古森義久の記事は一部分でしかない。 一部分を切り取って記事全体をさも一部分を拡大化したような印象を植え付ける手法はネトウヨがよくやるが、古森も産経新聞を始めとして保守メディアを主筆に記事を書いており、多分に恣意的な記事を書くことも少なからずある。 印象とは書いた人物の主観が反映した文章で読み手に主観を投影させる、一種の印象工作を想起させる。 それはフェアとは言えないだろう。 そこで問題の古舘一郎インタビューの全文をコメント欄で紹介する。 全文を読んでもらって、あくまで材料として判断してもらいたいからである。 以下全文↓ 古舘伊知郎さん「敗北だった」 キャスター経験12年間 聞き手・佐藤美鈴 2016年5月31日03時03分 テレビのニュースに、正しい伝え方はあるのだろうか。テレビ朝日系のニュース番組「報道ステーション」の12年間のキャスター経験を、古舘伊知郎さんは「敗北だった」と振り返る。なお求めるという「永遠の微調整」。2カ月の充電期間を終え、実況中継さながらにノンストップで3時間、しゃべり通したテレビへの思いとは。 ――キャスターをやめて半月の4月半ば、熊本地震のときはどこで何をしていましたか。 「東南アジアのある田舎町で、飯を食ってたんです。スマホで地震を知って。〈立ち上がりながら〉うわ、これは行かなきゃ、と。でも、『おれ、もう(番組は)終わってるんだ』と座り直した。ちょっと切なかった。体は反応しちゃう。貧乏性だな」 ――6月1日のトークライブで活動を再開します。もっと充電しようと思いませんでしたか。 「この10年、夏休みでも東京から出ずにいたので、海外ぶらり一人旅をして。本を読み、映画をみて。3カ月くらい休んでも平気、と思っていたけど、だめでした。22歳から40年近く、しゃべる仕事をやってきた性(さが)ですね」 ――12年間を振り返ると? 「外交、政治、経済にくわしくもない、ど素人が、重い任を背負ってしまった。負い目や不安はいっぱいある。僕は(いずれもTBSの『NEWS23』に出ていた新聞記者出身の)筑紫哲也さんでも、岸井成格(しげただ)さんでもない。ジャーナルな目線はあまりなかったと、正直に認めます。ただ、テレビという情動のメディアで、反権力、反暴力、反戦争という姿勢は持ち続けようとやってきた。その自負は、あります」 ◇ ――3月31日の最後の出演で、「窮屈になってきました」と8分間のあいさつをしました。 「ニュース番組が抱えている放送コード、報道用語。予定調和をやめて、もっと平易でカジュアルなニュースショーができないかと12年やってきたけど、壁を打破できなかった。負け犬の遠ぼえなんで、そこはしっかと自覚しようと。敗北を抱きしめて。報道ではなくバラエティーのコードで、わかりやすい言葉や感受性にヒットする言葉を選んで、半自由にしゃべらせてもらいたい。わがままがうずいたんです」 ――どうしたかったのですか。 「たとえば〈アナウンサー口調で〉『この裁判は自白の任意性についてが焦点です』。司法言葉としてはわかるけど、巷(ちまた)で『任意性』って言うかな、って。スタッフともしょっちゅう論争するわけです。もっと見ている人にシンクロして、舞台裏まで言葉にできないのかという葛藤がありました」 ――「負け犬」ですか。 「報道は知識、情報。あと、自分の視点、言葉に『智慧(ちえ)』を入れたかった。でも、ちょっとひねった言い方をすると、『お前の意見なんてどうでもいい』とめった打ちにされた。テレ朝への電話やメールは1日100本を超えることもあり、僕が失言すると300本。大きな事件や朝日新聞の従軍慰安婦報道謝罪のときは、さらに多くなった。その1人の後ろに何百人がいる。毎日意見に目を通していると、言いたいことはどんどん言えなくなった。報道番組を見る人のスタンスにも、僕はある意味、負けた」 ――政治からの圧力は、本当になかったのですか。 「僕に直接、政権が圧力をかけてくるとか、どこかから矢が飛んでくることはまったくなかった。圧力に屈して辞めていくということでは、決してない」 ――それでも、何らかの圧力があったのではと受け止められた。 「画面上、圧力があったかのようなニュアンスを醸し出す間合いを、僕がつくった感はある。実力が足りなかった。原発事故後の福島の甲状腺がんの特集も、ドイツのワイマール憲法の特集も、考え方が違う人は『偏っている』と言う。その気配を察して、僕を先頭に番組をつくる側が自主規制をしたきらいがないか。だれかから文句を言われる前に、よく言えば自制、悪く言えば勝手に斟酌(しんしゃく)したところがあったと思う」 ――なぜそれほど慎重に? 「『偏っている』というだけの論法は、そんなに怖くない。ただ、東日本大震災後の福島の風評被害で、親戚の子どもが学校でのけ者扱いされた人からの『マスコミは徹底的に福島と心中する気もないくせに、なぜ中途半端に偽善者ぶるんだ』という声には正直、ひるみました。中途半端な言葉は見透かされる。大震災を境に、言うことを控えたという自分の反省と、言うこと控えて何が悪いのかという思いの葛藤の日々でした」 ――そうした思い、最後の8分のあいさつで言い切れましたか。 「無理、無理。思いが強すぎて。楽屋であいさつを稽古したときは18分30秒あったんです。本当は、宮城・気仙沼の漁師さんに『ありがとうございました』と伝えたかった。それは何かというと、震災後、あまりのすさまじい現実、悲しみや怒りの極致にいる人たちを前に、俺にはしゃべる資格がないと思った。だったら被災した方に、せめて一瞬でもガス抜きしてもらうのが役割だと思い、漁師さんに言ったんです。『自分はテレビの側で偉そうに言って帰る前提で聞いています。思いっきり私に怒ってください』。すると、水産加工場を見せてくれた。ウジ虫で真っ白な床。異臭。腐った魚を湾に捨てる作業。そして本音で語ってくれた。傲慢(ごうまん)で上っ面だけでしゃべれば何とかなると思っていた自分が、多少なりとも変われた瞬間でした」 ――この春、NHK「クローズアップ現代」の国谷裕子さん、「NEWS23」の岸井さんも、相次ぎキャスターを降りました。 「岸井さんも国谷さんも、会ったことはありません。同時多発的に辞めたのは、不思議ですね。通底する何かがあるんですか? むしろ朝日新聞にお聞きしたい」 ◇ ――いまの肩書は? 「えっ? 肩書? しゃべり屋か、しゃべり手か。これしかないですね。だから生意気を言わず、ナレーションでもバラエティーでも、クイズでも旅ものでも、散歩番組でも。初心にかえって、やれるものはやらせてもらいたい。夏の参院選の司会はありません。自ら報道を降りたので、義理と人情を大事にしたいですし」 ――昨年12月に降板を発表したときの会見では、2020年の東京五輪の開会式の実況をしたい、とも。なぜ、開会式ですか。 「いや、あんまり意味がなくて。大きなカーニバルの描写をしたい。人を呼び込みたいから」 ――ですが……。 「だめです? この説明では」 ――先ほど予定調和は嫌いだと。展開がみえない試合中継のほうが古舘さんらしいと思います。 「それは認めます。確かに開会式は式次第がありますが、予想外の面白い動きがないものを面白く言うのが、また楽しみなんですよ。〈水の入ったグラスを手にとり〉たとえば、これを実況すると『まるでオホーツク海、ゆっくりと流氷が流れてきた時に、こんな一瞬きらめくような光景が眼前に開けているんでしょうか……』とか言って。思いまでつなぐと、邪道実況として人は楽しむんです」 ◇ ――テレビのニュース、この先どんどん窮屈になりませんか? 「番組コメンテーターだった東京工業大学の中島岳志先生の『保守とは永遠の微調整』という言葉が、好きなんです。変わらないためには、変わり続けないといけない。全面的には変えないけれど、少し位相をずらしましょう、と。いまの安倍政権も、20年前の保守政権と違う形で国民にアピールすることが大事なのでは。この永遠の微調整をしていくことが、いまの政権に欠けている本当の保守本流の政治ではないかと」 「テレビのニュースも保守の極みですから、アナーキー(無秩序)なことはやれない。けれど、若い人たちは保守、リベラルと分けない無垢(むく)の柔軟性がある。だったらさじ加減は難しいですが、永遠の微調整をやっていく。俺はガチガチに考えすぎて自然発火みたいになっちゃったけど、もっとスマートなやり口があって、(後任の)富川悠太アナウンサーを含めて、少しずつ変革してほしいと期待しています。テレビにも新聞にも、あきらめないでほしい」 ――テレビに未来はある、と。 「スマホの中にテレビがぐいぐい入っていく時代こそ、テレビを考えるゴールデンタイムの番組とか仕掛けないと面白くない。テレビのゆりかごで育ってきた古くさい人間として言えば、テレビはそんなに、やわじゃない。ただ、創生期にはめっちゃくちゃなやつがいて面白い番組があった。いまはエリートの集団で、平板でつくっている。よく言えば成熟、悪く言えば衰退。成功番組の焼き直しを追随して、ニュースもハイリスクハイリターンが少ない。チンピラで途中入社せよ! はみ出し者いでよ! お笑いのバラエティーの人間が報道に、といった激しい人事交流で化学変化を起こす、永遠の微調整が必要ではないですか」(聞き手・佐藤美鈴) ◇ 1954年生まれ。テレビ朝日のアナウンサー時代にプロレス実況で人気に。独立後、各局のバラエティーや紅白歌合戦で司会を務めた。 http://digital.asahi.com/articles/ASJ5T05Y6J5SUCVL031.html?rm=1315
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