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2015年8月30日、安保関連法案に反対する国会前デモ〔photo〕gettyimages
戦後日本の「安保」はこうして作られた 〜アメリカ・昭和天皇・吉田茂 「戦後レジームの正体」第11回(前編)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48311
2016年04月02日(土) 田原 総一朗「戦後レジームの正体」 現代ビジネス
■国民も憲法も無視して成立させた安保関連法案
2015年9月19日、午前2時17分、集団的自衛権の行使を柱とする安全保障関連法案が参議院本会議で可決された。もめにもめた安保法制が成立したのである。
このとき、真夜中にもかかわらず国会の周囲は、「安保法制反対」を叫ぶ数万人の市民たちで埋め尽くされていた。
9月19、20日両日に実施した共同通信の世論調査によれば、安全保障関連法について「国会での審議が尽くされたとは思わない」の回答は79.0%、「尽くされたと思う」は14.1%だった。安保法への安倍政権の姿勢に関し「十分に説明しているとは思わない」は81.6%、「十分に説明していると思う」はわずか13.0%。
朝日、毎日、読売各紙の世論調査を見ても、反対が約5〜6割、賛成は3割台、そしていずれも「説明が不十分」はほぼ8割に達している。国民のほとんどが不満を覚えているのである。
集団的自衛権については、自民党政権は一貫して、「独立国として権利はあるが、憲法上使えない」という姿勢を通してきた。
たとえば1960年に岸信介首相は「自国と密接な関係にある他の国が侵略された場合に、これを自国が侵略されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていってこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的の問題になると思います。そういうものは、日本憲法においてそういうことができないことはこれは当然」と国会で答弁している。
さらに1972年に田中角栄首相の政府見解としても、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」と明確に言い切り、81年5月には鈴木善幸内閣でも「集団的自衛権を行使することは、(中略)憲法上許されない」との見解を示している。
その集団的自衛権を、従来の姿勢を大きく変えて、なぜ安倍晋三内閣は行使することにしたのか。
自民党の幹部の一人が、「冷戦時代が終わって、日米安保条約の前提が大きく変わった」のだと説明した。
「日米安保条約は、憲法と同じように、アメリカ側が強要ともいえるかたちで日本に求めたのだ」というのである。
憲法は、本連載第6回(→こちら)で記したように、GHQがいわば密室作業でつくり上げたのだが、日米安保条約が、アメリカの強要によるとはどういうことなのか。あらためて日米安保条約が結ばれる経緯をたどってみることにする。
■踏みにじられた正論
1950年、朝鮮戦争が勃発する直前に、国務省の顧問だったダレスが日本にやって来た。東西冷戦が激しくなり、アメリカは日本を西側陣営に取り込むために、講和条約と日米安保条約の取りまとめを急ぎ、その交渉のために訪日したのである。
ダレスは、当時首相だった吉田茂に「再軍備をせよ」と強く要求した。だが吉田はこの要求を頑として断った。
吉田茂〔photo〕gettyimages
「『経済もいまだ回復していないのに、再軍備をするのはおろかなことだ』というのが、吉田の主張であった。それに、日本が再軍備をすればアジア近隣諸国が日本軍国主義の復活を恐れるだろうし、だいたい、日本は憲法で軍備を持たないことになっているから、持てるはずがないと彼は付け加えた。そして、吉田は彼の主張を支える手を打っていた。彼はマッカーサーに対し、日本の再軍備は無理だという立場を前もって説明しておいた」
当時京都大学助教授だった高坂正堯は『宰相吉田茂』(中央公論社)の中で、こう書いている。
ダレスと吉田は、翌1951年1月末にも「再軍備」の話し合いを行った。
「ダレスは前年と同じ議論をくり返し、吉田もまた同じように反駁した」(前掲書)ということだ。つまり、アメリカ側が執拗に再軍備を要求するのを、吉田は懸命に拒んだということになるのだが、豊下楢彦(元関西学院大学教授)は、著書『安保条約の成立』(岩波新書)の中で、この構図を否定している。
ジョン・フォスター・ダレス。日米安保の"生みの親"〔photo〕gettyimages
ダレスは、吉田と会う前のスタッフ会議で、「我々は日本に、我々が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を獲得できるであろうか? これが根本的な問題である」と述べているというのである。つまり、日本の再軍備への約束を獲得することが最も重要な課題ではなかったというのである。
もっとも、吉田は、独立後もアメリカが占領時代と同じように日本に軍事基地を持つことに反対だったようだ。
1950年7月29日に、参議院で社会党の金子洋文の質問に対して、吉田は「私は軍事基地は貸したくないと考えております」「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」と明言し、連合国の側も日本に軍事基地を「要求する気もなければ、成るべく日本を戦争に介入せしめたくないというのが、日本に平和憲法を据えるがいいと希望した連合国の希望だろうと思います」と答弁しているのである。
だが、被占領国である日本が、占領国のアメリカに対する「バーゲニング(交渉)」能力を持てるはずがなく、吉田首相の筋の通った「正論」は、いわば無残に踏みにじられてしまい、ダレスが述べた「我々(※筆者注 アメリカ)が望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利」を獲得してしまうのである。
■日本を無期限に縛る不平等条約
1951年9月8日のサンフランシスコ講和会議で日本が独立してまもなく刊行された「フォーリン・アフェアーズ」誌(1952年1月号)で、ダレスは講和会議の日の午後に調印された日米安保条約について、「アメリカは日本とその周辺に陸海空軍を維持し、あるいは日本の安全と独立を保障する、いかなる条約上の義務も負っていない」と明言しているのだ。
そこで、豊下楢彦の前掲書を引用して、日米安保条約の核心を点検しなおしたい。
「まず、安保条約の第一条では、米軍の日本駐留は義務ではなく米側の『権利』と規定されている。したがって米側は、みずからの判断でいつでも『権利』放棄をして米軍を撤退させることができるのである。
さらにこの米軍は、『日本国の安全に寄与するために使用することができる』のであって、ダレスのいうように安全を保障する義務を負ってはいない。しかし、他方において同じ米軍は、日本の『内乱』に介入し『鎮圧』することができるのである。
より重要な問題は、これら在日米軍の“任務”を規定した条文の最初に、『極東条項』がおかれていることである。しかもそこでは、『極東における国際の平和と安全の維持に寄与』するためと述べられているだけで、米軍の“行動基準”はなんら示されていない。極東とはどの地域を意味するのか明示されていないし、国連との関係にもまったくふれられていない。
要するにこの規定は、米側が『極東』とみなす広大な地域における、日本を拠点とした米軍の『一方的行動』を“保障”したものにほかならないのである」
「第三条では、米軍の配備を規律する『条件』が行政協定で決定されることが謳われている。五二年二月に締結された行政協定では、基地を設置する地域を特定する規定(米比〔※筆者注 アメリカ・フィリピン〕基地協定にさえ明記されている)が欠落した『全土基地化』の権利が米側に保障されている。
さらに、基地外で公務中ではない米軍人の犯した犯罪についても、フィリピンにさえ与えられている裁判権が日本には付与されていない。要するに、米軍には『治外法権』が保障されているのである」
さらに第四条では有効期限も定めず、日本を「無期限」に縛る、占領下と変わらないひどい不平等条約である。
■すべては天皇を守るため
「バーゲニング」能力が全く持てない吉田首相の精いっぱいの抵抗は、講和会議に出席しないこと、「忌避」することであった。吉田は講和会議には「外交界の長老であり、前総理・衆議院議長であった幣原喜重郎」(吉田の発言)に全権を委任するという決意をダレスに示していた。ところが1951年3月10日に幣原が80歳で他界した。
そして4月に訪日したダレスとの会談では、吉田は、佐藤尚武参議院議長に全権を委任すると主張した。首相の自分は日本を離れられないというのが理由であった。
だが、吉田は講和会議を忌避しているのではなく、同じ日に調印することになっている不平等きわまる日米安保条約を忌避するつもりだったのである。
7月7日には会議の開催地がサンフランシスコと決まったが、吉田の「忌避」の姿勢は変わらなかった。
だが、ダレスを含めて米国側は、吉田首相以外の全権は全く想定していなかった。そして吉田首相の「日米安保条約」の「忌避」を認めなかった。結局、吉田首相は「忌避」を翻すのである。どういういきさつがあったのか。
豊下楢彦は、前掲書で「推測」を交えて、それまで誰も示していなかった大胆なストーリーを展開している。
「それでは、かたくなに『異常』なまでに固辞をつづけた吉田がついに全権をひきうける決意を固めた契機はなんであったろうか。それは、天皇への『拝謁』であった。(中略)一九日(※筆者注 1951年7月)の朝に天皇に『拝謁した後に』、吉田は日本の全権団を率いることに『同意』した」というのである。
そして豊下は次のように書いている。
「推測の域を出るものではないが、ダレスは吉田への圧力として“最後の切り札”を切ったのではなかろうか。ダレスは『然るべきチャネル』を通して、吉田への『御叱り』と『御下命』を天皇に要請したのではなかろうか」
徹底的に「固辞」する吉田首相に「全権」を引き受けさせるために、ダレスは昭和天皇を使ったというのである。
占領体制の延長のような安保条約を吉田首相が認めず、全権を「固辞」したのは、それこそ精いっぱいの正論であった。それを、なぜ昭和天皇は「叱り」、吉田首相を翻意させたのだろうか。昭和天皇は、占領体制の延長のような安保条約をどのように捉えていたのか。
豊下は、次のように説明している。
「内外の共産主義から天皇制を守るためには、米軍駐留を確保することが絶対条件であった(中略)昭和天皇にとっては、戦後において天皇制を防衛する安保体制こそが新たな『国体』となった」(豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』岩波書店)
占領体制の延長のような安保条約を、昭和天皇は天皇制を守る絶対条件と捉え、そして、ダレスに頼まれて「固辞」する吉田首相を叱りつけたのだというのである。
しかし、これは豊下が勝手に決めつけているのではなく、安保条約が調印されて10日を経た1951年9月18日に、マッカーサーに代わったリッジウェイ司令官との会談で、昭和天皇は講和条約を、「有史以来未だ嘗て見たことのない公正寛大な条約」だと高く評価して、「日米安全保障条約の成立も日本の防衛上慶賀すべきことである」「日米安全保障条約が成立し貴司令官の如き名将を得たるは我国の誠に幸とするところである」と、安保条約の成立を絶賛している。
繰り返し記すが、昭和天皇にとっては、天皇制を内外の共産主義から守ることが第一義で、そのためには米軍駐留の確保が絶対条件だったわけだ。
こうして、占領体制の継続ともいえる日米安保条約は、交渉の最高責任者である吉田首相が固辞するのを、ダレスと天皇の圧力によって翻意させ、締結にいたったのである。
■相手にされなかった安保改定
だが、保守合同に先立って日本民主党が誕生し、鳩山一郎内閣になると、日米間の不平等条約を改定して、対等条約に近くしようとする動きが強まった。
そして55年8月下旬に外相の重光葵を代表とする交渉団がアメリカに派遣された。幹事長であった岸信介と農相の河野一郎が同道した。交渉相手は、アイゼンハワー大統領に任命された国務長官のダレスであった。
ダレスは安保改定に否定的だった。重光は「現行条約を締結した時、日本には防衛力がありませんでした。だから、日本はアメリカに頼らざるをえなかったのです。しかし今は違う。日本は自国の防衛力を保有しているのです」と主張した(塩田潮『憲法政戦』日本経済新聞出版社)。だから条約を改定すべきだというのである。
だが、ダレスは「日本の防衛力は不十分」だと指摘した。
「アメリカが万一攻撃を受けた場合、日本ははたして軍隊を国外に派遣し、アメリカを助けてくれるのでしょうか。これは疑わしいでしょう。もし日本が妥当な戦力をもち、また、法的な枠組みが整理され、改正された憲法をもっているというのならば、状況は変わってきます」
つまりダレスは、憲法を改正し、集団的自衛権の行使ができないかぎり、安保条約の改定は無理だと言い切ったのである。重光の交渉は、ダレスにほとんど相手にされないで終わった。
そして、このやり取りを聞いて、岸は、何としても憲法改正をして、安保改定を成し遂げなければならないと強く思ったのである。もちろん憲法改正は岸が戦後復活したときからの持論であった。
■岸信介のグランドデザイン
56年12月に鳩山一郎が首相を辞任すると、岸信介は総裁選に立候補したが、石橋湛山、石井光次郎の2、3位連合に敗れて、石橋が首相となった。ところが石橋は体調を崩して退陣し、57年2月25日に岸内閣が発足した。岸は衆院議員となって3年10ヵ月しか経っていなかった。
首相になった岸は、自分の内閣の目標を「目指す政治の基軸は外交と治安」だと言い切った。
そして、女婿の安倍晋太郎が、「なぜ治安立法なんかに力を入れるのですか。得意の経済で勝負したほうがいいのでは」と尋ねると、「首相というのはそういうものではない。経済は官僚でもできる。問題が生じたときに政治が正せばいいが、外交や治安はそうはいかない。首相になったからにはこの二つこそ力を入れる必要がある」と答えている。
ノンフィクション作家の塩田潮は前掲書の中で、実は、岸は「占領期に吉田元首相が敷いた『経済重視・富国軽軍備』路線からの転換をもくろんだ。占領政治の影を払拭して独立国にふさわしい国家経営のスタイルを確立するのが政界に復帰したときからのグランドデザインであった」のだと書いている。
ところで、岸は、ダレス・重光の激しいやり取りから、もちろん不平等きわまりない安保条約は改定しなければならないが、それは憲法を改正した後だと考えていたはずである。だが、現実には憲法改正をしないまま、安保条約改定に踏み切った。なぜなのか。
一つには、マスメディア、そして何よりも、自民党の「天敵」である社会党の委員長をはじめ党幹部たちが「不平等条約の改廃」を強く求めたのである。
「この際特に総理の所信を確かめておきたいことは、日米安保条約、日米行政協定に対する基本的な考え方であります。砂川流血事件のような、同じ血につながる同胞が血を流すといったような不幸な事件や、米国の軍政下における沖縄同胞の血みどろの抵抗を、総理は如何に考えられるか、如何に見られるか。
これらの問題について、アメリカ政府と交渉し、あるいは国連に提訴し、誠意をもって問題の解決に当たることはもちろん、こうした問題の根本的解決のため、同時に日本民族独立のために不平等条約の改廃を断行するため、総理は国民と共に、政府をひっ下げて、力強く一歩を踏み出す決意をもっていないかどうか」(鈴木茂三郎、57年2月4日)
また社会党参議院議員会長の羽生三七は、翌5日に次のように主張している。
「この条約と協定は、サンフランシスコ平和条約締結の際に、早急の間に取り決められたものでありますが、実に多くの欠陥に満ちた条約であり、協定であります。しかも昨今の国内的情勢との関連においてこれを見るときは、速やかに再検討さるべきものであることはここにあらためて言うまでもないところと信じます」
「安保条約あるいは行政協定というものは、私どもはもはや改正の段階にある、あるいは改廃の段階にある、あるいはもっと言葉を強めて言えば、改廃を目標にして、何らか積極的な手を打つ段階がきておると私は思うのです」(和田博雄、57年2月8日、衆議院)
それと同時に、重光外相に対しては冷淡そのものだったアメリカ自体が姿勢を変えたのである。具体的に言えば「不平等条約」を改定しなければならない、と考え始めたのだ。
(明日公開の後編につづく)
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