天皇一族は何故 護憲派なのか 1946年11月3日に公布、47年5月3日に施行された日本国憲法の柱は天皇制の継続、民主化、交戦権の放棄だと言えるだろう。
敗戦後も維持するつもりだった支配システムとは天皇制官僚国家。官僚にとって天皇制の継続は大きな問題だっただろう。 しかし、日本の外では、当然のことながら、天皇に対して違った見方をしていた。 日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から 「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」 と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』筑摩書房、1959年)が、侵略されたアジアの人びとだけでなく、イギリス、オーストラリア、ソ連なども天皇に批判的だった。 日本占領の中枢だったGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)は事実上、アメリカ軍だったが、時間を経るに従って天皇に批判的な声が高まることは必然。 第2次世界大戦の前から日本の支配体制と強く結びついていたアメリカの支配層、つまり巨大資本としても天皇制官僚国家を維持したかったはずで、民主主義と平和主義の衣をまとった天皇制を定めた憲法を速やかに作り上げることになった。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201607050000/ 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。 当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。 そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。 1937年12月に日本軍は南京を攻略している。 中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。 そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988) 日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。
つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。 占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年) ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。 http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/ 戦後日本の「安保」はこうして作られた 〜アメリカ・昭和天皇・吉田茂 「戦後レジームの正体」 「日米安保条約は、憲法と同じように、アメリカ側が強要ともいえるかたちで日本に求めた」
「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」 占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけた。 憲法は、GHQがいわば密室作業でつくり上げたのだが、日米安保条約が、アメリカの強要によるとはどういうことなのか。あらためて日米安保条約が結ばれる経緯をたどってみることにする。
■踏みにじられた正論
1950年、朝鮮戦争が勃発する直前に、国務省の顧問だったダレスが日本にやって来た。東西冷戦が激しくなり、アメリカは日本を西側陣営に取り込むために、講和条約と日米安保条約の取りまとめを急ぎ、その交渉のために訪日したのである。
ダレスは、当時首相だった吉田茂に「再軍備をせよ」と強く要求した。だが吉田はこの要求を頑として断った。
吉田茂〔photo〕gettyimages
「『経済もいまだ回復していないのに、再軍備をするのはおろかなことだ』というのが、吉田の主張であった。それに、日本が再軍備をすればアジア近隣諸国が日本軍国主義の復活を恐れるだろうし、だいたい、日本は憲法で軍備を持たないことになっているから、持てるはずがないと彼は付け加えた。そして、吉田は彼の主張を支える手を打っていた。彼はマッカーサーに対し、日本の再軍備は無理だという立場を前もって説明しておいた」
当時京都大学助教授だった高坂正堯は『宰相吉田茂』(中央公論社)の中で、こう書いている。
ダレスと吉田は、翌1951年1月末にも「再軍備」の話し合いを行った。
「ダレスは前年と同じ議論をくり返し、吉田もまた同じように反駁した」(前掲書)ということだ。つまり、アメリカ側が執拗に再軍備を要求するのを、吉田は懸命に拒んだということになるのだが、豊下楢彦(元関西学院大学教授)は、著書『安保条約の成立』(岩波新書)の中で、この構図を否定している。
ジョン・フォスター・ダレス。日米安保の"生みの親"〔photo〕gettyimages
ダレスは、吉田と会う前のスタッフ会議で、「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか? これが根本的な問題である」と述べているというのである。つまり、日本の再軍備への約束を獲得することが最も重要な課題ではなかったというのである。
もっとも、吉田は、独立後もアメリカが占領時代と同じように日本に軍事基地を持つことに反対だったようだ。
1950年7月29日に、参議院で社会党の金子洋文の質問に対して、吉田は「私は軍事基地は貸したくないと考えております」「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」と明言し、連合国の側も日本に軍事基地を「要求する気もなければ、成るべく日本を戦争に介入せしめたくないというのが、日本に平和憲法を据えるがいいと希望した連合国の希望だろうと思います」と答弁しているのである。
だが、被占領国である日本が、占領国のアメリカに対する「バーゲニング(交渉)」能力を持てるはずがなく、吉田首相の筋の通った「正論」は、いわば無残に踏みにじられてしまい、ダレスが述べた「我々(※筆者注 アメリカ)が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を獲得してしまうのである。
■日本を無期限に縛る不平等条約
1951年9月8日のサンフランシスコ講和会議で日本が独立してまもなく刊行された「フォーリン・アフェアーズ」誌(1952年1月号)で、ダレスは講和会議の日の午後に調印された日米安保条約について、「アメリカは日本とその周辺に陸海空軍を維持し、あるいは日本の安全と独立を保障する、いかなる条約上の義務も負っていない」と明言しているのだ。
そこで、豊下楢彦の前掲書を引用して、日米安保条約の核心を点検しなおしたい。
「まず、安保条約の第一条では、米軍の日本駐留は義務ではなく米側の『権利』と規定されている。したがって米側は、みずからの判断でいつでも『権利』放棄をして米軍を撤退させることができるのである。
さらにこの米軍は、『日本国の安全に寄与するために使用することができる』のであって、ダレスのいうように安全を保障する義務を負ってはいない。しかし、他方において同じ米軍は、日本の『内乱』に介入し『鎮圧』することができるのである。
より重要な問題は、これら在日米軍の“任務”を規定した条文の最初に、『極東条項』がおかれていることである。しかもそこでは、『極東における国際の平和と安全の維持に寄与』するためと述べられているだけで、米軍の“行動基準”はなんら示されていない。極東とはどの地域を意味するのか明示されていないし、国連との関係にもまったくふれられていない。
要するにこの規定は、米側が『極東』とみなす広大な地域における、日本を拠点とした米軍の『一方的行動』を“保障”したものにほかならないのである」
「第三条では、米軍の配備を規律する『条件』が行政協定で決定されることが謳われている。五二年二月に締結された行政協定では、基地を設置する地域を特定する規定(米比〔※筆者注 アメリカ・フィリピン〕基地協定にさえ明記されている)が欠落した『全土基地化』の権利が米側に保障されている。
さらに、基地外で公務中ではない米軍人の犯した犯罪についても、フィリピンにさえ与えられている裁判権が日本には付与されていない。要するに、米軍には『治外法権』が保障されているのである」
さらに第四条では有効期限も定めず、日本を「無期限」に縛る、占領下と変わらないひどい不平等条約である。
■すべては天皇を守るため
「バーゲニング」能力が全く持てない吉田首相の精いっぱいの抵抗は、講和会議に出席しないこと、「忌避」することであった。吉田は講和会議には「外交界の長老であり、前総理・衆議院議長であった幣原喜重郎」(吉田の発言)に全権を委任するという決意をダレスに示していた。ところが1951年3月10日に幣原が80歳で他界した。
そして4月に訪日したダレスとの会談では、吉田は、佐藤尚武参議院議長に全権を委任すると主張した。首相の自分は日本を離れられないというのが理由であった。
だが、吉田は講和会議を忌避しているのではなく、同じ日に調印することになっている不平等きわまる日米安保条約を忌避するつもりだったのである。
7月7日には会議の開催地がサンフランシスコと決まったが、吉田の「忌避」の姿勢は変わらなかった。
だが、ダレスを含めて米国側は、吉田首相以外の全権は全く想定していなかった。そして吉田首相の「日米安保条約」の「忌避」を認めなかった。結局、吉田首相は「忌避」を翻すのである。どういういきさつがあったのか。
豊下楢彦は、前掲書で「推測」を交えて、それまで誰も示していなかった大胆なストーリーを展開している。
「それでは、かたくなに『異常』なまでに固辞をつづけた吉田がついに全権をひきうける決意を固めた契機はなんであったろうか。それは、天皇への『拝謁』であった。(中略)一九日(※筆者注 1951年7月)の朝に天皇に『拝謁した後に』、吉田は日本の全権団を率いることに『同意』した」というのである。
そして豊下は次のように書いている。
「推測の域を出るものではないが、ダレスは吉田への圧力として“最後の切り札”を切ったのではなかろうか。ダレスは『然るべきチャネル』を通して、吉田への『御叱り』と『御下命』を天皇に要請したのではなかろうか」
徹底的に「固辞」する吉田首相に「全権」を引き受けさせるために、ダレスは昭和天皇を使ったというのである。
占領体制の延長のような安保条約を吉田首相が認めず、全権を「固辞」したのは、それこそ精いっぱいの正論であった。それを、なぜ昭和天皇は「叱り」、吉田首相を翻意させたのだろうか。昭和天皇は、占領体制の延長のような安保条約をどのように捉えていたのか。
豊下は、次のように説明している。
「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった(中略)昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』岩波書店)
占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけたのだというのである。
しかし、これは豊下が勝手に決めつけているのではなく、安保条約が調印されて10日を経た1951年9月18日に、マッカーサーに代わったリッジウェイ司令官との会談で、昭和天皇は講和条約を、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」だと高く評価して、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」「日米安全保障条約が成立し貴司令官の如き名将を得たるは我国の誠に幸とするところである」と、安保条約の成立を絶賛している。
繰り返し記すが、昭和天皇にとっては、天皇制を内外の共産主義から守ることが第一義で、そのためには米軍駐留の確保が絶対条件だったわけだ。
こうして、占領体制の継続ともいえる日米安保条約は、交渉の最高責任者である吉田首相が固辞するのを、ダレスと天皇の圧力によって翻意させ、締結にいたったのである。 http://www.asyura2.com/16/senkyo203/msg/767.html
21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。
@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。 A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。 ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。 http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html
|