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桜井誠と「思想の土着化=存在論化=内在化」
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2016-08-21 山崎行太郎の政治=哲学=文学ブログ『毒蛇山荘日記2』
桜井誠の思想的な特徴は、関心を寄せる問題を「在日問題」、ないしは「日韓問題」に特化させていることである。それが、他の「保守論壇」の面々や、あるいは「ネット右翼」や「ネット保守」の面々と違うところだろう。
桜井誠は、平凡・凡庸な「ネット右翼」の面々が、関心を持っている「南京問題」や「沖縄集団自決問題」などにあまり関心を示していない。あくまでも、「在日問題」「日韓問題」にこだわっているように見える。桜井誠もそれを自覚し、意識しているようだ。だからこそ「在特会」(「在日特権を許さない会」)という名前をつけたのだろう。もし、右翼活動家としての桜井誠の「成功」の秘密があとすれば、このネーミングにある。
私は、桜井誠が「在日問題」に特化した背景には、彼の生まれ、育った北九州という場所が深く関わっていると考える。つまり、北九州という場所は「在日問題」や「日韓問題」の原点と起源がある場所だからだ。言い換えれば、北九州が、「北九州工業地帯」と呼ばれることになったのは、ここで、エネルギー源として「石炭」が発見され、発掘されところにある。北九州の各地に炭坑が開かれ、そこに炭鉱労働者が集められた。北九州という炭坑で栄えた町は、朝鮮人労働者が、最初に「強制連行」(?)されてきた場所でもある。
時代は違うとはいえ、桜井誠が育った時代にも、その炭坑や朝鮮人労働者たちの傷跡は、まだ各所に残っていたはずである。桜井誠は、『大嫌韓時代』で、近くに「朝鮮学校」があり、日本人と朝鮮人との間で、喧嘩が絶えなかったことを書いている。おそらく、北九州の炭坑で働いていた朝鮮人労働者たちの子弟が、「朝鮮人学校」に通っていたのだろう。
安田浩一の調査や取材によると、桜井誠は、おとなしい、存在感の薄い高校生だったと書かわれている。しかし、おとなしい高校生だったとはいえ、「朝鮮人労働者」や「朝鮮人学校」(「チョンコー」)という問題に無関心でいられたはずはない。
私は、桜井誠の「怒り」がホンモノだと思うのは、文献や資料や解説書などを読んで、「日韓問題」を知識として学んだだけの「ネット右翼」ではないと思うからだ。
桜井誠の「日韓問題」や「在日問題」に対する深い関心は、その少年時代の生活環境や思想環境に根ざしていると考える。
私が、思想内容は別として、「思想の土着化」や「思想の存在論化」「思想の内在化」という問題意識から見るならば、桜井誠の思想や運動が「ホンモノ」だと判断する理由は、そこにある。
「朝鮮人、帰れ」「朝鮮人、死ね」・・・という悪評高い叫びは、単なる「ヘイトスピーチ」の問題ではない、と思う。法律で取り締まればいいという問題ではない。それは思想問題であって法律問題ではないからだ。
今、私の手元には、「林えいだい」という人が著した『筑豊・軍艦島ー朝鮮人強制連行、その後』『精算されない昭和』という二冊の本がある。
これらを読むと、北九州と朝鮮人労働者、あるいは朝鮮人強制連行の問題が、資料や文献で、わかる。
とても桜井誠の主張には賛成できないと思う。しかし、私は、多くの間違いや勘違いがあるとしても、桜井誠の思想や行動は高く評価しなければならないと考える。桜井誠の思想と行動は、ホンモノだからだ。
私は、思想とは、第一義的には、客観的に「真か偽か」という問題よりも、その思想が、その思想の主張者にとって、土着化しているか、あるいは存在論化しているか、あるいは内在化しているか、というところにあると考える。
客観的に、あるいは科学的に「正しい」からといって、いつも価値があるという訳ではない。
たとえば、佐藤優は、『神学の思考』でこう言っている。
《人間と神は質的に異なります。有限な人間が無限な神について、本来、語ることはできません。それにもかかわらず、人間は神について語らなくてはなりません。この緊張関係から神学が生まれるのです。》
《ただし、社会学者の視座をとっていては、キリスト教神学を理解することはできません。神学においては、客観的にとらえるのではなく、キリスト教への主体的なコミットメントが求められます。これは、キリスト教を信じることと同義ではありません。キリスト教に激しく反発するという形でのコミットメントでも構いません。キリスト教が説こうとしている事柄を、単に知識として知ろうとするのではなく、自らの人生の問題として受け止めることが、神学を学ぶ人に要請されているのです。》(『神学の思考』)
ここで、佐藤優が言っていることは重要である。佐藤優は、「神学」や「キリスト教」という言葉を使っているが、むろん、神学やキリスト教に限る話ではない。思想や文学においても、同じことがいえる。
社会学や哲学、あるいは学問というものの限界が、ここにある。私は、佐藤優が、「神学」や「キリスト教」を通して言おうとしていることが、「文学」においても言えると思う。少なくとも、私は、文学を通して、佐藤優が言おうとしている思考の問題が理解できる。
それは「主体的」という言葉に要約される。文学もまた「主体的」な思考態度を要求される。科学や社会学などが問題にする「客観的真理」などを主張しても意味はない。あくまでも「主体的真理」が問題なのだ。
私が「思想の土着化」とか「思想の存在論化」、あるいは「思想の内在化」という問題も、実は、この「主体的」な思考と態度のことである。それは、「思想」ではなく、「思想家の生き方」に直結している。
佐藤優は、廣松渉について、こんなことを言っている。
《なぜ、廣松を二一世紀初頭ののいま、日本というこの場所で、正面から取りあげることが重要なのだろうか。筆者の考えでは、廣松が思想のもつ意味を心底理解していた哲学者だからである。廣松にとって、哲学とは「知を愛好する」ことにとどまらず、生き死にの原理となる思想であった。この点が廣松の限りなき魅力なのだ。》
《廣松には、近くで接した人々の磁場を狂わせるカリスマがある。このようなカリスマは、政治活動、特に革命を志向する者には、不可欠の資質なのだ。オーガナイザーとしての能力といってもよい。》(佐藤優『共産主義を読みとく』、「いまこそ廣松渉を読み直す『エンゲルス論』ノート」)
佐藤優がここで言っていることは、廣松渉という哲学者は、単なる「哲学研究者」ではなく、実践的な「革命家」であった、ということである。
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