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皇居で、皇后陛下(右)が見守る中、天皇陛下(中)に手を差し出すミシェル・オバマ米大統領夫人(2015年3月19日撮影)〔AFPBB News〕
世界に誇れる法治国家としての「天皇機関説」 象徴天皇は、目に見えず止まった存在であってはならない
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47804
2016.9.7 伊東 乾 JBpress
1935年と言えば今から81年前になりますから、昔話と思われる方が多いかもしれません。
でも1933年生まれの明仁天皇にとっては、いまだ物心つく以前とはいえ、12月で83歳を迎える今日まで直結する、ある出来事が起きた年に当たります。
「天皇機関説事件」。
東京帝国大学名誉教授で貴族院議員であった美濃部達吉が社会的に非難の的となり、そののち2.26事件の動乱を経て、日本が翼賛体制と無謀な戦争に突入して行った、1つの道標となった出来事でした。
2016年8月8日の「天皇放送」を読み解く重要なカギの1つが、ここにあります。
1988年、平成に入って、元最高裁判事、前東宮職参与の團藤重光・東京大学法学部名誉教授は、天皇の相談役となるべく宮内庁参与に就任します。
当時75歳だった團藤教授にとっては、1935年の「天皇機関説事件」も36年の「2.26事件」も、法律を修めた一青年として直面した現実で、その後のGHQとの交渉などで襟を正した毅然たる態度を一貫する大きなきっかけになったのでした。
■目に見えない「機関」の落とし穴
1935年、22歳の團藤教授は東京帝国大学法学部を首席で卒業、直ちに助手に就任し、小野清一郎教授の下、いわゆる「新古典的」な刑法(「後期旧派刑法学」)の研究に着手したところでした。
そこで発生した天皇機関説事件は「トンでもないモノだった」と團藤先生は言われます。
「うちの近くに住んでいた菊池という軍人の代議士がね、美濃部先生を非難するひどい演説をした。それが新聞にも載って、それはひどいことになったものだった・・・」
團藤先生には、美濃部教授は歴史上の人物ではなく、直接教えを受けた教授の1人として等身大の記憶があります。
「本郷通りを歩いていたら美濃部先生が向かいから来られて、帽子をヒョッと、こう、上げてね、会釈される、そのしぐさがなんとも上品でね・・・」
そんな美濃部教授が攻撃を受けた「天皇機関説」とは、どのようなものだったのでしょうか?
美濃部教授の指導教官である一木喜徳郎教授は、年齢が美濃部と6歳しか変わらず、ドイツ留学を経て少壮教授として後進を育成したのち、貴族院議員、枢密顧問官、宮内大臣などを歴任、「天皇機関説事件」の1935年は68歳で現役の枢密院議長の要職にありましたが、美濃部同様やり玉に挙げられています。
一木はドイツ留学中、イェーリングがドイツ皇帝を「国家機関」と位置づける進んだ学説を学び、これを大日本帝国憲法に適用して「天皇機関説」を主唱、教え子の美濃部はこれを継承、発展させました。
「天皇機関説」とは、統治の権利を天皇「個人」に帰するのではなく、法人たる国家に帰属させ、天皇はその国家の最高「機関」として、内閣その他の輔弼を得て統治権を行使するいう考え方で、すでに大正時代には十分普及し、当然の解釈として流通していたものです。
と言っても分かりにくいかもしれません。少し噛み砕いて考えてみましょう。
例えばどこかの殿様が「今日、私は鷹狩がしたい。兵を出せ、鷹狩じゃ」と言ったとしましょう。 江戸時代ならあり得た話かと思います。思いついたその日に気分で命令されれば、その当時でも臣下の心は殿様から離れた可能性は高いかと思います。
ここまで極端でないとしても、旧幕藩体制では、将軍なり殿様なりが「個人」として領地を治め、その行動は極論すれば「気分次第」、文字に書かれ精密に推敲された成文法によるのではなく「私がルールブックです」状態で、良く言えば柔軟、悪く言えば行きあたりばったりの、前近代的な支配がまかり通っていた。
「そんなことでは、通商に際して我が国民最低限の権利や交易、ないしは身体の安全を保証されない」
として、英米仏などの先進国列強は江戸幕府時代の日本と不平等条約を結びました。「治外法権の適用」「関税自主権を与えない」などなど、屈辱的なその実態は、小中学校の歴史の授業でも必ず一度は教わることでしょう。
ちなみにこの当時、まだイタリアとドイツは国民国家の統一にたどり着いていません。のちに枢軸国として連携する日独伊の3国が「後発先進国」と言われるゆえんです。
日本が近代国家として世界各国と同等に渡り合っていくにあたり、必要不可欠とされたのは、西欧列強が認める「法治の徹底」、端的には「憲法を定め、議会を開き、民主的な手続きと法の定めをもって国家が運営されること」を最低必要条件として、不平等条約の改正には応じようとしなかった。
西南戦争で財政的には一度ほぼ「失敗国家」化しかかった明治新政府は、一方で松方デフレに代表される財政再建政策を敢行、他方で欧州各国に学んで憲法の制定と議会開設を急ぎます。
いち早く民主化し、また産業革命の旗手であった英国、またいち早く市民革命を達成し人権思想のメッカとなっていたフランスと比べると、後発先進国であったドイツは「追いつけ、追い越せ」の国是遂行に当たって国力を集中した方が有利な面がありました。
明治維新とほぼ同時期に統一を達成したイタリアやドイツで、ロンブローゾの犯罪人類学やフォン・リスト、フェリらの新派刑法など権力による支配強化につながる学説や法思想が発達したのは、決して故なきことではなかったと言えるでしょう。
そんな中、絶対的な力を持つ皇帝権が私的に濫用されるのではなく、国家機構の最高「機関」として働く、と明確に規定することで、幕藩体制期のお殿様が「鷹狩じゃ!」と言うような水準とは明確に一線を画して、法治国家での機能を明確化した皇帝権を確固たるものにしたのが「ドイツ皇帝機関説」でした。
こうした状況は、やはり後発先進国、しかも極東の小さな島国である日本にとっても同様、かつ切実な事情があったわけです。
そこで日本は、似たような事情を抱えるドイツ法制をより多く参考にして憲法を作り、皇帝機関説を日本型に咀嚼し、また進んだドイツの「新派刑法学」なども導入して国の機構を整えた。
そういう「法治の根幹」を、ならず者のようになし崩しにしたのが「天皇機関説事件」であったというわけです。
■機関説から解釈する天皇の戦争免責
8月8日の天皇放送では「象徴天皇として行うべき天皇の象徴的行為」の決定的な重要性が語られています。
なぜ天皇は単に象徴として「存在」するだけではダメなのか。何が不足しているのか?
行為が不足している。象徴天皇は自ら行為し続けなければならない、と天皇放送原稿は繰り返し強調しています。摂政では足りない、天皇自身が分別を持って判断し行為行動し続けなければいけない。
これを裏返すと「象徴天皇は(目に見えない、また止まった)機関であってはならない」と言うことができるかもしれません。事実「機関説的天皇」は、功罪両面を持って戦後に検討されることになりました。
1945年8月15日、昭和天皇は最初の「玉音放送」を行い、ポツダム宣言が受諾され日本は連合軍に無条件降伏します。
この時点で、昭和天皇は自らの死を覚悟し、また天皇制の廃絶をも覚悟した可能性が高いでしょう。このような戦争を起こしてしまったことへの慙愧の念は、想像するにあまりあります。
やがて連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーが来日し、9月27日、昭和天皇自らが出向いてマッカーサーと会見、自分はどうなってもよいから、我が身を犠牲にすべてを収拾することを願い出、むしろマッカーサーが天皇助命に奔走することになった経緯にはすでに触れました。
これを、占領国の安全な統治上の便宜、あるいはソ連と赤色革命の脅威に対する防波堤といった、諸外国の「日本利用」の観点から考えるなら「天皇は生かされた」という話になってしまう。
よく、日本は戦後、ドイツのように自らを裁かなかったから、いまだに過去を引きずっているという話が出ます。私も少なからずそのように思いますが、自ら戦後の新しい日本を選び取り、作っていこうと考えた1940年代後半の日本のリーダーたちは、いったい何をどう考えたのか?
■日本人が主体的に選び取った新しい未来
GHQと戦後の刑事司法をゼロから立ち上げた團藤教授は、戦前の法制度の中で天皇「個人」の責任を追及しても意味がないと認識しておられました。
この話題について明確に「天皇機関説」という言葉で團藤先生から伺ったことはありません。
しかし戦後の新体制を作り出していくうえで、かつての過ちを顧み、それを改めていく、変化し向上していく人間の主体性と可能性を多とする「自由法学」の観点から、広く一般の刑事事件に対して「死刑廃止」を主張されるに至った團藤先生の議論を、そのまま「天皇の戦争責任」に重ねて考えれば、当然このような結論が出てくることになります。
かつての日本は、明らかに判断を誤り、取り返しのつかない多大な犠牲を生みながら敗戦を迎えた。
ここから新しい日本を作り出そうという時、例えば、首謀者をシンボリックに処刑するといった政治のシナリオが描かれやすく、実際日本でも極東軍事裁判が開廷され、A級戦犯の責任が問われました。
ここで明示的に求責されなかった昭和天皇には、その誕生日に合わせて新しい憲法が準備され、象徴天皇としての新しい日々が準備された。
逆に言えば、その新しい生命を、全力をかけて生き、生かしていく必要があった、そのように捉えることができると思います。またその思いが昭和天皇以上に切実であったのは、当時14〜15歳という多感な年齢にあった明仁皇太子であるに違いありません。
昭和天皇の在世中、「いつか天皇に即位するであろう自分の行動」をどのように考えればよいかは、常に明仁皇太子にとって大きな課題であり続けます。
浩宮が大学を卒業した年、東宮職参与として皇太子家・・・次代そして次々代の天皇となるべき人々の様々な相談の相手役に就任した團藤教授は、必ずしも「べき論」で、大所高所から大ナタを振るうような議論はされていないご様子でした。
むしろ、具体的な局面に応じて、70代以降の短くない期間、様々な議論を重ねる過程で「国民の目線で考えてみる」「国民の目から見た天皇像を天皇ご自身もお考えになる」といったやりとりの中から「私の象徴実践」として明仁皇太子〜明仁天皇が、どのような決然たる「象徴的行為」を主体的に決意し、実行してこられたか。
その1つの集大成として、8月8日の放送は様々なことを実は雄弁に語っていると思います。
存在するだけで、その個人の思考や行動、実践が国民の目から、また国際社会から見えない「機関説的天皇」ではなく、自ら内外に隠れなく「象徴的行為」を実践し続けることによって義とされる、新しい憲法下で新しい生命を得た象徴天皇へ、という主体的な選択。
押しつけでも諸外国の便宜や力関係でもない、内側からの、團藤先生の言葉をお借りすれば陽明学による本質的な「天命の改革」として、人間天皇個人の主体性が選び取られた。
ここに「團藤説」こと、前々回にお話しした「目的的行動論」における「行為無価値」「結果無価値」の議論がぴたりと重なってくるわけです。
あの戦争を食い止めることができなかったという「結果」のマイナスは問われないわけにはいきません。
しかし、それを乗り越え、日本国憲法の新たな体制下、新たな命として提示された「象徴天皇制」を、かつての落とし穴に嵌らせないために、天皇は常に「象徴的行為」を行為し続けます。
そして自ら平和の具現者となり、戦前の消極的でファンクショナルな天皇、御真影だけが奉られ、生きた等身大の人間像が隠された「神聖にしておかすべからざる」存在から、常に「いま・ここ」で、国民一人ひとりの目線と互いに交換可能な「国民統合の象徴」として、主体的にアクションし続ける存在へと飛翔していった。
A級戦犯たちが刑に服した15歳の誕生日のあの日から68年、即位してからなら28年、このような「天皇実践」を日々自らに問い、決断し、実行する中で、被災者の前で膝も折れば、朝鮮半島との「ゆかり」にも果断に言及してこられた、半世紀を優に超す明仁天皇のひたむきで無私な努力に、私たち国民も謙虚に目を開き、耳を澄ますべきではないかと思うのです。
そんな中でも、とりわけ勇気ある1つのジャンプとして、私たちは2016年8月8日の天皇放送を見ない、聴かないわけにはいきません。
天皇がそうされたように、私たちもまた主体的に、一言一句をしっかり受け止め、今度は私たち国民が、あるべき明日を模索するアクションで応えるタイミングであろうと思うのです。
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