直ぐにレスいただくとは嬉しいですね。最後に真相さんにプレゼントおやすみなさい。(^^)/ 最近、ここで共産叩きの記事を見て思いだしました。以下は翻訳家の松岡賢さんによる翻訳記事です。今でもラテンアメリカで9.11といえば、航空機を使ったアメリカの同時多発テロではなく、チリのアジェンデ社会主義政権がピノチェト将軍のクーデターによって引き倒された時のことを指すそうです。それだけ、ラテンアメリカの民衆にとっては、ショッキングで悲劇的な事件であったようです。アジェンデ大統領は彼の護衛官たちと共にクーデター軍と戦って銃撃戦で死亡。(一説には自殺とも)チリではその後の「左翼狩り」によって多くの市民が虐殺され、拷問を受け、行方不明になりましたが、その数は今も正確にはわからないようです。 ------------------------------------------------------------------ チリ 一九六四年〜一九七三年 鎚と鎌が子供の額に焼き印される ウィリアム・ブルム キリング・ホープ 第34章より http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/persons/kh34.html (以下転載 ★印の注釈は省きます。) 一九五八年、チリの大統領選挙で、マルクス主義者サルバドール・アジェンデが大統領選挙で、わずか3パーセントの差で敗れた時、米国は、一九六四年に予定されている次の選挙では、神様や民主主義の裁量にゆだねるわけにはいかないと判断した。 ワシントンはこの問題を極めて真剣に受け取った。ケネディ政権が発足した一九六一年、国務省とCIA、ホワイトハウスのトップに立つ政府高官たちで構成された選挙委員会が設立された。サンチアゴでは、それと並行して、米国大使館とCIA職員からなる同様の委員会が設置された。 当時、内情に通じた立場にいた諜報機関の役員は、「一九六四年、米国政府がチリに加えた干渉は、露骨で卑猥に近いものだった」と語っている。「様々に身元を偽造して、大勢の人を現地に送った。大部分は国務省の職員だったが、CIAの者もいた」。全体として、一〇〇人もの工作員が専用スタッフとしてこの作戦に投下された。 米国の上院調査委員会が明らかにしたところによると、これらの工作員は、選挙の何年も前から、「重要な政党との間に作戦関係を樹立し、チリ国民の重要部分に影響を与えることのできるプロパガンダと組織的なメカニズムを作ることにより」、将来の選挙に対処するための基礎を築きはじめた。「『反共産主義者』の農民やスラム街の住民、組織された労働者、学生、マスコミ関係者などを訓練し組織するために」、いろいろなプロジェクトが実行された。 いくつかの非左翼政党へ資金をチャンネルした後で、選挙チームは、結局、アジェンデが政権の座につくことを最も阻止できそうな人物として、中道のキリスト教民主党候補者エデュアルド・フレイを支持することに決めた。CIAはキリスト教民主党の選挙運動費用総額のを半分以上を支払った。CIAの選挙作戦が、米国財務省の資金を推定二〇〇〇万ドルも減少させた理由の一つはここにある。支出のほとんどがプロパガンダのために使用された。上院委員会は次のように述べている: 政党への援助に加えて、CIAは大規模な反共産主義プロパガンダ・キャンペーンを実施した。その中では、新聞やラジオ、パンフレット、ポスター、リーフレット、ダイレクトメール、紙垂れ幕や壁絵が大量に使用された。これは、人々をおびえさせるためのキャンペーンであり、ソ連の戦車とキューバの銃殺部隊のイメージに大いに頼って、とりわけ女性をターゲットにした。ローマ教皇ピウスXI世が書いた反共産主義教書のコピーがキリスト教民主党の関係組織に何十万枚も配付された。このコピーには、「この教書は、より広く内容を普及させるために、政治的帰属を持たない国民によって印刷された」と書かれていた。「偽情報」や「ブラック・プロパガンダ」---チリの共産党など、別の情報源から出たと思わせるような資料---も使用された。 このキャンペーンは、ラテンアメリカの他の国々でと同時、チリでも、伝統的に女性たちの方が男性より信心深く、「神を知らぬ不信心な共産主義」の恐ろしいイメージに怯えやすいという事実をうまく利用した。あるラジオ放送は、機関銃の発射音の後で、「奴らが私の子供を殺した---共産主義者たちが」という女性の悲鳴を放送した。アナウンサーは、それから、「共産主義が人々に提供できるのは、血と痛みだけである。チリがこんな事態にならないよう、選挙ではエデュアルド・フレイを大統領に選ぶべきだ」と、熱情のこもった声で言った。 人々をおびえさせるためのその他の策略として、ソ連による支配が訪れるという脅し、左翼は身近なものや親密なもの、大切なもの全てを没収するという警告が集中的に利用された。 上院委員会の報告は、次のように続けている: プロパガンダ・キャンペーンは膨大であった。集中的なプロパガンダ活動が行われた最初の週(一九六四年六月の第三週)に、CIAから資金を得たプロパガンダ団体は、サンチアゴおよび四四の地方ラジオ局で一日二〇回のラジオ放送を行い、サンチアゴのラジオ放送局三局と二四の地方ラジオ放送局で一日一二分のニュース放送を五回行い、何千枚もの時事漫画と多量の新聞広告を制作した。六月の末までには、この団体は、サンチアゴと地方で一日に二四のニュース放送と一週間に二六個の「コメンタリー」番組を制作し、毎日三千枚のポスターを配付した。 何千枚も配られたポスターの一つは、鎚と鎌が額に焼印されている子供たちの姿を描いたものだった。 CIAのキャンペーンの政治的方針を支持する他のラテンアメリカ諸国で出版された新聞記事が集められ、チリで再掲載された。こうした記事の多くは、そもそも、各国のCIA局が書いたものであることははっきりしていた。また、外国の有名人に書いてもらったフレイ支持文書、「ベネスエラの女性たちからのメッセージ」といった広告、そしてCIAが企画した南米スピーキング・ツアー中の、フィデル・カストロ妹であるフアニータ・カストロによる辛辣な反共産主義ラジオ放送も行われた。彼女は次のように言った:「アカがチリで勝った場合、どんな宗教的活動も不可能になる。〔・・・・・・〕チリの母たちよ、キューバで行われたように、自分の子供たちが連れ去られ、共産主義圏に送られることをあなたたちは許さないと、私には分かっている」。 上院委員会は次のことも明らかにした: 個別にプロパガンダを買うことに加え、[CIA]局は、米国に好意を持つチリのメディア団体に助成金を与えることによって、もしばしばプロパガンダの一括購入を行なった。これは、一般のプロパガンダ活動よりはるかに規模の大きいものだった。個別のプロパガンダをメディアに植えつけることよりも、CIAは、好意的なメディア団体を援助したり、あるいは設立したりした。これらの団体は、CIAの支援が得られなければ存在しなかった可能性さえある。一九五三年から一九七〇年まで、[CIA]局は、チリで通信社やインテリ向け雑誌、右派の週刊紙などに助成金を与えた。 キャンペーンに関与していた国務省の職員は、助成金を受け取っていたある新聞について、次のように回想している:「レイアウトは立派だった。写真もすばらしかった。チリの出版物の基準を遙かに越えた、プロが作ったものだった」。 同様のことは、選挙運動自体についても言える。CIAは、いくつかの重要な選挙区で、自ら政治活動プロジェクトを運営するほか、キリスト教民主党のキャンペーンを米国風に仕立て上げる指導を行なった。有権者登録、フレイへの投票を促す運動、プロのマネージメント会社による世論調査などである。さらにその上に、自由選挙の鑑定家と守護者として、かの著名なシカゴ市長リチャード・デイリーのスタッフから、選挙専門家も呼び出した。デイリーの部下がチリでどんな役割を担っていたかについては、ただ推測することしかできない。 CIAが支援した草の根プログラムのいくつかは、ベルギー人イエズス会の司祭ロジャー・ヴケマンスが運営していた。ヴケマンスは、一九五七年にチリに着き、社会活動団体のネットワークを創設した。この団体の一つは、職員一〇〇人、年間予算三〇〇〇万ドルの規模に成長した。ヴケマンスは、密接な関係を持っていたキリスト教民主党とエデュアルド・フレイを支持する方向に自分の団体の資源を用いるよう、CIAから五〇〇万ドル、そして米国国際開発局(AID)同程度の金額を受け取ったと、一九六三年、自ら宣言した。イエズス会士ヴケマンスのプログラムは、革命の熱意を安全な改革の道に導くという古典的な役割を果たした。第三世界でCIAのために働いている教会関係者は、一般に、特定の農民や労働者の活動と態度に関する情報を集めたり、悶着を起こす人々を見抜いたり、エージェントの候補をリクルートしたり、反共主義の絶対的真理を説教したり、支援の中継として機能したり、さまざまなCIAの作戦に宗教的な「カバー」として仕えるといったことを行なってきた。急進的な反共主義者であるヴケマンスは、ラテンアメリカのより進歩的な聖職者の間で当時勢いを得つつあり、のちにキリスト教とマルクス主義との間の画期的な対話を実現する要因となった「解放の神学」に対する、キリスト教民主党とカトリック教会の側からの闘争の、最前線に立つ兵士であった。 作戦は成功した。それも、予想以上に。アジェンデの三九パーセントに対して、フレイは五六パーセントの票を得た。米国の上院委員会は、CIAは「行われた活動の中で、人々をおびえさせるための反共主義キャンペーンが最も効果的だった」と考えたと指摘している。これは特にチリの女性をターゲットにした策略だった。結局、アジェンデは、チリの男性の票をフレイより六万七〇〇〇票多く得たが、女性の票はフレイの方が四六万九〇〇〇票多く得ていた(チリでは、男性と女性は別れて投票する)。このことは、どのような社会であれ、大衆の思考がどんなに操られやすいものであるかを示すもう一つの例だろう。
アジェンデの何が、かくも熱狂的な活動を正当化したのだろうか?世界最強国の技術的・経済的な力の標的となった彼は、どんな脅威を象徴していたのだろうか?上院委員会の報告によると、アジェンデの政治プログラムは「収入を再配分し[チリでは人口の二パーセントが収入の四六パーセントを得ていた]、重要な産業とりわけ銅会社の国有化を皮切りにチリの経済を再編し、大幅に範囲を広げた農地改革を実現し、社会主義諸国や共産主義諸国との関係を拡大することだった」という。 このようなプログラムに献身する人物は、自国を、米国の外交や多国籍企業の優先事項とは独立した方向に導くはずである、と、米国の政策立案者は予想することができたろう(その後アジェンデが大統領任期中に示したように、彼は他のどの国からも独立していた)。 CIAはいつも忙しく活動している団体である。その秘密活動は、すべての国で日々続けられている。チリでも、一九六四年から一九七〇年の大統領選挙までの間に、国民の様々な部分に反左翼主義的な考えを促進するためのプログラムが続けられていた。大統領選挙に使われたプロパガンダと選挙運動の機構は、一九六五年と一九六九年の議会選挙で候補者を支援するために、そのままに残された。六九年の選挙の際には、アジェンデの社会党から投票を剥ぎ取るために、分派して作られた、ある社会主義政党に、支援が提供された。その結果、アジェンデの党は少なくとも七つの議席を失ったようである。
上院委員会は、この時期にCIAがチリで行なった、他の個別の秘密プロジェクトについても述べている: ・チリの大学生団体の統制権を共産主義者たちの手からもぎ取ること ・チリの政治的・知的世界で活躍している女性団体をサポートすること ・共産主義者に支配されていたチリ中央統一労働組合(CUTCh)と戦い、民主主義[すなわち反共主義]の労働者団体を支援すること ・文化的・知的世界における共産主義者の影響に対抗するために、表向き市民活動の団体を利用したこと 一九六八年、CIAがチリ共産党に支配されている労働組合を弱体化させようと専心しているとき、米国上院のある委員会は、ラテンアメリカの労働運動が革命的な見解をほぼ放棄したと判断した:「共産主義者に支配されている労働組合でさえ、特にモスクワの方針に従う労働組合は、現在一般的に、平和的な道を実現可能な代替案として受け入れている」。
「国民が無責任なせいで、ある国が共産主義な政権になることを、ただほっておくわけにはいかないと思う」。
国家安全保障問題に関する米国大統領の主任顧問ヘンリー・キッシンジャーがこのように述べたのは、一九七〇年六月二七日、国家安全保障会議の四〇委員会の会合でのことだった。近いうちにする無責任なことをするのではないかとキッシンジャーが疑った人々は、選挙でついにサルバドール・アジェンデを大統領に選ぶことになるのではないかとキッシンジャーが恐れていたチリの国民だった。 アメリカはそれをただ放っておきはしなかった。この国家安全保障会議の会合で、すでに実行している反アジェンデ「妨害」工作支援を三〇万ドル増やすことが承認された。CIAは偽情報からなる「重砲」の照準をチリの有権者に定め、「アジェンデの勝利は暴力とスターリン主義的抑圧である」と刻印された「砲弾」を発砲した。 アジェンデの連合とアジェンデ支持を掘り崩すために、ブラック・プロパガンダを使用することにより、連合の中心メンバーである共産党と社会党との間、そして共産党とチリ中央統一労働組合との間に、不和が振りまかれた。 それにもかかわらず、一九七〇年九月四日、アジェンデは過半数の票を得た。アジェンデと次席についた保守的な国民党のホルヘ・アレッサンドリのいずれかを選ぶために、チリ議会が一〇月二四日に召集されることになっていた。伝統的な習慣により、アジェンデが大統領となるのは確実だった。 アジェンデの就任を防ぐために米国に残されていた時間は七週間だった。九月一五日、ニクソン大統領は、キッシンジャー、CIA長官リチャード・ヘルムス及び司法長官ジョン・ミッチェルと会談した。その会合に関するヘルムスの手書きメモは有名になった:「おそらく一〇に一つのチャンスしかないが、チリを救わなければならない!・・・・・・リスクはどうでもいい・・・・・・一〇〇〇万ドル使え、必要ならばもっと使える・・・・・・経済を苦しめさせろ・・・・・・ 」。 四〇委員会は、アレッサンドリに投票するようチリの議員を買収する資金を承認したが、この作戦は実行不可能なものとしてすぐ放棄された。ニクソン大統領からの激しい圧力のもと、米国当局は、チリ軍にクーデターを起こさせ、議会での投票を全面的にキャンセルさせようとすることに努力を集中した。 同時に、ニクソンとキッシンジャーは、CIAに対し、アジェンデの暗殺は歓迎されないことではないことを明らかにした。、と明確にした。ホワイトハウスのあるオプション・ペーパーは、アジェンデ暗殺を実行する様々な方法を議論している。 アジェンデが大統領になると、どんなに大変な破局がチリにもとらされるのかをとりわけ軍に印象づけるために、チリで新しいプロパガンダキャンペーンが開始された。定番となった共産主義者に関するホラー物語に加え、米国を始めとする諸外国からの援助が中断されることが告げられ、同時に、小さい店に至るまで全てが大幅に国有化され、チリの経済が崩壊するといった予想と噂も広められた。このキャンペーンは、実際にチリの経済悪影響を及ぼし、重大な金融パニックが起きた。 チリの軍将校たちは、非公式に、アジェンデが就任するならば、米国の軍事援助は中止になるとの警告を受けとった。 CIAによると、この暫定的な期間に、CIAの活動の直接的結果として、七〇〇以上の記事や放送、社説などが、ラテンアメリカとヨーロッパのメディアに現れた。意図的に流されたこうした情報に触発して書かれた「本当」の記事は別にしてである。さらに、少なくとも一〇カ国から、CIAに雇われている記者たちが、自分の情報に現場の信頼性を加えるためにチリにやって来た。 以下の一九七〇年九月二五日付CIA電信は、このメディア作戦の規模を多少なりとも示している:「サンパウロ、テグシガルパ、ブエノスアイレス、リマ、モンテビデオ、ボゴタ、メキシコ・シティからは、チリを扱う記事がくり返し用いられていることを報告している。ニューヨーク・タイムズ紙とワシントン・ポスト紙にも記事が掲載された。プロパガンダ活動は、チリの状況展開について、われわれのテーマ指導に沿った報道を、十分な規模で生み出し続けている」。 CIAは、チリの状況に関する「内部向け」情報をアメリカの記者たちに提供した。タイム誌に提供されたあるブリーフィングは、アジェンデが暴力を支持し、チリの自由報道を破壊しようとしているとタイム誌を啓蒙した。その結果、タイム誌の記事の「基本的な趣旨が変化した」と上院委員会の報告は述べている。 (CIAから大規模な支援を受けている)チリの基幹主要紙エル・メルクリオをアジェンデが批判したとき、CIAは「海外の新聞からの支持と抗議の電信及びある国際報道組織からの抗議声明を指揮し、さらにその報道組織の抗議が世界中で報道されるよう、仕組んだ」。 一〇月一九日、CIA本部がサンチアゴに送った電信は、クーデータについて、まだチリやラテンアメリカで受け入れられるような口実や弁明がないとの懸念を表明している。したがって、チリを共産主義から救うためにクーデータを起こしたという、おそらくは[軍が]持ち出す主張を強化するために、口実をつくる必要があるだろう。 そのためにCIA本部が示唆した提案の一つは、 キューバ人が、諜報機関を全てソヴィエト/キューバ式に再編し、警察国家のための機構をつくろうとしている・・・・・・ という強固な情報を偽造することだった。 軍の中に適切な連絡相手があれば、諜報報告をどうやって「発見すれば」よいのか確定できる。報告はカラビネロス[警察]が計画する強制捜査のときに植え付けることもできる。 その間、CIAは、クーデータの示唆に受容的な何人かのチリ軍将校と、積極的に相談していた(そうした将校を見つけるのが困難だったことについて、CIAは、それは「チリ軍の非政治的で憲法指向の慣性」を克服する問題であると述べていた)。米国は、将校たちに直接の軍事参加以外のあらゆる支援を与えると保証した。これらの将校たちが直面している障害は、憲法の手続きに従うべきだと主張する陸軍司令官レネ・シュナイダーの断固とした抵抗であった。シュナイダーを「除去」しなくてはならない。 一〇月二二日の早朝、CIAは陰謀者の何人かに、出所を隠蔽した機関銃と弾薬を手渡した(それ以前に、催涙ガスを渡していた)。その同じ日、シュナイダーは、職場に行く途中、誘拐未遂(あるいは「誘拐」)で致命傷を負った。サンチアゴのCIA局は、CIA本部に、シュナイダーはCIAが軍の陰謀者に渡した武器と同種の武器で殺されたという電信を送ったが、後になってCIAは米国上院に、実際の暗殺者は、CIAが武器を渡たした者たちとは別の人物だと主張した。 シュナイダー暗殺は陰謀者の目標に役立たなかった。それどころか、軍を憲法の旗のまわりに結集させる結果となった。しかも、時間切れが迫っていた。二日後、チリ議会はサルバドール・アジェンデの就任を正式に認めた。一一月三日、アジェンデは大統領に就任した。 かくして、二つの実験の間に、争いの舞台が整った。一つは、チリを低開発と依存の苦境から救出し、チリの貧困層を窮乏から脱却させる目標を持った、アジェンデによる社会主義の実験だった。もう一つは、その後CIA長官ウイリアム・コルビーが述べたように、「ある政権の信用を傷つけ、転覆するために、大規模な投資のテクニックを試す原型あるいはラボラトリー実験」だった。 この実験は一つ一つを見るならば、CIAにとってほとんどユニークな特徴はなかったが、全体を合わせてみると米国がそれまでに行なってきた介入の中で、おそらく最も雑多なものだっただろう。その介入の中で、英語に新しい言葉がもたらされた:不安定化。 「アジェンデ支配下のチリには、ナットもボルトも一つとして持ち込ませはしない」と、アジェンデ就任前に、当時の駐チリ米国大使エドワード・コリーは警告した。米国に大きく依存しているチリの経済は、打撃を与えやすい防備の手薄なところだった。それから三年間で、米国政府によるチリへの新規支援プログラムはほとんど消え失せた。米国が実質上拒否権を持つに等しい米国輸出入銀行と米州開発銀行からの貸付もほどんどなくなったし、世界銀行は一九七一年から七三年の間、チリへの新規貸付を一つも行なわなかった。チリでの米国民間投資に対する米国政府の金融支援と保証も大幅に削減され、米国企業は経済的な首絞めを強めるよう求められた。
ボイコットの具体的な結果として、部品不足のせいで多くのバスやタクシーが故障し、また、銅・鉄鋼・電気・石油業界でも同じような問題が起きた。チリは現金で前払いをすると申し出たにもかかわらず、米国の供給業者はチリに必要な部品の販売を拒絶した。 言われなくてもなにをすればよいのか分かっていた多国籍企業ITT社(国際電話電信会社)は、一九七〇年の覚え書きで次のように述べている:「アジェンデを妨害したい人々が持つ、より現実的な希望は、急激に悪化している経済が暴力の波を誘発し、それによりクーデターが起きることである」。 経済的な支援がほとんどなくなってしまった状況の中で、また前述の米国大使の警告に反して、米国は一九七二年から七三年の間に、チリへの軍事的援助を増やし、チリの軍人をアメリカとパナマで訓練した。 進退きわまっていたアジェンデ政権は、チリの軍指導者を怒らせることを恐れて、この「支援」を拒むことを躊躇した。 国民の中に最も大きな不満を引き起こしたのは、物の不足だっただろう:一番好きな食べ物や小麦粉、調理用油、トイレットペーパー、シーツ、石鹸、テレビや車を作動させるために必要な部品の一片、さらにニコチン常用者にとっては何よりも困るたばこ不足といった、日常の小さないらだたしいこと。物資欠乏の一部は、チリが国有化へ向けて様々に変化し、労働者が自分の仕事を自分でコントロールする実験などが行われている移行期の社会にあったことを原因としていた。しかしながら、これは支援縮小及び遍在する米国企業の振舞いがもたらした影響と比べると、ささいなことだった。長期的なストライキも状況を悪化させた。こうしたストは、引き延ばすために、CIAの財政的な支持に大きく依存していた。 例えば、一九七二年一〇月、私営トラック所有者の協会は、食糧を始めとする重要商品の供給を妨害するために仕事を停止した。禁止物の中には、政府を支持する新聞も含まれていた(大きく分断されたチリでは、微妙さは時の風潮ではなかった)。そのすぐあとに続いて、多くのプチブルジョアたちは、国民に不便を感じさせるためにできることとして自分の店を閉店した。店を開いても、店しても、たばこなどの特定の商品はしまっておき、高値が払える人々に闇市場で売った。それから、私営バス会社のほとんどがバスの運転を中止した。それに加えて、大体の場合政府に反感を抱いている専門職とホワイトカラー層はCIAの援助の有無にかかわらず、職場を放棄した。 このキャンペーンの多くは国民の忍耐をすり減らし、「チリでは社会主義はうまくいかない」と納得させることを目的としていた。しかし、アジェンデ政権以前、国民のほとんどは、より深刻な不足に耐えていた―例えば、食糧や住宅供給、保健医療、教育などの欠乏だった。国民の少なくとも半分は栄養失調に苦しんでいた。医者だったアジェンデは、次のようなことを引き合いに出して無料牛乳プログラムを説明した:「今日、チリでは、生まれてから八カ月の間に十分な栄養と必要なタンパクを与えられなかったせいで精神遅滞になった子供が六〇万人以上もいる」。 CIAがストにつぎ込んだのは、財政的な支援に限られなかった。チリの専門職協会と雇用者団体のメンバーの一〇〇人以上がバジニアー州フロント・ロイヤール市にある米国自由労働開発機構(AIFLD)が運営する学校―「小さな反赤校舎」―の卒業生だった。CIAの主なラテンアメリカ労働者組織であるAIFLDは、一九七一年五月、新しい専門職団体であるチリ専門職連合の設立も支援した。AIFLDの労働専門家は、経済的大混乱を煽動する(あるいは、必要になったときに労働者を穏やかにさせる)技術に関して一〇年間以上の経験を持っていた。 CIAのプロパガンダ屋は混乱と欠乏を思いきり利用し、パニック買いを煽動することにより、さらにそれを悪化させた。一九六四年と一九七〇年にとても効率よく使われた全ての手段、すなわちマスコミへの集中プロパガンダ・キャンペーン、あらゆる目的のために設立された手頃な団体などが、報道機関に与えられたほぼ無制限の自由により、大いに活用された。国有化から腐った肉や飲めない水まであらゆる噂話を広げた見出しや記事・・・・・・新聞で見ることのできる最大ポイントの文字で「経済的大混乱!破滅に瀕するチリ!」などと書かれ ・・・・・・内戦を文字通りに要求する、さもなければ内戦の亡霊に注目を向けさせる・・・・・・他の国であればどこであれ煽動罪と断定されるはずの人騒がせな記事・・・・・・これらと比べれば、ロンドンで一番質の低い日刊タブロイド紙や米国のナショナル・エンクワイアラー紙などは、歯科学の雑誌ぐらい真面目にみえる。 政府は、それに対し、何度か、国家安全を危険にさらした理由で、一時的に右翼のものだけではなく左翼のものも含め、新聞や雑誌を閉鎖したことがあった。 CIAによる政治的反対勢力への日常的な支持は、さらに広がり、極右団体「祖国と自由」を含むまでになった。伝えられるところによるとCIAは、「祖国と自由設立を補助し、ボリビアやテキサス州ロス・フレスノ市の学校で、そのメンバーをゲリラ戦や爆弾の使い方に関する訓練をほどこした。「祖国と自由」は完全な暴動鎮圧用装備でデモ行進し、暴力行為や挑発行為を繰り返し、自らの出版物で公然と軍事クーデターを求めた。 CIAも、クーデターを目的として、チリ軍の機嫌をとろうとしていた。軍事装備を提供することを通して、米国人顧問が常駐し、チリの軍人と近しく働く機会が与えられた。一九六九年以来、CIAは、チリの陸・海・空軍全てに、「司令官級将校、佐官級・中隊級士官、退後幕僚や下士官」を含む「諜報資産」を作ってきた。真実と偽装情報をいつも通りブレンドし、偽造書類を使って、CIAは、将校たちをいつも「警戒体制」にしておくよう務めた。そのための一つの方策として、CIAは、チリの警察捜査部がアジェンデの許可を得てキューバ諜報機関と協力し、チリ軍最高司令部に有害な情報を集めていると、チリ軍に信じさせようとした。 CIAの支援を受けたサンチアゴの新聞、とりわけエル・メルクリオ紙、は、しばしば軍に影響を及ぼすことに努力を集中した。軍を解散または破壊しようとする共産主義者の陰謀、チリに潜水艦基地を設立するソ連の計画、チリに訓練所を設定しようとする北朝鮮の計画などがあると主張した。新聞は、政府への憎しみを一般兵士たちの中にかき立て、ときには特定の将校の見解を変えるよう意図した記事が新聞に掲載された。ある将校の妻の見解を変えるようとする記事も一度表れた。 CIAはチリで、多くの本やその他の出版物にも助成金を支給した。その一つは、軍向けの短命に終わった反政府ニュースレターだった。その後、CIAは、やはり軍に向けて、SEPAという名のユーモア・政治月刊誌を利用した。一九七三年三月二〇日のSEPAの表紙には、「ロバート・モス。チリに向けたイギリス人によるレシピ:軍事支配」との見出しが載っていた。SEPAはモスをイギリスの社会学者としていた。CIAの報道前線として知られる組織に関係している「ニュース」専門家と言った方がモスの紹介としてはより妥当だったろう。報道前線の一つでロンドンにあるフォーラム・ワールド・フィーチャズ(第一五章参照)は、一九七三年、モスの書いた『チリのマルクス主義実験』という本を出版している。この本は、軍事政権によりクーデターを正当化するために広く配布された。 モスは、サンチアゴにある総合研究所(IGS)という非常に無味乾燥な名の、CIAから資金提供を受けたシンクタンクと交際していた。IGSの様々な活動の中には、チリ軍将校のために、アジェンデが経済にとって大変な災難である理由、レッセフェールのシステムがチリの不幸を解決のできる理由を、技術的・非政治的に説明するセミナーなどもあった。このセミナーがその後の軍の行動にどの程度の影響を与えたのかは分からないが、クーデター後、軍事政権は、IGSのスタッフを何人か、政府の要職に任命した。 この頃、CIAのサンチアゴ局は、クーデターが起きた際に必要となる作戦情報を収集していた:「逮捕リスト、保護すべき重要な民間施設や職員、占有すべき重要な政府施設、軍事蜂起の際に使われる政府の不測事態対応計画」。後にCIAは、この情報をチリ軍に手渡すことはなかったと主張したが、これは誰にとっても確かに思われる主張とは言いがたい。これとの関係では、クーデター直後の数日のうちに、チリ軍は、アジェンデ政権に共感していたアメリカ人や他の外国人の住居を直接訪れたことに言及しておかなくてはならない。 CIAは、おそらく、アジェンデの人民連合(Unidad Popular:UP)連立政権を構成するいくつかの政党に侵入していた者たちにより、政府の不測事態対応計画を手に入れていたであろう。アジェンデ自身の社会党の上級部にいたCIA工作員は「自分の仕事に失敗するよう金を支払われていた」。ワシントンでは、書類を手に入れるために、CIAは好んで強盗という手段を用いた。何人かのチリ大使館職員の家から書類が盗まれ、かなり前から盗聴されてきた大使館自体も、一九七二年五月、翌月ウォーターゲート侵入事件を起こしたと同じ者たちの何人かにより、強盗された。 一九七三年三月、UPは議会選挙で約四四パーセントの票を得た。一九七〇年の選挙で同党は三六パーセントを得ていた。チリで二年以上政権を握った現職党としては、これまでで最大の投票数増加であったといわれた。選挙前、野党は、選挙で議会議席の三分の二を奪い、それによってアジェンデを弾劾することができるとの自信を公然と表明していた。しかし、今や野党は、あと三年アジェンデの下にいることとなり、最大限のそして最もずるい努力にもかかわらず、大統領の人気がさらに高まることを阻止できない見通しに直面していた。
春から夏にかけて、不安定化作戦はエスカレートした。あらゆる種類のデモとストが続き、特にトラック運転手のストが長かった。タイム誌は次のように報じた:「他の国民が乏しい配給でなんとか生き延びている中で、トラック運転手たちは、長期的抵抗にあたって例外的に恵まれていたようだった」。タイム誌の貴記者は、キャンプしながら「ステーキや野菜、ワイン、エンパナダの豪華な共同食事」を食べているトラック運転手たちの一団に、その食事を買う金がどこから来たかと訊ねた。「CIAからだ」と運転手たちは笑いながら答えた。 暗殺を含む日常的な破壊活動と暴力も加えられた。六月、軍と「祖国と自由」は、大統領宮を攻撃したが、失敗に終わった。 九月、軍はついに勝利を収めた。「CIAが、一九七三年の七月、八月、九月を通して、九月一一日に成功したクーデターを起こしたグループのクーデター計画に関する諜報報告を受けとっていたことははっきりしている」と、米国上院の調査委員会は述べている。 この運命の日に対し、米国は、陰に陽に関与していた。クーデターは、太平洋岸の港町バルパライソからサンチアゴへ向けたチリ海軍兵士の派兵で始まった。そのとき、米国海軍の戦艦は、表向きチリ海軍との共同演習に参加するために、沖合いに待機していた。米国の戦艦はチリ海域の外にとどまっていたが、警戒態勢を維持していた。米国空軍士官が操縦する米国のWB−575機(空中コミュニケーション管理システム)が、チリ上空を巡回していた。それと同時に、米国の偵察機と戦闘機三二機が、チリ国境から遠くないアルゼンチンのメンドーザに着陸していた。 バルパライソで、米軍の将校たちがチリ軍の将校たちと会談していたとき、サンチアゴに住み、クーデターのためにバルパライソで立ち往生していたチャールズ・ホールマンという米国人青年が、たまたま何人かの米国人民間人と軍人と話していた。米国海軍のある退役機関将校は、彼に、「ここには仕事をしに来たが、その仕事はもうやり終えた」と言った。米国軍人の一人か二人も他人に言うべきではない手がかりをホールマンにばらしてしまった。数日後、ホールマンはサンチアゴの自宅で逮捕された。軍は彼の居場所を知っていた。ホールマンの姿を目にすることは二度となかった。 ピノチェトは一週間にわたりチリを鎖国した。その鎖国の中では、町には戦車が走りまわり、兵士が家々の扉を破壊し、サッカー・スタジアムは銃殺の音が鳴り響き、路上に死体が積み重なり川に浮かび、拷問センターが営業を開始、反体制的な書物は焚書され、兵士たちは「チリでは女はドレスを着るものだ!」と叫んで女性のズボンを斬りつけた。貧しい人々はもとの場所に追いやられ、ワシントンと国際金融機関の男たちは小切手帳を開いた。
一年後、ジェラルド・フォード米国大統領は、感動してアメリカがチリでやったことは「チリ国民に最大の利益をもたらすため、そしてもちろん我々に最大の利益をもたらすためだった」と感動して述べた。まるで嗅ぎタバコをやりながら話す貴族のように尊大な言葉だった。 フォード大統領は、米国がチリでやったことは、「反政府新聞や反対派電子メディアが生き延びる手助けをし、野党を維持する」ことだったと考えた―少なくとも、そう言った。その場にいた記者たちは、とても親切―あるいは卑屈―だったので、反対活動は、いかなる種類のどのようなかたちや媒介のものであれ禁止されている軍政下のチリについてはどう思うのかと大統領に聞かなかった。 むろん、他の政府職員や議員の中にも、礼儀として、米国が本当にチリでやったことは西半球におけるソ連の脅威を追い払ったことだと主張した。しかしながら、アジェンデ政権に対するソ連の振舞いは、とてもその仮説にまったく一致していなかった。米国の諜報報告の言葉もそれを確認している:「アジェンデに対するソ連の予備交渉は用心深さと思慮深さを特徴としている」;「ソ連は」、もう一つのキューバのような負担を「避けたいと望んでいた」;ロシア人は、「アジェンデに、二国間の緊迫状態を暖和するために、まず、米国との関係正常化をはかるよう助言した」。 アジェンデが選挙で勝利してから三日後の一九七〇年九月七日、CIAの研究は、次のように結論を出している:
一.米国は、チリ国内に決定的に重要な国家的利益を有してない。しかし、実体的な経済的損害を受けるだろう。 二.世界の軍事的勢力のバランスがアジェンデ政権により大幅に変えられることはない。 三.しかし、アジェンデの勝利により、かなりの政治的、精神的なコストを被るだろう: a.西半球の結束は、アジェンデ政権がOAS[米州機構]に挑戦し、それが他国に引き起こす反応によって、危険にさらされるだろう。 b.アジェンデの勝利は、米国にとって明らかな精神的挫折であり、マルクス主義思想にとってははっきりした利益になる。 「実体的な経済的損害」は、おそらく、予想された米国銅採掘企業の国有化を指していた。実際、国有化が行われた。長年にわたり、「過剰な利益」を得た結果、銅採掘企業は実はチリに借金を負っていると算定した人民連合は、賠償を払わずに国有化を行なった。 「他国に引き起こす反応」・・・・・・これは、他国の人々を奮起させ、彼らに付きまとう経済的・社会的問題を自分たちも社会主義的に解決しようと考えさせることに他にならない。アジェンデのチリは、ワシントン権力の回廊を徘徊するあの亡霊になる可能性があった―資本主義モデルの代替となる成功例である。 ワシントンは、第三世界において、独立という異端を絶対認めない。サルバドール・アジェンデの場合、独立が、とりわけ挑発的な服を着て現れた:立憲的な選挙で選ばれ、憲法を尊重し続けたマルクス主義者である。これを認めるわけにはいかなかった。それは反共産主義の塔が築かれた礎石そのものを動揺させたのである。永年にわたり入念に広められてきた反共ドクトリンは、「共産主義者」は武力と嘘によってしか権力を握ることができず、また、人々を恐怖に陥れ洗脳することによってしかその権力を維持できないというものだったからである。マルクス主義者が権力を握ることよりも悪い事態がたった一つだけ想像できた。それは、選挙でマルクス主義者が権力を握ることである。
--------------------------------------------------------------------------------------- (引用終わり) ピノチェトは17年間に渡ってチリで独裁政権を保ち、誘拐や拷問による恐怖政治を敷き続けました。その一方でアメリカ帰りの、「シカゴボーイズ」と呼ばれる新自由主義の経済学者たちを登用して「チリの奇跡」と呼ばれる経済政策で大成功を納めた・・・とかつて、日本を含む欧米世界ではさかんに喧伝されたものでした。(私が十年ほど前にネットで見た時も、ピノチェトとその「奇跡」を称える日本の大手証券会社系の経済研究所の記事がまだあったほどです)しかし、実はその政策は失敗、貧富の差が広がるばかりでチリの経済は下降し続け、ついにピノチェトはシカゴボーイズ達をお払い箱にして、社会主義者アジェンデの政策を次々に復活、最終的にチリを救ったのはアジェンデ時代に国有化されていた銅山の収益と、やはりアジェンデの政策だった小作人への農地解放が実を結んだ、農産物の生産性のアップだったそうです。(グレッグ・パラスト著 “The Best Democracy Money Can Buy (2002)” 邦題『金で買えるアメリカ民主主義』(角川書店) 今の日本には、アメリカの介入はないと思います。あちらも今、何かと大変ですし、この種のことでなら、日本でよりも介入したい国は他にあるようですし、それに、そもそも安倍政権自体があちらにとって、さほど良いものだと思われていない可能性もあります。なので安倍政権支持団体の皆様は自力で地道にプロパガンダを頑張ってください。じゃ。(^^)/
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