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なぜいま、角栄ブームなのか〜石原慎太郎まで乗っかる、その「うま味」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47969
2016年02月19日(金) 山崎 元「ニュースの深層」 現代ビジネス
■石原慎太郎『天才』の読み方
元首相の故・田中角栄氏が、今、静かなブームを呼んでいるようだ。1、2年前から、書店に立ち寄ると、田中角栄氏を取り上げた本がしばしば目に付くようになった。田中氏の業績をあらためて振り返る本もあるし、田中氏の過去の発言を教訓となるべき名言としてコレクションした本も複数ある。
そして、先月、作家で元東京都知事であった石原慎太郎氏が『天才』というタイトルで、田中角栄氏の生涯を一人称で綴った小説仕立ての書籍を幻冬舎が刊行し、大ベストセラーとなっている。
『天才』は、田中角栄氏が、もっぱら一人称「俺」として、しかし著者の石原慎太郎氏のボキャブラリーで語り出す、職業作家が書いたにしては何とも素朴な作品だ(例えば、田中氏が「エスタブリッシュメント」などという単語を使うとは思えない)。
筆者は文学としてこの著作を論じるつもりはないが、敢えて作家志望の高校生が習作として書いたような生硬でワンパターン且つ自意識過剰の文章(田中氏に「あの石原慎太郎」と言わせている箇所がある)を、多くの人が(筆者自身も含めてだが)読んでみたがる「商品」に仕上げた、石原氏と幻冬舎はさすがだ。
この隙だらけの文章が、読者のレベルに合わせて意識的に作られたものだとすると、それはそれで石原氏もたいしたものだ。
田中角栄氏と石原慎太郎氏の二人は、最終的に、政治家としてそれぞれに不本意な挫折を味わったかも知れないが、日本人は、この二人に対して一時期随分大きなチャンスを与えたものだと、振り返って思う。
だが、二人の資質には大きな差があった。田中氏の、人の感情を読み且つ掴む能力、お金の動きに対する理解、数字に対する強さ、記憶力、決断力、などに比肩しうる能力を持つ人間は、そもそも稀有だ。比較すると、石原氏は「スター性のある凡人」に過ぎなかった。
お二人とも、平時には、周囲を明るく照らすような、余人にない「華」のある人だった。しかし、両人には、能力以外にも、自分が追い詰められた時に、頻繁に瞬きして照れたり怒ったりする「イライラして狭量」を感じさせる石原氏と、あくまでも相手の眼を見つめながら、開き直ったり自分を笑い飛ばしたりできる「胆力と愛嬌」を使って勝負が出来る田中氏の人柄と度量の違いがあった。
『天才』は、石原氏が田中氏を心から羨やましく思ったことの告白として読むのが適切な本だ。
■まぶしくも懐かしい存在
興味深いのは、多くの人がなぜ今、田中角栄氏の物語を求めているのか、その理由だ。「田中角栄的」という言葉を聞いた時に、思い浮かべるイメージは多様だろう。「日本列島改造論」や日中国交回復に象徴されるような構想の大きな政治的リーダーシップを懐かしむ人もいるだろうし、「田中金脈」、「ロッキード事件」。
さらに大派閥を裏から操り「闇将軍」などと言われた、最近の言葉であれば「政治とカネ」の問題を象徴するダーティーなイメージを持つ人もいるかも知れない。
しかし、後者のイメージについては、ご本人が亡くなってから年月が経ち、「死者を悪く言わない」日本的寛容さが世間で作用したことに加えて、田中氏の政治的失脚につながったロッキード事件の背後に、アメリカの一部の勢力の暗躍を指摘する見方が拡がるのと共に、戦勝国で超大国でもあるアメリカに対する日本人のそこはかとない反感が背後にあるように思える。
石原慎太郎氏の『天才』にあっても、田中氏は、確かに巨額のお金を裏で動かしたが、それは個人的な蓄財のためではなく、日本のために政治を動かす手段として、むしろ無私な動機の下に行ったことと、彼の失脚が米国の不興を買って米国によって陥れられたものであったことが描かれている。
政治家時代に立場としては敵対していたが、一方で、故・盛田昭夫氏と共に『「NO」と言える日本』を著した石原氏としては、あらためて振り返ってみて、共感できる人物だと思えたのではないか。
日本が自立した国でありたいと思う日本人にとって、田中角栄氏は、まぶしくも懐かしい存在だ。
他方、「金言」、「名言」などと銘打った田中角栄本の読者の多くは、かつての田中氏の言動に、仕事のコツや、人生の生き方、人心掌握術、などの教訓を見ようとする「自己啓発ニーズ」に応えている。
代表的な名言を二、三拾ってみよう。
■数々の金言
例えば、「できることはやる。できないことはやらない。しかし、全ての責任はこのワシが負う。以上」(「田中角栄の金言」(株)ダイアプレス、より)は、多くの角栄名言本で上位に紹介される人気のフレーズだ。
田中氏が大蔵大臣に就任した時の大蔵官僚を前にした挨拶の一節だが、スッキリと責任を取らない政治家や上司を眺めている多くの国民にとって、鮮烈で溜飲の下がるフレーズだし、田中氏は、この言葉を裏切らない有言実行の人だった。
「初めに結論を言え。理由は3つまでだ。この世に、3つでまとめきれない大事はない」(同)も心に響く。物事の要点を速やかに掴んで、実行する能力に於いて突出していた田中氏に学びたいと思うビジネスマンは少なくない。
「人にカネを渡す時には、頭を下げて渡せ」(同)といった金銭哲学も奥が深い。お金を受け取る側の後ろめたい胸中まで慮って渡してこそ、生きたお金になる。
もう一つ行こう。「祝い事には遅れてもいい。ただし葬式には真っ先に駆けつけろ。本当に一が悲しんでいる時に寄り添ってやることが大事だ」(「田中角栄100の言葉」宝島社より)。田中氏は、人の心がよく分かる「感情の達人」であった。学ぶべき点は、数多い。
さて、政治家としての田中角栄氏は、「日本列島改造論」に国の成長に向けた構想を著し、実際に、交通インフラの整備をはじめとする多くのプロジェクトを動かした、当時の「成長戦略」の担い手だった。
現代の成長戦略は、モノとヒトを物理的に移動させる新幹線や空港といったインフラの整備ではなく、情報の流通とビジネスをよりスムーズにする規制緩和だろうが、2012年末にいわゆる「アベノミクス」がスタートした際に提示された「3本の矢」の3本目である「成長戦略」にあって成果が乏しいとの不満は、国民の間に少なくない。
実際、円安で資産価格が上がり、失業率が下がって、富裕層と労働市場の弱者の状態が改善されたが、中間層の経済厚生は成長戦略が機能して経済全体が成長するのでなければ改善されようがない理屈なのである。多くの勤労者層の実質賃金が改善しない(むしろ悪化している)ことの原因は、金融緩和政策にあるのではなく、成長の不在にこそある。
成長戦略は、効果の発揮まで時間の掛かるものではあるが、具体的に何をやるのかを明言して、直ちに実行に移す、田中角栄氏のようなリーダーが今欲しいと多くの国民は思っている。
■「弱者にやさしい政治」への渇望
また、公共事業が利権につながった点に相応の批判は受けるべき一面はあったが、田中角栄氏は、貧しい「地方」に、中央のお金を再分配する、「再分配政策」の体現者でもあった。
世間は「格差」という言葉に敏感になっているし、政策パッケージとしてのアベノミクスは、もともと再分配政策を欠いている。
目下、日銀がマイナス金利を導入するなどの手段を講じているが、「2%のインフレ目標」の達成には、まだまだ道半ばだ。現時点では、金融緩和をより有効に機能させるために、有効需要を追加する財政的な政策こそが有効だ。そして、適切な支出の方向は、経済的な弱者に対する幅が広くてフェアな「再分配政策」だろう。
本人が存命でないので、確かめようがないのだが、頭脳明晰であると共に弱者に優しい情の人でもあった田中角栄氏であれば、たとえば再分配制度として「ベーシックインカム」の長所をたちどころに理解しただろうし、制度を実現する行動力があったのではないか。
「角栄ブーム」の背景には、多くの国民の「弱者に優しい政治」への希求があるのではないか。そして、その実行は同時にアベノミクスの政策目標の達成に大いに資するものなのではないか。「もし、田中角栄がいてくれたなら」と思うと、そのような想像も膨らむ。
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