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都知事選がどうしてこうなったのか
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
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2016年7月22日(金)
小田嶋 隆
参院選が終わってほっとする間もなく、都知事選がはじまっている。
今回の選挙は、参院選以上にピンと来ない。
正直な話、困惑している。
いや、ガチで本当に正直な話をすれば、私は困惑しているのではない。
私は、うんざりしている。
不快感や嫌悪に囚われた時、気持ちの弱い人間は、本当の感情を押し隠して、態度の上では困惑として表現する。あるいは、ヒトサマの前でナマの感情を露呈するのは不躾な態度だという子供の頃からしつけられているマナーが、あからさまな不快感の表明を思いとどまらせているということなのかもしれない。
いずれにせよ、この国では(「東アジアでは」と言った方が正確かもしれない)正直はマナー違反だ。うんざりすることも、だが。
今回、選挙についての文章を書くにあたって、私は、礼儀正しさよりは、正直さの方を重んじる態度で取り組むつもりでいる。
というのも、選挙は、人々を怒らせたり、うんざりさせたり、熱狂させたりする、扇情的なイベントだからだ。
選挙の度に、ツイッターのタイムラインが、感情的な言葉で埋め尽くされるのは、偶然ではない。ある人々は、それ(感情的になることそのもの)を楽しんでいる。対立する陣営の政治的主張を冷笑したり、特定の誰かを口汚い言葉で罵ったりすることで癒される人々の存在が、選挙を選挙たらしめているというふうに言い換えても良い。
政治好きな人々の中には、感情を動かすこと自体を好むタイプの人間が一定数含まれている。
彼らは怒鳴り散らしたいという理由で立候補し、存分にわめきまわるために誰かの支援者になっている。
感情的になることは、サッカーの応援でもそうだが、われら庶民に与えられた伝統的な娯楽だ。
そういう意味では、私がうんざりしていることも、精神のストレッチングみたいなものなのだろう。
感情が動かなくなると、人は無気力になる。
たまには怒ったりうんざりしたり、悲しんだり喜んだりせねばならない。
選挙は無感動になりがちな現代人にとって、精神のリハビリなのかもしれない。
選挙を理詰めで書くこともできないわけではない。が、その書き方では、この、祭りに似た下世話で扇情的な営みの、最も大切なポイントを拾いきれない。選挙やボクシングのような、人々の感情を煽るイベントを扱う書き手は、感情を無視するべきではない。私は、選挙のような感情にまみれた出来事を正確に描写するためには、自分の感情も含めて、様々な人間の感情を正直に書くことが、結局のところ、一番の近道なのだと考えている。
もっとも、政治向きの事柄に関して、正直な書き方を試みることは、様々な人々を怒らせる意味で、めんどうくさいことでもある。
今回は、そうしたなりゆきには、頓着しないことにする。怒る人は怒れば良い。
理性的であるべきである旨を主張している人は、つまるところ、感情的になっている。
私はといえば、感情的になっている人間が投げて寄越すアドバイスの内容が、感情的になるなということだったりするバカバカしさに、ずいぶん前からうんざりしている。つまり、私は感情的になっている。だから、当稿では、自分の感情を熟考の結果であるみたいに見せかけるテのトリックを採用するつもりはない。
私の都知事選への嫌悪感は、なによりもまず、政党の候補者選びからはじまっているのだが、その件については先週の当欄で既に書いている。
現状で私の心をとらえているのは、個々の候補者への失望だ。
いや、失望というのは不正直な言い方かもしれない。
私は、21人の候補者全員をまるで支持していない。どちらかといえば、軽蔑を感じている。やはり、うんざりしていると書くべきだろう。私は、彼らにうんざりしている。顔も見たくない。なので、テレビが知事選の話題を扱うと、その瞬間にスイッチを切る。彼らは私にとってそういう人たちだ。
こういうことを言うと、賢い人たちが
「民主主義は、ベストを選ぶシステムではない。ワーストを避けるための知恵だ」
てなことを教えてくれるために大挙押しかけてくるのが最近の流れだ。
わかっている。
彼らの言うことは正しい。
選挙は、素晴らしい人や、ついて行くべきリーダーや、すべてを任せるに足る理想的な政治家を選ぶための枠組みではない。数ある候補者の中から、満足はできないまでも、とりあえず最悪な人間が権力に近づくことを阻止するために、大勢の有権者が、せめて一番マシに見える候補者の名前を投票用紙に書き込むことを通じて、結果として、最も悲惨な結末を避けるために先人が残してくれた安全弁だ。それが、つまりは、選挙という実りある徒労なのであろう。
ただ、それにしても、今回の候補者の顔ぶれはあまりといえばあまりにもひどい。
正直に書くと言った手前、なるべく遠慮しないであるがままの本音を言うことにするが、私の見るに、今回立候補している人々の中に、知事職を追われていまはただの人になっている舛添さんや猪瀬さんと比べて、多少なりとマシに見える人は、一人たりともいない。ついでに申せば、直前になって出馬を辞退した宇都宮健児さんと比べて、マトモそうに見える人もまったくいない。ついでのついでに余計なことを申し上げるならば、私自身と比較してみても、オレより見識のありそうな人間は、一人も見当たらない。つまり、クズだらけなのだ。
どういう考え方を採用したら、こんな人たちのうちの一人に投票できるというのだろうか。
公示期間中でもあるので、どの候補者のどの部分がどんなふうにイヤであるのかについて、いちいち書くことはしない。
ただ、都知事選の候補者の顔ぶれをひと通り眺め直してみて言えるのは、彼らが、そもそもがろくでもない昨今の国政選挙の候補者と比べてみてさえ、「有権者を舐めている」度合いが著しく高い。選挙公報に載っている彼らのうちの一人が同じマンションの別の部屋に入居してきたら、私は真剣に引っ越しを検討するだろう。
どうしてこんなことが起こるのだろうか。
立候補する政治家の側から見て、選挙は、2週間という非常に短い期間に、自分の政見と人物像を選挙区内の有権者に訴えて支持を取り付けなければならない非常にハードルの高いミッションだ。
それでも、政党に属し、選挙区で日常的な政治活動に従事している政治家は、普段の日常の中で、選挙期間中とは別のアピールをすることができる。
選挙区も、小選挙区の場合は、ほぼ自転車で回れる範囲に限られている。
とすれば、まったくの新人でない限り、政治家は、日々の活動の中で、有権者に自分の顔と名前を覚えてもらう地道な活動に活路を見出すことができる。
となれば、選挙自体も、まるっきりの人気投票(知名度合戦)にはならない。
ところが、都知事選は、東京都という膨大な選挙区をすべてひっくるめた1127万4080人の有権者(7月13日現在)が、たった一人の知事を選ぶ、極めて抽象度の高い選挙だ。
このレギュレーションで戦う限り、あらかじめ高い知名度を持っていない候補者は、はじめから勝負の土俵に乗ることさえかなわない。
今回、21人の候補者が立候補しているが、事実上の選挙戦が、一定の知名度を備えた3人の候補者の間で争われることは、告示前からはっきりしていたし、現在でもこの設定はまったく変わらない。
1000万人以上の選挙民が、かくも短期間に1回の投票でたった一人の候補者を選ぶようなべらぼうな選挙がほかにあるだろうか。
私が知っている例では、フランスの下院および大統領選挙は、2回投票制を採用している。アメリカの大統領選挙も、全米の州ごとに予備選挙や党員大会を順次繰り返して、民主・共和両党による指名候補者を絞り込み、最終段階で、各州の大統領を選ぶ大統領選挙人を間接選挙で選ぶという、慎重な方法をとっている。期間としても、最終的に大統領を選ぶまでに、ほぼ丸1年を費やしている。
先日まで行われていたイギリス保守党の党首選挙(事実上の次期首相選挙)も、投票を何回か重ねて最終的に候補者を一人に絞るシステムを採用している。
これだけ周到な予防線を張っても、それでもなおトランプのような候補が選ばれてきてしまうのが選挙のおそろしさで、それはそのまま民主主義の不気味さということでもある。
東京都知事選挙のレギュレーションには、今挙げた例の中に見られるような安全弁や再考の機会が、まったく含まれていない。
東京都知事選挙が繰り返される度に、ネット上では「都民の民度」という話題が蒸し返される。
まあ、千葉県知事選挙の時も千葉県民の判断力がしきりにあげつらわれていたわけだし、大阪の市長選や知事選でも浪速の知能指数が他都道府県民の嘲笑の的になっていたのだからして、これは、東京都に限った話ではないのだろう。要するに、首長選挙という枠組みは、どこで実施されるのであれ、多かれ少なかれバカな人気投票に終わるということだ。
そして、その中でも東京都知事選のバカさは、群を抜いている。
この選挙が毎回バカな結果に帰着するのは、これまで、この選挙が、毎度必ずバカな人物を選び続けてきた結果によってもたらされている呪いのようなものだ。
マトモな政治家や、賢い候補者や、意欲あふれるリーダーは、最初の立候補の段階で二の足を踏んでしまう。
だって、この選挙がテレビで名前の売れている電波有名人以外はお呼びでない、極め付きのポピュリズムミーハー投票に帰結することは、誰であれマトモなアタマを持った人間には初めからわかりきった話だからだ。
ということはつまり、それでもなお立候補するのは、その電波有名人の資格を備えた軽薄才子か、でなければ、現実を現実としてリアルに認識することのできない夢想的な人々に限られるということでもある。
で、そういう人間が21人並んでいるのがこの度の選挙公報ということになる。
悲しいのは、バカな選挙結果が続いた歴史が、政党の候補者選びを無原則なアイドル総選挙の劣化版に堕さしめ、そうやって選ばれた馬鹿神輿の候補者が有権者を舐めた選挙戦を展開することで、ますます心ある有権者が選挙に(投票するしないは別の問題として)背を向ける結果をもたらしていることだ。
このレギュレーションでは、そもそもマトモな候補者を立てること自体が困難だし、仮にマトモな候補者が立ったのだとしても、その候補者は、まず当選できない。そういういたちごっこを、われわれは繰り返している。
選挙の当日、私は投票所に足を運ぶつもりだ。
誰の名前を書くのかは、まだ決めていない。
私が投票所を訪れる理由は、誰かの名前を書きたいからではない。私が投票所に赴く主たる理由は、どこかの媒体にインタビューされた折に、投票に行かなかった旨を答えることで惹起されるであろう不愉快な騒動をあらかじめ避けたいからだ。
投票所では、誰かの名前を書くことになるだろう。
しかしながら、私が書く名前は、その人物を当選させたいからという理由で書く名前ではない。ほかのもっと大嫌いな候補の当選を阻止するためにのみ、私はその人物の名前を書くはずだ。
投票が終わったら、小学校の校庭にある手洗い場で、手を洗おうと思っている。
石鹸をたっぷり泡立てて、不本意な汚れ仕事に疲れたかわいそうな手をいたわってあげたい。
手を洗い終えたら、投票所に向かって中指を立てて、静かに帰路につきたい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
それでも、夕方、投票所にたくさん人が来るのを見るだけで
私はなにかほっとする気持ちが味わえるのです。
当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。(担当編集Y)
このコラムについて
小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明
「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。
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