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1972年に衆院議員に初当選した山崎拓氏。「同期」の2人を「小泉は織田信長、加藤は豊臣秀吉」と評した後、自身については「私は軍師官兵衛かなと思います」 (撮影/写真部・長谷川唯)
小泉純一郎が盟友にみせた打算と友情〈AERA〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160912-00000080-sasahi-pol
AERA 2016年9月19日号
山崎拓氏が著書『YKK秘録』(講談社)を出版した。YKKトリオが、永田町で派閥抗争を仕掛けた1990年代から約15年間の様子を描いている。
私は2000年初めから01年にかけて、自民党衆院議員だった山崎拓氏を担当した。当初、山崎氏(Y)は総裁選に加藤紘一氏(K)と共に出馬、小渕恵三氏に敗れた後で干されていた。政治部の上司が「ヤマタクが幹事長になるとか、ないからさあ」と言ったのをよく覚えている。
ところが01年4月に小泉純一郎氏(K)が首相に就くと、山崎氏は自民党幹事長になるのだから、政治とは面白い。
●加藤の乱の内幕暴露
当時、番をしながらも私が迫り切れなかった内幕が「秘録」には生々しく描かれている。たとえば、00年の「加藤の乱」。野党が当時の森喜朗内閣に出した不信任案に、加藤氏が賛成する動きを見せ、結局は挫折した。まさに不信任案採決のその日、加藤氏がどう行動したか、驚きの一幕が記されている。
YKKの3人のタイプがそれぞれ違って、取り合わせの妙があり、だからこそ力を持ちえたように思える。
「加藤は知的で超エリート。小泉は3代目で感覚型。私は祖父が国家主義者の大物・頭山満の一派で右翼、父がマルキストの左翼で、だからというわけではないが調整型の情の人。ただ、3人それぞれ政治的野心は旺盛でしたよ」
「加藤の乱」でも、それぞれがどう行動したかが、個性の違いと3人の友情を表していて興味深い。
不信任案の採決に際し、「俺と拓さんだけで行く」と宣言する加藤氏。事前に山崎氏の了解を取っていたわけではなかったが、「友情を全うするため」に、山崎氏は共に行く覚悟を決める。
妙にハイテンションの加藤氏は、だがその後で心が折れてしまう。詳しくは「秘録」に譲るが、ここに、首相候補ナンバー1と長らく目されながら、ついにそれを果たしえなかった加藤氏の甘さが凝縮されているように思える。
そして、その前後の小泉氏の行動がまた圧巻だ。不信任案に同調するという言語道断の動きを見せた加藤氏に、小泉氏は当初、「俺なら不信任案に同調する」と話す。だが、その裏では国会を走り回り、森氏や野中広務幹事長など党幹部に、加藤氏の動向を伝えていたのだ。
乱がついえた直後、傷心の山崎氏は恒例の誕生日パーティーを開く。そこに姿を見せたのが、招待していなかった小泉氏だった。あっけにとられる山崎氏を前に、小泉氏はしゃあしゃあと言うのだ。
「YKKは友情と打算の二重奏だ」「皆さんは、私が友情でこの場に来たとお思いでしょうが、さにあらず打算で来たんですよ」
小泉氏の面目躍如である。山崎氏はこの場面を「あれは小泉の友情の表れ」という。
●葬式一転、結婚式に
「小泉はつぶした側なんだから、普通見捨てますよ。でも小泉はそうじゃなかった。俺が来た以上、自民党から追放させないよと。友情に厚いのは小泉のほうですよ。まるで葬式の中にぽっと生きているやつが現れて、結婚式になったみたいでしたよ」
加藤の乱のやけぼっくいはやがて、小泉氏が出馬した総裁選で火が付き、小泉政権へとつながるのである。
「秘録」にはほかにも、小渕氏の意外な一面や、小泉政権初期の田中真紀子外相の更迭劇なども収められている。
安倍一強体制が長らく続く現在の自民党。山崎氏の目にはどう映るのか。
「政治家が小物になりましたね。戦後の政治で一時代をつくった『三角大福中』(三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽根康弘各氏)は、みんな一世ですよ。けれども、二世三世が増え、小選挙区制になったこともあって、苦労せずに当選できるようになった」
政治にダイナミズムが復活する日は来るのだろうか。(朝日新聞編集委員・秋山訓子)
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