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一口に「憲法改正」といっても、その内容は千差万別である 〔PHOTO〕gettyimages
憲法学者・木村草太が各党の「改憲」マニフェストを読む〜いま最も危惧すべきポイントは?投票前に全国民必読!
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49029
2016年06月30日(木) 木村草太 現代ビジネス
■まずは整理してみよう
7月10日投開票の参議院選挙では、憲法改正が争点の一つになっている。
もっとも、一口に憲法改正といっても、その内容は千差万別だ。全く正反対の性質の改憲提案がなされることすらある。そんな中で、漠然と「憲法改正の是非が争点です」とか「憲法改正に賛成ですか?」と言われても、まじめに考えたことのある人であればあるほど、答えようがないだろう。
そこで、「改憲が必要なのか」を考える前に、まずは、憲法改正についてどんな議論が行われているのかを整理してみよう。
選挙序盤の報道では、自民、公明、おおさか維新などのいわゆる「改憲勢力」が、参議院で3分の2の議席を獲得する可能性もあると言われている。もっとも、それらの党を一括りにするのはあまりに乱暴な話だ。
それぞれどこをどう改正すべきかについての主張は、一致しているわけではない。各党の憲法改正についての選挙公約を検討してみよう。
■おおさか維新の会:本当に「憲法改正」が必要?
「おおさか維新の会」のマニフェストでは、"改革メニュー"の冒頭に「憲法改正」の項目が掲げられている。自民・公明両党のマニフェストが経済政策から始まっているのに比べると、おおさか維新は、かなり改憲に積極的だという印象を受ける。
では、その中身はどうか。
ここでは、@教育の無償化、A道州制の実現を含む統治機構改革、B憲法裁判所の設置の三つが提案されている。こうした主張の是非はひとまず置いておいて、これら提案を実現するために、本当に「憲法改正」までする必要があるのかを考えてみよう。
まず、@教育無償化は、現行憲法で禁じられているわけではない。国会が自ら法律を制定すれば実現できる問題だ。
法律の制定ならば、国会の2分の1の賛成でできる。本気でこの政策の実現を願うのならば、あえて憲法改正(国会の3分の2の賛成と、国民投票が必要)という茨の道を選ぶ意図が全く分からない。
次に、A道州制の項目を検討してみよう。おおさか維新の会は、市区町村といった基礎的自治体を自治の主な担い手と位置づけ、基礎的自治体ではカバーできない部分を道や州あるいは国が担うという「補完性の原則」を明文化すべきだとしている。
さらに、自治体の組織・運営に関する事項を自治体条例で決定できるようにした上で、法定事項について法律に優位する条例の制定を認めるという。
ここまで地方自治を一気に強化することが現実的であるか否かはおいておくとして、これらも地方自治法を改正し、自治体の組織・運営に関する事項や法律と異なる条例を認める事項を書き込めば実現できるだろう。現在の憲法には、都道府県制度の維持を義務付ける条文はなく、「地方自治の本旨」に基づく制度を設計するように求めているだけだからだ。
最後に、B「政治、行政による恣意的憲法解釈を許さない」ための憲法裁判所の設置。これは、昨年の安保法制の合憲性に関する不毛な議論を繰り返さないためと言われる。重要な法案について違憲の疑いがある場合に、法律の運用を待たずにその適法性の判断を裁判所ができるようにすべきではないか、という話は私も度々聞く。
憲法裁判所が機能するためには、裁判所人事に対する政治介入をいかに防ぐのか、あるいは、裁判所頼みになり国民的な議論を妨げるのではないかなど、非常に難しい問題もあり、私自身は慎重な立場をとっている。しかし、そうしたいくつかの深刻な問題をクリアできるのであれば、十分に検討に値するだろう。
ただこれも、法律で、政治・行政の恣意的憲法解釈を裁判所で争うための特別の訴訟形態を作ればよいのではないか。地方自治法が定める住民訴訟では、法律上の争訟性が必要とされない客観訴訟の制度がすでに取られており、制度整備は十分に可能だろう。
つまり、おおさか維新の提案のかなりの部分は、憲法を改正しなくても実現できるもののように思われる。
ただし、教育無償化について、国会内合意ではなく、国民投票を行い、憲法に規定することで、国民全体のコミットメントを確保しようという主張であれば、立法ではなく、改憲という形で提案することに、一定の説得力がある。
あるいは、道州制についても、現在の憲法では長の公選が要求されているため、自治体が議院内閣制を選ぶことはできない。この点を変えようと言うなら、確かに憲法改正が必要である。
そういう意味では、おおさか維新の提案も理解できないわけではない。
■公明党:与党になって消えた「加憲」の主張
続いて、公明党。
公明党は改憲勢力の一つとして数えられている。しかし、今回のマニフェストには、「憲法改正」の項目はない。また、外交・安全保障の項目(安定した平和と繁栄の対外関係)など他の項目を見ても、憲法を改正しないとできないような政策は書いてない。
ちなみに、かつての公明党は、現在の憲法の条文はそのままに、環境権などの新たな条文を追加する「加憲」を主張していた。
この点について検討するためには、「環境権とは、誰が誰に対し何を請求できる権利なのか」を確定する必要がある。自然環境保護権などのようなものだとすれば、辺野古基地建設に反対する団体が、ジュゴンの保護を求めて国に対して辺野古の埋め立ての差し止めを求めることができるようになるだろう。
あるいは、日照権などのようなものだとすれば、地元住民が建設事業者に対して大規模建築を差し止めることができるようになるだろう。あるいは、安全な環境で生きる権利のようなものだとすれば、原発の危険を訴える住民が原発の差し止めを求めることができるようになるだろう。
こうした権利は、憲法を根拠にできないかと議論されてはいる。もしも環境権条項が「加憲」されれば、こうした議論は勢いづくことだろう。ヨーロッパでは、環境権を理由に国土開発などが滞った経験があるようだ。
国土開発計画とは直接の関係がないところで生きている私としては、環境権が憲法に明示されてもおそらく困ることはない。しかし、政権与党としては、なかなか採りにくい政策だろう。
■自民党:具体的な記述ナシの謎
最後に自民党。
マニフェストの最後に、「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」という現行憲法の基本原理を堅持するとした上で、「国民の合意形成に努め、憲法改正を目指します」と述べるだけで、具体的な内容は書かれていない。
一つ注目されるのは、「参議院選挙制度改革」の項目で、「都道府県から少なくとも一人が選出されることを前提として、憲法改正を含めそのあり方を検討します」としている点である。一見すると、自分たちに有利な選挙区を存続させようとしているだけのようにも見える。一票の格差の是正を求めてきた人々からすれば、許しがたい提案だろう。
しかし、この提案については、少し落ち着いて考えてみる必要がある。
最近の最高裁は、一票の格差が2倍を超えると違憲状態と判断する傾向がある。現在の定数を前提にするならば、参議院議員選挙の格差を2倍以内に抑えるには、半分近い都道府県を合区・ブロック選挙区にまとめなくてはならないと言われる。合区が嫌ならば、議員定数を増やして都市部に割り振るしかないが、定数増は経費削減の流れに反するとして、議論されることはほとんどない。
都道府県の境界を無視した選挙をすれば、地域の特殊事情に関する情報が国会に届きにくくなってしまわないだろうか。
今回の選挙では、島根・鳥取、高知・徳島の四県を二つの合区にまとめた。これが良いことだったか、現地の人の声を丁寧に聞いてみることが必要である。
こう考えてみると、自民党の提案は、自分たちに有利な選挙区の延命というエゴ的主張だと馬鹿にできるものではない。落ち着いて検討してみるべきだろう。
このように、選挙公約のレベルで検討する限りは、「改憲勢力」の憲法改正提案は、どれもそれほど無茶なものではないように見える。
しかし、「これらの政党が衆参で3分の2の勢力を占めた場合に、不合理な改憲提案がなされる不安がないか」というと、そうでもない。
■自民党の真の狙い
特に心配されるのが、2012年に、自民党が発表した「日本国憲法改正草案」だ。この草案がどんな国家を目指しているのかを法的に分析しようにも、あまりにも曖昧な文言が多くて、よくわからない部分が多い。
メディアからもしばしば「自民党改憲草案をどう思いますか」と取材を受けるが、正直に申し上げて、そもそも法的に真剣に検討すべきものには感じられない。気の合う仲間と楽しむために作成した同人誌のようなものにすぎず、それについて大手メディアが真剣に批評すべきレベルに達しているとは思えないのだ。
そうは言っても、国会の第一党たる自民党が自らの草案として公開しているのだから、「趣味でやっているだけだから、好きにさせてあげてはどうですか」というわけにもいかない。
そこで、この自民党改憲草案と現在の憲法との最大の違いを指摘するなら、「国民の義務の規定を増やそう」と提案していることだろう。
「義務が少しぐらい増えたから何なのだ」と感じる人もいるかもしれない。「権利には義務を伴う」というのはよく言われることで、私だって、「選挙権は、私利私欲のためではなく、より公共的な視点から何が良いかを考えて行使しましょう」と言っている。権利を行使するときには濫用してはいけない、公共のことを考えつつ行使しなければいけないというのは、当然のことだ。
しかし、憲法に義務を書き込むというのは、そうした当然のこと以上の意味を持ってしまう。つまり、憲法上の義務規定は、権利保障を解除する機能を持つのだ。
例えば、自民党憲法改正草案21条を見てみよう。そこにはこう書いてある。
【表現の自由】
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
この規定は、基本的には、現在の憲法21条に「2項」を追加したものだ。たった2行ほどにすぎない2項だが、「公の秩序を尊重する義務」を定めたものといえる。この義務は、市民のデモ行進やメディアの報道の自由を、人に迷惑をかけるからという理由で制限することを正当化しかねない。
これまでは、表現行為は基本的にすべて自由としたうえで、それに伴って、誰かのものを壊したとか、名誉を棄損したとか、業務を妨害したとか、具体的な被害が生じた場合にのみ刑罰や損害賠償を認めてきた。
しかし、この条文によれば、「公益に反するから」、「公の秩序を害するから」という理由で、表現行為が禁止されかねない。さらに「公益」や「公の秩序」とは何なのかがよくわからないので、場合によっては「権力者がけしからんと思ったこと」のすべてが禁止されかねない。
そんなことありえない、と思う方は、この夏公開の映画『トランボ』をご覧いただければと思う。マッカーシズムの吹き荒れる1950年代のアメリカでは、労働組委活動に参加しているだけでも「アカ」と呼ばれ、社会的に排除(赤狩り)されていた。
そんな中、映画の都ハリウッドでもブラックリストが作られ、才能ある脚本家や俳優が仕事をもらえずに苦難を強いられた。民主主義の国アメリカですら、つい数十年前にそうした迫害があったことを甘く見てはいけないだろう。
■権力の「歯止め」を外す
あるいは、自民党改憲草案24条は、家族についてこう定める。
【家族、婚姻等に関する基本原則】
第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
これは、現在の憲法24条に第1項を加えるなどの修正をしたものだ。2項についても、非常に重大な修正をしているが、今回は1項にだけ着目しよう。草案24条1項は、「家族は互いに助け合わなくてはならない」という家族助け合い義務を創設している。多くの人にとって、家族が助け合うのは当然のことだろう。
しかし、これが個人の道徳としてではなく、憲法上の国民の義務となると、まったく話が変わってくる。一番懸念されるのは、この規定を理由に、介護などの社会保障サービスを受ける権利を後退させる根拠になるのではないかという点だ。
家族で助け合う義務があるのだから、ぎりぎりまで家族内で介護をしなさい、それを果たさなければ公的介護は利用できません、という主張を国ができるようになってしまう。
憲法とは、主権者である国民が、自らの人権を守り、国家の権力濫用を防ぐために、国家権力に対して守らせるべき約束を定めたものだ。つまり、憲法は国民の声を吸い上げる形で定められなければない。
いったいどこに「権利よりも義務を増やしてほしい」とか、「介護サービスを切り捨ててほしい」と考えている国民がいるというのだろうか。ひょっとしたらいるのかもしれないが、それはごく一部のように思われる。
多くの人は、より人権を守る国にしてほしい、安心して働き、万が一の時には福祉により支える国にしてほしい、と思っているだろう。
この他にも、自民党改憲草案は、権力の歯止めを不用意に外す条文が多く、草案のままに改憲が提案される事態は、立憲主義を後退させる危険があり、好ましくない。
■自民党への逆提案
改憲を目指すのであれば、自民党は、草案の中にあるこうした不合理な提案を取り下げ、国民の信頼を得られるよう努力すべきだろう。
また、公明党やおおさか維新の党も、自民党草案の不合理な内容には反対する旨をきちんと表明すべきだ。そうしない限り、「政権にすり寄るために、選挙公約に書いていないとんでもない改憲発議に賛成しかねないのではないか」という疑念の目を向けられることになる。
ただし、自民党改憲草案にも、評価できる規定がないではない。
たとえば現在の憲法53条は、議会内の少数派(衆参いずれかの4分の1)が、臨時国会の召集を要求できるとしている。
昨年11月に、民主党などの野党が、この規定に基づき国会召集を要求したが、安倍内閣はこれに応えなかった。この対応は、違憲と評価すべきと思うが、憲法53条には、「〇×日以内に召集せよ」という期限の規定がないので、違憲を主張する決め手に欠けていた。
他方、自民党改憲草案53条では、要求があった場合に、「20日以内」の召集を義務付けている。これは、安倍内閣が行ったような召集拒否を繰り返さないために重要な提案だ。
「自分たちが行ったような横暴を許さないために」とは何とも味わい深い理由づけだが、自民党は、憲法53条の改正を真剣に提案してみてはどうだろうか。
(つづく)
木村草太(きむら・そうた)
1980年生まれ。憲法学者。首都大学東京大学院社会科学研究科教授(憲法学専攻)。東京大学法学部卒業。同助手を経て現職。近刊『いま、〈日本〉を考えるということ』(河出書房新社、編著)。主な著書に『キヨミズ准教授の法学入門』(星海社新書)、『テレビが伝えない憲法の話』(PHP研究所)、『憲法の創造力』『憲法の条件―戦後70年から考える』(NHK出版新書)などがある。
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