>福沢諭吉の有名な「天はヒトの上にヒトを造らずヒトの下にヒトを造らず」は、平等自由の理念から発生した願望で、無意識な本能脳に記憶された行動とは異なる。 佐助さんは福沢諭吉を読んだ事ないんだろうな
今日、お話ししたいのは、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず・・・・」の”故事”成句のこと。 ★ 私は、大学で「人権論」という講義を担当していました。”天賦人権”を語ると、多くの学生は
「知ってます。福沢諭吉の”天は人の上に人を作らず人の下に人を作らず” 人間平等の原理」 などと、即答します。高校でそう教えているのですね。 ★ その度に、繰り返して来た言葉: 「それは間違い。その言葉は、福沢諭吉の『学問のすすめ』の一番、最初に出てくる言葉だね。
でも、もう一度、しっかりと原文を読んで来なさい。福沢諭吉は、決して、そうは言っていない。 福沢諭吉は天賦人権論者ではないョ。 全く逆。 それをしっかり確かめて来なさい」 ★ そのハナシをすると、多くの方々が、「エッ!」と、怪訝な顔を私に向けます。
どなたも日本で最初に人類普遍の原理「平等」を説いたのは福沢諭吉と信じておられるようです。 「天は人の上に・・・・・と言ったのは福沢諭吉では???」
★ 無理はありませんね。 例えば、手軽なネット百科事典として、誰もが利用する「ウィキペディア」にもこのように書かれています。
天賦人権説(てんぷじんけんせつ)とは、すべて人間は生まれながら自由・平等で幸福を追求する権利をもつという思想。ジャン=ジャック・ルソーなどの18世紀の啓蒙思想家により主張され、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言に具体化された。日本では明治初期に福澤諭吉・加藤弘之らの民権論者によって広く主張された。 ★ しかし、これは間違い。確かに福沢諭吉も、加藤弘之も、明治初期の啓蒙家として、天賦人権の思想を紹介はしていますが、二人とも「天賦人権論者」ではありません。加藤弘之などは、逆に社会進化論の立場からそれを否定しておりますし、福沢諭吉も加藤弘之の社会進化論に近い”学問至上主義”の立場、天賦人権などには否定的です。
★ それをしっかり確かめるために、是非、福沢諭吉の著書『学問のすすめ』を原文で読んでみて欲しいです。巻頭第1ページ冒頭にある、その行を引用してみましょう
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。
されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。 されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。 『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。 そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役はやすし。 ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。 福沢諭吉著 『学問のすすめ』 ★ 確かに福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という有名な言葉で、この論文を書き始めています。
大事なことは、それに続く「と言えり」の4文字。「と、言われている」 が、しかし・・・と、以下に続いています。 福沢諭吉が言いたいのは、その先です。 後の文章は、全部、「そうではない」と、その理由を述べています。 ◎ 現実は、そうじゃない、賢人愚人、貧しき者、富める者、貴人下人・・・雲泥の差があることは明白。それには理由がある。と言うのです。
つまり人間の優劣は学問によって決定される。優れたものが劣っているものを支配するのは当然のこと。 ◎ (天賦人権のような考えより) 我が国で平安時代から子弟の教育に用いられて来た教科書「実語教」にあるように、賢者と愚人の差は、学ぶか、学ばないか、によって定まる。 肉体労働と知的職業に別れるのもそのためだ。
◎ だから医者、学者、政府の役人、富める商人、大地主などは、高い身分の貴人なのだ。 と、そういう論理を展開しています。
天賦人権論の先駆者どころか、その敵である「社会進化論」の側に立つ主張者ですね。一般に信じられている福沢諭吉像とは全く逆です。 学問による”弱肉強食” 能ある者が能乏しき者を支配するのは当然、と言っているのです。 ★ 「・・・・と言われているが、そうじゃない」と、引用されている「・・・・」句が、短絡にが本文から独立し、しかもその引用句が引用者自身の言葉として一人歩き。 誰も正さないうちに、いつの間にか”故事成句”に成熟して熟語化し、戦後の民主主義の御代になると、爆発的に流行し始めた各種の「人権論」講座の枕詞に用いられる。
そして我が国における人権論の先駆者として、疑われることもなく君臨し、社会の通念にまでなる。 ★ 言葉としては誰もが知っている”社会常識”。 だが、それを口にするほとんどの人が原文を読んだことがない。 そして間違った”偶像”が信奉され、もはや、誰も疑うものがない・・・・思えば、コワイハナシです。 ★ そこで言いたい私の「学問のすすめ」は、故事成句を使うなら、必ず原文を読んで、その真意を確かめよう。 私の大学の恩師は「読書とは師との向かい合いである」と教えられました。その大切さを、今、思います
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