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「「日本はこれからどうなるのか」。僕からのご提案は「とりあえず足を止めよ」です。:内田樹氏」
http://www.asyura2.com/16/senkyo202/msg/735.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 3 月 13 日 19:00:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

「「日本はこれからどうなるのか」。僕からのご提案は「とりあえず足を止めよ」です。:内田樹氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/19642.html
2016/3/14 晴耕雨読


https://twitter.com/levinassien

朝ご飯前に「レヴィナスの時間論14」。

先月少し先走って2000字書いていたので、あとちょっと。

『時間と他者』90頁のうち26頁目、ついにil y a のところまで来ました。

ハイデガーの「ドイツの大学の自己主張」と読み合わせて「実存者なき実存すること」を解読します。

『時間と他者』は字面だけ見ると浮き世離れした思弁の楼閣のように見えますが、実際にはホロコースト経験の痛みとハイデガー存在論への恐怖がすべての行間に伏流している「生身感」あふれるテクストなのであります。

ある媒体に少し長めの記事を書きました。

「日本はこれからどうなるのか」。

僕からのご提案は「とりあえず足を止めよ」です。http://blog.tatsuru.com/

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http://blog.tatsuru.com/
2016.03.13
日本はこれからどこへ行くのか

先日若い研究者たちと話したときに、自分の立ち位置はどこかということが話題になった。私は自分の立ち位置を「大風呂敷を広げること」だと思うと言った。「餅は餅屋」、人はそれぞれ自分の得意なスタイルで研究すればよいのではないかと申し上げた。

私は若いときからいつも「ウチダの論文は、話は面白いが論証が雑だ」と批判され続けてきた。その通りなので反論したことがない。でも、「面白い話」を思いつくと、どうしても黙っていることができないのである。

助手の頃、フランスの文芸理論家モーリス・ブランショがナチ占領下のパリで出した『文学はいかにして可能か?』という文体論を「検閲を逃れるために暗号で書いた自らの30年代の政治活動に対する総括」だという仮説から逐語的に読み直すという大風呂敷論文を書いたことがあった。学界では「バカなことを言うな」と一笑に付されたが、その後ブランショ自身が「あれは暗号で書いた政治論文である」とカミングアウトしたので面目を保つことができた。大風呂敷もたまに「当たる」ことがある。

メディアからの寄稿依頼にはせっかくの機会なのだから、「私以外の誰かも書きそうもないこと」だけを選択的に書くことにしている。「それでは困る」という人も(大手の新聞などには)いるが、「それがいい」と言って下さるところもある。

本誌は後者の方である。担当編集者が今号で編集部を去るというので、餞別代わりに現代日本がどういう歴史的文脈のうちにあるかについて大風呂敷を思い切り拡げさせてもらうことにする。

世界史的スケールで見ると、世界は「縮小」プロセスに入っていると私は見ている。「縮小」と言ってもいいし、「定常化」と言ってもいいし、「単純再生産」と言ってもいい。「無限のイノベーションに駆動されて加速度的に変化し成長し続ける世界」というイメージはもう終わりに近づいている。別にそれが「悪いもの」だから終わるのではない。変化が加速し過ぎたせいで、ある時点で、その変化のスピードが生身の人間が耐えることのできる限界を超えてしまったからである。もうこれ以上はこの速さについてゆけないので人々は「ブレーキを踏む」という選択をすることになった。別に誰かが「そうしよう」と決めたわけでもないし、主導するような社会理論があったわけでもない。集団的な叡智が発動するときというのはそういうものである。相互に無関係なさまざまなプレイヤーが相互に無関係なエリアで同時多発的に同じ行動を取る。今起きているのはそれである。「変化を止めろ。変化の速度を落とせ」というのが全世界で起きているさまざまな現象に通底するメッセージである。

そのメッセージを発信しているのは身体である。脳内幻想は世界各地で、社会集団が異なるごとにさまざまに多様化するが、生身の身体は世界どこでも変わらない。手足は二本、目や耳は一対。筋肉の数も骨の数も決まっている。一日8時間眠り、三度飯を食い、風呂に入り、運動し、酔っ払ったり、遊んだりすることを求める。それを無視し続けて、脳の命令に従わせて休みなく働かせ続けていれば、いずれ身体は壊れる。そして、いま世界中で身体が壊れ始めている。戦争で破壊され、放射性物質で破壊され、ブラック企業で破壊され、学校で破壊され、医療で破壊されている。

速度という点ではグローバル資本主義での経済活動が圧倒的である。今、株の取引は人間ではなくアルゴリズムが行っている。1000分の一秒単位での株の売り買いはもう人間の身体ではそこで何が行われているかを想像的にも追体験することができない。成功した投資家や起業家の中は個人資産が天文学的数字に達している者がいるが、その金額は生身の人間の生理的欲求を満たすレベルをはるかに超える。日替わりで自家用ジェット機を乗り換えても、分刻みで上から下まで服を着替えても、毎食を三つ星シェフたちに作らせても、身体はそれを「愉しい」とはもう感じられない。けれども、彼らは「もう限度を超えて儲け過ぎたから、この辺で手じまいにして、貧者にトリクルダウンしよう」と思ったりはしない。限度というのは、身体にしかない。そして、グローバル資本主義のトッププレイヤーたちはもう身体を持っていない。

こうして経済活動は限度なく加速化してきた。そしていま人々はそれに疲れ始めてきた。しつこいようだが、ことの良し悪しを言っているのではない。疲れたのに良いも悪いもない。そして、「ちょっと足を止めて、一息つかせて欲しい」という気分が全世界的に蔓延してきた。

私がそれをしみじみと感じたのは、昨夏の国会前のSEALDsのデモに参加したときである。国会内では特別委員会が開かれ、法案の強行採決をめぐって怒号が行き交い、殴り合いが演じられていた。一方、国会外では若者たちが「憲法を護れ。立憲政治を守れ」と声を上げていた。

不思議な光景だと思った。

私が知っている戦後の政治文化では、つねに若者が「世の中を一刻も早く、根源的に変えなければいけない」と主張し、老人たちが「そう急ぐな」とたしなめるという対立図式が繰り返されていた。だが、2015年夏の国会では、年老いた政治家たちが「統治の仕組みを一刻も早く、根源的に変えねばならぬ」と金切り声を上げ、若者たちが「もうしばらくはこのままでいいじゃないですか」と変化を押しとどめていた。

構図が逆転したのである。

「変わり続けること、それもできるだけ速くかつ徹底的に」ということそれ自体が「善」であるというある種の思い込みが私たちの社会をせき立ててきたが、今その「思い込み」に対する疑念が生じてきたのである。変化に対する膨満感と言ってもいいかも知れない。逆説的な表現だけれど、変化することに飽きるということがあるのだ。「変化しなければならない」という説教をエンドレス再生で聴かされているうちに「そういうお前が変われよ」と言いたくなってくる。それが生物の本性である。

本来なら今よりもっと前のどこかの段階で、「私たちはずいぶんさまざまな変化をしてきたけれど、それはほんとうに必要なことだったのか、適切な選択だったのか、それについて立ち止まって総括をすべきではないか」という提案がなされるべきだったと思う。けれども、誰もそんなことを口にしなかったし、思いつきもしなかった。なぜか。理由は簡単である。メディアはそのような問いを思いつかないからだ。

メディアは構造的に「変化の是非を問う」ということができない。メディアにとってあらゆる変化は変化であるだけですでに善だからである。当然のことだが、メディアの頒布している唯一の商品は「ニューズ」である。「新しいもの」、それしかメディアが売ることのできる商品はない。「ニューズのない世界」にメディアは存在理由を持たない。「今日は特筆すべき何ごともありませんでした」というのは、生活者にとってはとても幸福なことであるが、メディアにとっては地獄である。だから、メディアは原理的に変化を求める。変化を嫌い、定常的に反復される制度文物があれば進んで手を突っ込んで「変化しろ」と急かし、場合によっては破壊しさえする。そして、メディアで働く人たちは、自分たちが「変化は善である」という定型的信憑に縛り付けられて、そこから身動きできなくなっているという事実に気づいていない。

私はそれを学校教育の現場で身にしみて味わった。私が教育現場にいた過去30年間、メディアが「学校教育のこの点については『これまで通りでよい』と思う」と書いた記事を読んだ記憶がない。教育に関してメディアは「なぜ、もっと早く、もっと根本的に変わらないのか」しか書かなかった。これは誇張ではない。

だが、学校や医療や司法のような社会的共通資本の最優先課題は何よりもまず定常的であること、惰性的であることなのである。それが生身の人間の等身大の人生を安定的に保持するための装置だからである。そのような装置はそのつどの支配的な政治イデオロギーや消費動向や株価の高下や流行などに左右されてはならない。定常的・惰性的であること、急激には変化しないことが手柄であるような社会制度というものがこの世には存在するのである。政権交代するごとに変わる教育制度とか、景況が変わる毎に変わる医療制度とか、株価の高下で変わる司法判断とかいうものはあってはならない。

勘違いして欲しくないが、それは政治イデオロギーがつねに邪悪であるからとか、経済活動はつねに人間を不幸にするという理由からではない。政治イデオロギーの消長や市場での消費者や投資家の行動は「複雑系」であって、わずかな入力の変化によって劇的に出力が変わる。複雑系は安定的な制御が困難であり、次のふるまいを予測することが不可能である。だから、人間が集団的に生きるために安定的に管理運営されていなければならない制度は複雑系に委ねてはならならないのである。

政治イデオロギーや消費欲望は高速かつランダムに変化する。それが「持ち味」なのだから、「やめろ」と言っても始まらない。でも、社会的共通資本をイデオロギーや消費欲望の動きにリンクさせることは集団的な自殺に等しい。変化してよいものと変化してはいけないものを切り分けねばならない。「変化してはいけないものには手を着けない」という当たり前のことを常識に登録しなければならない。

中国の大気汚染や水質汚染や鉄道事故や建造物の崩壊などは、経済的利益を最優先して、人間の生身の体を配慮しないと何が起きるかを示す好個の例である。大気や水質は基本的な社会的共通資本である。それなしでは人間が生きてゆけないものである限り、空気や水は何が起きようと安定的に管理されていなければならない。いっときの経済成長のために汚染するに任せてよいものではない。

でも、そんな当たり前の理屈がもう通らなくなっている。それがグローバルスタンダードなのだ、それを基準にして最速で行動しなければ経済競争に遅れを取るのだと言われて、これまで人々はそんなものかとあいまいに頷いてきたけれど、ようやく「ちょっと待ってくれ」と言い始めた。すると、気色ばんだ人たちがやって来て、「待てというが、おまえに対案があるのか? 原発を稼働させ、増税し、武器を輸出し、生産性の低いセクターを淘汰する以外にどうやって経済成長する道があるのだ?」とがみがみ言い立てる。けれども、生身の人間が生きてゆくのが困難になるようなことをしておいて「文句があれば対案を出せ」と急かすのはことの筋目が違うだろう。1916年にサイクス=ピコ協定について英仏の外交官が地元の遊牧民たちに向かって「これ以外にオスマントルコ帝国の瓦解のあとの中東の安定的な統治システムがあるのか。あれば対案を出せ」と凄む権利があると私は思わない。地元の人が「対案はないが、とりあえず勝手に国境線を引くのは止めてくれ」と言ったとしても、それを一蹴する権利は英仏にあると私は思わない。

私たちは「いくらでも変化してよいもの」と「手荒に変化させてはならないもの」を意識的に区別しなければならない。繰り返し言うが、人間が集団として生きて行くためになくてはならぬもの、自然環境(大気、海洋、河川、湖沼、森林など)、社会的インフラ(上下水道、交通網、通信網、電気ガスなど)、制度資本(学校、医療、司法、行政など)は機能停止しないように定常的に維持することが最優先される。「大気が汚染されたので産業構造を再設計するまでしばらく息を止めていてください」という訳にはゆかないし、「教育制度の出来が悪いので、制度を作り替えるまで、子どもたちは学校に来ないでください」という訳にもゆかない。生身の人間を相手にしている場合には軽々に「根本的変化」ということを企てることができない。生身の人間が自然環境・社会環境との間でなしうるのは「折り合いをつける」ことまでであって、それ以上のことは求めてはならない。

それくらいのことはわかっていいはずなのだが、それくらいのことさえわかっていない人間たちが現代世界では、政官財メディアの世界を仕切っている。彼らはつねに浮き足立っている。つねに何かに追い立てられている。「一刻の猶予もない」「バスに乗り遅れるな」というのが、彼らが強迫的に反復する定型句である。彼らは「浮き足立つ」とは、「状況の変化に絶えず適切に対応してこと」と同義だと信じているようだが、それは違う。彼らはただ「浮き足立つ」という不動の定型に居着いているに過ぎない。

それが最も端的かつ病的に現われているのが先に述べた通りメディアである。メディアは「変化」に依存し、「変化」に淫しているビジネスなので、あらゆる変化は、それが劣化や退化であっても、メディアに「ニューズ」を提供する限り「よいもの」と見なされる。だが、彼らは自分たちがあらゆる変化を歓迎する定型的なものの見方に居着いて、自らは全く変化していないという事実は意識化することができない。だから、「ニューズ」を売って生計を立てることがビジネスとして成立しなくなりつつあるという「ニューズ」はこれを取材することも分析することもできないのである。

例えば、全国紙の消滅というリスクはもう間近に迫っている。これがどういう理由で始まり、どう進行し、やがてどのような社会的影響をもたらすかということについてまともな分析をしている全国紙のあることを私は知らない。

私が朝日新聞の紙面審議委員をしていた数年前、朝日新聞は年に5万部ずつ部数を減らしていた。「重大な事態ではないか」という私の懸念を朝日の首脳陣は「800万部がゼロになるまで160年かかります」と一笑に付した。だが、その朝日新聞は過去2年は月に5万部ずつ部数を減らしている。部数減の速度がほぼ10倍になったのである。ということは、あと15年ほどで朝日新聞の発行部数はゼロになる勘定である。誤報問題で朝日を叩き、自社の発行部数を上げようとした讀賣新聞も60万部減という煮え湯を飲まされた。もうどの新聞も、購読者の高齢化と、若者たちの新聞離れと、新聞自身のメディアとしての機能劣化によって「ゼロまで」のカウントダウンに入っている。

現場の若い記者たちは、果たして定年になるまで自分の会社が存在するのかどうかについて不安を隠さない。だが、同様の危機感を新聞社の上層部からはほとんど感じることがない。ある全国紙の幹部社員は「部数がゼロになっても不動産がありますから、テナント料でしばらくは食いつなげます」と自嘲的に言った。不動産のテナント料で定年まで給料をもらう人間を「ジャーナリスト」と呼ぶことが可能だろうか。

全国紙の消滅は「たいした変化をもたらさない」と言い放つ人もいる。紙の新聞がネットニュースに取って代わられるだけのことだ、と。私はその見通しは楽観的に過ぎると思う。あまり知られていないことだが、日本のように数百万部の全国紙がいくつも存在するというような国は他にはない。『ル・モンド』は30万部、『ザ・ガーディアン』は25万部、『ニューヨークタイムズ』で100万部である。知識人が読む新聞というのは、どこの国でもその程度の部数なのである。それが欧米諸国における文化資本の偏在と階層格差の再生産をもたらした。それに対して、日本には知識人向けのクオリティーペーパーというものが存在しない。その代わりに、世界に類例を見ない知的中産階級のための全国紙が存在する。それがかつては「一億総中流」社会の実現を可能にした。一億読者が産経新聞から赤旗までの「どこか」に自分と共感できる社説を見出すことができ、それを「自分の意見」として述べることができた時代があった。結論が異なるにせよ、そこで言及される出来事や、頻用される名詞や、理非の吟味のロジックには一定の汎通性があった。この均質的な知的環境が戦後日本社会の文化的平等の実現に多いに資するものだったことについて、すべての新聞人はその歴史的貢献を誇る権利があると私は思う。

けれども、当の新聞人自身は、日本の全国紙が世界的に見てどれほど特殊なものであるのか、どのような特殊な歴史的条件で出現してきたものであり、それゆえどのような条件の欠如によって消滅することになるのかについてほとんど何も考えてこなかった。当事者が何も考えていないうちに、遠からず全国紙はその歴史的使命を終えることになる。それがもたらす社会的影響は、記者の失業というようなレベルの問題にはとどまらない。それは「言論のプラットフォーム」が消失するということであり、文化資本分配における「総中流」時代が終わるということを意味している。

ネットでニュースを読む人たちは、「自分たちが読みたいと思っている記事」だけを選択することによって、「自分たちがそうあってほしいと思っている世界像」を自ら造形している。そのリスクに気づいている人もいるはずだが、もう止めようがない。

主観的に造形されたばらばらの世界像を人々が私的に分有する社会では、他者とのコミュニケーションはしだいに困難なものになってゆく。それはギリシャ神話の伝説の王が手に触れるものすべて黄金にする能力を授けられたために、渇き、飢え、ついには完全な孤独のうちに追いやられたさまに少し似ている。自分が選んだ快適な情報環境の中で人々は賑やかな孤独のうちに幽閉される。情報テクノロジーの発達とグローバルな展開が情報受信者たちの「部族化」をもたらすという逆説を前にして私は戸惑いを隠せない。

全国紙が消え、「コミュニケーションのプラットフォーム」が失われるというのは、巨大な「事件」である。なぜ、そのような「事件」の予兆がありありと感じられながら、メディアはその「事件」を報道しないでいられるのか、それをとどめるための手立てを講じずにいられるのか。いやしくも知性というものがあれば、この現実からは目を背けることができないはずである。私はこの自己点検能力の欠如のうちにメディアの深い頽廃を感じるのである。

新聞の社説は相変わらず「経済成長戦略の必要」を書き続けている。だが、書いている記者たち自身はもう自分の書いている記事をそれほど信じてはいない。もう経済成長はしない。それは「アベノミクスの失敗」というわかりやすい事実としてもう経済部の記者たちには熟知されているはずである。けれども、それについてはまだ書くことができない。他の全国紙がまだ書いていないからである。他が書き出せば、続けて書くことはやぶさかではないが、口火を切って、官邸やスポンサーからの圧力を単身で引き受けるだけの度胸はない。

「経済は無限に成長する」というありえない前提を信じるふりをして経済記事を書き続けてきたせいで、グローバル資本主義はいつどういう仕方で終わるのか、社会はどのようなプロセスを辿って定常的なかたちに移行するのか、脱市場・脱貨幣というオルタナティブな経済活動とはどのようなものか、といった緊急性の高い問いに今の経済記事は一言も答えていない。そのような問いそのものを意識から追い払おうとしているからだろう。

たぶんこういうことなのだ。商品としての「ニューズ」を右から左に機械的に流しているうちに、彼らはある定型にあてはまる「変化」しか「変化」として認知できないようになったのである。「半年ごとにイノベーションを達成すること」を従業員に課したせいで経営危機に陥ったある大手家電メーカーのことを私は思い出す。イノベーションというのは、ふつうはそれまでのビジネスモデルを劇的に変えてしまうせいで、既存モデルの受益者たちがいきなり路頭に迷うような劇的変化のことを言う。「半年ごとのイノベーション」で収益増と株価高をめざした経営者が思い描いたのは「飼い慣らされたイノベーション」のことであって、その語の本来の意味での「イノベーション」ではない。だから、業界全体を地殻変動的に襲った「野生のイノベーション」には対応することができなかったのである。

メディアも同じである。「ニューズ」を売り買いしているうちに、メディア業界の消長という「本質的な変化」についてはこれを「ニューズ」としてとらえ、報道することができなくなってしまったのである。

取り散らかった話をまとめよう。

私が言いたいことの第一は、グローバル資本主義はその末期段階を迎えたということである。それを象徴する最大の出来事は、アメリカが主導してきたグローバリズムが、それとは価値観を異にする「もう一つのグローバル共同体」に衝突して、地球を覆い尽くすことが不可能になったことである(「地球を覆い尽くすことができないグローバリズム」というのは形容矛盾である)。

「もう一つのグローバル共同体」とはもちろんイスラーム共同体のことである。宗教、言語、生活規範、食文化、服飾規範などを共有し、モロッコからインドネシアに至る16億人から成るグローバル共同体は1300年前から存在した。けれども、それが政治単位として前景化することは近代以降にはなかった。東西対立の時代にも、南北問題の時代にもなかった。なかったから「ないもの」として欧米はその存在を忘れていた。けれども、それがグローバル化の加速度的な進行によって、アメリカ標準によるグローバル化が包摂できない「異物」として不意に前景化してきたのである。パレスチナ、アフガニスタン、湾岸戦争、イラク戦争、タリバン、シリア内戦、ウイグル独立運動、イスラーム国・・・国際社会における解決不能問題は、それが欧米国家の手持ちの政治問題解決ウェポン(金、軍事力、民主主義)では理解もできないし、操作もできない因子によって構成されていることをあきらかにした。

この二つのグローバル共同体の間の非妥協的な対面状況がもたらしている直接的な政治的現実は戦争とテロである。戦争とテロを停止させるためには、とりあえず双方が理非はさておき、今まで「よかれ」と思ってしてきたことを一時的に止めるしかない。それは問題の解決ではないし、矛盾の止揚でもない。ただの「停止」である。けれども、ものには順序がある。まず「Cease fire」を宣告して、引き金から指を離さなければならない。

私たちの世界が今求めている言葉はそれである。「止まれ」である。「落ち着け」である。「浮き足立つな」である。停止することが決定的な変化を意味するような局面というものがある。自分たちがこれまで使ってきた度量衡や価値観や効果的なはずのウェポンが無効になる局面になったときには、「どうしていいかわからない」と素直に認めるところからしか話は始まらない。

グローバル資本主義は「停止」局面を迎えた。何度も言うが、私はシステムの理非について述べているのではない。停まるべきときには停まった方がいい、と言っているだけである。「停めろというなら対案を出せ」と言われても、私にはそんなものはない。すべてのステイクホルダーが納得できる対案が出るまで戦い続けるという人たちはどちらかが(あるいは双方が)死ぬまで戦いを止めることができないだろう。

それが世界史的文脈における「停止要請」の実相である。いったん時計の針を止める。そして、「とりあえずこれについては合意できる」というところまで時計の針を戻す。そしてそこから「やり直す」しかない。

国内的にも私たちがするべきことは立ち止まることである。「成長だ、変化だ、イノベーションだ、リセットだ」と喚き散らしながら、いったいこれまで何を作り上げ、何を壊して来たのか、その一つ一つについて冷静な点検を行うべき時が来ている。


 

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コメント
 
1. 佐助[3437] jbKPlQ 2016年3月13日 22:45:33 : 9WzTFdu8Dw : EvnuAppFUfU[153]
それは、第二次大戦後、家族が一つの屋根と塀の中で一緒に暮らす大家族主義が崩壊して、小家族や独身者が独立する流れが多数派となったためである。

どんな低所得者でも高金利だが返済ローンを組めば値上がりで買換えすれば返済できて一国一城の主になれる、そして、その高金利ローンを他のローンと組み合わせると、格付けが最高の高金利債券となる。この工学博士の大発明に、世界の銀行は先を争って購入した。これがサブプライムやリーマンであり,日本ではゼロ金利や蜃気楼化した経済指数やマイナス金利や金融緩和やデノミやトリクルダウンや鼠講金融政策やアベノミクスなどのエサである。このエサには毒があることを知りながら政府は撹拌させ国民を未曽有の地獄に突き落すことになる。

そして、国家によって管理されているブラジル・中国・インドの住宅土地バルブは、認可権をもつ官僚と土地会社と投資会社により、汚職まみれの値上がりが、欧米市場の縮小による影響を打ち消し、GDPを二桁成長させる効果を最優先させてきた。

土地住宅バブルを、日本、米国、ブラジル・中国・インドは、十年ごとに弾きながら、世界信用恐慌を進行させてきた。ユーロ危機は、域内域外の高金利の債券の支払い停止が避けられないことが、最大の原因となっている。

それは今回でバブルは弾けたのです。中国のバブルも、クルミの殼一個が百万に高騰、住宅土地バブル中心に、日本と米国と同じように破裂した。しかも石油のバブルも頂点から弾け10分の1まで落下する。もちろん石油輸出国も

東欧の社会主義国の一党支配制度は自壊した,一党支配制度を採用したために,中ソ社会主義国家は80 年目に自壊する。当然,民衆蜂起によって指導者層は分裂し、自壊することを避けるのは難しい。

日本も戦後の政治革新は福祉厚生制度の採用だった。三百年以上の長期政権も、最後は停滞し自己崩壊する。資本主義国家でも社会主義国家でも、国家と企業と個人は、それぞれ利己的な自衛思考と行動をするために、短所や矛盾の発生は避けられない。日本は資本主義制度の存続に成功してきた。だが、ライバルの社会
主義国家が自壊すると改革を停滞させてしまうのです。安倍ルール破壊政権は,こうして経済だけでなく,政治もジャパンハンドラーズに騙され中国や北朝鮮を敵視させ自壊することが避けられなくなる。

ようするに一党独裁下の国家・企業・個人が、利己的に防衛思考し行動する法則の作用から逃れることはできない。資本主義国家でも、官僚支配するビジネスに参加するにはコネと賄賂が絶対必要である。社会主義政治体制は官僚支配なので、どんな開放政策にも認可権がつきまとう。そのため、自由経済システムそのものも腐敗堕落が避けられない。


もし、個人と企業と国家の既得権が侵されると、抗争対立は避けられない。それ以外の多くの時間、個人は、その所属する集団と同じ縄張りと考え利害は一体してると考える。そして、国家の縄張りを自分の縄張りと同一視するために、領土問題や国益に怒り、憤激、不愉快を発生させる。だがそれ以外では、個人は国家と対立し批判的でさえある。その抗争が国体(政治や経済制度)を破壊転覆する影響ありと判断されると、国家権力と総資本やマスコミや司法までが動員されれ始末される。

そして日本は低賃金国へ生産工場を海外移転。海外商品の輸入拡大。国内の雇用の悪化や中小企業の縮小倒産を避けようとせず、平気で行動する。個人は自衛手段として、給与が下がっても我慢し、家族や個人第一主義を捨て、企業第一主義に思考を切り換える。だが1%の金持ちと政治がピンハネの横行,しかも鋳造工場や汚い3K仕事はすべて韓国から中国へ放り投げ,PM2.5で日本の空は汚れたと騒ぐ。そして放射能を大気と海洋にばら撒き,知らんぷりする。

日本人の場合は、無意識の怒り・暴力・不快感を避けられない。その動物の種族ごと、環境ごとの、性と食獲得のための行動プログラムは、海馬とよぶ臓器に記憶され遺伝される。その記憶は、扁桃体とよばれる発電臓器によって、全神経回路を一時停止させて思考を停止し、海馬の行動記憶を優先させる。その生命維持のために、性と食のために、敵だけでなく仲間でも縄張り死守のために、暴力と死闘させる。

ヒトは「馬鹿野郎・こん畜生・地獄へ行け・殺してやる」という叫びを、脳の内部や外部に発声させる。そして、思わず手足が動き、相手の頬を叩き蹴り上げ突
き飛ばし、反省や沈黙や絶交したりする。この憎悪を意識的に止めることはできない。

これをすべて沈静化させ収束し,国家を繁栄させられるが,政治と経済の指導者は,ゴミとして無視,既得権益が失うために絶対にやらない,そのために三途の川の沈没船にのらなければならない。


2. 2016年3月13日 23:03:07 : w9iKuDotme : S@BYVdB2dgc[1082]
「学校や医療や司法のような社会的共通資本の最優先課題は何よりもまず定常的であること、惰性的であることなのである。」

ここには反対です。
瀬木比呂志氏が指摘されたとおり裁判所には改革が必要であり、同様に警察・検察にも制度改革が必要です。

(1)取り調べの全面可視化
(2)弁護士の立会権の保障
(3)代用監獄の廃止
(4)勾留の必要性についての厳格な審査
(5)証拠開示の更なる充実
(6)無罪判決に対する検察の上訴権の廃止
(7)死刑廃止
(8)(長期的には)法曹一元制度

これらが急務です。


3. 2016年3月14日 00:47:47 : tHIVKuZsdo : _YgkBQOb_8U[363]
この記事は面白い。 読み込ませて頂いた。
プリントアウトして国会正門前の常連に見せに行きたいと思う。

4. 2016年3月14日 05:11:24 : z8MPrL19Iw : nBk9vy6ENqo[7]
人事を尽くして天命をLet It Be

現憲法については、保守でいいんじゃないでしょうかね。。


5. 2016年3月14日 20:53:08 : axdxgm3Wdc : WoR5VAJtx2c[401]
マスゴミは 暴落怖い 不動産

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