警察がデマを流して朝鮮人を絶滅しようとしたんだよ:1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生。 この時政府の宣伝 「朝鮮人や社会主義者が震災に乗じて内乱を企てている」
に乗せられた民衆は、社会主義者、労働組合幹部や朝鮮人に対して野蛮なテロを行い、9.3日、亀戸事件により南葛労働組合の指導者・川合義虎らの社会主義者やアナーキストらが亀戸警察署で虐殺された。 9.16日、大杉栄が妻・伊藤野枝、甥(おい)の橘宗一と共に甘粕正彦憲兵大尉に殺害された。 9.7日、政府は、関東大震災時の混乱に対して「治安維持の為の緊急勅令」を公布した。
これは、前に成立を見なかった「過激社会運動取締り法案」を、このたびは天皇の名のもとに議会の審議を要しない緊急勅令という形で公布したということである。 しかし、政府はなお満足せず、やがて治安維持法に向けて着々と周辺整備していく。 「第一次共産党事件」と「関東大震災直後の反動攻勢」に接して、獄中闘争組の中からも解党的方向が提起されたようである。
幸徳秋水の大逆事件、関東大震災時の大杉栄虐殺事件という官憲側のテロル攻勢に「緊急避難」の名目で党の解党止む無し論が強まっていった。 これに関連して福永操は次のように述べている。
「革命運動の犠牲者たちは、人民が(人民のほんの一部でもが)その犠牲の意義をみとめて心の中で支持してくれると思えば、よろこんで死ねるであろう。 なさけないのは、大逆事件関係者に対する日本の一般民衆の反感がものすごかったことであった。 事件そのものにまったく無関係であった社会主義者たちまでが、この事件のとばっちりを受けて、『主義者』というよびかたのもとに一括して世間からつまはじきされて、文字どおり広い世間に身のおきどころもない状態になったことであった。 労働運動も火が消えたような状態になった」(福永1978)。 以下、検証する。
【関東大震災発生】
1923(大正12).9.1日、関東大震災が発生した。 地震の規模はマグニチュード7.9、震度6であった。 焼失家屋24万戸、崩壊家屋2万4千棟、死者5万9千人、行方不明者を入れると犠牲者は10万人以上という被害が発生した。 これにより関東一円の商工業地区が壊滅的大打撃を受けた。被害総額は当時の金で約100億円(当時の一般会計の6.5年分、現在で数兆円)と推定される。 関東大震災の翌9.2日急遽、軍による戒厳令司令部を設置した。
この日、後藤新平が内務大臣に就任している。 警視庁は、非常事態に備えて臨時警戒本部を設置し、正力官房主事が特別諜報班長になって、不穏な動きを偵察する任務を持ち、その行動隊長として取締まりに専念した。 後藤内務大臣の指揮下で正力が果たした重要な役割は疑問の余地がない。 「内務大臣・後藤新平と正力の繋がり」について
正力は、この後藤新平と深く繋がっており、「直接ルート」の間柄。正力の富山四高時代の友人にして官房主事であった品川主計は、回想録「叛骨の人生」の中で「正力君は、後藤新平内務大臣に非常に信用があった」と記している。
同書に拠れば、越権的な「汚れ役」(ダーティーワーク)仕事を躊躇無く引き受けることで信頼を得ていったとのことである。 「仕事の鬼としての出世主義的性格」が強かった、ということになる。 正力は、後藤内相の下で警視庁警務部長となる。 同時に、財界のご意見番的存在であった郷とも親しくなって行った。 【流言飛語飛び交い、朝鮮人、社会主義者、アナーキストの検束始まる】
直後、
「朝鮮人、中国人、社会主義者、博徒、無頼の徒が放火掠奪の限りを尽くしている」 との噂が飛び交い始めた。 発生源は在郷軍人会、民間自警団辺りからとされているが、今日なお真相不明である。 当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、「朝鮮人による放火、井戸への投毒」という風評を逆手に取って朝鮮人と社会主義者、アナーキストの検束を始めた。
9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。 東京朝日の石井光次郎営業局長の次のような証言がある
「建物は倒壊しなかったものの、9月1日の夕刻には、銀座一帯から出た火の手に囲まれ、石井以下朝日の社員たちは社屋を放棄することを余儀なくされていた。
夜に入って、石井は臨時編集部をつくるべく、部下を都内各所に差し向けた。 帝国ホテルにかけあってどうにか部屋を借りることは出来たが、その日、夜をすごす宮城前には何ひとつ食糧がない。 そのとき、内務省時代から顔見知りだった正力のことが、石井の頭に浮かんだ。 石井は部下の一人にこう言いつけて、正力のところへ走らせた。 『正力君のところへ行って、情勢を聞いてこい。
それと同時に、あそこには食い物と飲み物が集まっているに違いないから、持てるだけもらってこい』。 間もなく食糧をかかえて戻ってきた部下は、意外なことを口にした。 その部下が言うには、正力から、 『朝鮮人が謀反を起こしているという噂があるから、各自、気をつけろ。 君たち記者が回るときにも、あっちこっちで触れ回ってくれ』 との伝言を託されてきたというのである。 そこにたまたま居合わせたのが、台湾の民生長官から朝日新聞の専務に転じていた下村海南だった。
下村の『その話はどこから出たんだ』という質問に、石井が『警視庁の正力さんです』と答えると、下村は言下に『それはおかしい』と言った。 『地震が9月1日に起るということを、予想していた者は一人もいない。 予期していれば、こんなことになりはしない。 朝鮮人が9月1日に地震がくることを予知して、その時に暴動を起こすことを企むわけがないじゃないか。 流言飛語にきまっている。断じてそんなことをしゃべってはいかん』。 石井は部下から正力の伝言を聞いたとき、警視庁の情報だから、そういうこともあるかも知れないと思ったが、ふだんから朝鮮や台湾問題を勉強し、経験も積んできた下村の断固たる信念にふれ、朝鮮人謀反説をたとえ一時とはいえ信じた自分の不明を恥じた。
正力は少なくとも、9月1日深夜までは、朝鮮人暴動説を信じていた。 いや、信じていたばかりではなく、その情報を新聞記者を通じて意図的に流していた」 内務官僚上がりの石井のこの証言に加えて、戒厳司令部参謀だった森五六の回想談によると、正力は腕まくりして戒厳司令部を訪れ、
「こうなったらやりましょう」と息まいている。 この正力の鼻息の荒い発言を耳にした時に、当時の参謀本部総務部長で後に首相になる阿部信行をして、「正力は気が違ったのではないか」と言わしめたという。
正力にまつわる一連の行動を分析した佐野は、
[正力は少なくとも大地震の直後から丸一日間は、朝鮮人暴動説をつゆ疑わず、この流言を積極的に流す一方、軍隊の力を借りて徹底的に鎮圧する方針を明確に打ち出している] と結論づけている。 更に、警視庁に宛てた亀戸署の内部文書にも、 「この虐殺の原因はいずれも警察官の宣伝にして、当時は警察官のごときは盛んに支鮮人を見つけ次第、殺害すべしと宣伝せり」
と書いてあり、中国人労働者が300人ほど虐殺された大島事件も、正力がこの事件を発生直後から知っていたのは、間違いないと自身を持って断定するのである。 【関東大震災時事件その@、官憲、自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺】
当時の支配階級は、震災の混乱に乗じて赤化騒乱が引き起こされることを怖れ、
「朝鮮人による放火、井戸への投毒、襲撃」、 「震災の混乱にまぎれて、朝鮮人と社会主義者が政府転覆を図っている」 という風評を逆手に取って警察と軍による朝鮮人、中国人、社会主義者、社会主義的労働者の検束を始めた。 9.3日、亀戸署には、7百4、50名も検束された労働組合員や朝鮮人がいたと伝えられている。
自警団員による朝鮮人、中国人の虐殺も発生している。 無抵抗の者を陸軍将校、近衛兵、憲兵、警察官、自警団員、暴徒らが一方的に撃ち殺したところに特質がある。この時官憲テロルに倒れた朝鮮人は3千名、中国人は3百名。 その後毎年、9.1日は共産主義運動、朝鮮民族運動の逃走記念日として追悼されていくことになる。 【関東大震災時事件そのA、川合義虎らが虐殺される亀戸事件発生】
9.3日午後10時頃、亀戸事件の被害者となる南葛労働組合の指導者にして共産青年同盟初代委員長にして党員北原龍雄と共に第一次共産党事件後の留守委員会を構成していた川合義虎ら8名の社会主義者と、アナーキスト系の元純労働組合長・平沢計七らが亀戸警察署に拘束監禁された。
9.5日、河合義虎ら7名の革命的労働者(北島吉蔵、山岸実司、吉村光治(南喜一の弟)、加藤高寿、近藤広造、鈴木直一)、アナーキスト系の平沢計七らが亀戸警察署で虐殺された。
これを「亀戸事件」と云う。 その遣り口が憤激に耐えない次のような史実を残している。 古森署長は事後対策を警視庁に上申。この時のこの時の警視庁官房主事が正力松太郎(米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、後特高制度の生みの親であり、読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買った)で、正力は軍隊への応援依頼、千葉県習志野騎兵第13連隊(田村騎兵少尉指揮)がやって来て、留置された中から最も指導能力を有していた危険な人物を選別し、演武場前広場へ引きずり出し、銃剣と軍刀で虐殺した。 その虐殺の様について今日奇跡的に伝えられた二葉の写真があり、これを見るに多数の刺傷はそれとしても生きたまま打ち首にされている。 遺体は家族に引き渡されず、二、三日放置された後、荒川放水路の一般の火葬死体の中に投擲された。 田村少尉らは軍法会議にもかけられておらず、「この乱痴気が軍隊と警察と裁判所、検事局と監獄とを、内部から腐敗堕落させた」(志賀義雄「日本革命運動の群像」)とある。 ちなみに、南喜一は、弟の吉村光治虐殺という権力の横暴に義憤して、共産党活動に入った。 「大正13年の春、私は工場や家を全部処分し、17万円の金をつくつた。 妻子に4万円渡し、13万円を持って、亀戸の南葛飾労働組合に入った。 共産党に入党したのだ」、 「大正15年の共同印刷の争議までは、命ぜられることを名誉とし、火の中でも水の中へでも喜んで飛び込んだ」(「南喜一著作全集」)とある。
【関東大震災時事件そのB、中国人留学生・王希天虐殺事件発生】
この時、東京中華日キリスト教青年会幹事、中華民国僑日共済会の会長という指導的立場にあった中国人留学生・王希天は、亀戸署に拉致監禁された上陸軍に引き渡され、陸軍将校の手で斬殺されている。
死体は切り刻まれて川に捨てられた。 警視庁や陸軍の公式発表では「行方不明」。警察と軍の関係を取り持っていたのは、官房主事の正力であった。 10.20日、中国代理公使から王の殺害について抗議が為される。
中国政府は王希天殺害調査団を派遣してくることになり、一気に国際的大事件となった。日本政府はその対応に苦しむことになった。 警視庁はじめとする当局は口裏を合わせて知らぬ存ぜぬの「徹底的に隠蔽するの外無し」対応に終始した。 結局、事件そのものは当時の日中の力関係を反映し、最後にはうやむやのままに葬り去られることになった。 【関東大震災時事件そのC、大杉栄ら虐殺・甘粕憲兵大尉事件発生】
9.16日関東大震災の混乱に際して、アナーキストで社会運動家のリーダー的存在だった大杉栄は妻・伊藤野枝(いとうのえ、28歳)、甥(おい)の橘宗一(たちばなそういち、6歳)と共に甘粕憲兵大尉(あまかすまさひこ、32歳)に殺害された。
享年38歳。妻野技は1895年1月12日生、享年28歳、甥橘宗一は1917年4月12日生、享年6歳。 この日、大杉は、その妻(婚姻はしていなかったので正式には同棲)の伊藤野枝と横浜鶴見にあった弟の家から自宅へ帰る途中に東京憲兵隊本部に検束された。
一緒にいた甥の橘宗一も一緒に連れ去れた。検束された大杉達は、麹町憲兵分隊に連行された。 午後8時頃、取調中だった大杉に対し、部屋に入ってきた憲兵大尉《甘粕正彦がいきなり背後から大杉の喉に右腕を回し締め上げた。
大杉がもがき後ろに倒れると、背中に乗りさらに締め上げ絞殺したと伝えられている。 続いて伊藤野枝も絞殺され、橘宗一は部下の憲兵が殺害し、遺体は憲兵分隊内にあった古井戸に投げ込まれた。 ちなみに甘粕のその後は次の通り。
大杉虐殺事件の軍法会議の進行は非常に早かった。戒厳令下の10.8日に第一回、以後、11.16日、17日、21日の4回で結審となり、12.8日に10年の禁固刑に処せられたものの、軍閥団体の助命運動によって3年で出獄、満州国へ渡り参議の地位に上り詰めていく。 この大杉栄の拘束・殺害が発端となって、軍部による社会主義者の徹底的な弾圧が始まる。
【官房主事・正力松太郎の暗躍】
この時、警察と軍の関係を取り持っていたのは、警視庁官房主事の正力松太郎であった。
これを追跡してみる。正力は米騒動の時に警視として民衆弾圧に当たり、特高制度の生みの親であった。 後に読売新聞社長へ転身し、ナチス・ドイツとの同盟を煽り、軍部の手先となって第二次世界大戦の世論形成に一役買うことになる。 9.2日、大震災の翌日急遽、軍による戒厳令司令部が設置された。
船橋の海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電が為されている。 今日判明するところ、「付近鮮人不穏の噂」を一番最初にメディアに流したのが、なんと正力自身であった。 9.3日、「内務省警保局長」名で全国の「各地方長官」宛てに、要約概要「鮮人の行動に対して厳密なる取締要請」電文打たれる。
内務省が流した「朝鮮人暴動説」は、全国各地の新聞で報道された。 実際には「不逞鮮人暴動」は根拠が曖昧で「流言飛語」の観がある。
この指示が官憲、自警団員によるテロを誘発することとなった。
つまり、本来ならば緊急時のデマを取り締まり秩序維持の責任者の地位にある正力が逆に騒動をたきつけていたことになる。 9.5日、警視庁は、正力官房主事と馬場警務部長名で、「社会主義者の所在を確実に掴み、その動きを監視せよ」なる通牒を出している。
9.11日、更に、正力官房主事名で、 「社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ」命令 が発せられている。
研究者によると、正力が「虚報」と表現した「朝鮮人来襲」のデマを一番最初にメディアを通じて意識的に広め、虐殺を煽ったのは、なんと、官房主事の正力自身であった。 自身も「悪戦苦闘」という本で、 「朝鮮人来襲の虚報には警視庁も失敗しました。 当局者として誠に面目なき次第」 と弁解しているように、朝鮮人大虐殺の張本人と目されている。
この時、朝日新聞の記者の1人が警視庁で正力官房主事から、 「朝鮮人むほんの噂があるから、君たち記者があっちこっちで触れてくれ」 と示唆されたことを明らかにしている。 しかし、専務の下村海南が「流言飛語に決まっている」と制止したと云う。 「正力の胡散臭さ」について
後に読売新聞の社主となって登場してきた正力松太郎には「負の過去」がある。 関東大震災当時、警視庁官房主事という警察高級官僚であった正力こそ朝鮮人大虐殺の指揮官であった形跡がある。
こういう人物が読売新聞に入り込み、大衆新聞として発展させていく。 その意味で、「読売新聞建て直しの功労者」ではある。 しかし、正力の本領は当時の「聖戦」賛美にあった。 新聞でさんざん戦争を煽った。 これが為、松太郎はA級戦犯指名で巣鴨プリズン入り、死刑になるところを占領軍の恩赦で出所する。 しかし、政権与党に食い入り常に御用記事を垂れ流す体質は戦前も戦後も変わらない。 「読売には権力癒着の清算されていない暗部がある」 こうしたムショ帰りの権力主義者の社主に忠誠を誓い、その負の遺産を引き継ぐことで,出世したのがナベツネといえる。
日本ジャーナリズムの胡散臭さを知る上で、この流れを踏まえることを基本とすべきだろう。 http://www.gameou.com/~rendaico/daitoasenso/what_kyosantosoritu_oosugisakae.htm
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