施した世論調査は、まさに巨大な国家権力の行使として捉えることができる。そこにおいては、世論調査の回答者は、決して政治的主体としての主権者ではなく、宣伝にさらされ、説得され、効果を測定され、操作される客体に他ならない」
それにもかかわらず、というよりそれ故にこそ、世論調査は国民投票の代用とされた。世論調査が主権者である国民の声を政治に生かすための疑似国民投票であるという建前は、今日でも一般に流布している。世論調査=国民投票ですべての案件が決定できるならば、代議制、つまり自分に代わって議論してもらう制度は不要となる。
インターネットが普及した今日、電子端末による日々の国民投票など技術的にたやすいはずだ。ファスト政治の究極の姿はそれである。それでも私たちが「ウェブ世論」のデモクラシーに懐疑的な理由は、普通の生活者がさまざまな政治案件を十分に熟考できるとは考えていないからである。
分かりやすい例で考えてみよう。夕食時に電話のベルが鳴り、唐突に「首相にふさわしい政治家」や「憲法改正の是非」を問われたとする。唐突な質問に対しては、周囲の空気を読むことで無難にやり過ごすのが普通だろう。つまり、日ごろマスコミが報じている多数世論をおうむ返しに回答する人が少なくないのである。こうして増殖する雰囲気の合算が、どれほど統計的に正確であっても、それを「民意」と見なすことは理性的だろうか。しかも、この世論「調査」を世論「操作」にすり替えることはさほど困難なことではない。
「輿論の世論化」
こうした世論調査に有権者が冷静に向き合うために、私は『輿論と世論』(新潮選書・2008年)などでヨロン(意見)とセロン(気分)の区別を訴えてきた。
今日、英語の public opinion は中国、台湾、韓国など漢字文化圏で輿論(舆论)と表記されるが、1946年公布の当用漢字表で「輿」の字を制限した戦後の日本でだけ「世論」が使われ、それが「よろん」と湯桶読みされている。
だが、そもそも輿論(よろん)と世論(せろん)は別の言葉であった。輿論は「多数の意見」を示す漢語だが、世論は仏典などに使用例はあるものの、明治期日本で使われるようになった新語である。当然ながら、現代中国で「世論」は使われていない。初出例として福澤諭吉『文明論之概略』(1875年)が引かれることが多いが、福澤は責任ある公論(輿論)と世上の雰囲気(世論)を区別しようと考えていた。こうして輿論と世論を区別する発想がヨーロッパ政治思想史に淵源することは、谷藤悦史「世論観の変遷〜民主主義理論との関連で」(『マス・コミュニケーション研究』第77巻 2010年)に詳しい。17世紀市民革命期の思想家ジョン・ロックの議論を谷藤は次のように要約している。
「ロックは、人々の行動を規制する社会勢力としての『世論ないし世評の法』と、政治社会の成立と運営を導き出す正当性の根拠として『輿論』を別にして、包括的に議論していたのである」
もちろん、ロックの時代に目指されたのは、議会における「世論」から「輿論」への結晶化である。しかし、19世紀になると、「理性に導かれた集合的な同意としての輿論」は、「快苦に基づく個人の意見としての世論」に転換したと、谷藤はその変質を指摘している。
だとすれば、明治天皇が発した勅語の用例はまさしくロックが思い描いた市民社会モデルに近いものだ。五か条の御誓文(1868年)で「広く会議を興し、万機公論に決すべし」と表現された公論とは、公議輿論の短縮語である。輿論は尊重すべき公的意見を意味した。一方、軍人勅諭(1882年)の「世論に惑はず、政治に拘かかわらず」が示す通り、世論とは暴走を阻止すべき大衆感情である。つまり、明治期において輿論は政治的正統性の根拠であるが、世論は熱しやすく冷めやすい「空気」であり、政治のかく乱要素と考えられた。
しかし、1925年普通選挙法成立に至る「政治の大衆化」の中で、理性的な討議より情緒的共感を重視する「輿論の世論化」が始まった。もちろん「輿論の世論化」は、日独伊ファシズムに特有な現象ではない。むしろ、先に述べた通り、科学的世論調査が生まれたアメリカこそ、第1次世界大戦に始まる総力戦体制のシステム化で先頭を走っていた。つまり、マスコミュニケーションと世論調査は観客民主主義の有権者に参加感覚を与えるシステムとして編成されたものである。
「はなはだ迷惑な議論」
本稿では特集「世論と世論調査」を掲げた『マス・コミュニケーション研究』(日本マス・コミュニケーション学会)の2010年最新号掲載の論文3本を既に引用した。私が提唱してきた「輿論/世論」の区分が一定の理解を得ていることがそこで確認できる。同じ特集号の峰久和哲「新聞の世論調査手法の変遷」には、次の一節がある。
「一部の学者たちが『輿論』『世論』を峻別して論文を書くようになった。民意のあり方を深く論じる『思考実験』としては実に優れたものであり、多くのことを学ぶことができた。まずは称賛したい。しかしながら、世論調査を実施し、報道する立場のものにとっては、はなはだ迷惑な議論である。現代の日本人が使っている『世論』は、ただ単に『輿論』の『輿』の字を『世』に代えただけのものである。軍人勅諭に使われた『世論』は死語である」
峰久和哲朝日新聞論説委員は世論調査センター長などを務めた調査の専門家であり、私は同氏の論説によって多くを学んできた。調査の第一人者から「はなはだ迷惑な議論」と評されたことも大変な名誉と受け取るべきだろう。ただ、調査報道の送り手である峰久氏に対して、私がその受け手としてリテラシー教育を構想している立ち位置の違いは大きい。それでも、尊敬するジャーナリストにこの場を借りて応答させていただきたい。
まず指摘しておきたいことは、戦後「輿論」の代用として「世論」の採用をリードしたのが新聞社だったという歴史的経緯である。『「毎日」の3世紀』別巻(2002年)はこう記述している。
「当時の本社輿論調査部員・宮森喜久二が『輿論』から『世論』への切り替えを朝日新聞に提唱し、共同歩調をとったことが統一使用のきっかけとなった。(略)従来、『世論』は戦時中、『世論(せろん)にまどわず』などと流言飛語か俗論のような言葉として使われていた。これに対して『輿論』は『輿論に基づく民主政治』など建設的なニュアンスがあった」
この意味では「世論化」を主導した責任は、まず新聞社自身が自覚すべき問題である。朝日新聞社は1945年11月7日の有名な社告「国民と共に立たん」と同時に次の社説を掲載している。
「天下の公器を自称する新聞が、今後激流に棹し、あくまで国民輿論の指導機関たるの役割を果すためには、先づ自らの戦争責任を明かにしなければならぬこと論ずるまでもない」
高次リテラシーとしての「輿論/世論」
だが、「国民輿論の指導機関」、あるいは「輿論指導」という理想は、「輿」の字の退場とともに紙面からは消えている。「輿論指導」が「世論指導」に置き換え可能だと当時の論説委員が考えたとは思えない。軍人勅諭だけに議論を限定すべきではないのである。
この代用の結果、「よろん」という理想的響きを残した世論(セロン)調査の数値が、あたかも国民投票結果のごとく議論の正当性を裏付けるものとして新聞紙面で利用されてきたのではなかったか。世論調査を自ら批判的に検討する足場として、調査による数値化が困難であっても、規範的「輿論」は必要だと私は考えている。
それは認知心理学における批判的思考の新しい知見と重ねて理解することも可能だろう。批判的思考とは「自分の思考の質を改善する思考法」であり、情緒的に働く「直観的思考」とセットで理解されている(楠見孝編『現代の認知心理学3 思考と言語』〈北大路書房・2010年〉所収の楠見論文「批判的思考と高次リテラシー」参照)。
もちろん、批判的思考には分析や反省に時間的コストがかかり、目的志向的な努力が不可欠である。それ故、現実のファスト社会で私たちは自動化された直観的思考に流されがちである。しかし、そうした衝動的態度は政治において望ましいものではない。熟慮的態度への発展を促すためにも、高次「世論」としての「輿論」が必要なのだ。
私たちは明治維新のスローガンだった公議輿論にいま一度思いを致すべきではないだろうか。公に熟議する時間の中で生まれる輿論は、移ろいやすい世論調査の数値とは別物である。もちろん、輿論の計量は難しく、公議輿論への道も至難だろう。だが、その理想を失ったジャーナリズムに世論を批判する足場はないはずである。
2010年民主党代表選挙で大々的におこなわれた世論調査について池内正人氏が書いたという記事「民主代表選・新聞は世論調査を使うべきだ」の原文を探していて、それはみつけられなかったかわりにこの記事をみつけた。佐藤卓己氏の文章は、雑誌などの思いがけないところで時々目にする。目にすれば必ず読む。この記事の内容も期待にたがわないものだった。
元記事は縦書き。横書きでの投稿スタイルに合わせ、投稿者が漢数字を算用数字に直すなどした。
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