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「小泉純一郎にあって、加藤紘一になかったもの」山崎拓がいま明かす「真実」 総理になれた男と、なれなかった男の違い
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49349
2016年08月07日(日) 週刊現代 :現代ビジネス
取材・構成:横田由美子(ジャーナリスト)
21世紀目前、永田町は大物議員のクーデターに激震した。「加藤の乱」である。乱はホープと呼ばれた3人の男の運命を大きく変えた。なぜ加藤は敗れ、小泉は飛躍したのか。山崎拓が「真実」を明かす。
■国会前、二度のUターン
〈「私と山崎さんは、これから本会議場に行って不信任案に賛成投票をしてくる。同志の皆さんはここに残ってください」
騒然とする場内。すると、加藤派の谷垣禎一が血相を変えて加藤に駆け寄る。
「あなたは大将なんだから、一人で突撃なんて駄目ですよ」
「ついてこなくていい。俺と拓さんだけで行く」
と、加藤は谷垣を突き放した。
実は加藤の「俺と拓さん」というのは一方的な宣言で、事前に私の了解を取ったわけではなかった。しかし、あくまで友情を全うするため、私は加藤についていった〉
——山崎さんの著書『YKK秘録』(講談社・7月19日発売)には、森政権打倒を目指した自民党内のクーデター「加藤の乱」('00年11月)の様子が、まさに当事者の目線で活写されています。
山崎(以下同)あの日、(加藤派の会合の後)二人きりでハイヤーに乗って国会に向かう際、途中まで加藤は、「俺とアンタだけは(内閣不信任決議に)出席しよう。そして党を割ろう」と、意気軒昂に話していました。しかし、加藤は明らかに迷っていた。そして私も、政治家人生の破滅を予感していました。
党を除名になってその後はどうする、と考えているうちに車が議事堂の門に近づいた。その瞬間、加藤が「やっぱり帰ろう」と言い出したんです。
——「討ち死に」を覚悟したはずが、腰砕けになってしまったのですね。
政治生命がかかっているのだから、逡巡する気持ちはよく分かります。だから私は、「どっちでもいいよ。アンタが突っ込むなら、俺も突っ込む」と言いました。
ですがその直後、矢野絢也さん(元公明党委員長)から私に電話が入り、「何やってるんだ!早く行かないと政治生命を失うぞ」と発破をかけられたため、改めて私たちは国会に向かいました。
ところが、国会に近づくと、またしても加藤の心が折れてしまった。
ホテルに戻り、全身の力が抜けてぐったりしていた私に、加藤は三度、「拓さん、行こう」と言ってきましたが、私は突っぱねました。「三度目の正直というわけにもイカンじゃないか」と。加藤は一人でホテルを出ましたが、案の定というか、すぐに戻ってきました。
■エリートと奇人と凡才
——『YKK秘録』では、加藤の乱の後、小泉純一郎氏がクーデター失敗を最大限に利用し、総理の座に上り詰めていく姿が生々しく描かれています。
実力は十分なのに、あと一歩で総理の座に届かなかった政治家は少なくありません。加藤紘一氏も、早くから宏池会のプリンスとして将来を約束された存在でしたが、結果としてYKKで総理になったのは小泉氏でした。
総理になれる政治家となれない政治家、違いはどこにあるのでしょう。
資質はもちろんのことですが、最も大きなものは、「運」だと思います。そして、政治センス。
加藤は私たちYKKの中で、明らかに抜きんでた存在でした。私と加藤は当選同期ですが、スピード出世していく加藤に対し、私と小泉は二歩も三歩も遅れていた。加藤が超秀才なら、小泉は奇才というか、奇人。私は凡才だと思っていた。
性格的にも私と加藤はまるで異質の存在です。しかし、なぜか初めからウマが合い、すぐに仲良くなりました。加藤は東大卒の外交官出身で世襲議員という「超エリート」。ただ本人は、エリート意識を露骨に出すタイプではありませんでしたが。
私は政治家として「一世」で、体育会系で、勉強がすごくできたというタイプではない。加藤の周りには私のような人間がいなかったので、それで関心を持ったのでしょう。対照的なタイプであるが故、一緒にいれば合板のように強くなれる、そう無意識のうちに考えたのかもしれません。
でも加藤はただの秀才ではないですよ。一度私が、「何かスポーツをやったことがあるのか」とからかったら、「バカにするな」と言って、なんとその場で宙返りをしたことがあります。身体能力にも恵まれていたんですね。あれは驚きました。
——一方で、小泉さんはどんなタイプでしょうか。
小泉はやや遅れて我々の仲間になるのですが、初めの頃は美男子という印象だけが強くて、特段目立った存在ではありませんでした。ほとんど話すこともなかったし、孤高な感じで、奇矯な発言や行動をするので周囲からも浮いていた。
イラクへの多国籍軍の空爆が始まる直前の'90年の大晦日、紅白歌合戦を見ている時に加藤から電話があり、「国政のことを話し合える『同志』を作ろう」と言われました。
年明けの国会で、加藤が「同期で同年輩というと小泉くらいしかいない」と言うので、私は、「小泉はエキセントリックな男だから話が合わないよ」と答えました。
すると加藤は「じゃあ本人に聞いてくる」と言って、そのまま小泉の席に行った。そしてすぐに戻ってきて、「本人に『君はエキセントリックだと拓さんが言っているが本当か』と聞いたら、小泉は『そうだよ、俺はエキセントリックだよ』と言った。面白い男だから仲間にしよう」と(笑)。これがYKKの始まりです。
——「奇人」と言われた小泉氏とエリートの加藤氏の相性は、傍からは微妙にも見えます。
確かに加藤と小泉は、本質的にはケミストリー(相性)が合わない部分が結構あったと思います。でも小泉はああ見えて、YKKの中では常に一歩身を引いていました。
例えば当時、3人で飲みに行くと、だいたい小泉がいちばん早く来て、下座に座って待っている。私が少し遅れて到着。たいていの場合、加藤がいちばん遅れてやって来ましたが、上座はいつも加藤のためにあけてありました。「自分が一番若いから」と言って、酒の世話をするのも小泉の役目だった。そういう部分は、実に謙虚な男なんですよ。
余談ですが、加藤は当時から有名人で、飲み屋でも女性に持て囃されるんですね。でも、そんなにもてない(笑)。圧倒的にもてたのは小泉でした。フェロモンというのですか。小泉には、女性を惹きつける何かがあった。
ともあれ私がいなかったら、YKKは崩壊していたでしょう。私は八方美人だったから(笑)、両方と仲が良かった。小泉は、加藤には「加藤さん」だったけど、私のことは「拓さん」と呼んでいた。個性の違う加藤、小泉の真ん中に私がいて、バランスが取れていた。
■加藤の口が軽すぎた
——そんな、一歩引いた立場を取っていた小泉さんが、加藤の乱が頓挫した直後から、「野望」をむき出しにしてきます。
加藤もわかっていたことですが、政治とは実に「冷厳」なものです。
加藤の乱の際、小泉は我々には同調せず、勝者の側になります。そして、乱の直後に開いた私の誕生日パーティーに、突然乗り込んで来るのです。
そして壇上でマイクを握ると、こう言い放った。
「YKKは友情と打算の二重奏です」
「皆さんは、私が友情でこの場に来たとお思いでしょうが、さに非ず打算で来たんですよ」
小泉の言葉はYKKの本質を表していました。「友情と打算の二重奏」、まさに我々の関係そのものです。そしてそこには、非常に政治的な「綾」が含まれた、こんな意味も込められていました。
「俺は打算で来たんだ。次は俺を応援しろ。お前らは失敗したんだから、今度は俺の応援をしろ」
実際、私はその後、彼の「支え役」になります。自分で言うのもなんですが、小泉政権の初期は、私が参謀役としてついていなかったら、もたなかったと思っています。
仄聞したところでは、小泉が'01年の総裁選に勝利すると、即座に中曽根(康弘元総理)さんから電話が入って、
「山崎を幹事長にするしかお前に道はないぞ」
と、おっしゃったそうです。それぐらい彼の足元は脆弱だった。小泉政権を真の意味で支えたのは彼の出身派閥である清和会ではなく、山崎派だったということです。
——うまく乱に乗じた格好の小泉氏は、最初からすべてを計算して動いていたのでしょうか。
それはないと思います。ただ、小泉はその前に2回、総裁選に出馬して、惨敗している。
彼は俗に言う「賄賂」を絶対に受け取らなかった。私は、小泉と全盛期の小沢一郎の政局勘の鋭さは非常に似たところがある、と何度か感じたことがありますけれど、政治とカネに関するスタンスにおいては、両極の存在だったと思う。
でもそれゆえ、小泉は派閥を持つことはできませんでした。派閥は資金がなければ結束を保つことができないですし、人事権も持てない。
小泉は2度の総裁選敗北で、清和会頼みでは、総裁選に勝てないことを肌で感じていたでしょう。そんな時に加藤の乱が起き、その中で一糸乱れず行動を共にした山崎派の結束力を見た。味方が少ない彼は、山崎派こそ自分の支えになり得ると考えたのでしょう。
——加藤の乱の際、加藤派の方はXデー前に切り崩されていき、側近だったはずの古賀誠氏まで離反していますね。そうしたことがクーデターの失敗につながります。
その辺りは『YKK秘録』にも記載しましたが、加藤が「黙っていられなかった」ことが原因だと思います。加藤は事前に民主党(当時)の鳩山由紀夫氏や菅直人氏、仙谷由人氏、枝野幸男氏らに大連立構想を持ちかけていましたし、森さんと緊密な、青木(幹雄)さんに倒閣後の人事構想まで持ちかけていた。
乱の直前、小沢一郎と会った際、「紘ちゃんはひとりよがりで脇が甘いところがある。話が漏れるのが早すぎて、切り崩されてしまうぞ」と警告も受けました。謀をペラペラと話してしまえば、すぐに次の手が打たれるに決まっている。
不安は的中し、加藤派は不信任決議の日までに多くの議員が切り崩されてしまいます。それにひきかえ山崎派は、当時森内閣の法務大臣だった保岡興治をのぞき、全員が私についてきてくれた。
実は保岡も「辞任しなくていいの?」と、聞いてきました。それで私から、「閣僚が不信任案に賛成するのはおかしい。自らの不信任を自分でやるようなものだ」と窘めた経緯があるくらいです。
■我々を踏み台にした小泉
小泉は、「加藤の乱」の中で、こうした経過をつぶさに見ていました。表面上は友情に導かれて助けに来たように振る舞いつつ、山崎派を新しい「バック」にして、自分が表舞台に出ることを私に対して宣言したのです。
そういう意味で、YKKのうち最も酷いのは、小泉ということになるのかもしれません(笑)。結果的に狙い通り、我々を踏み台にして総理の座に就くのですから。
——小泉政権の誕生により、自民党の旧来型派閥政治は終わりを告げます。そして、自民党の下野と民主党への政権交代を経て、現在の安倍政権につながる政治のダイナミズムを生み出すことになります。YKKは、そうした意味でも時代を画す存在だったと言えます。
こんなことがありました。ある晩、小泉が、
「加藤さんも拓さんも、二人とも総理大臣になりたいんだろう?」
と、聞いてきたことがあった。加藤はキザなところがあったので黙っていましたが、私は素直に「うん、なりたい」と応じた。すると小泉が、
「総理になる順番はじゃんけんで決めろ。勝った順に応援してやる」
と、言うのです。
「じゃんけん」はしませんでした。なぜなら、加藤は「絶対自分が先になる」と思っているから、万が一負けたら、大変なことになってしまう(笑)。
そこで私が小泉に、「あんたはならんのか?」と、水を向けたら、
「ファーストレディがいないと、外遊する時に困るだろう。YKKで、2人もやればいいだろう」
と答えました。
私は、加藤が総理になったら、「じゃあ、後は拓さんやれよ」と推してくれるのかなと、心のどこかで思っていました。加藤は私のような者が支えないと総理は難しいだろうと思っていたし、彼は総理の座を狙いはしても、それほどしがみつかないだろうと見ていた。加藤には、そういう淡泊なところがあったからです。
ですが、総理になったのは加藤でも私でもなく、小泉でした。振り返れば私と加藤は、小泉に比べると随分、ウブだったのかもしれませんね。
「週刊現代」2016年8月6日号より
31年に及ぶ議員生活の記録であり、政界「奥の院」の記録でもある
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