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南京虐殺を否定する“歴史修正主義新聞”産経が「旧日本軍が婦女子も虐殺」「犠牲者は40万人」と報道していた(リテラ)
http://www.asyura2.com/16/senkyo215/msg/749.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 11 月 11 日 00:20:20: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

              産経新聞社HPより   


南京虐殺を否定する“歴史修正主義新聞”産経が「旧日本軍が婦女子も虐殺」「犠牲者は40万人」と報道していた
http://lite-ra.com/2016/11/post-2688.html
2016.11.10. あの産経が「南京虐殺40万人」と報道  リテラ


 徹底した裏付け取材により、大きな評価を得たドキュメンタリー『南京事件 兵士たちの遺言』(日本テレビ)に対し、「『虐殺』写真に裏付けなし 日テレ系番組『南京事件』検証」なる批判記事で襲いかかった産経新聞。

 本サイトでは先日、その産経記事の内容が、事実誤認に嘘、いいがかり、詭弁、デマゴギーだらけであることを詳しく解説したが、産経はそれまでも歴史修正主義を「歴史戦」と言い換えて、“南京事件は中国のプロパガンダだ”とがなりたててきた。

 たとえば、14年2月16日付「『大虐殺なかった』は正論だ」(論説委員の持ち回りコラム「日曜に書く」)では、作家・百田尚樹の「南京大虐殺はなかった」という発言が朝日新聞などで批判された件について〈ほとんど間違っていない〉と全面擁護し、NHKが01年に慰安婦問題などを題材に放送した『ETV特集 問われる戦時性暴力』を「偏向番組」と批判。こう主張している。

〈「南京大虐殺」は、旧日本軍が当時の中国の首都、南京を占領した1937(昭和12)年12月から38年初めにかけ、多くの中国軍捕虜や市民を虐殺した−と宣伝された事件だ。その人数について、中国当局は「30万人」と主張し、戦後の東京裁判では「20万人」とされた。いずれも荒唐無稽な数字である。〉

 また、16年5月にも連載シリーズ「歴史戦」のなかで、元朝日新聞記者・本多勝一氏への大々的批判を展開。1973年、朝日新聞紙上で本田氏が連載した「中国の旅」によって〈ゆがんだ歴史観〉が形成されたとして、「南京事件」そのものを打ち消しにかかっている。

 今回の日テレの番組への“言いがかり”もそうだが、こういう他社報道や中国側の主張など、一部をあげつらって日本の戦争犯罪全体を否定するやり口は歴史修正主義の典型的なスタイルだ。とりわけ“中国側が主張する「虐殺30万人説」はウソだから南京大虐殺はなかった”という論理展開は、産経新聞のもっとも得意とするところと言っていい。

 ところが、である。実は、他ならぬ産経新聞自身、南京攻略後の日本兵の行動を、かつてこのように報じていたのだ。

〈日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長行(揚子江)岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせて皆殺しにした。
 虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ。〉
〈こうした戦闘員・非戦闘員、老若男女を問わない大量虐殺は二カ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。〉

 当時の「サンケイ新聞」1976年6月23日付に掲載された、連載記事「蔣介石秘録」第497回のなかにある記述だ。小見出しには「南京大虐殺の悲劇」と記されており、また、日本兵による中国兵・民間人虐殺の“手段”も具体的に書かかれている。

〈虐殺の手段もますます残酷になった。下半身を地中にうめ、軍用犬に襲い掛かからせる“犬食の刑”、鉄カギで舌を貫いて全身をつるしあげる“鯉釣り”、鉄製のベッドに縛りつけ、ベッドごと炭火のなかに放り込む“ブタの丸焼き” ──など、考えられる限りの残忍な殺人方法が実行された。〉

 こうした産経の記述を素直に読めば、日本兵は中国兵だけでなく一般人も対象として極めて無残な虐殺を行い、その犠牲者は30万人どころの話ではなく「三十万人から四十万人」であると受け取れる。つまり産経は、自身が「荒唐無稽」と批判する南京事件の「虐殺30万人説」、いやそれよりも10万人も多い「40万人説」までをも、自社報道で大々的に展開していたのだ。これは、どういうことなのか。

「蔣介石秘録」は、産経新聞が74年から76年まで計666回にわたって長期連載したもので、のちに同名で書籍化、サンケイ新聞社(当時)から刊行されている。執筆したのは産経新聞論説副委員長もつとめた古屋奎二氏で、「社長を説得して台北に連載の準備室をつくり、『蒋介石が生きているうちに証言をとろう。歴史の証言を書くんだ』と、しゃかりきに資料や情報を集めていた。とにかく妥協しない人で、大漢和辞典を手元に置いて原文を読み込んでいた。大変な勉強家だった」(産経新聞2000年9月15日付)という。

 しかし、繰り返すが、現在、産経は「30万人説は中国のプロパガンダだ」「30万人説はウソだから南紀大虐殺はなかった」と、「蒋介石秘録」とはまったく逆の主張をしているのだ。これをどう説明するのか。

 実は、産経は2014年12月24日付記事のなかで、〈「『30万人虐殺』は中国側の一方的な宣伝であり現実にはあり得ない」との立場だ〉と明言しつつ、〈産経新聞も過去に犠牲者数を「30万〜40万人」と紹介したこと〉については〈これは中国国民党が保有する記録などに基づいて執筆された〉とサラっと流しただけで、その自社報道をしっかり「検証」したことは、これまで一度たりともないのだ。

 「南京事件」の被害者数については1万人から30万人まで諸説あるが、本サイトはその人数の多寡を問題にすることは歴史の矮小化だと考えている。しかし、他のメディアに対して「30万人説は中国のプロパガンダだ」と血祭りにあげながら、自社の報道についてほおかむり、というのはあまりにご都合主義が過ぎるのではないか。

 しかし、これこそが産経新聞のお家芸とも言える。産経はいわゆる朝日新聞慰安婦報道問題でも、まったく同じことをしでかしていた。

 産経新聞は、元朝日新聞記者の植村隆氏が1991年に書いた記事に対し、“「女子挺身隊」と「慰安婦」は別物なのにわざと混同して書いた”とする。そして、植村の記事がスクープとして報じられたため、慰安婦問題が日韓の懸案として燃え上がり、誤った認識を世界に発信したとしている。

 しかし、本サイトでも以前報じた通り、当時の新聞各紙では、産経を含む朝日以外も「女子挺身隊」と「慰安婦」は同じものだという前提で記事を書いていた。たとえば、産経新聞91年9月3日付には〈「挺身隊」の名のもとに、従軍慰安婦として狩りだされた〉と、ほとんど植村氏の記事と同じ表現が使われていた。また当時産経は、植村氏が聞き取りを行った金学順さんは「日本軍によって強制連行された」と明確に報じていた。

〈太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろ、金さんは日本軍の目を逃れるため、養父と義姉の3人で暮らしていた中国・北京で強制連行された。17歳の時だ。食堂で食事をしようとした3人に、長い刀を背負った日本人将校が近づいた。「お前たちは朝鮮人か。スパイだろう」。そう言って、まず養父を連行。金さんらを無理やり軍用トラックに押し込んで一晩中、車を走らせた〉(1993年8月31日付産経新聞大阪本社版)

 なお、植村氏の記事では、金学順さんは「騙されて慰安婦にされた」とされていて、「強制連行」や「軍」という言葉はひとつも出てこない。ようするに、「日本軍によって強制連行された」というフレーズは、朝日ではなく産経が広めたものだったのである。

 ところが、産経はこうした自社の記事をチェックすることなく、朝日新聞、とりわけ植村氏を“慰安婦捏造の戦犯”として血祭りにあげた。

 事実、昨年、植村氏に対し、産経新聞政治部編集委員・阿比留瑠比記者および原川貴郎記者がインタビューをした際には、植村氏からかつての産経記事を突きつけられ、「これは今日、初めて見ましたから訂正したかどうかはちょっと分かりません」(阿比留記者)、「私、初めて見ましたので」(原川記者)などと答えていた。つまり、自分たちが批判する問題の自社報道すら、きちんと確認していなかったことを露呈してしまったのだ。

 ようするに、産経新聞には自社報道を振り返り、「誤報」を反省したり、徹底的に検証したりする態度がまったくないようなのである。ちなみに今回、日テレの『南京事件 兵士たちの証言』に対する言いがかり記事を執筆したのも、植村氏に論破された原川記者であった。

 いずれにせよ、明らかなのは、産経新聞が「歴史戦」と称して展開する歴史問題の報道や「検証記事」は、事実をないがしろにした結論ありきの宣伝、それこそ“プロパガンダ”でしかないということだ。歴史修正主義者たちが、人数の問題や言葉遣いといった小さな問題にこだわるのは、結局、歴史的事実そのものを否定できないため、そうやって枝葉末節を大きく見せて、歴史的事実がないかのような宣伝をするためにすぎない。

 戦中に軍人として南京へ出向いたこともある三笠宮崇仁親王は、かつてこう述べていた。

「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」(読売新聞社「This is 読売」94年8月号)

 産経は、この崇仁親王の言葉をどう受け止めるのか。安倍政権の歴史修正主義と二人三脚で“独自の報道スタンス”をとっている産経新聞だが、そろそろ、自分たちの足元を見つめなおした方がいい。すくなくとも、人々のマスコミへの信頼を一番失わせているのは、朝日でも毎日でもNHKでもなく、こうしたプロパガンダ記事ばかり打ってジャーナリズムをかなぐりすてている産経新聞のほうだろう。

(編集部)


 

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コメント
 
1. 2016年11月11日 00:40:04 : Oew8aCqKMY : @SpEy3Kzx1M[298]
普通に考えて1970年代の産経とその後の産経では何かが変わったんだろうな。
その理由を知りたいものだが、それにしても、自分があれだけ特別視して扱ってきたテーマについての自社の30年前の過去記事も出版した本も知らなかったという今の産経記者って何者なんだよ?

2. 人間になりたい[185] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2016年11月11日 02:54:36 : Igew9LiSCV : jX5tMsGMxX4[9]

この国には、泥棒もいるし詐欺師もいる。だから産經新聞のような報道機関があっても驚かないが、そんなものを高額の費用を支払ってまで購読するバカがいることに驚く。昔、オウム真理教の麻原彰晃のキタネー垢の浮いた風呂の湯を高額で買って喜んでいたバカ信者がいたがそれに匹敵するバカぶりである。
 
 

3. 2016年11月11日 02:58:35 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[385]
すぐに鬼の首を取ったように「ブーメラン」を連呼する連中が、
一番それを喰らうとは。

4. 2016年11月11日 03:05:41 : gOFQcXsGdA : WO1EDzJMMAk[235]
犬に食わせるというのは最近北朝鮮で行われた処刑だ。
日本では行われていない。
其の国に生まれ育ち見聞きした内容が表出したものであって、中国人・韓国人の残虐性を物語るものでしかない。
語るに落ちるとはこのこと。
そしてまたこの事は、放送業界・マスコミに彼らの手先が深く食い込んでいる事の査証である。
黙っていれば良い物を、辻褄の合わないことを言いふらすから悪事が露見する。
最初に臭いと言った奴がオナラの犯人なのは幼児でも知っている。

5. 2016年11月11日 06:59:59 : F9uwab2vpM : sUT3eqZW4IE[46]
リテラのこの記事は貴重ですね。
過去に伝えたこととの矛盾を指摘するというのは、調べる労力が必要ですが、
反論できない事実を突きつけることになります。
サンケイだけでなく、マスコミのいいかげんさを浮かび上がらせるのは
この手法は極めて有効でしょう。

たしか、今ではキーワードを入力するだけで、過去記事を検索できるサービスがあるので以前ほど難しくないと思いますが。

↓読売新聞 。ただし個人では躊躇する費用が・・・
http://www.yomiuri.co.jp/database/customer/personal/

↓国会図書館。ただし一部の新聞社のみ。
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-700003.php


6. 2016年11月11日 16:49:01 : gFW7dka71U : YrM0Tpn31nI[216]

>>其の国に生まれ育ち見聞きした内容が表出したものであって、中国人・韓国人の残虐性を物語るものでしかない。
語るに落ちるとはこのこと。

4ヨ〜ゥ

アンタ江戸時代の刑罰に「のこ引きの刑」ってのが有ったの知ってる?

橋の渡り口側に罪人を首まで埋め、橋を渡る人は必ず罪人の首を竹製ノコギリで引くってもの。

しかも頚動脈付近は保護されていて「即死」を防ぐ様になっていた。

また「市中引き回し」って言葉を時代劇で良く聴くだろう?

これが罪人にとって恐怖の刑罰で、馬に後ろ向きで乗せられた罪人に町民がコブシ大の「石」を投付けるってもの。

そのコブシ大の「石」は役人が町民に配り必ず投げさせるって云う刑罰。

こんなに惨い刑罰を日本人はしてた「歴史」が有る。

北朝がどうだ中国がどうだって前に自分達の国を考えてみな!。

語るに落ちるのはア・ン・タだヨ〜ン♪


7. 2016年11月11日 17:46:10 : HjCHbiL9yc : r66eSYUSdgw[132]
以前は、産経新聞も産経新聞の記者もまともだった。経営が厳しくなるにつれて、嘘つきのメディアになったのではないか、古い企業経営者たちに阿って部数確保をするようになったのではないかと思う。


8. 2016年11月11日 23:53:20 : rtJqSMWCME : 4hM3xC4X@4E[1]
産経新聞の加藤達也氏も嘘つきってことなのか。
必要なのは加藤達也氏がどのような嘘つき(どう間違っている)かってことなんだが。

修正主義を批判する場合まずは、「ホロコーストおよび南京大虐殺の虐殺人数が事実がどうか」だけを明らかにすればよい。
その「事実」自体の道徳的価値判断、「事実」が持つ政治的影響の評価、
まして、「事実」を明らかにした個人であれ集団であれの政治的主張の評価などは、
「ホロコーストおよび南京大虐殺の虐殺人数が事実がどうか」ではない。
殺人事件を例にとれば、その殺人事件が本当に起こったのか(もしくは起こらなかったのか)、
いつどのようにして起こったのかだけを明らかにすればよいのであって、
その殺人事件を道徳的に断罪したり、
その殺人事件を過小評価・否定することは特定の政治集団を利することになると非難したり、
まして、その殺人事件を否定する者は殺人犯を政治的に擁護しようとしており、
殺人事件の被害者を冒涜しているなどと糾弾することは、
まったくもって「殺人事件が事実がどうか」を明らかにすることではない。
したがって、個人的だが、リテラの書いた上記の書き込みを見るかぎり、
政治的・道徳的価値判断を極力差し控えて、できるかぎり禁欲的な姿勢を保ちつつ、
冷静に「ホロコーストおよび南京大虐殺の虐殺人数が事実がどうか」
を明らかにしようとする範疇に入るとは考えにくいと判断せざるを得ない。
リテラは、「政治的・道徳的価値判断を極力差し控えて、」いるのだろうか?

アウシュヴィッツの犠牲者数
<900万人>:ドキュメンタリー映画『夜と霧』[10]
<800万人>:フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる[11]
<600万人>:Miklos Nyiszli (1951)の序文の筆者Tibère Kremer[12]
<500万から550万人>:クラクフ・アウシュヴィッツ裁判、『ルモンド』[13]
<400万人>:ニュルンベルク裁判が「法廷に顕著な事実」としたソ連側資料[14]
<300万>:David Susskind (1986)[15]ともっとも重要なカリフォルニアのユダヤ系週刊誌Heritage(1993)
<250万人>:アイヒマン裁判(1961)でのRudolf Vrba[16]
<150万人から350万人>:歴史家Yehuda Bauer (1982)[17]
<200万人>:歴史家Léon Poliakov (1951)[18]、歴史家Georges Wellers (1973)[19]、歴史家Lucy Davidowicz (1975)
<160万人>:歴史家Yehuda Bauer (1989)[20]
<150万人>:アウシュヴィッツの新しい記念碑[21]
<1471595人>:歴史家Georges Wellers (1983)[22]
<125万人>:歴史家Raul Hilberg(1961+1985)[23]
<110万人から150万人>:歴史家Yisrael Gutman、Franciszek Piper (1994)[24]
<100万人>:Jean-Claude Pressac (1989)、Dictionnaire des noms propres published by Hachette (1992)[25]
<80万人から90万人>:歴史家Gerald Reitlinger (1953)[26]
<77.5万人から80万人>:Jean-Claude Pressac(1993)[27]
<63万人から71万人>:Jean-Claude Pressac (1994)[28]
<51万人>:『シュピーゲル』編集長フリツォフ・マイヤー(2002)[29]

アウシュヴィッツは人数の見解があるんだが。
ただしこれらもユダヤ人の定義がないと意味がないのは同じだが。
リテラは南京で何人殺されたのか明らかにすべきであろう。
つまり30万人の証拠とあと600万人確定に使われたユダヤ人の定義もだか。
ユダヤ人の定義がないとユダヤ人は数えられない。
リテラはソ連の4分の1ユダヤ人だけでも数える方法を明らかにすべき。


9. 2016年11月12日 10:36:59 : HrFTRFNcGS : QtQYPlSKr2A[207]
産経のことだ
産経の歴史もなかったことにするのだろうよ
お得意だ!

10. 2016年11月13日 19:46:37 : aXYm3OCiVk : 4LIRWnFuOrM[86]
「南京事件を調査せよ」 清水 潔 (NNNドキュメント)P182

当時の人口十数万人というのは、南京城内の「安全区」の人口であり、南京周辺の人口としては、100万人前後といわれていること、NYタイムズやワシントン・ポストなどでは、「南京事件」が報じられていることを指摘した。

 5000人を機関銃で殺す。これはTVでもやっていました。この時、思ったのは、中学

の時、一学年10クラスの3学年が体育館の朝礼時、先生、職員を入れても1000人、こ

れの5倍の人が簡単に殺された現実、そして、それをいま否定する人達がいることが

、例えば、週刊ポストの変遷とともに変わる逆説の日本史の井沢元彦、山口県出身

の歴史学者、秦郁彦、この人達は、人口十数万人しかいないので、20万人虐殺はない

と書いていますが、井沢元彦は何人と書いているかは分からないが、秦郁彦は4万人

と書いている。日記という証拠があるのに。


11. 2016年11月13日 20:03:43 : aXYm3OCiVk : 4LIRWnFuOrM[87]
産経新聞も、機関員が作ったのでは? 鹿内信隆、水野成夫

電通も、機関員(満鉄調査部or里見機関)

つまり、戦犯だったのに釈放された人達!日本を売ったと言われる人達?


12. 2016年11月13日 22:27:00 : cWEf4VxMwg : nnQISQ3jdL0[1]
>>10
>日記という証拠があるのに。
その日記を批判的に分析をした論的な証拠があるのか。
アンネの日記は肝心のガス室の描写がない。
さらにアンネはアウシュヴィッツからチフスなのにもかかわらずベルゲン・ベルゼンに移っているんだが。
そしてルドルフ・ヴルバのレポートも一番肝心なガス室の図面がでたらめなので信用性がない。
日記が自動的に証拠になるとは限らない傍証だろう。

アウシュヴィッツの犠牲者数
<900万人>:ドキュメンタリー映画『夜と霧』[10]
<800万人>:フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる[11]
<600万人>:Miklos Nyiszli (1951)の序文の筆者Tibère Kremer[12]
<500万から550万人>:クラクフ・アウシュヴィッツ裁判、『ルモンド』[13]
<400万人>:ニュルンベルク裁判が「法廷に顕著な事実」としたソ連側資料[14]
<300万>:David Susskind (1986)[15]ともっとも重要なカリフォルニアのユダヤ系週刊誌Heritage(1993)
<250万人>:アイヒマン裁判(1961)でのRudolf Vrba[16]
<150万人から350万人>:歴史家Yehuda Bauer (1982)[17]
<200万人>:歴史家Léon Poliakov (1951)[18]、歴史家Georges Wellers (1973)[19]、歴史家Lucy Davidowicz (1975)
<160万人>:歴史家Yehuda Bauer (1989)[20]
<150万人>:アウシュヴィッツの新しい記念碑[21]
<1471595人>:歴史家Georges Wellers (1983)[22]
<125万人>:歴史家Raul Hilberg(1961+1985)[23]
<110万人から150万人>:歴史家Yisrael Gutman、Franciszek Piper (1994)[24]
<100万人>:Jean-Claude Pressac (1989)、Dictionnaire des noms propres published by Hachette (1992)[25]
<80万人から90万人>:歴史家Gerald Reitlinger (1953)[26]
<77.5万人から80万人>:Jean-Claude Pressac(1993)[27]
<63万人から71万人>:Jean-Claude Pressac (1994)[28]
<51万人>:『シュピーゲル』編集長フリツォフ・マイヤー(2002)[29]

アウシュヴィッツは人数の見解があるんだが。
ただしこれらもユダヤ人の定義がないと意味がないのは同じだが。
リテラは南京で何人殺されたのか明らかにすべきであろう。
つまり30万人の証拠とあと600万人確定に使われたユダヤ人の定義もだか。
ユダヤ人の定義がないとユダヤ人は数えられない。
リテラはソ連の4分の1ユダヤ人だけでも数える方法を明らかにすべき。


13. 2016年11月14日 20:23:22 : aXYm3OCiVk : 4LIRWnFuOrM[88]
>12

「南京事件を調査せよ」 清水 潔 を、読んでください。買うなり借りるなり!

P147〜 福島第65第三機関銃中隊所属の日記 他

NNNドキュメントは、TVで見なかったのですか?録画しなかったのですか?

もっと自分で調べてください。


14. 2016年11月14日 22:56:28 : cWEf4VxMwg : nnQISQ3jdL0[3]
>>13
その日記なり本なりを批判的に分析をした論理的な証拠があるのか。
アンネの日記は肝心のガス室の描写がない。
さらにアンネはアウシュヴィッツからチフスなのにもかかわらずベルゲン・ベルゼンに移っているんだが。
そしてルドルフ・ヴルバのレポートも一番肝心なガス室の図面がでたらめなので信用性がない。
さらにルドルフ・ヴルバの証言も信用性に疑問符が付く。
日記なり本なりが自動的に証拠になるとは限らない傍証だろう。

15. 2016年11月18日 20:39:50 : aXYm3OCiVk : 4LIRWnFuOrM[89]
>14 そんなあなたに、この映画

「ジョン・ラーベ南京のシンドラー」2009年作 

ジョン・ラーベ 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)南京支部副支部長。南京安全区国際委員会委員長。

この映画は、南京事件にあたって現地民の保護に尽力したとされるジョン・ラーベの日記を元に映画化したもの。ただし、原作からは大幅に脚色されている。とのこと。

2009年のドイツ映画賞で7部門(作品・監督・主演男優・助演男優・撮影・美術・衣裳)中4部門と最多の賞を受賞した。

これは、安全区内のあなたの得意なドイツ人の物語です。

香川や柄本明、ARATAなど日本人俳優も多く出演している。


16. 2017年1月28日 22:59:17 : rPTPjFG7vY : 9rvucOWrlVc[1]
>15
わーすごいねー(棒)

http://www.history.gr.jp/nanking/rabe.html

じゃあ、これはどうかなー?


17. 2017年3月27日 16:24:49 : 6985IJmNUM : LW5X2kEs9R8[3]
嫌韓ちゃんねる

【動画】メディアが報道できない真実の歴史!南京で感謝された日本人 これが日本兵の本当の姿だ!

歴史・検証|字幕 YouTube : http://www.youtube.com/watch?v=7y6AXKfe1Pw


スレッド作成者:BB 17/03/25(土) 08:38:24
http://ken-ch.vqpv.biz/no/15436.html(記事全文転載)


TBSのバラエティ番組『からくりテレビ』の名物コーナーで、私が司会を務めていた「ご長寿早押しクイズ」。毎週数名のご長寿の方にご登場いただき、クイズに答えていただく人気コーナーでしたが、今から十一、二年前、南京戦に参加されていたという会津若松の方にお会いしたことがありました。

 撮影の合間に南京の話になり、私が「あそこは大変なことがあったから、もう南京には行けませんね」と声をかけると、その方が「いや、私は死ぬまでにもう一度南京へ行きたいんであります」とおっしゃった。私は驚いて、「どうしてですか」と聞いたところ、こんな話をして下さいました。

 「衛生兵として南京で日本兵を助けたが、怪我をした中国の敗残兵も助けた。軍のトラックで送ってやったら中国人の家族が非常に感謝して、家宝の掛け軸をくれたんです。

 さらに『戦争が終わったら、ぜひもう一度南京へ来てほしい。歓待したい。一日千秋(いちじつせんしゅう)の思いで待っている』とまで言われたんです。だから、私は死ぬまでにもう一度南京に行きたい」

 このことでハッと思い出したのは、私自身が幼いころ、南京戦直後に中国にわたり、天津で過ごした日々のことでした。それは、「大虐殺」があったなどとは到底考えられないほど、大変のどかな日々だったのです。

 この方にはその後、もう一度お会いする機会があったので、「南京大虐殺」の証拠写真とされている、松葉杖をついた片足の中国兵と、笑顔の日本兵が並んで移っている写真を持って行ったんです。キャプションには、「残虐な日本兵によって、逃げられないように片足を斬り落とされた中国兵」と書かれていました。

 ところが、この写真を見せたところ、南京戦に参加されたその方がとても喜んだんです。

 「この兵隊のことは良く覚えていますよ。アルマイトがなかったので、ヤカンをつぶして義足を作ってやったんです。いやー、よかった。この写真、いただいてもいいですか」

 他にも、実際に参戦された方々からさまざまなエピソードやをお話しいただきました。

  「たしかに、南京戦で相手の兵士を殺した。だが、それはあくまでも中国の兵士であって、日本兵も戦死しています」

 「トーチカから撃ってくる兵士を仕留めて近づくと、機関銃手はまだあどけない顔の若者で、鎖でつながれていた。武士の情で彼らの墓を作ってやりました」

 「南京戦後、中国人から『兵隊さんありがとう。あなたの靴を磨かせてください』と言われて、泥だらけだからと断ったのだが、どうしてもといわれたので磨いてもらった。気持ちが嬉しくて、飴玉をあげました」

 そして、少しずつ勉強する時間が取れるようになり、勉強しはじめてみると、東中野修道氏や北村稔氏、また『WiLL』に連載されている西尾幹二氏ら「現代史研究会」の研究成果が自分の体験と重なって、歴史を学べば学ぶほど、また中国での日々を思い出せば思い出すほど、「大虐殺なんてあり得ない」という確信を得るにいたったのです。

〈天津での日々〉

 私は、一九三八年(昭和十三)年二月十日に京都で生まれました。直後に、父が「大陸で一旗挙げたい」といって、それまで勤めていた有名な生命保険会社を辞めて単身、大陸へわたったのです。

 残された母は、私が一歳になるのを待って、一九三九年四月頃までには大陸へわたりました。南京戦が行われたのが一九三七年十二月のことですから、その一年半後には、もう私の母は女一人、子供を抱いて中国にわたっていたことになります。

 そして、天津の日本人租界での暮らしが始まりました。元々フランス人租界だったところを日本人租界にしたそのあたりは非常にのどかで、その様子が伺える当時の写真も数枚残っています。

 引き揚げの時に持ち出しを禁止されたので、写真はかぎられたものしか残っていませんが、一枚目(上)は天津市淡路街という日本人租界の民団住宅前で撮影したものです。私と二人の妹と、近所の中国人の子が一緒に写っています。中国人の子の母親が非常に良くしてくれて、妹たちにおそろいの中国服を作ってくれました。

 もう一枚(下)は天津市須磨街の自宅付近で撮ったもの。近所の中国人の楊車(輪タク)夫が楊車に私たちを乗せて遊ばせてくれている光景です。背景も写っていますが、近所の中国人もよく日本人租界へやってきて、「日本人街の水道はきちんと整備されているから」などといって、水道の水などをもらって帰っていました。

 「天明公社」という貿易と軍需関係の合弁会社を設立した父の事業もうまくいっていて、わが家は結構裕福な暮らしをしていました。

 父が行き倒れになった中国人夫婦を助けて、自宅のガレージの一角に部屋を作って住まわせていたこともありました。その夫婦は恩義に感じてくれたのか、三人の子供にそれぞれ「小一」「小二」「小三」と日本風の名前を付けていて、私と同じ歳だった「小二」とはよく遊んだ思い出があります。

 当時の天津は本当に安全で、私は子供の足で歩いて二十分ほどの幼稚園まで、毎日一人で通っていたほどでした。道すがらの中国人が私に対して何かを言ってきたり、身の危険を感じるうようなこともありませんでした。虐殺などが本当に起こっていたとすれば、日本人に対して何らかの罵声が浴びせられたり、少なくとも親から「一人で出歩いては危ない」などと言われたはずですが、そのようなことはありませんでした。

 それどころか、中国人に助けてもらったこともあります。家の近くを運河が流れていたのですが、土手でかけっこをして遊んでいて、川に落ちてしまった。溺れていたところを中国人の船頭さんが助けてくれて、自宅まで連れて帰ってくれたのです。川の水を飲んで赤痢(せきり)にはなってしまいましたが。

 たまに町で日本兵を見かけることもありましたが、中国人の友達も「カッコイイね。僕も将来はあんな兵隊さんになりたい」ということを言っていたくらいで、規律正しい日本兵の姿には、中国人も日本人も、ある種の敬意と畏(おそ)れを持っていたようです。

 天津には七年間住んでおり、子供ながらにシンガポール陥落など戦況についてよく話していましたが、「南京大虐殺」については一度も聞いたことがありませんでした。

〈中国人女性にモテた父〉
 
 父の会社の本社や事務所があった北京にも時々行きました。王府井(ワンフーチン)界隈の大通りに面したところに事務所がありましたが、当時の北京は賑やかで華やかで、やはり穏やかでした。太ももまでスリットの入ったチャイナ服の中国人の女性が自転車で走り去るのを見て、子供心に「すごいお姉さんだなあ」と思っていた記憶があります。

 父は、とにかく北京では中国人女性にモテてモテて、母はとても苦労していたようです。父は俳優の上原謙のような男前でしたし、明治の男ですから仕方がないとはいえ、恋愛結婚で一緒になって、大陸まで父を追いかけた母にとってはたまらなかったでしょう。

 ただ、もし本当に南京で日本人が民間人の大虐殺を行い、女性を強姦していたとしたら、中国人女性が日本人男性である父にそれほどまでにほれ込んだりはしなかったでしょうし、中国人同士の間でも「日本人なんかに熱を上げて」と非難されたはずです。しかし、そのようなことは全くなかったばかりか、父は中国人のためにも一所懸命働きましたので、老若男女問わず、中国人からは非常に尊敬されていたのです。

〈南京ののどかな光景〉

 胡同(フートン)にある本社の隣には、北京の警察署がありました。父と署長は仲が良く、どこかへ一緒に列車で出かけたこともありました。署長さんはお金持ちだったからか、一号さんと二号さんを隣りに乗せていて、どちらもとても素敵な女性でしたが、口紅ばかり塗っていて子供の私には目もくれず、冷たくあしらっていました。「可愛がってくれないんだなあ」と思ったのを覚えています。

 しかし、そう感じたということは、逆に言えばそれ以外の中国人の大人たちは、日本人である子供の私を非常に可愛がってくれていたということでしょう。

 三、四歳の頃には南京へも行っているんです。まだ記憶はおぼつかない頃ですが、親父に後から聞いた話は覚えています。

 「お前を南京に連れて行った時、泣かずに頑張った。南京のある中国人が、そんなお前の態度を見てとても気に入ってほめてくれたんだ。しかも、『耳の形がいい。こういう人物と付き合うと、自分の運気も上がるから、是非抱かせてくれ』といって抱き上げてくれたんだよ」

 また、父は南京で聞いた話をもとに、よくこんなことを言っていました。

 「聞いたところによると、日本の兵隊さんが食糧を分けてくれたので、南京の人々は助かったんだそうだ。お前もいい兵隊さんになるためには、強いだけではダメで、思いやりをもたなければいけないよ」

 この話は非常に印象的だったのですが、後のこの話に通じる事実があったことを知りました。

 あのジョン・ラーベも日本軍宛に「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っており、報告書でも、日本軍からの米と小麦の配給があったことに触れています。

 もし本当に大虐殺が起こっていたとしたら、いくら書簡の挨拶文とはいっても「感謝」など示すはずがありません。

〈命からがら引き揚げ〉

 歴史的根拠に関して言えば、二〇〇七年十二月に出版された『WiLL』増刊号「『南京大虐殺』に終止符!」で、映画『南京』が紹介されています。私もこの映画を見ましたが、あの映画ののどかな光景は、まさに私が天津で暮らしていた頃の記憶と重なるのです。とてもじゃないが、「虐殺があった」とは思えない光景が記録されています。

 増刊号でチャンネル桜の水島総氏も指摘されているとおり、この映画にはワイドショットが多用されているのですが、報道記者としての経験から言っても、ワイドショットでは不都合なものがあった場合、それが映りこんでしまうので、ドキュメンタリーを撮る場合には普通、あのような撮影はしません。「不都合なものなどない」から、安心してワイドショットで撮影していたのだと分かります。

 優しく、子供好きの日本兵、そして日本人と中国人が楽しそうに交流している様子。もし本当に虐殺があったなら、中国の人々も日本兵も、あのような自然な笑顔で交流することなどできなかったはずです。

 終戦を迎えると、さすがに中国人は現実的ですから、コロリと態度が変わりました。わが家に住んでいた中国人家族も、「引き揚げるなら財産を全て置いて行け」などと言いだしたほどです。

 こちらはせめてと思い、財産と引きかえに「持って帰ってはいけないといわれているので、写真を後から日本へ送ってほしい」と撮りためた写真を託したのですが結局、届きませんでした。送ってくれなかったのか、それとも没収されてしまったのかは分かりません。

 それどころか、父は貿易と軍需の会社をやっていた関係でスパイ容疑をかけられて逮捕、拘束されてしまいました。一番下の妹は三カ月くらいで出発前に死んでしまいましたし、父が死刑になるかどうかも分からない状況のなか、私と母はとにかく引き揚げなければということで、私は両手に妹を連れて、母は父の荷物まで一緒に背負って塘沽(タンクー)の町まで二週間かけて歩きました。銃撃を受けながら、ろくなものも食べられない状況での過酷な「行軍」だったのです。

 幸いなことに、父は共同経営者だった中国人が「鈴木(リンムー)先生は日中のためによくやってくれた。鈴木先生をこのまま殺したら、子々孫々から恨まれる」と一所懸命動いてくれたので刑を免れ、港で合流することができ、何とか一家で日本へ引き揚げてきたのです。

〈テレビ局の「自主規制」〉

 命からがら日本へ帰った私は、その後大学へ進学し、TBSに入社しました。仕事が忙しく、その後中国を訪れることもなく、日々の生活に追われて天津での日々を振り返る暇もなかったほどでした。

 社会部で仕事をしているなかで、ふと気がついて周りを見渡したときには、「虐殺はなかったんじゃないか」ということすら言えない雰囲気が出来上がっていました。それがテレビ局の「自主規制」なのか、自虐史観を刷り込まれているからなのか、はたまた中国の謀略にかかってしまったからなのかは分かりません。

 局にいる間はこのことで揉めたこともありましたが、TBSを卒業してからは「もう何を言ってもいいだろう」ということで、講演などでも自分の経験からのお話をさせていただいてきました。それでも、雑誌やテレビが「私が経験から南京大虐殺などなかったと思う理由」について取り上げてくれたことは一度もありませんでした。

 以前、日本テレビ系列の『オジサンズ11』(〇七年十月〜〇八年九月まで放映)という番組に出演していた時に、制作プロダクションから「何か番組で取り上げるテーマはありませんか」と聞かれたので、映画『南京』を取り上げてはどうか、と提案したことがありました。

 この映画は他の局で放映されたことはないし、これまでの「南京」のイメージが覆(くつがえ)る。南京の真実が伝わるだろうと思ったのです。

 プロダクションのスタッフが話に乗ってくれて、私は本当に嬉しかったんです。「これで真実が全国に広がるきっかけになる」と思っていたのですが、会議で上の人間から何か言われたのでしょう、有無を言わさず却下されてしまいました。その後はスタッフが私を見る目が変わり、目が合っても顔を背けるようになってしまった。非常に悲しかったですね。

 報道に携(たずさ)わる以上、「真実」に近づき、「真実」を伝えることが使命だと分かっているはずです。にもかかわらず、「検証」すらせず、中国のプロパガンダ、「嘘」に加担し続けるというのは、報道人としての風上にも置けません。

 すでに中国の手が回っているのかもしれませんが、「真実」を伝えることが報道に携わるものとしての、いや人間としての務めではないでしょうか。

 「我々の同胞が一つになって闘った数々の光輝ある歴史の中でも南京入場は燦然(さんぜん)たる一頁として世界の歴史に残るだらう。その日の記録としてこの映画を我々の子孫に贈る」

 我々は、どんなに時間をかけても「南京大虐殺は真実ではない」と伝えていかなければならない。それが「我々の子孫」……つまり日本人の未来のためであり、中国人のためでもあるのです。
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1115.html


動画掲示板 No15436


コメントから抜粋

1

名無し 17/03/25(土) 10:08:13 ID_09c2a79208_p

英語版なども作ったらいいと思う。
北京語でも。


2

名無し@ 17/03/25(土) 10:08:32 ID_897564c5e1_p

嘘ねつ造の歴史を作り上げ日本をおとしめ続ける、恩を仇で返す反日テロ国家・シナ共産党を許すな!
シナ共産党一党独裁テロ国家は、世界平和・地球環境・すべてを破壊する「人類の敵」です。


3

名無し@ 17/03/25(土) 10:38:14 ID_ccb4695a15_p

日本を正義にしちゃったら、反日煽って日本を貶める世論が、出来ない。全て大東亜戦争でアジア解放したせいで奴隷貿易出来なくなった、ユダ金が日本に恨みをぶつけられなくなるんだよ。だから中国責めてもしかたない。操られているだけだから。


5

名無し@ 17/03/25(土) 10:49:00 ID_8975228380_p

親父の友人で90近いおじいさんが、当時のまさにその時期に南京に長いこと行っていた。
普段はタブー視していてこの手の話を持ちかけたことは無かった自分だが、
ここぞとばかりに南京事件の有無を聞いてみたら、親父いわくあっさりと、「そんなものは無かった」と笑っていた。
そのおじいさんは、自分が国会にでも言って証言してやりたいわ、と言ってたそうだ。


6

名無し@ 17/03/25(土) 11:10:12 ID_67acaf1841_p

自分は85歳。子供の時、南京陥落日本軍
勝利のお祝い気分で日本各地では提灯行列があり、
日支事変が勝ち戦であるのを喜んだ記憶がある。
新聞とか雑誌とかで日本軍が南京城内に
整然と並んで入場する写真をみて、かっこいいなあと思った。
それから70年以上もたった今日、南京大虐殺とかいう
話で日本軍の悪逆非道ぶりを世界に宣伝するシナ共産党
には不信感しかない。
何故あの当時南京で大虐殺する必要があったか。
シナ軍は戦いもまともにしないで、尻に帆をかけわれ
真っ先に逃げていき、日本軍が南京入場時には
殆どシナ兵はいなかった。一般人も抵抗せず、
むしろ日本軍歓迎の写真すらあった。(日本軍はシナ軍のように
野蛮で略奪などしないことが知られていたからである)
無抵抗のものを殺しまくるという習慣は昔から日本人にはない。
そんな状況で何十万も殺す必要は絶対になかった。


7

名無し@ 17/03/25(土) 11:12:52 ID_62eb323cc7_p

30万人も虐殺したのならありえない事だ


11

名無し 17/03/25(土) 19:15:23 ID_08e4887132_p

村上春樹の新著では、南京大虐殺で40万人の中国人が抹殺されたと記述。
原爆投下でも40万人も圧殺は無理なのに甚だ矛盾。
●脳味噌が足りないんだね、ハルキは。



18. 2017年10月27日 15:26:34 : FnhPPDb9Ts : gcn@iX_plYs[1]

真実


マスゴミが報じない隠された真実



朝日新聞と本多勝一(崔泰英)が70年代になってから、突如として「南京大虐殺」キャンペーンをやり始めた
http://webnhrpelibrary.blogspot.jp/2012/03/7020-7020-1-1970-will20068p.html

朝日新聞と本多勝一が70年代になってから、突如として「南京大虐殺」キャンペーンをやり始めたのは、戦後20年以上経って事実を知る人間が減ったから。

(以下略)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

テレビじゃ流さないニュース

【南京大虐殺】本多勝一は在日です!日本の国難は全部朝日新聞のデマ


公開日: 2014/09/23 : 最終更新日:2014/09/23
http://brief-comment.com/blog/media/29900/


(略)


「私の友達が調べたんですが、本多勝一は在日です」
https://www.youtube.com/watch?v=axqdVqS1SLw


8分14秒から

渡部:●朝日新聞は文化大革命を人類の壮大な実験なんて評していました。人殺しが実験なら苦労しません。
不思議なことに朝日新聞が反省している様子がないんです。
●僕はね朝日新聞の中に反日勢力が入っているんじゃないかと思います。日本を苦しめた国難みたいに、従軍慰安婦問題と南京大虐殺があった。
●両方ともいんちきなことは日本人は良く知ってるんですよ。しかし世界中では南京大虐殺があったと思ってるし、従軍慰安婦も日本人がやっていると思っている。

●しかし、発火点は全部朝日新聞なんですよ。南京虐殺のことを盛り上げた、爆発させた本多勝一は、私の友人の調査によれば、在日です。
それがうまく当時の「自分の先祖が中国である」ということを言ってる朝日新聞の広岡知男社長がやらせたという感じです。

●そして従軍慰安婦問題も朝日新聞の記者が韓国人と結婚して、その女性のお母さんが反日家で、その反日家が言っていることを持っていって
デスクがよく調べもせずに記事にした。

●だから、日本の国難ということは、全部朝日新聞のデマから出てるんですよ。しかもデマの発祥地は反省しない。



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