「共産党は暴力革命維持」 政府見解の正当性 破防法の調査対象団体 北海道選出の衆議院議員で、民主党を離党し現在無所属の鈴木貴子代議士は、2016年3月14日、「日本共産党と『破壊活動防止法』に関する質問主意書」を政府に提出した。主意書は6項目に分かれているが、そのうち質問の中心部分に当たるのは、次に引用する第2項と第3項である。 《2 昭和57年4月1日、第96回国会、参議院法務委員会に於いて、公安調査庁は「破防法」に基づく調査対象団体として、左翼関係として7団体、右翼関係として8団体ある旨答弁されていると承知するが確認を求める。 3 2にある「左翼関係として7団体」に日本共産党は含まれているか、(中略)現在も公安調査庁は、日本共産党を「破防法」に基づく調査対象団体と認識しているか、確認を求める。》 これに対し、政府は2016年3月22日に答弁書を閣議決定した。上記2つの項目については、次のようにまとめて回答している。 《2及び3について ご指摘の昭和57年4月1日の参議院法務委員会において、鎌田好夫公安調査庁長官(当時)が、破壊活動防止法に基づく当時の調査対象団体の数について「いわゆる左翼系統といたしまして7団体、右翼系統として8団体程度」と答弁し、当該調査対象団体の名称としましては日本共産党・・・等でございます」と答弁している。 日本共産党は、現在においても、破壊活動防止法に基づく調査対象団体である。》 鈴木質問主意書の背景 なぜこの時期に、鈴木貴子はこのような質問主意書を出したのだろうか。(以下、人名の敬称を省略する)その背景を考えてみる。 日本共産党は、過去十数年、政界でそれほど存在感を発揮していたわけではなかったが、2015年あたりから大変な元気を取り戻し、一躍注目を浴びるようになった。なぜか。 2015年、安倍内閣は集団的自衛権を限定的に行使できると憲法解釈を変更した。そして、それに伴う一連の法律の改正案を国会に提出した。これに対して、久しぶりに、「安保法制」反対の大衆運動が盛り上がったのである。そこでは、自然発生的な学生、青年、主婦などの動きもあった。SEALDsという団体などは、マスコミが持ち上げて報道したので、すっかり運動の寵児となった。共産党はこれに目をつけて、陰陽両面の支援を行った。 他方、政界では長年、共産党は蚊帳の外に置かれていたが、2016年2月に共産党を含む野党の党首会談が行われ、共産党主導で今夏の参議院選挙の選挙協力が進められているのである。 共産党は2016年4月10日、11日の両日、党本部で第5回中央委員会総会(5中総)を開いたが、志位委員長が行った幹部会報告には、「かつてない」とか「初めての」などの言葉が実に16回も使われていた。 例えば、「安保法制=戦争法に反対するたたかいを通じて、国民一人ひとりが、主権者として、自由な、自発的な意思で立ち上がり、声をあげる、戦後かつてない新しい市民運動、国民運動がわき起こり、豊かに発展しています」のような言い方がなされており、千載一遇のチャンスとして捉えていることがうかがえる。 共産党は自信をつけ、相当の手応えを感じていることは間違いない。 2016年4月24日、今年の夏の参議院選挙の前哨戦と位置づけられる、衆議院の補欠選挙が行われた。京都3区は自民党の現職議員が女性スキャンダルで辞任したための補欠選挙なので、自民党は候補者を立てることができない。それで、北海道5区が、参議院選挙の動向を占う意味を持つことになった。そして自民党の候補者に対し、野党は共産党を含む各党が共同して1人の候補を推す選挙協力が実現した。 しかし、北海道で一定の支持基盤を持っている新党大地の鈴木宗男は、これに加わらず、自民党候補を応援すると表明した。鈴木宗男は「理由はただ1つ、共産党を入れての統一候補などは有り得ないからです」と言い、「そもそも共産党とは国家観、世界観が全く違います。例えば共産党は公式HPを見てみれば、今なお『共産主義社会をめざして』という文言を掲げて、その旗は降ろさないと宣言しています。共産主義など、自由と民主の理念からは到底相容れないものですし、いまだ破防法に基づく調査対象の団体として監視されている政党です。そんな政党と組めるわけがない」と、その理由を語っている。 ここに、共産党は破防法の調査対象である、という問題を提示している。そこで、鈴木宗男の娘にあたる貴子が、先のような質問主意書を提出するに至った、というわけである。これは共産党に一矢放っておきたい政権の意向とも一致しただろうから、好都合であり、閣議決定による回答となったのである。なお、鈴木宗男は2015年12月28日、官邸で安倍首相に会い、今後の協力を約束したと述べている。 鈴木父子のこの政治的な態度表明と行動を、私は妥当なものだったと考える。国民に責任を持つ、政治家としての最低限の矜持であるとさえ言えよう。 2016.4.25 01:07 【衆院ダブル補選】 北海道5区補選、自民党の和田義明氏が当選 野党統一候補に約1万2000票差 http://www.sankei.com/politics/news/160425/plt1604250007-n1.html 衆院北海道5区補選で当選を決め、自民党の故町村信孝前衆院議長の写真を手に笑顔を見せる和田義明氏。左は町村氏の娘で妻の直子さん=24日午後10時36分、札幌市厚別区 http://www.sankei.com/politics/photos/160425/plt1604250007-p1.html 町村信孝前衆院議長死去に伴う衆院北海道5区補欠選挙は24日投開票され、町村氏の娘婿で自民党の和田義明氏(44)=公明、日本のこころ推薦=が、野党統一候補で無所属新人の池田真紀氏(43)=民進、共産、社民、生活推薦=を破り、初当選を果たした。 ◇ 【衆院北海道5区補選開票結果】 当135842 和田義明 自新 123517 池田真紀 無新 (選管最終) 「コミンテルン」の分かりにくさ 日本共産党とは一体、どのような政党か。この組織に人生の一時期、加入していた者として、やや体験を述べてみたい。 私が北海道大学に入学したのは1962年の4月だったが、1963年の3月、私は共産党に入党した。ほどなく、新入党員向けの講座があった。北海道委員会の幹部の方が講師で、党の歴史を講義した。最初に印象深かったのは、、戦前の日本共産党の正式名称は「コミンテルン日本支部日本共産党」であるということだった。「コミンテルン日本支部」が必ず先に来なければならない。その後「日本共産党」が下につくのである。講師は、これを誇らしげに語った。 ところで、このコミンテルンという言葉が分かりにくい。どう説明したらよいのか。地方の講演で、ある時、終了後、聴衆の1人から、 「先生の話はよく分かったが、コミンテルンのことだけは、どうもよく分からなかった。イメージが湧かない。今度、我々にも分かるように、話し方を研究して下さい」 と要請された。率直に指摘していただいて有り難かった。それで、このことは私の主題の1つなのだ。 1度もコミンテルンという言葉を聞いたことのない人は、どんなものを思い浮かべるのであろうか。松本清張の小説で、新薬を売り出す時、薬のネーミングは、最後が「ン」で終わるようにすると、語感から、効く薬のように感じられる、という話があった。コミンテルンは何かの薬か補助食品の名前のようである。「サントニン」「コンドロイチン」などのように。 日本語では「国際共産党」と訳すのだが、それでもピンとこない。コミンテルンは「コミュニスト・インターナショナル」の略称なのだが、コミュニストは分かるとして、分からないのは「インターナショナル」の方ではないかと思う。 「インターナショナル」の意味 そこで、宿題の答を探るために今考えている方向は、遠回りのようだが、近代ヨーロッパの歴史から説き起こすことだ。中世のヨーロッパの各国の王様たちは、国際結婚によって、国を超えた王族のネットワークを作っていた。これがインターナショナルということだ。 これに対立し、それぞれの国ごとの利益を主張したのがナショナリズムである。近代において時代が進むと、ヨーロッパの事実上の支配者は、次第に資本家にとって代わったが、彼らも互いに金融のネットワークでインターナショナルな結びつきを作っていた。 マルクスは、この資本家の支配を転覆するには、1国内でその国の労働者が立ち上がるだけではダメだ、と考えた。なぜなら、ある国で労働者が蜂起しても他国の資本家が介入して労働者の革命運動を鎮圧するからである。そこで、共産主義革命は1国ではなく、国境を越えてインターナショナルに労働者が手を結び実現しなければ不可能だ。こうして、革命は世界革命として起こるというのだ。これをマルクスの「世界革命論」という。 しかし、ここで「世界」といっているのは、ヨーロッパの国々の範囲に限られる。ヨーロッパの国だけなのに、世界革命とはこれいかに。アメリカの一番強いチームを決める野球の試合をワールド・シリーズと言うがごとし。欧米人はかなり夜郎自大な人たちだと心得ておけばよい。 これで、革命を成功させるためには、「インターナショナル」という名称の労働者や革命家の国際組織が絶対に必要だということが分かるだろう。19世紀後半から20世紀前半にかけて、インターナショナルの組織は4回作られた。 1864年に作られたのが「第1インターナショナル」で、長いので単に「第1インター」という。この当時はマルクスもまだ生きていた。次いで、1889年に作られたのが「第2インター」。ところが、第一次世界大戦が始まると、それが帝国主義の戦争であるにもかかわらず、第2インターに属する各国の組織は、自国の政府を支持するに至った。ナショナリズムの高揚があった。 レーニンはこれを徹底的に批判するとともに、ロシア革命後、ロシアを世界の帝国主義の干渉から守り、かつ世界中に(今度はアジア、アフリカまで含めてグローバルに)革命を広げるための組織として、1919年、「第3インター」を創立した。その正式名称がコミュニスト・インターナショナル、略してコミンテルンである。レーニンの後、スターリンがコミンテルンの指導者となった。これに対立してトロッキーが1938年に作ったのが第4インターだ。 なぜこういうことを書いているかというと、日本共産党とは、日本の歴史や伝統に根ざして生まれたものではない、ということを知ってほしかったのである。それは徹頭徹尾、外国から持ち込まれたものだった。 日本共産党創立の働きかけ コミンテルンは1920年に上海に極東ビューローを設置し、工作員を派遣した。その目的は、中国、朝鮮、日本に共産党を作ることだった。コミンテルンの密使は日本に共産党を作るように働きかけてきた。1921年4月、堺利彦を委員長とするコミンテルン日本支部準備会が作られ、近藤栄蔵が上海に代表として派遣された。上海では日本共産党結成の任務が確認され、月額2万円の活動費が認められた。今の8000万円に相当する。下関に帰った近藤栄蔵は、料亭で芸者をあげて飲食し、ついには私服刑事に逮捕される。この近藤栄蔵の引き起こした事件を「暁民共産党事件」というが、正式の党史には一行も書かれていない。日本共産党の歴史は、さっぱり輝かしくない。こんな調子のことが繰り返されている。いつの場合も、外国から方針と資金がセットで送り込まれている。現在の党史は、党の成立を1922年とする。 戦前の日本共産党は、党員数千人程度の、知識人と学生を主な構成員とする組織で、労働者を十分に獲得することはできなかった。政府の弾圧も厳しく、非合法の組織だった。 戦前の日本共産党については、立花隆『日本共産党の研究』(講談社文庫)が最も基本的な文献である。 戦後は、日本共産党はアメリカ占領軍の方針で幹部が解放され、公然と活動できるようになった。しかし、外国から指導を受けて活動するという体質は変わらなかった。中国から帰った野坂参三は、アメリカ占領下でも革命を出来るとする「平和革命論」を唱えるに至った。 武装闘争路線の決定 中国共産党による政権奪取が近づいた1949年7月、中国共産党の劉少奇はソ連を訪問し、スターリンとの間で「ヨーロッパの運動はソ連が、アジアの植民地・半植民地の運動は、中国が担当者となり中国の革命運動の経験を広める」という点で合意した。縄張りを決めたわけだ。これに基づいて、1949年11月、劉少奇は、世界労働組合連盟(世界労連)が北京で開いた会議で演説し、中国流の人民解放軍による武装闘争方式を、日本を含むアジア・太平洋地域に例外なく広める方針を打ち出した。これを「劉少奇テーゼ」という。 コミンテルンは1943年、アメリカがソ連に武器を供与するのと引き替えに、ルーズベルトが解散することを要求したので、その歴史の幕を閉じていた。しかし、戦後はコミンフォルム(ヨーロッパ共産党・労働者党情報局)という組織が作られ、スターリンの指導下にあった。 1950年1月6日、コミンフォルムは「日本の情勢について」という題の論評を発表し、野坂参三の「占領下平和革命論」を、アメリカ帝国主義との闘いを回避する「反マルクス主義的、反社会主義的『理論』の日本版」「日本人民大衆を欺く理論」と名指しで、打撃的に批判した。共産党は、これをめぐって、徳田球一のグループと宮本顕治のグループに分裂したが、徳田球一ら主流派の幹部は地下にもぐり、焼き玉エンジンの小さな船(人民艦隊と呼ばれた)で北京に密航し、日本共産党の幹部は中国共産党の完全な指導下に入った。 共産党は、1951年2月の第4回全国協議会(4全協)において、反米武装闘争の方針を決定し、山村地区を中心に全国の農村地帯に「解放区」を組織することを指示した。社会の構造がまるで違う中国の共産党がやったことのサル真似である。ついで、同年10月の第5回全国協議会(5全協)で、共産党は「新綱領」を決定し、軍事革命の部隊として「中核自衛隊」の設置を決めた。隊員となったのは学生党員や失業中の労働者などだった。 軍事組織だから武器を持たなくてはならない。そう考えて考案されたのが火炎瓶だった。その作り方のノウハウは「球根栽培法」などの表紙のついたガリ版刷りの冊子で伝えられた。学生たちは、「山村工作隊」と称して、農村に出かけ、農民のオルグを任務とした。そんなことが成功するはずもない。こうした活動は、多くの青年や学生の人生に大きな傷を残しつつ、雲散霧消した。 この時期の日本共産党の「武装闘争」については、兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社、新潮文庫)を読んでいただきたい。 1955年の6全協で、共産党は武装闘争をやめた。これもソ連や中国共産党の指示だった。 共産党の武装闘争の統計的検証 中国とソ連の共産党は、なぜ日本共産党に武装闘争戦術を取らせたのだろうか。それは1950年6月に始まった朝鮮戦争の計画の一環で、日本から出動する在日米軍の留守を狙った後方攪乱のためであった。 日本共産党ウオッチャーで、ブロガーとして著名な宮地健一は、朝鮮戦争をソ連共産党、中国共産党、朝鮮労働党という社会主義国の党と、日本共産党という資本主義国の党の、4党による合作だったと位置づけている。日本共産党の軍事行動は、朝鮮戦争の一部だった。この意味では、「戦争反対」を看板にしている日本共産党だが、戦後の日本で、「戦争を戦ったことのある唯一の党」が日本共産党なのである。ただし、日本共産党は事前に戦争の計画を知らされず、戦争が北の侵略であったことも知らなかった。 日本共産党の武装闘争は、どの程度の回数と規模で行われたのだろうか。例えば、火炎瓶事件とは一体どのくらい起こったのだろうか。宮地健一が作成した表から、集計表の一部を転載させていただく。 ◇後方基地攪乱・戦争行動の項目別統計(総数) 1、警察署等襲撃(火炎瓶、暴行、脅迫、拳銃強奪)(96) 2、警察官殺害(印藤巡査1951・12・26、白鳥警部1952・1・21)(2) 3、検察官・税務署・裁判所等官公庁襲撃(火炎瓶、暴行)(48) 4、米軍基地、米軍キャンプ、米軍人・車輛襲撃(11) 5、デモ、駅周辺(メーデー、吹田、大須と新宿事件を含む)(29) 6、暴行、傷害(13) 7、学生事件(ポポロ事件、東大事件、早大事件を含む)(11) 8、在日朝鮮人事件、祖防隊・民戦と民団との紛争(23) 9、山村・農村事件(10) 10、その他(上記に該当しないもの、内容不明なもの)(27) ◇武器使用指令による朝鮮戦争行動の項目別別表(総数) 1、拳銃使用・射殺(白鳥警部1952・1・21)(1) 2、警官拳銃強奪(6) 3、火炎瓶投てき(全体の本数不明、不法所持1件を含む)(35) 4、ラムネ弾、カーバイト弾、催涙瓶、硫酸瓶投てき(6) 5、爆破事件(ダイナマイト詐取1・計画2・未遂5件を含む)(16) 6、放火事件(未遂1件、容疑1件を含む)(7) 法治国家としてこれらの行為を取り締まることは、国家存立の根幹に関わる不可欠なことである。1952年に、共産党の軍事行動への対応のために成立した破防法は、第4条第1項で、暴力主義的破壊活動に当たる行為を列挙し、刑法上の内乱、内乱の予備又は陰謀、外患誘致等の行為をなすこと、政治上の主義若しくは施策を推進し、支持し、又はこれに反対する目的をもって刑法上の騒乱、現住建造物等放火、殺人等の行為をなすこと等、と定義している。 成り立たない共産党の反論 日本共産党の山下芳生書記局長(当時)は2016年3月22日、国会内での記者会見で、政府が、日本共産党について、現在でも「破壊活動防止法に基づく調査対象団体である」「『革命暴力の方針』に変更はない」などとする答弁書を閣議決定したことに反論した。反論内容は6項目にわたっているが、その内の1つで、山下芳生は次のように述べた。 《わが党が党として正規の機関で「革命暴力の方針」をとったことは1度もない。わが党の綱領でも明らかなように私たちは日本の政治社会の変革については、言論と選挙を通じて議会で多数を占めて、国民・有権者とともに一歩一歩、政治と社会を進歩前進させるという立場に立っている。これがわが党の変わらぬ綱領路線であり、破防法の対象になるようなことは過去にも現在ももちろん将来にも一切ないということは改めて述べておきたい。》 この発言に見られる論理は、共産党の中で宮本顕治の指導権が確立した後に、その責任逃れのために編み出したものである。3つのポイントを指摘したい。 第1に、「わが党が党として正規の機関で『革命暴力の方針』をとったことは1度もない」というが、党は5全協で武力闘争路線を決めたことはすでに見た通りである。それは党が分裂していた時期に、徳田球一らの「分派」が決めた方針だから無効だと言いたいのだろうが、それは成り立たない。 兵本達吉によれば、徳田球一主流派と宮本顕治国際派の力関係は、一般党員レベルでは9対1、専従活動家レベルでもせいぜい7対3くらいで、「『分派』はむしろ宮本顕治の方であった」という。それに宮本顕治は5全協に幹部として出席している。党が分裂していた当時に、分裂していた一方の側がやったことで、我々には責任はない、という言い方が成り立たないことについて、兵本達吉は次のように言っている。 「ある会社が罪や不法行為を犯す。そして社長が退任する。そこで次の社長になった者が、『あれは前の社長がやったことであり、しかも自分は前の社長とは仲が悪かった。だから、我が社は責任を取ることができない』と主張しても世間では全く通用しないであろう」『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社、新潮文庫)。 第2に、山下芳生は「破防法の対象になるようなことは過去にも現在ももちろん将来にも一切ない」と言うが、破防法は1952年、共産党の武装闘争が果敢に展開された後に、その対処として成立したのであり、詭弁というほかない。 第3に、山下芳生は、先の会見で、破防法を「憲法違反」だと言っている。語るに落ちたとはこのことで、山下芳生は、かつての「戦争」、「武装闘争」をやりたい放題やらせよ、と言っているに等しい。日本共産党が暴力革命を捨てていないことの証拠である。 「敵の出方論」 鈴木貴子代議士の2016年3月14日の「日本共産党と『破壊活動防止法』に関する質問主意書」に次の項目がある。 《4 昭和57年4月20日、第96回国会、衆議院地方行政委員会に於いて、警察庁は「ただいまお尋ねの日本共産党につきましては、民青を含めまして、いわゆる敵の出方論に立ちました暴力革命の方針を捨て切っていないと私どもは判断しておりますので、警察としましては、警察法に規定されます「公共の安全と秩序を維持する」そういう責務を果たす観点から、日本共産党の動向について重大な関心を払っている」旨答弁されているが、現在も警察庁は、日本共産党は暴力革命の方針を捨て切っていないと認識されているか、見解を求める。》 これに対する政府の答弁書は次の通りである。 《4について 警察庁としては、現在においても、御指摘の日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないものと認識している。》 ここで遡上に上っている「敵の出方論」については、鮮明な記憶がある。大学3年くらいの頃だから、西暦では1965年頃だったと思われる。札幌で、党の最高幹部の袴田里見の演説会が開かれた。話の中で、血を流さない平和的革命の可能性を語った後、しかし、革命の途上で、敵が武力で弾圧するならば、我々は黙ってやられるままでいる訳にはいかない、と大見得を切ったのである。この時は、すでに今の綱領の原型をなす1961年に確定した綱領が存在したのだから、特別な時期の話ではない。 袴田里見が言ったように、敵の出方によっては暴力革命も肯定するというこの原則を「敵の出方論」というのである。だから、「敵の出方論」を放棄しない限り、共産党は「暴力革命」を捨てたとは言えない、という関係にあるのである。 実際、暴力革命を疑わられるマイナスを避けるのだったら、共産党は「敵の出方論」は廃止しました、とハッキリ言えばよい。しかし、共産党は、それは決して言わない。だから、政府答弁にある判断は正しいことになる。権力の移行期には、一部の権力を党派Aが握り、他の権力は党派Bが掌握する、といったことはよくある。しかし、共産党は一切れの権力でも手に入れたら、普段の国民向けの微笑はかなぐり捨てて、実力行使に及ぶと考えておいた方がよい。 共産党に市民権を与えるな 「修正主義」という言葉がある。最近は、安倍首相が「歴史修正主義」ではないかとアメリカは一時疑ったが、疑いは晴れたようだーなどという話があるが、それとは全く違う意味で長い間使われてきた。 マルクス主義の学説では、革命とは暴力革命のことに他ならなかった。だから、共産主義運動の中で「修正主義」とは、暴力革命を否定し、議会を通じて革命が出来るかのように考える立場のことを指していたのである。レーニンがどれほど口を極めて修正主義を批判してきたことか。だから、日本共産党が武装闘争路線を取ったのは何か異常なことがあったと考えるべきではない。それはマルクス主義においては、むしろ標準的なことなのである。 SEALDsなどに集まっている若者に言いたい。共産党は物心両面で献身的に支援してくれる。共産党のおじさんは、優しいし、運動上で色々知らないことを教えてくれるから頼りになる、と思うかもしれないが、考え直した方がいい。そのうち必ず、「共産党に入って、おじさんたちと一緒に日本を良くする活動をしませんか」と入党の勧誘をしにくるから、その時、君たちに本を読む習慣と知性があるなら、日本共産党の歴史を戦前は立花隆、戦後は兵本達吉の本を読んで知ってもらいたい。どちらも文庫本で買える。判断は君たち自身がすればよいが、私は、共産党に市民権を与えてはならない、と呼びかけたい。
[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまっていない長文
|