http://www.asyura2.com/16/senkyo211/msg/517.html
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「戦前の保守は立憲主義を守ろうとしたが、最近の保守は立憲主義を左翼思想呼ばわりして、それを足蹴にする」
http://sun.ap.teacup.com/souun/20593.html
2016/8/21 晴耕雨読
住友陽文氏のツイートより。https://twitter.com/akisumitomo
国民共同体(Nation)と権力機構(State)を同一視し、国家は悪ではなく国民と一体のものなので、その権力を制約するのはおかしいと。
左翼的だと。
なんなんだ、その理解は。
もちろん制約すべきは国民の共同体ではなく権力の方だが、保守を自認するのに、立憲主義を左翼思想呼ばわりする。
戦前の保守は立憲主義を守ろうとしたが、最近の保守は立憲主義を左翼思想呼ばわりして、それを足蹴にする。
なぜそんなことを言うのかと言えば、国家権力と国民個人とは敵対関係ではなく一体のものだからだそうだ。
では今沖縄で起きていることは、あれは何なんだ。
社会の進歩に伴う行政需要の増大に対応すれば官僚制は膨脹する。
官僚制がその専門性に閉じこもるのに対抗するのが民主主義で議会制はその一つの対応。
世論政治は時に暴走するし、一般的に権力は法を逸脱する。
だから権力を制約する原理である立憲主義が必要となる。
立憲主義が不要になることはない。
>nationは国民共同体というよりも民族共同体であるような気がします。
日本などの主権国家は、さまざまな民族が同一の国民として編成される国民国家なので、Nationは民族というより、国民というべきだと思います。
>INOHARA Tohru 戦前日本の知識人の多くが、普遍や世界、人類といった観念を自分の「外」にあるものとして捉えたのに対して、内村鑑三は「隣の熊さん八つぁんこそが人類なのだ」と喝破した。私は普遍的世界の中に生きており、人類愛というのは私や私のご近所さんを大事にすることと別のことではないのだと。
>INOHARA Tohru 加藤周一の「青春ノート」を読んで感じるのも、そうした内村鑑三的な発想だ。戦時中の加藤にとって、普遍や人類といった観念はとても大事なものだった。ただそれは私の「外」にある世界(軍国日本)を批判するための道具というより、「私」を大事にすることと普遍や人類といった観念を大事にすることが
>INOHARA Tohru イコールであったということ。
>INOHARA Tohru ETV特集の再放送を観ている。カメラがあと30度横を向いていたら映ったのに!とか思いながら。
加藤周一の特集。
最後のクレジットに、取材協力者として、成田龍一さんらと並んであなたの名前もありましたね。
>選挙区から原子的な個人を単位とする投票によって選出された代議士が、選挙区ではなく、国民を代表するというフィクション(一応、選挙制度の問題を度外視しても)。どうして地域代表ではないのか。どうして量に還元された個人が代表の選出単位なのか。(講義録)丸山眞男bot
このフィクションは、日本国憲法下のみならず、大日本帝国憲法下でも同様に生きた存在であった。
選挙区の範囲や、議員定数を考えるうえで参照されるのは、これも戦前・戦後同じく、有権者数ではなく、そこに住んでいる全国民数(選挙資格の有無にかかわらず)だということも、あまり知られていないが、考えてもみれば、だからこそ国会議員は国民代表なんだ。
有権者代表ではない。
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