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『性のタブーのない日本』(集英社新書)
安倍政権や日本会議の語る「日本」「伝統」を橋本治が痛烈批判! 「大嫌い」「明治以降の近代人が勝手につくった」と
http://lite-ra.com/2016/02/post-1969.html
2016.02.11. 橋本治「安倍の語る『伝統』は大嫌い」 リテラ
夫婦別姓に関する最高裁判決や、渋谷区の同性パートナーシップなど、昨年は「家族」「性」に関する新たなかたちを模索する動きが多く生まれた年であった。
しかし、ご存知の通り最高裁は、かつて「夫婦別姓は家族の解体を意味します。家族の解体が最終目標であって、家族から解放されなければ人間として自由になれないという、左翼的かつ共産主義のドグマ(教義)。これは日教組が教育現場で実行していることです」(「WiLL」ワック/2010年7月号)」との発言を残している安倍首相に忖度したのか、夫婦別姓を認めない規定は合憲であるとの判断を下した。
また、同性パートナーシップ条例に関しても、安倍首相は昨年2月18日の参議院本会議で「現行憲法の下では、同性カップルの婚姻の成立を認めることは想定されていない」と発言。9条を解釈改憲して安保法制を強行採決させたうえ、日本国憲法は「押しつけ憲法」と語り憲法改正を悲願としているのにも関わらず、この件に関してはなぜか、かたくなに憲法に固執する二枚舌を見せている。
そして、同性パートナーシップ条例が成立した3月には、「普通の愛情は男女から発生する」「少数派を多数派と同じ扱いをすることが平等ですか」「LGBTが社会を乱している」といったLGBTの人たちへのヘイトスピーチを叫んだ反対派デモが発生。そのデモの主催者である「頑張れ日本!全国行動委員会」は、結成大会に安倍晋三氏、下村博文氏、高市早苗氏、山谷えり子氏、稲田朋美氏といった人たちが出席、なかでも安倍首相は基調演説までしている団体であった。ちなみに、そのデモで配られたチラシには、次のような文言が記されている。
〈伝統的な家族制度に混乱をもたらす渋谷区条例〉
夫婦別姓の問題にせよ、パートナーシップ条例をめぐる議論にせよ、政権側からは、この「伝統的な家族制度」なる言葉が盛んに使われる。しかし、この「伝統」とはいったい何を指しているのだろうか。小説『桃尻娘』や、『古事記』『源氏物語』の現代語訳など古典文学研究の仕事で知られる橋本治氏は、「週刊プレイボーイ」(集英社)16年2月15日号のインタビューでこんな言葉を残している。
「今や建前が好きなのって自民党の政治家だけじゃない? なんか、あの人たちの言う「伝統」やら「日本」やらが私は一番嫌いなんですよね。
それは明治以降の近代日本人が「勝手につくった日本」だろうっていうのが頭にあってさ。そういうのがいやだから、こうして近代以前に遡りながら「そうじゃない日本」を一生懸命に探しているわけなんですけどね」
安倍政権をはじめとした保守主義の人々がことさらに喧伝する「伝統」という言葉。しかし、歴史を振り返ってみれば、彼らの言う「伝統」は、「伝統」でもなんでもない。たかだか150年ほど前、明治時代以降、急速な近代化の流れのなかで形づくられたものだった。また、橋本氏はこんなことも語っている。
「平塚雷鳥とかの女性解放運動が出てくるのが明治だから、それ以前の時代の日本って、ずっと女性を抑圧していたように思われているけど、実は一番、男女差別が激しくなるのって、むしろ明治からなんですよね」
「みんな「女は女らしく」っていうのが封建道徳だと思っているかもしれないけど、例えば江戸の芸能って、劇中で女が刀を振り回すシーンとか、カッコいい女盗賊の話なんかも、ごく当たり前にあるのね。ああいうのを見てると、少なくとも江戸時代の人には「女はおとなしくしてなきゃいけない」って感覚はないと思う」
「女は女らしく」という考え方も、結局はたかだか150年前に出てきたものだったと橋本氏は主張する。
「一億総活躍社会」という謎のワードが示す通り、安倍政権は「女性の社会進出」をしきりにアピールしているが、首相が本心からこれを考えていないことは明白だ。前述した「頑張れ日本!全国行動委員会」の結成大会では、「いま私たちは国の基本を解体させかねない権勢に直面している。夫婦別姓の問題も、これは家族という基本にかかわる問題であります。子ども手当を出して、配偶者控除をなくす。これは家族解体への第一歩であります」と演説している。
この演説から透けて見える安倍首相の本心を代弁するかのように、「文藝春秋」15年6月号のインタビューでは、安倍昭恵夫人がこのような発言を残している。
「女性活用のようなテーマも、主人と話す機会はほとんどありません」
「主人はもともと保守的な考え方の持ち主ですので、女性がみんな働くことが良いとは、今も思っていないのかもしれません。女性には社会で活躍してもらいたいとの思いがある反面、あまりにも多くの女性が社会に出ることで、伝統的な日本のよき家庭の形が崩れてしまうことを恐れているような気がします」
口では「女性の社会進出」を謳っておきながら、本心では「伝統的な家族制度」の名のもとに女性を家のなかに縛り付けておきたい。それが安倍首相の真の思いである。ただ、先ほどから再三述べている通り、これは本当に「伝統」なのか。先ほど「週刊プレイボーイ」での発言を引いた橋本治氏は、昨年上梓した『性のタブーのない日本』(集英社)のなかで、このように綴っている。
〈この日本は昔から女が力を持っている国です。平安時代以前、女帝は何人もいます。「その女帝は飾り物だ」と言いたがる人もいますが、複数の女帝が存在した結果、父なる天皇から皇位継承を受けた男の天皇というのは、日本の最初の女帝である推古天皇の時以来、平安京を作った桓武天皇になるまで一人もいないのです。桓武天皇になって初めて、男の天皇を父とする天皇が登場します。飛鳥から奈良時代まではそういう時代ですから、この時代の女性達は強いです。自分から進んで兵を率いて戦争をしたり、我が子を天皇にするために現天皇の暗殺を計画したりします〉
先日、本サイトでも取り上げた、古典エッセイストの大塚ひかり氏が指摘している通り、日本の家族制度は古来、母系的な社会であったと言われている。
〈そもそも母系社会とは、「祖母、母、娘というように、代々女性の血縁関係(出自)をたどって、社会集団をつくりあげ、相続・継承の方法を決定する」(須藤健一『母系社会の構造』)社会のことで、日本では厳密な意味での母系社会はなかったという説もありますが、貴族社会は長い時代を通じて「母系的」であったことが結婚形態などからうかがえます。
母系社会の主な結婚形態は、夫が生家から妻方へ通う「妻問い婚」と、夫が妻の実家に入る「婿入り婚」(婿取り婚)。日本では、武士が台頭する鎌倉時代までは、この二つのミックス形態が主流で、婚姻時は、夫が妻方に通ったり、妻方の実家に住み込んでいたものが、夫婦に子供が生まれるなどすると独立するのが常です〉(『本当はエロかった昔の日本 古典文学で知る性愛あふれる日本人』新潮社)
この世界には、安倍政権の人々が主張する家父長制的な「伝統」とは真逆の光景が広がっている。「一家の大黒柱のお父さんに、専業主婦のお母さん」といった役割分担ではなく、身の回りの雑事などを担うのはむしろ男の役目である。
また、子育てに関しても今とは違う認識が広がっていた。『うつほ物語』では、娘におしっこをかけられた夫が「この子を抱いてください」と頼んでも「まぁ汚いこと」と言ってそっぽを向く母親に対して、「彼女は内親王で、究極のお嬢様だから」と、育ちのいい証拠としての肯定的な評価が書かれている。今なら「育児放棄」と言われて世間から糾弾されるところだ。「母性」という考え方も、今と昔では違うのである。
また、ここまで時代を遡らずとも、だいぶ現代の我々の生活様式に近づいた江戸時代でも、女性たちが家のなかで縛られているということはなかった。「ユリイカ」(青土社)16年1月臨時増刊号のなかで、ジェンダー論・女性学などを専門とする社会学者の上野千鶴子氏は春画に描かれているストーリー設定を考察して、このようなことを語っている。
「家制度のなかにおける正妻の地位は高い。商家なんかはおかみさんが権力を握っています。そのなかでも一番強いのは後家さんです。他家から入ってきた後家さんが家の代表になるというのは家制度の面白い点です。日本の経営者の女性比率は国際的に見ても高いんです。大企業の雇われ社長ではなく、同族経営の中小企業では後家さんが家業を引き継いで経営する傾向が強いですね。
春画にも後家さんがすごく多いでしょう。若い男を引き入れているような図柄がよくあります。家制度のもとでは、後家になって家督相続人の母になれば権力も自由も手に入る(笑)」
安倍政権が言う「伝統的な家族制度」が、いかに最近つくられたシステムであったがよく分かる。
同性パートナーシップの問題に関しても同様のことが言える。前述したヘイトデモで配られたチラシには、先に引いた〈伝統的な家族制度に混乱をもたらす渋谷区条例〉という文章の他に、こんな文言も書き記されていた。
〈若者が多く集まる渋谷区の路上や職場で、男性同士、女性同士が公然と抱き合ったり、キスをしたりする姿が日常の光景となり、やがてエイズが蔓延してしまうことを、誰も歓迎しておりません〉
〈条例案は、日本の伝統と文化に対する挑戦状〉
正直、引用するのもはばかられるような差別的テキストだが、ここでもとくに熟慮することなく無邪気に使われている「日本の伝統と文化に対する挑戦状」という言葉。この「伝統」も果たして本当に「伝統」なのだろうか。
敢えて述べるまでもなく、日本には古来より同性愛の文化があった。
〈周知のように、日本の仏教界では、平安初期の昔から女犯の罪を避けるため稚児との男色が公認されていたし、平安末期の上流貴族が中・下流貴族と関係することで結束を強めていたことは五味文彦も指摘しています(『院政期社会の研究』)。
江戸時代には、葭町(芳町)をはじめ、男娼の集まる町が多数ありました。
そこでは、男性同性愛者だけでなく、異性愛(両性愛)の男や、女も、男を買っていた。
井原西鶴の『好色一代男』(1682)の主人公が、54年間に関係した相手は女3742人、少年725人という設定で、日本では、こと男に関しては「両性愛」であることが「色好み」の条件とも言え、平安末期の多くの皇族貴族たちも妻や女の愛人がいながら、男の愛人もいたのです〉(前掲『本当はエロかった昔の日本』)
『源氏物語』のなかで使われる有名な言い回し「女にて見む」は、改めて指摘するまでもなく、「(相手の男を)女としてセックスしたい」という意味であると解釈されている。
また、時代は下り、江戸時代、男色は春画のモチーフとしても多く描かれることとなった。
〈武家の男色は男どうしの絆を高める社会的な習慣であり、表向きは禁令が出されて以降も、武家の男子にとってはなんら異常ではない恋の慣習であった。それゆえに近世の春画にも、愛し合う恋人どうしとしての少年と念者の恋が描かれるようになったといえよう。心身ともに結ばれた春画の男たちの姿は、武家社会における男の絆の、性愛も含めた緊密性を鮮やかに伝えている〉(「ユリイカ」16年1月臨時増刊号所収、佐伯順子「春画の“少年力” 魅惑という権力」)
ここで「表向きは禁令」という表現が出てくるが、それは、あまりにも男色が盛んになってしまったがゆえの秩序統制のための禁令であり、松尾芭蕉も「われもむかしは修道ずき」と書き記しているし、平賀源内は『江戸男色細見』という男色遊びのガイドブックまで書いている。先ほどあげた『好色一代男』もそうだが、『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんも「両刀づかい」として描かれている。
安倍首相は、『新しい国へ 美しい国へ 完全版』(文春新書)のなかで、多様な家族観を描く高校の家庭科教科書に対し、こんな疑問を記していた。
〈同棲、離婚家庭、再婚家庭、シングルマザー、同性愛のカップル、そして犬と暮らす人……どれも家族だ、と教科書は教える。そこでは、父と母がいて子どもがいる、ごくふつうの家族は、いろいろあるパターンのなかのひとつにすぎないのだ〉
〈「お父さんとお母さんと子どもがいて、おじいちゃんもおばあちゃんも含めてみんな家族だ」という家族観と、「そういう家族が仲良く暮らすのがいちばんの幸せだ」という価値観は、守り続けていくべきだと思う〉
しかし、ここまで述べてきたように、これまで我が国が歩んできた「家族」「性」に関する考え方は、安倍首相が断じているほど画一的に述べられるようなものではない。むしろ、本当の意味で日本の「伝統」というものを考えるならば、「家族」や「性」といったものに対し、もっと多様性を認める考えのほうがよっぽど「伝統」なのではないか。
国家統制を強めるため、国民を国家に奉仕させるために、明治政府が「勝手につくった」にすぎない「国家」や「家族」というフィクションを、「伝統」などと持ち上げる安倍政権の詐術にはだまされたくないものである。
(井川健二)
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