>これは、昭和59年から61年にかけて、阿羅健一氏がインタビューした軍人、新聞社・通信社記者、外交官など48人の大方の証言である 阿羅健一は資料改竄・捏造で悪名高い詐欺師だよ: 阿羅健一著「『南京事件』日本人48人の証言」批判 (以下阿羅本と略す) 阿羅は南京大虐殺の否定を図って、当時、南京に従軍したり、滞在した多くの日本人証言を集めた。その結果多くの証言者から「虐殺はなかった、見なかった」という証言を得た。また、既に虐殺の証言を行ったひとたちへの反論あるいは前言の撤回も引き出すのにも成功している。しかし、それは証言者を選び、聞き方を工夫して得られたものであり、実は多くの証言者が語っているのは虐殺の認識がないまま「虐殺の一部分、あるいはその痕跡」を目撃あるいは伝え聞いたことを示しているのである。それゆえに虐殺否定の証言の持つ構造を確かめることは、虐殺の証明だけでなく、否定論者の認識の成り立ちを解析するのにも重要である。 阿羅本の問題点 1.そもそも、殺戮の現場に行っていない、見ていない証言者が多い。 阿羅は軍首脳なら全般的な軍の方針を知っており、広範な情報が集中するからという理由で上級将校である証言者を重視している。実際には上級将校は殺戮を命令していても殺戮の残虐性を感覚的に実感していない。実行者である兵士において殺戮の残虐性をはじめて痛切に認識出来るのである。この点、上級将校の証言からなるこの証言集では虐殺の有無に対する有用な証言は期待できない。 また、報道関係者なら広く見聞し、偏りのない見方をするだろうと考えたと思われるが、当時の記者は「暴戻支那を庸懲する」という日本政府の方針に沿い、好戦的な内地の世論に向けた扇動記事、戦意高揚記事を書いていた。記者の中には日本軍の先頭部隊と寝食を共にし、中国兵に対する敵愾心を共有したものと、軍首脳のそばにいて全般的な作戦や、交戦状況を書くことを主眼としたものがあった。(ただし、位置の情報はかけない)。そのような記者に虐殺の認識が乏しいのは当然であった。 これに対して、カメラマン、技師の一部はそのようなイデオロギーに関係なく事実を見ており、虐殺に関する証言が多い。また、記者にあっても陸軍付きの記者より海軍付きの記者のほうが虐殺に対する感覚は鋭敏であった。 2.殺戮やその跡を見ても証言をしていない 1. 捕虜や敗残兵の処刑を戦闘そのものであるとする見方があった。 2. 捕虜の処刑が違法であるという認識を欠いたものがあった。 3. 戦争とはこんなものだという考えがあった。 4. 中国兵に対する憎しみ、中国人に対する蔑視感からなんとも感じない。 当然、国際法の捕虜に対して取扱規定に詳しいものは処刑に対してより疑問を持った見方をしている。 3.虐殺は民間人、あるいは便衣兵の疑いによる摘出、移送、殺害と作業が分担、区分けされその一部を見ても虐殺の一部であるとの認識が生まれにくい。 4.比較的少数の殺戮の現場を見たり、その痕跡を見ても大虐殺との認識に達しない。 5.阿羅の不適切なインタビュー方法 阿羅は南京において何があったのか、何を見たのか、聞いたのかという偏らない検証ではなく、「虐殺があったか」「虐殺をみたか」「虐殺があったという話を聞いたか」「大虐殺はあったか」という聞き方をしている。これは証言者が虐殺の認識を持っていたか、どうかの聞き取りである。この聞き方では証人が虐殺というものをどう認識していたかによって答えは異なる。虐殺があったかどうかは証言が提示する事実の再構成によって著者ならびに読者で判断されるべきものである。 6.他者の虐殺証言の否定、あるいは撤回発言について いくつかの虐殺証言者を引き合いに出して否定させるよう努力したあとが伺える。その手法は証言者の人格攻撃を主としたものである。その当人が当該事実について発言したということは人格攻撃によって崩れるものではない。撤回発言の場合も前証言をすべてうち消すだけの内容に乏しい。私は、いくつかの前証言、肯定証言を発見・提示することが出来たので、うち消すに足る内容を持った証言を阿羅が提示したかどうか見て欲しい。 7.国際的なものの見方を学んだ日本人は外交官の発言など阿羅本にない種類の証言例をあとで掲げる。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 以下、阿羅本の記述を中心にどこを読みとるべきか、提示する。 ところで、田中正明の著書の引用はどこまでであろうか。阿羅本と内容がダブるのはなぜなのだろう。 1)120人の報道員とスメラマンは何をみたか ■東京日々新聞 五島広作氏 谷寿夫師団長付きの従軍記者である。「師団の司令部にいて師団長と行動を共にすることが多かった」。つまり、現場ではなく師団の中央にいて大所高所の方針を報道しており、虐殺行為は見ていないというのが正しい。記者仲間の話にも「出なかった」というのは、そうであろう。《このことは後述する》 ■石川達三 阿羅は<実刑を受けた石川氏の言葉だけに重みがある>と言いますが、氏が実刑を受けたのは日本軍の残虐さを隠すことなく書いたからであり、「虐殺がなかった」などと書いたためではありません。阿羅=畠中氏は実際には病気入院中のため会えず、手紙での取材であったと書きながら、「世界と日本」でインタビューのような体裁を取りながら書くのは発表形式として不誠実のそしりを免れません。読売ではあれほど雄弁に書いたものが、阿羅の質問にはほんの数行の木で鼻をくくったような返事の「手紙」しか返していないのは解せないことです。捏造の疑いさえ浮上します。 石川はまだ、南京事件の全容が裁判を通して始めて日本で明らかになる前に、既に次のようなインダューを残しています。 ★昭和21年5月9日 讀賣新聞 (木曜日) 第24911号 3版(2)☆☆ 裁かれる殘虐『南京事件』<見出し> 河中へ死の行進 首を切つては突落す <小見出し> <以下、石川発言> 兵は彼女の下着をも引き裂いたすると突然彼らの目のまへに白い女のあらはな全身がさらされた、みごとに肉づいた胸の両側に丸い乳房がぴんと張つてゐた…近藤一等兵は腰の短剣を抜いて裸の女の上にのつそりまたがつた…彼は物もいはずに右手の 短剣を力かぎりに女の乳房の下に突き立てた―"生きてゐる兵隊"の一節だ、かうして女をはづかしめ、殺害し、民家のものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行はれた、入城式におくれて正月私が南京へ着いたとき街上は屍累々大變なものだつた、大きな建物へ一般の中國人數千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶死させた また武装解除した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬つた、しまひには弾丸を使うのはもつたいないとあつて、揚子江へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるやうにしておいて、この上へ中國人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切つて河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のやうな捕虜が戸板や机へつかまつて川を流れて行くのを下流で待ちかまへた駆逐艦が機銃のいつせい掃射で片ツぱしから殺害した戰争中の昂奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、南京の場合はいくら何でも無茶だと思つた、三重縣からきた片山某といふ從軍僧は讀経なんかそツちのけで殺人をしてあるいた、左手に珠數をかけ右手にシヤベルを持つて民衆にとびこみ、にげまどふ武器なき支那兵をたゝき殺して歩いた、その數は廿名を下らない、彼の良心はそのことで少しも痛まず部隊長や師團長のところで自慢話してゐた、支那へさへ行けば簡單に人も殺せるし女も勝手にできるといふ考へが日本人全体の中に永年培はれてきたのではあるまいか ただしこれらの虐殺や暴行を松井司令官が知つてゐたかどうかは知らぬ『一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してよろしい』といふ命令が首脳部からきたといふ話をきいたことがあるがそれが師團長からきたものか部隊長からきたものかそれも知らなかつた 何れにせよ南京の大量殺害といふのは実にむごたらしいものだつた、私たちの同胞によつてこのことが行はれたことをよく反省し、その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思ふ ■朝日新聞 橋本登美三郎氏 このひとは記者15人を束ねる立場であって、現場に出向く立場でなかったことは阿羅本から読みとれる。中島師団長付きだったから、軍上層部の情報を収集する立場である。それにしても具体的な発言内容が乏しく、インタビューの意味がない。 ■朝日新聞 足立和雄氏 数十人の中国人の処刑を目撃し、百人単位、二百人単位の処刑の可能性も指摘している。足立氏と行動を共にした友人の記者である守山義雄氏の文集には下記のような文を寄稿している。これも阿羅が引きだした「南京大虐殺はなかった」という証言とは趣を異にする。 ★『守山義雄文集』より引用 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集まってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。 朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命 を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上なんともできなかった。”便衣隊”は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。 「悲しいねえ」 私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。 「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。 内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員) ★ドイツ哲学者篠原正瑛氏の回顧録より引用 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、その頃東京朝日新聞のベルリン市局長をしていた守山義雄氏から、南京に侵入した日本人による大量虐殺事件の真相を聞いたことがある。 守山氏は、東京朝日の従軍記者として、その事実をまのあたりに見てきた人である。 南京を占領した日本軍は、一度に三万数千人の中国人、しかもその大部分が老人と婦人と子供たちを市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射を浴びせて皆殺しにしたそうである。 そのときの南京城壁の中は、文字通り死体の山を築き、血の海に長靴がつかるほどだったという。守山氏は、このような残虐非道の行為までも、「皇軍」とか「聖戦」とかという偽りの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと幾日も思い悩んだそうである。 (『西にナチズム、東に軍国主義』日中文化交流157号) 2)南京入城者の証言 #雑誌『正論』からの引用らしいが、すでに出版した自分の本の再録とは阿羅も図々しい。 ■大西一大尉 長参謀の「(やっちまえという虐殺)命令」の否定について 大西氏から「聞いていない」という発言を引き出している。しかし、阿羅本にも「偕行」にある角良晴少佐証言、田中隆吉「裁かれる歴史」にある証言がある以上、大西大尉だけが聞いていなかったという可能性を否定出来ないわけである。例によって田中隆吉の態度がおかしいと人格否定発言を引き出しているが、これは事実関係とは無縁である。 阿羅本の岡田尚のところには長勇参謀が「捕虜は殺してしまえ」「戦争なんだから殺してしまえ」と暴言を吐いたことを証言している。暴言であっても、配下の将校にとっては命令としか聞こえないであろう。また、この発言に対して注意する将校もいなかったと証言している。 中島今朝吾師団長の「捕虜はせぬ方針なれば」 この発言を「銃器を取りあげ、釈放せい」という意味だとする否定論者の発言は多い。実態としてそのように釈放された例は本多勝一氏が「中国の旅」で紹介する一例だけであり、その中国人部隊も他の日本軍部隊に再び捕まって全員殺されており、一切、実行されなかったのに等しい。 中島の示した方針はそうだったかも知れないが、より下級の将校に達するときにはすでに下記のような指令に変質していた。上級の命令だからそれがすべてを支配したわけではなく、下級将校が暴走するのは日本陸軍の常であって、兵士に伝えられた命令がどういうものであったかが重要なのだ。 以下5件は『南京戦−閉ざされた記憶を尋ねて』より引用 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ★一六師団の大島副官「二百あろうと、五百あろうと適当のところへつれて行ってころしてしまえ」敗残兵の処理を聞かれたさいに、田中日記より(一六師団歩兵大三十三連隊第一大隊 田中次郎) ★松井岩根大将が、この地方(上海の白茆口)についたとき、あらゆる者は殺せと指示したと聞きました。<注 松井司令官がこれを言ったとは考えにくいが、下にはそう伝わったと言うこと> ★「その時、私は上からの命令文を見ました。『支那人は全部殺せ、家は全部焼け」と書いてありました。」(一六師団歩兵大三十三連隊第三機関銃中隊 依田修) ★「掃討をやる時は中隊長か大隊長の指揮によってです。注意事項というものはなく『戦争に耐えると思われるような者は全部ころしてしまえ』」田中次郎 ★「掃討の時、『各戸をもれなく掃討すべし、外国の権益ある家に潜入する敵ある時は、臨検可』と師団命令がありましたで」(一六師団歩兵大三十三連隊第三大隊 沢田好治) ■岡田尚通訳官 通訳官という地位のためか、虐殺に対する認識は鋭い。十二月十二日の湯水鎮での千人から二千人の捕虜刺殺、下関にある数百の死体を証言している。 ■岡田酉次少佐 経済工作の担当者であり、戦闘や虐殺に対する関心が低く、現場に出ていない。 ■東京日々新聞カメラマン 佐藤振寿 十二月十四日に蒋介石直系の八十八師の建物前で日本兵が中国兵を銃剣で殺しているのを目撃している。また、難民区に入ろうとすると中国人から「日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ」と嘆願されている。十六日には難民区から便衣兵の摘出をしているのを目撃している。 ところで「多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていた」のは虐殺がなかった何の証拠にもならない。逆に腕章でも付けていないと何をされるかわからない状況だったということを示しているだけである。 ★『南京戦史資料集 2』偕行社 より引用 南京に派遣されていたカメラマンも虐殺現場を目撃しながら、撮影はせず、 報道もしなかった。東京日々新聞(現毎日新聞)の佐藤振壽カメラマンは、南 京市内で敗残兵約100人を虐殺している現場を目撃したが、「写真を撮って いたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と述べている。 ■同盟通信部映画部カメラマン 浅井達三 カメラマンとしていろんな場所を見ている。兵士の徴発物、銀行の略奪、便衣隊の手榴弾運搬、中国人200-300人の列、難民区以外に住む中国人は表に出ない、紅卍字会、中国人は日本軍を怖がっていた、死体は撮らない(撮っても掲載はされない)、やらせ写真について、パネー号沈没など。正確な観察がある。 「中国人が城内を列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が目に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えている者や、難民となって南京にのがれてきた農民もいたと思います。手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っ張られていったと思います」 −それはいつ頃ですか。 「昼でした。二百人か三百認可の列で、その列が二つか三つあったようです」 敗残兵や便衣隊をやるのが戦争だとおもっていたので、記者仲間では虐殺ということは話題にならなかった、という発言がある。 言及された白井カメラマンの発言を紹介する ★白井茂(映画カメラマン・東宝記録映画『南京』撮影者) 「中山路を揚子江へと向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々と並んでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。 柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が真赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。(中略)よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当たってるのに死なないのだ、なかなか。そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをポンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやりかただった。 戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼き付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の目にした一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。」 ■報知新聞 田口利介 百人斬りの曹長について。「中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣のものもいたと言います。」長参謀についてきかれて「私のような海軍記者から見ると、一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね。佐藤賢了(中将)、富永恭次(中将)はその典型で、長勇もそんな一人だと思いますよ」の発言が興味深い。 海軍の従軍記者岩田岩二氏が遅れて砲艦で南京入りしたが、「彼は南京が近づくと無数の死体が流れてきたと言っていました。」 ■同盟通信無線技師 細波孝氏 12月14日、湯山の近くに1万人が竹囲いの中にいた。湯山では窪地のようなところで何人か捕虜をやったと聞いた。 下関のトーチカに20−30人ずつ捕虜をつめ込んで焼き殺したと思う、そういうのを3−4つ見た。 中山門に通ずる通りで捕虜の移送を見た。八列縦隊で50m位で区切っていくつかありました。湯山の捕虜を何回かに分けて移送したと思う。捕虜は顔が青白く、三途の川を連れていかれるようなものだったな、と捕虜の殺害現場の下関に着いて思った。 12月15日か16日の朝早く、(あるいは同僚だった深沢氏の証言では17日夕かも知れない)下関では湯山の捕虜と思われる死体を見た、1万人をやったと思う、見たのは終わりの方で江岸にあった死体は流されたとらしく、実際に見た死体は百人位である。 #考察 記者と違って見たものをありのまま語っており、貴重な証言と言える。捕虜の収容、移送、殺害現場という流れを見ているので事態がよく把握される。下関に行ってからはじめて移送中の捕虜の顔が絶望的な表情だったのを思い出している。他の報道員にしても移送だけを見ていたとしたら、何の印象も残さず、証言に至ることもなかっただろうと思われる。また、国際法で捕虜を処刑してはいけないということを知っていたことが具体的な証言をしたことに繋がっている。この細波氏にして「死体に免疫」になっており、他の報道仲間で話題にしていないくらいだから、彼のほかの報道員が話題にしなかったのは当然と言える。また、下関には車に同乗して行っている。次の小池記者が「車を持っていなかったので行動半径は限られていた」というのと対称的である。すなわち、行ってないところのものは見ることが出来ず、証言もないのである。また、捕虜の処刑に関して「やっているところは(軍は)見せなかっただろう」としているのも重要である。 ■都新聞 小池秋羊記者 陥落当初に血まみれの民間人が彷徨っていた、陥落当初に難民区に隠れていた敗残兵は補助憲兵が連れだしていたが、その家族が兵隊でないと補助憲兵にすがっていた、10−20人とまとめて連行した。中央ロータリーの死体、ユウ江門のぺちゃんこの死体、下関のドックの何十体の死体を目撃。 「南京全体を見ていた訳ではないので見ていない場所で虐殺があったといわれれば否定はできません」 ■読売新聞 樋口哲雄記者 「入城式のあとはブラブラしていた」 遊んだ話が多く、戦闘の話も出てこない。中央ロータリーの死体は長くほおってあったのだが、それにさえ触れていない。 ■東京日々新聞 金沢喜雄カメラマン クリークで何度も死体を見た。殲滅・包囲したためである。南京城内でも難民死体の存在は当然。虐殺は記者仲間でも話題になっていない。 ■読売新聞 森博カメラマン 捕虜を江岸に行って放そうとしたが、結局ころした。岸が死体でいっぱいだったと聞いた。上の命令でやったのではなく下士官が単独でやったと思う。分隊長クラスあるいはその上も知っていたかもしれない。 陸軍の下士官の中にはには上官を上官とも思わず馬鹿にしているのがいた。 南京戦の後、下士官から捕虜を斬ってみないかと言われたことがある。やらなくてもいいことをやった。 略奪、放火もやっていた。南京の事件を話題にしたことはない。 ■谷田勇大佐 第百十四師団麾下の部隊の戦闘詳報に捕虜を処刑せよという旅団命令があったかという質問に対して「そんな命令をだすはずがない」谷田氏は捕虜担当であり、「捕虜は国際法規に従って処理すべきだと考えていた。」 十二月十四日十一時十三分頃<中華門付近にはほとんど死体なし。四時に下関に行ったが、埠頭には二千人か三千人死体があった。軍服を着たのが半分以上で普通の住民もあった。戦死体ではなく、城内から逃げたのを第十六師団が追いつめて撃ったものと思う。建物がまだ燃えていた。写真あり。十九日には南京を離れたが、それまでなら死体数は数千ないし一万程度。 莫愁湖にも十人以上の死体があった、軍人か市民かはっきりしない、半分ずつかもしれない。 十四日午後にユウ江門を通ったが死体はなかった。写真あり。雨下台にはなかった。 長参謀は虐殺命令のようなことを言いかねない、しかし成文として命令を出したとは思われず、隷下団隊の参謀に口頭で伝達したのでしょう。噂は長く耳にした。 ■吉永朴少佐 十六、七日頃下関の埠頭で数千人の死体をみた。軍服を着ていない死体も相当あった。軍服でない死体が吊してあった。 第十軍は迅速であったため「糧は敵に依る」はやむを得なかった。 ■金子倫介大尉 南京には一−二泊であり印象は薄い。南京では何も見ていない。 ■報知新聞カメラマン 二村次郎 南京城にはいってすぐ長方形で、長さが二,三十メートルくらい、1メートルの深さの穴が掘ってあった。 昼間数百人の捕虜が数珠つなぎにして連れていかれるのをみた。 (3)作家・評論家の南京視察記については資料がなくコメントできない。 以下に、当時の記者、外交官、軍人の南京に対する認識を掲載する。 ★第十三師団会津若松第六十五連隊従軍記者 秦賢助氏の回想録 虐殺事件は、15日の午後から夜にかけて頂点に達した。この日、南京市街を太平門に向かって歩いていく捕虜の行列があった。おびただしいその数は、二万を数えられた。これぞ白虎部隊が、南京入城に際してお土産に連れて来た大量捕虜であった。果てしない行列の前途に待っている運命はまさに死であった。「花の白虎部隊」とまで謳われたこの部隊の捕虜になった彼らを虐殺したのは、果たして白虎部隊の過誤であっただろうか。 人情部隊長とまで言われた両角大佐の意図であっただろうか。それとも、師団長である荻洲部隊長荻洲立兵中将が選んだ処理方法であったろうか。 軍司令部からは、何回か中央(陸軍省・参謀本部)に請訓された。最初の訓電は「宜しく計らえ」であった。漠然たるこんな命令では、処理のしようもない。重ねて求めた訓電でも、「考えて処理せよ」である。どう考えていいのか迷って、三度目の訓電には「軍司令部の責任でやれ」と命令してきた。軍司令部では、中央の煮えきらぬ態度と見た。 朝香宮中将を迎えての入城式を前にひかえて、軍司令部は焦った。「殺しちまえ」この結論は造作なく出た。すでに城内では捕虜を殺しているし、一兵の姿も見ないまで、残敵を掃蕩し尽くしている。それに、二万の捕虜を、食料も欠乏している際、そうするしかないと考えるに至った。しかし、両角大佐はさすがに反対したという。 わが手に捕らえて、武装は解除しても、釈放して帰郷させたい肚には変わりがなかった。けれども主張は通らない。部隊長といっても一連隊長にすぎない。それにどの部隊も、大陸戦線において、連戦連勝、有頂天勝っていたのだから気も立っていたのだろう。何でもかんでもやることになった。 (『捕虜の血にまみれた白虎部隊』日本週報398号) ★石射猪太郎氏(外務省東亜局長)の回想 南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告が我々を慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取り締まりの用を為さない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。 上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。(略) これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私は当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからであった。 石射猪太郎『外交官の一生』 ★重光葵(外交官・事件当時、駐ソ連大使) 「しかし、駐支大使として南京に赴任(一九四二、一)して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった。 日支間の融和を以て東亜の安定および世界の平和の基礎であることを信条としている記者(筆者)にとりては、南京事件を筆頭とする支那に於ける日本軍隊の行為には云ふべからざる悲痛の感を抱かされた。或は支那の他の部分、広東、香港はもちろん、南方方面即比島、馬来その他も推して知るべきのみと深く考えさせられた。さらにまた軍隊のみでなく、軍隊に便乗している実業家、在留民も軍隊に劣らぬ実績を有つものの少からざるに至って殆ど絶望感を抱くに至り、此戦争が敗北に終わっても日本民族として尚正義を主張し得る立場を残さねばならぬことを痛切に思った」 (重光葵『続 重光葵手記』(中央公論社 1988)より) ★法眼晋作(外交官・元外務事務次官・元国策研究会理事長) 「電信専門の官補時代に最もショックを受けたのは、南京事件(後述)であった。敗走する中国軍を追って南京を占領(昭和十二年十二月十三日)した日本軍が、筆舌を絶する乱暴を働いた事実である。あまりに乱暴狼藉がひどいので、石射猪太郎東亜局長が陸軍軍務局長に軍紀の是正を求め、広田外相も陸軍大臣に強く注意して自制を求めた。軍は参謀本部二部長・本間少将を現地に送って、ようやく事態は沈静に向かった。 戦後現在に至って、南京事件の事実を否定し、これがため著書を発行したり、事実無根との訴訟を起こす者も出てきた。また、被害者の数を問題にする者もいる。残虐行為は被害者の数が問題なのではない。私に理解できぬのは、この世界を震駭(しんがい)し、知らぬは日本人ばかりなり (当時、報道が軍の厳重な統制下にあった)と言われた大事件を、如何なる魂胆かは知らぬが否定し、訴訟まで起こす者のいることで、このようなことはまことに不正明なことと言わねばならぬ。 盗人猛々しいくらいの形容詞では足りぬ。歴史的事実はいかなるものであれ、事実として認めるほうが宜しい。さもなくば、日本は事実を秘匿し始めた、将来またやるかも知れぬ、と案じる外国人 も出てこよう。この未曾有の事件を否定すればするほど、日本の恥の上塗りとなるくらいのことは、常識であると思う」 (法眼晋作『外交の真髄を求めて』(原書房 1986)より) ※法眼氏は元産経新聞本紙「正論」執筆メンバー 以上、阿羅本がどういう手口で証言を集めたか、そこから何が見えるかを明らかにした。虐殺の否定本と称される本書においても虐殺の証言はそこここに見られるのである。反論資料も掲示したが、これはほんの序の口である。なぜなら、本書は主として残虐行為を時間的、空間的に遠い場所から観察したひとたちの証言であり、残虐行為の実行者たる兵士の証言、残虐行為の被害者証言を併せて、読まないと南京事件の全体像は明らかにならないからである。
12月24日に部分的に加筆・訂正しました。なお、岡村寧次大将の資料は分量が多いことと、事件以後の部分が多いことにより削除しました。 http://pipponan.fc2web.com/shikosakugo_09/shi_2774.htm 阿羅健一批判の補遺
阿羅は南京大虐殺を肯定した記者などの発言に対し、その否定証言を求めてインタビューをしています。今回、石川達三、鈴木二郎、前田雄二、今井正剛などの肯定発言、長勇中佐の言動についての補強証言を発見しましたので紹介します。
総じていえることは阿羅健一が意図的に否定証言をしているものを選んでインタビューをしていることと、阿羅本の内容を持ってしても、いったん肯定証言をしたものたちの発言そのものを覆すに足る、新発言を得ることは出来なかったこと、そして肯定証言は日本人証言者だけでもこれに数倍、数十倍の規模で存在することです。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− ■石川達三は東京裁判の閉廷後のインタビュー 「読売新聞」1946年5月9日付けの記事から 入城式に送れて正月私が南京へ着いたとき街上は死屍累々大変なものだった。大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき油を流して火をつけ焦熱地獄の中で悶絶させた。また武装解した捕虜を練兵場へあつめて機銃の一斉射撃で葬った。しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江岸へ長い桟橋を作り、河中へ行くほど低くなるようにしておいて、この上へ中国人を行列させ、先頭から順々に日本刀で首を切って河中へつきおとしたり逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机に捕まって川を流れて行くのを下流で待ち構えた駆逐艦が機銃の一斉射撃で片っぱしから殺害した。 ■徳川義親 日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮になったという。長中佐が自慢気味にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、「長、その話だけはだれにもするなよ」と厳重に口止めしたという。(徳川義親『最後の殿様』)《藤田とは藤田勇のこと》 ■東京日々新聞 鈴木二郎 わたしはふたたび中山門に取って返した。そこでわたしははじめて、不気味で、悲惨な、谷量虐殺にぶつかった。二十五メートルの城壁の上に、一列にならべられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合いをかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気せまるすさまじい光景である。 神経の凍る思いで、その場を去り、帰途にふたたび『励志社』の門をくぐってみた。さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、そこに十名余の敗残兵が、針金でしばりつけられていた。どの顔も紙のように白く、肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、ウツロな目で、わたしをジッと見つめた。そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。二,三人がツルはしをもってたっていたので工兵と知れた。そばに立っているわたしには目もくれず、そのなかの一人が、その大木の前に立つと、「こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな」とさけぶや、やにわに、ツルはしのさきが"ザクッ"と音をたてて刺さり、ドクッと血がふきだした。それをみたあとの数人は、身をもがいたがどうすることもできず、ほかの兵の暴力のなすがままになってしまった。・・・この捕虜のなかには、丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるものもいた。 (鈴木二郎「私はあの”南京の悲劇”を目撃きした」−南京入城直後〔十二月十二日のことらしい〕の記事) ■同盟通信記者 前田雄二 軍官学校で”処刑”の現場に行きあわせる。後者の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引き出し、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き抜く。悲鳴をあげて壕に落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっているのだ。 引きだされ、突き放される捕虜の中には、拒み、抵抗し、叫び立てる男もいるが、多くは観念しきったように、死の壕に向かって走る。傍らの将校に聞くと「新兵教育だ」という。壕の中は鮮血でまみれた死体が重なっていく。・・・・交代で突き刺す側の兵隊も蒼白な顔をしている。刺す掛け声と刺される死の叫びが交錯する情景は凄惨だった。私は辛うじて十人目まて゜見た時、吐き気を催した。そして逃げるように校庭を出た。・・・ 午後支局[同盟通信社の野戦支局]を出ると銃声が聞こえる。連絡員の中村太郎をつれて、銃声をたずねていくと、それは交通銀行の裏の池の畔だった。ここでも処刑が行われていたのだ。死刑執行人は小銃と拳銃を持った兵隊で、捕虜を池畔に立たせ、背後から射つ。その衝撃で池に落ち、まだ息があると上からもう一発だ。・・・ 「記者さん、やってみないか」兵隊を指揮していた下士官が、私に小銃を差しだした。私は驚いて手を引っ込めた。すると、中村太郎に、「君はどうだ」と従すすめる。中村はニヤリと笑ってそれを受けとり。捕虜の背中に銃口を接近させると引き金をひいた。ズドンという音とともに男は背中を丸めるようにしてボシャンと池に水しぶきをあげた。それきりだった。(前田雄二『戦争の流れの中に』−十二月十六日の記事より) ■東京朝日新聞 今井正剛 「先生、大変です、来て下さい」血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人ともへいたいじゃないのだから早く言って助けてやってくれというのだ。アマの後には楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員・・・と私はあわてふためいて飛び出した。 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向かって六人ずつの中国人が立つ。二三十歩離れた後から、日本兵が小銃の一斉射撃、ウーンと断末魔のうめきが夕陽の丘いっぱいにひびき渡る。次、また六人である。つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされていくのを、空地にしゃがみ込んだ四五百人の群れが、うつろな目付でながめている。・・・そのまわりをいっぱいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。・・・ 傍らに立っている軍装に私たちは息せき切っていった。「この中には兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」硬直した軍曹の顔を私はにらみつけた。「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」「どいつだかわかりますか」「わかる。女房がいるんだ。呼べば出てくる」返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声を上げて女房が呼んだ。群衆の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳位の青年が飛び出してきた。・・・・ たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群衆を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群衆が殺到した。「まだやりますか。向こうを見たまえ。女たちが一ぱい泣いているじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君は空地から離れた。何度目かの銃声を背中にききながら(今井正剛「南京城内の大量殺人」十二月十五日の記事より) http://pipponan.fc2web.com/shikosakugo_09/shi_2774.htm 秦郁彦の阿羅批判 南京事件論争に詳しい歴史家の秦郁彦は『昭和史の謎を追う(上)』(1993) の中で阿羅氏の著作についてこう発言している。
−−−−−−−−−昭和史の謎を追う(上)−−−−−−−−−−−−−−−−−− 「十二年十二月と十三年一月に南京にいた人に聞けば本当のことがわかるのではなか ろうかと考え」て、軍の幹部百五十人、報道関係者三百人、外交関係者二十人ぐらい を探し、うち六十六人をヒアリングの対象者にしたとある。 その精力的な東奔西走ぶりは感服するが、「数千人の生存者がいると思われる」兵士 たちの証言は「すべてを集めることは不可能だし、その一部だけにすると恣意的にな りがちだ。そのため残念ながらそれらは最初からカットした」という釈明には仰天し た。 筆者の経験では、将校は概して口が堅く、報道、外交関係者は現場に立ち会う例は稀 で、クロの状況を語ったり、日記やメモを提供するのは、応召の兵士が大多数である。 その兵士も郷土の戦友会組織に属し口止め指令が行きわたっている場合は、いいよど む傾向があった。 《中略》 阿羅は最初から兵士にアプローチするつもりはなかった、と宣言しているのだ。 その結果、阿羅の本は「虐殺というようなことはなかったと思います」、「見たこと はない。聞いたこともなかった」、「聞いたことがないので答えようもない」式の証 言ばかりがずらりと並ぶ奇観を呈している。ここまで徹底すると、クロを証言する人 は避け、シロを主張している人だけをまわって、「全体としてシロ」と結論づける戦 術がまる見えで、喜劇じみてくる。 −−−−−−−−引用終わり−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 私と違って実際にいろんな証言者から聞き取り調査をしているだけあって、阿羅が証 言者を選り好みしている様をはっきりと批判している。 http://pipponan.fc2web.com/shikosakugo_09/shi_2774.htm
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