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トニー・ブレア英首相とジョージ・W・ブッシュ米大統領(当時)。あのイラク戦争は何だったのか?〔photo〕gettyimages
イラク戦争を検証し続けるイギリスと、一顧だにしない日本〜その「外交力」の致命的な差 日本が噛み締めるべき「教訓」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49220
2016年07月21日(木) 笠原敏彦 現代ビジネス
文/笠原敏彦
■イラク戦争とは何だったのか?
イギリスは「検証の国」だ。
その背景には、今ある社会を、現在と過去と未来をつなぐ存在とみなす叡智があるように思う。将来世代に対し記録と教訓を引き継ぐ意思が社会のDNAとなっているということである。
しかし、検証はときに日本人が考えるほど立派なものではなく、問題に区切りを付けるための便宜的な手段となることもある。その中で、イギリスのイラク戦争参戦の経緯などを検証してきた独立調査委員会(チルコット委員会)が7月6日に発表した報告書は圧巻である。
7年の歳月をかけ、参戦を決めたブレア首相ら当時の政府高官ら約150人を聴取、政府文書への完全なアクセス権を与えられ15万件の証拠を調べ上げた。そして、「軍事行動は最後の手段ではなかった」「法的根拠を十分に満たしたというにはほど遠い」などとブレア氏を厳しく批判している。
英紙「フィナンシャル・タイムズ」は社説で報告書をこう評価している。
“イギリスの統治の在り方には嘆くべきことが多い。しかし、少なくともこのチルコット報告書で、イギリスのエスタブリシュメント(支配層)は重大な失敗を不問に付すことはしないという決意を示した”
イギリスのイラク戦争に関する独立調査委員会の検証は実に今回で3回目だ。イラクの大量破壊兵器(WM)をめぐるブレア政権の情報操作疑惑を主に扱った過去2回の検証報告書は国民から「うわべだけのごまかしだ」などと批判を受け、今回の徹底的かつ包括的な検証につながった。
イギリスはサダム・フセイン政権の大量破壊兵器の脅威を大義としてアメリカとともにイラク戦争を始め、2003年3月の開戦から09年の撤退までに兵士179人の死者を出した。しかし、大量破壊兵器は見つからなかった。
さらに、ブレア首相が主張した「世界をより安全にするための戦争」は結果的に何をもたらしたか。
ロンドンでは2005年に死者56人を出すイギリス史上最悪のテロが起きた。
世界はイラク戦争の「落とし子」と言える過激派組織「イスラム国(IS)」のテロの脅威にさらされている。多大な犠牲を払ったイラク戦争とは「一体何のための戦争だったのか」。国民の多くが自問し続けてきたのである。
その国民の思いが結実したとも言える今回の検証報告書(約260万語)は、冒頭の要旨部分だけで147ページにも及ぶ。この検証に注がれた膨大なエネルギーは、イラク戦争がイギリス社会に残したトラウマの大きさ示すものだろう。
筆者は、巷間よく言われてきた「イラク戦争は石油のための戦争だった」という説への関心から、その部分をかいつまんで読み進めているが、この膨大な報告書全体を読む人はまずいないだろうと思う。
それでも敢えてこの報告書の内容をかみ砕き、イラク戦争の「評決」を言い渡すなら次のようなものだと考えている。
“戦争には、「必要な戦争」(war of necessity)と「選択的戦争」(war of choice)がある。イラク戦争は「必要な戦争」ではなかった。開戦の根拠と大義をあいまいにした「誤った戦争」だった”
■「外交巧者」イギリスの米国活用法
検証報告書からは多くの教訓を引き出すことが可能である。しかし、その最大のメッセージは英米同盟についてのものであり、報告書は「我々の利益と判断がことなるとき、無条件の(対米)支援は必要ない」と結論付けている。
これは、ブレア首相が国連安保理での武力容認決議を抜きに、国際社会の反対を押し切ってブッシュ米大統領と肩を並べてイラク戦争に突き進んだことに対する批判であり、教訓だ。
イラク戦争で英米間に起きたことは、日本にとっても日米関係の在り方を考える際に大いに参考になるものだろう。以下、順を追って論点を整理していきたい。
* * *
報告書は、ブレア首相が開戦8ヵ月前の2002年7月、「何があっても行動を共にする」とブッシュ大統領に伝えていた書簡を機密解除させ、公表した。すでに参戦を決意しているかのような物言いだ。
ブレア首相はなぜ、そこまでしてアメリカを支えようとしたのか。この点は、彼のパーソナリティの問題としてではなく、英米関係の歴史的な文脈に位置づけて捉える必要がある。
日本人から見ると、英米関係は昔から緊密だったかのように思うかもしれない。しかし、同盟関係とは誰かが築き、絶え間ない管理が必要な繊細なものである。英米関係も同じであり、その歴史を紐解くと、「外交巧者」と呼ばれるイギリスの姿が見えてくる。
英米関係を特徴づけるものに「2つのアングロサクソン国家」と「特別な関係」という2つの言葉がある。これらはいずれも、イギリス側が生み出し、対米アプローチの基礎としてきたものである。
「2つのアングロサクソン国家」という言葉は、パックスブリタニカ(イギリスによる平和)の限界が見え始めた19世紀後半に、イギリス側から使われ始める。ようは、新興国として台頭してきたアメリカのパワーを国際秩序の維持に利用するために、都合の良い定義だったのである。
また、「特別な関係」という言葉は、ウィンストン・チャーチルが1946年に行った「鉄のカーテン」演説で初めて使われた。東西冷戦が幕を開け、イギリス単独では共産主義の脅威から欧州を守れなくなった時代だ。この言葉には、アメリカを欧州防衛に関与させ、英米の「特別な関係」で欧州と自由主義世界の平和と繁栄を支えようという思惑が込められている。
イギリスは大英帝国が衰退し、消滅する過程で英米関係に「2つのアングロサクソン国家」や「特別な関係」という意義付けを行うことで、影響力の確保を図ろうとしてきたのである。
イギリスの外交巧者ぶりを示す表現に「punch above her weight(実力以上の影響力を発揮する)」というものがある。まさに、アメリカに寄り添うことでアメリカに一定の影響力を確保し、それをテコに世界に実力以上の影響力を及ぼすというイギリス外交の在り方を示すものである。
ブレア首相が対米追随でイラク戦争に参戦した理由のひとつは、「帝国後」のイギリスの対米アプローチに由来するものと言えるだろう。
■ブレアはなぜ参戦を決断したか
しかし、この説明はブレア首相の参戦判断の理由の一部に過ぎないように思う。
第二次大戦後、イギリスとアメリカはスエズ危機、ベトナム戦争、フォークランド紛争で明瞭に袂を分かっている。検証報告書も「イギリスとアメリカの関係は誠実な見解の不一致に耐えうるほど強固であることを証明してきた」と指摘する。
それでは、ブレア首相の真意はどこにあったのか。
その鍵は、米シカゴで1999年4月に行い、「ブレア・ドクトリン」と呼ばれるようになる外交演説にある。
ブレア氏は当時、旧ユーゴ・コソボ紛争での北大西洋条約機構(NATO)の軍事介入を主導し、新たな世界の指導者として脚光を浴びていた。
その絶頂期にあって、彼は民族浄化や独裁国家の人権弾圧に対し、国際社会が積極的に介入すべきだという「人道介入主義」を提唱し、こう訴えたのである。
“我々が安全でいたいなら、他国の紛争や人権侵害に背を向けることはできない。我々の問題の多くはサダム・フセインとスロボダン・ミロシェビッチ(当時ユーゴスラビア大統領)という2人の男により引き起こされているのである”
そして、歴史的に見て孤立主義に陥りがちなアメリカの国民に呼びかける。
“決して再び孤立ドクトリンに引きこもらないでいただきたい。世界はそれに耐えられないのです。そして、イギリスという友人、同盟国があなた方とともにあることを理解して下さい”
当時のブッシュ政権下では、ネオコン(新保守主義)が強い影響力を持っていた。彼らの外交姿勢は単独行動主義と呼ばれた。超大国アメリカの行動はどの国からも束縛されてはならず、イラク開戦では国連の承認など必要ないという姿勢だった。
ブレア首相は、イラク戦争をめぐりアメリカが国際社会から孤立することを強く懸念していた。そうなれば、世界が著しく不安定化すると考えたのだろう。
ブッシュ大統領との書簡で「何があっても行動を共にする」と訴えたのは、ブッシュ大統領を説得し、安保理決議を得るために「国連ルート」を歩ませるための約束だったのである。
ブレア首相がより平和な国際社会を目指すために掲げた人道介入主義は、信条的「確信」だったのだろう。
そして、その「確信」が世界を混迷に陥れることになる。
■英米関係の「失敗」から我々が学ぶべきこと
検証報告書が公表された日、ブレア氏は記者会見を開いた。会見は2時間に及んだ。ブレア流の「説明責任」の果たし方なのだろう。その模様をBBCで観ながら、彼は少なくとも一つ、本心を明かしていないと思った。
それは開戦の大義とした大量破壊兵器が見つからなかったことに関するものだ。ブレア氏は「国民を欺いて参戦した」という批判に繰り返し反論し、「誤った情報」に責任をなすりつけた。
しかし、筆者は、ブレア首相にとってフセイン政権が大量破壊兵器を保有しているか否かは大きな問題ではなかったのだと考えている。大量破壊兵器はフセイン政権を打倒するための「口実」でしかなかった。彼にとっては「フセイン大統領を追放して世界をより平和にする」という目的こそが重要だったように思えるのである。
コソボでの民族浄化に対するNATOのユーゴ空爆は「正義の戦争」とも呼ばれた。しかし、この軍事行動は国連安保理の決議を経ていない。それでも、この戦争を批判する声はあまり聞かない。結果が「成功」だったからだろう。
一方で、イラク戦争は明らかに「失敗」に終わった。
検証報告書公表の3日前にバグダッドで起きた自爆テロは290人超の死者を出し、1回の爆発としてはイラク開戦以降で最悪の惨事になった。この出来事だけを見ても、軍事介入がイラクにもたらした混迷の深さは明らかである。
サッチャー首相は英米関係について次のように語ったことがある。
“我々(英米)が協調することは世界にとって幸運だ。英語諸国民(English speaking peoples)により専制政治は阻止され、自由が回復されてきた”
20世紀の二つの世界大戦や東西冷戦、湾岸戦争……。ブレア氏にとってイラク戦争は英米協調の輝かしい新たな一章になるはずだった。しかし、結果は逆に、英米関係を致命的に傷つけるものとなってしまった。
イギリス下院外交委員会は2011年3月、イラク戦争の調査結果を報告書としてまとめた。報告書は「特別な関係」はもはや実態を示していないと指摘。「特別な関係」という言葉は「英米関係がイギリスにもたらす利益について非現実的な期待を生む」との教訓を引き出し、「その使用は避けるべきだ」とまで提言している。
* * *
イラク戦争における英米関係の在り方から、日本が学べる教訓は少なくないだろう。今後、しっかりと検証報告書が吟味されることを期待したい。
筆者が気になるのは、検証報告書が「利益と判断が異なるとき、無条件の(対米)支援は必要ない」と提言している点だ。
アメリカとの「対等な関係」を模索する向きもある日本が、「アメリカの戦争」で強く軍事的支援を要求されたとき、果たしてこのイギリスの教訓を生かすことができるのだろうかと考えてしまうのである。
笠原敏彦 (かさはら・としひこ)
1959年福井市生まれ。東京外国語大学卒業。1985年毎日新聞社入社。京都支局、大阪本社特別報道部などを経て外信部へ。ロンドン特派員 (1997〜2002年)として欧州情勢のほか、アフガニスタン戦争やユーゴ紛争などを長期取材。ワシントン特派員(2005〜2008年)としてホワイトハウス、国務省を担当し、ブッシュ大統領(当時)外遊に同行して20ヵ国を訪問。2009〜2012年欧州総局長。滞英8年。現在、編集委員・紙面審査委員。著書に『ふしぎなイギリス』がある。
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