沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の集中砲火を浴びる島尻沖縄担当相 沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の報道ぶりでとりわけ目に余るのは、2015年10月の内閣改造で沖縄北方担当相に就任した沖縄選出の参院議員、島尻安伊子氏をめぐる「バッシング報道」の数々である。 2014年2月5日、参院予算委員会。普天間飛行場問題で、名護市の稲嶺市長が「市長権限を行使して辺野古移設を阻止する」と表明していることに対し、島尻氏がこう指摘した。 「行政事務は法令に従って行うべきだ。政治目的で行政権限を乱用することは地方自治法上問題だ」 また、辺野古埋め立てに対し、過激な運動家たちが違法な妨害行動を展開する可能性があることに対しては「県警や海上保安庁が先んじて対策を取るべきだ」と要求した。 これに対し、沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)は社説や記事で一斉に島尻氏を罵倒した。2014年2月7日付琉球新報の社説は「暴政容認は辞職しかない」というタイトルだ。 《夜郎自大と事大主義はここに極まった》《(県外移設の)公約を破った島尻氏に市民が選んだ稲嶺氏を攻撃する資格はない。(中略)「言論の府」にいる資格もない》《暴力的な政治、市民運動弾圧を勧めるかのような発言をしたことは言語道断だ。(中略)県外移設を求めて一つになった沖縄の民意を、国のお先棒を担いで内部から崩すような行為は目に余る》 琉球新報は、島尻氏の発言を批判する「識者評論」まで載せるという念の入れようだ。さらに「親米色強い保守政治家」と題し、島尻氏が宮城県出身であることなどのプロフィールも詳細に報じた。沖縄出身ではないから沖縄県民の心は分からないと印象付けたいのだろうか。 沖縄タイムスの社説も「国の強行 後押しするな」(2014年2月7日付)と題し、島尻氏を攻撃した。 《沖縄の民意を代表する立場を自ら放棄した。(中略)沖縄の民意を踏みにじった、看過できない発言だ》《「先んじて」という表現が、反対運動を事前に押さえ込むことを意味するのであれば、市民運動の弾圧につながる危険な考えだ》 一読して分かるように沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)は、何1つ問題を起こしたわけでもない政治家に対し、自分たちのイデオロギーに合わない発言をしたから議員辞職せよ、と正気で主張しているのだ。過激派に対する当局の警戒を「市民への弾圧」などと言い募るに至っては、それこそ過激派のアジビラ、機関紙を読んでいるような気分になる。見苦しい逆ギレだ。 2015年4月には、島尻氏が自民党沖縄県連の会長就任時の挨拶で「反対運動は責任のない市民運動だと思っている。私たちは政治として対峙する」と述べたことに対し、沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)が猛然と噛み付いた。 《市民の側ではなく、権力側に立つ人なのだと再認識させられる。(中略)そもそも自身が2010年の参院選で、普天間飛行場の県外移設を公約して再選されたことを忘れたわけではあるまい。(中略)「台所から政治を変える」を掲げて国政進出した島尻氏だが、為政者に忠実であることが政治家だとはき違えてはいないか。民意を無視する政権と歩調を合わせて市民と「対峙」する態度を改め、移設反対の世論と向き合うべきだ》(琉球新報2015年4月8日付社説) この社説から感じられるのは、辺野古移設が道徳的な「悪」であるかのような傲慢な決めつけだ。政治家の公約転換は国民の利益のためなら有り得ることだし、琉球新報も、ひいきの翁長知事が知事就任前、もともと辺野古移設を支持していたことを「忘れたわけではあるまい」と言いたくなる。 さらに、2015年6月29日付琉球新報は、島尻氏が2015年3月、自民党の政策審議会に出席し、民放の放送番組などのデータを蓄積する「放送アーカイブ」構想を議論した際、「先日の選挙(2014年の衆院選)では私の地元(沖縄)のメディアは偏っていた。あの時どうだったか調査するのは大事だ」と発言したと1面トップで報道した。 「放送アーカイブ 報道監視に利用 島尻氏が意向」との見出しで、島尻発言が「個別番組への抗議や行政指導を通じ、報道への圧力を招く」「個別放送番組を監視するという発想が憲法で禁止されている検閲につながる」という趣旨の識者コメントも掲載された。 さらに翌日の社説は《自民党に不利な放送内容があるという前提に立ち、事後検閲の制度化を求めるものだ》と島尻発言を非難した。 しかし、この記事と社説には2つの問題点があった。まず、自民党の政策審に議事録は存在せず、島尻氏も発言内容の趣旨は認めたものの、正確にどのような発言だったのかは記憶していなかった。 この発言が記事になったのは、政策審に出席していない沖縄選出の野党国家議員が、伝聞で政敵の島尻氏を告発したことがきっかけだった。伝聞の発言を記事にするなら抑制的であるべきで、ことさら煽動的な見出しをつけて大々的に報じることが報道の手法として妥当なのかが問われる。島尻氏は「報道監視」などという言葉は一言も使っていないとしてホームページで琉球新報に抗議した。 第2の問題点は、島尻氏の発言が事実だったとして「報道監視」「検閲」などという批判が妥当かどうかだ。「私の地元のメディアは偏っていた」という言葉は、島尻氏が政治家であることを考慮に入れても、私の感覚ではメディアに対してよくある批判の部類であり、報道圧力というほどではないと思う。 さらに問題視されているのは「あの時どうだったか調査することは大事だ」という発言である。この「調査」が「検閲にらむ危うい発想」(琉球新報社説)かどうかが問われる。 琉球新報の社説には、私がどうしても首をひねる一節がある。「事後検閲」という言葉だ。 私の理解では、検閲とは行政が事前に報道や表現を抑圧し、世に出さないようにする行為であり、これは憲法によって明文で禁止されている。報道を事後にチェックするのであれば、そもそも検閲ではなくなり、「事後検閲」という概念自体、存在しないのではないか。 あえて言うなら、行政が報道を事後にチェックし、気に染まない報道に対し、恣意的に罰を加える行為が「事後検閲」かもしれない。憲法で規定する表現の自由に抵触する行為であり、民主主義社会では許されない。琉球新報は島尻発言を「事後検閲の制度化を求めるものだ」と批判するが、万が一島尻氏が求めたとしても、そのような行為の制度化などできるわけがない。 当時、島尻氏が「憲法を変え、表現の自由を抑圧できるような世の中にした上で、事後検閲を制化すべきだ」と主張する意図だったなら話は別だ。しかし問題になっているたった二言の発言から、果たしてそこまで深読みできるのだろうか。 島尻氏自身は「私は<沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)が言うように>おどろおどろしい意味で言ったわけではない」と説明している。 島尻氏は2016年の参院選に向け出馬の準備を始めたと報じられたばかりであり、この記事や社説は二重三重に打撃になったようだ。琉球新報の後を追うように沖縄タイムスも、島尻氏と同じ宮城県仙台市出身の読者が、沖縄県民に自己紹介すると「島尻の所だな」と睨みつけられた、などという下品な投稿を掲載した。まるで仙台市出身へのヘイトスピーチだ。 沖縄に「言論の自由」はあるのか 自身の発言をめぐる沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の異常な報道ぶりについて、私の取材を受けた<2015年10月の内閣改造で沖縄北方担当相に就任した沖縄選出の参院議員、島尻安伊子氏>は「マスコミにボコボコにされた」と苦笑する。 「心が折れそうになったこともある。指摘は指摘として真摯に受け止めなくてはならない。ただ、私は市民運動を否定しているわけではなく、市民運動に紛れてイデオロギー闘争を持ち込もうとしている活動家を許すわけにはいかないと言いたかった」 確かに、公道を占拠して通行人を脅迫したり、抗議船で立ち入り禁止区域に突入する行為を「市民運動」と称するのは偽善でしかない。 沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)は一方的に島尻氏の発言を批判しながら、こうした島尻氏の「弁明」はほとんど掲載していない。問われているのはこのような報道のあり方だろう。 沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)は、沖縄本島で圧倒的なシェアを獲得している。私の見たところ、沖縄の政治家の多くは保守系と呼ばれる人も含め、沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)に批判されることを恐れ、発言や行動を萎縮させている。沖縄で普天間飛行場の辺野古移設に賛成する政治家の多くは、メディアの批判を恐れ、積極的に表に出ようとしない。私は沖縄の政治家が「オフレコなら本心を話す」などと言っている姿を何度か見てきた。民主党政権時代に、沖縄の世論がにわかに県外移設一色になり、普天間飛行場移設問題が閉塞状態に追い込まれた理由の1つもそれだろう。 そうした中で、島尻氏は「私は何ら逃げ隠れするような発言はしていない。勇気を持って発言していくことが、沖縄のためだと信じている」と語る。「辺野古移設が唯一の選択肢」と明確に発言してきた数少ない政治家の1人である。過去にも沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)から激しい非難を浴びたが、一向にひるまない。その意味では、女性ではあるが、男よりも「男らしい」政治家だと私は考えている。安倍政権が当選わずか2回の島尻氏を大臣に抜擢した背景には、そうした島尻氏に対する評価と同時に、はっきりしない保守系政治家たちへの苛立ちがあるように思う。 メディアが政治家を監視し、時には厳しく批判するのは当然だ。私が危惧するのは、島尻氏に対する沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の批判が「言葉狩り」以外の何ものでもないことだ。辺野古移設に前向きな発言が全て「悪」ということになり、政治家が萎縮して本心を明かさなくなれば、有権者の政治不信は高まり、民主主義の基盤が突き崩される。 沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の基地問題をめぐる報道にはどれも首を傾げたくなるが、常識的に見て何の問題もない政治家の率直な発言まで紙面で叩くのであれば、これは言論統制にも等しいと言わざるを得ない。もちろん、言論統制とは権力が民間メディアに対してやるものだ。メディアが何を書こうが「言論統制」とは呼べない。しかし沖縄で新聞と言えば事実上、沖縄タイムスと琉球新報しかなく、沖縄県民は毎朝、嫌でも両紙を広げざるを得ないのだ。 沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の記者は「沖縄県紙は沖縄県民の支持があるから現に生き残っている」と反基地報道の正当性を主張する。それは事実かもしれない。しかしそれは「好き勝手な報道をしていい」という免罪符ではない。 私たちが日航や全日空の航空機に乗るのは、両社の経営方針を熱烈に支持しているからではない。航空業界が寡占状態にあるからだ。そして多くの国民は、既成概念を打ち破る格安航空会社に喝采を送っている。沖縄の新聞業界も、実際にはそのような状態にあるのかも知れない。 島尻氏への一連のバッシング報道から浮かび上がるのは、要するに、辺野古移設に賛成している政治家というだけでメディアではこの扱いであり、島尻氏が「私の地元のメディアは偏っている」と愚痴を言いたくなるのもむべなるかな、ということである。 しかし、沖縄の2紙(琉球新報や沖縄タイムス)は「つぶさないといけない」ーーというのが私の結論ではない。 私は、たとえ「偏向報道」と批判を受ける報道であっても、報道の自由、表現の自由として明確に憲法で保障されていると考えている。何が偏向報道であるかを決める絶対的な基準は存在しないからだ。 両論併記がメディアの原則だと言っても、例えば犯罪が悪かという論議に両論併記など有りえない。沖縄のメディア(琉球新報や沖縄タイムス)は米軍基地の存在を犯罪と同等に捉えているし、同じ感性を持つ沖縄県民も実際に大勢いるのである。 ある報道が欺瞞であると感じても、それが「誤報」であれば法的な制裁が可能だが、「偏向報道」という意味であれば、言論には言論で対抗する以外に方法はない。 気に入らない言論を「潰す」という姿勢が蔓延すれば、現在でさえ閉塞的とされる沖縄の言論空間は、さらに狭まってしまう。多数意見から少数意見まで多種多様な意見が自己主張し、切磋琢磨し、異なる価値観の存在を認め合う寛容な社会にこそ未来がある。まして報道の欺瞞性を暴くのは政治の役割ではない。 沖縄のメディア(琉球新報や沖縄タイムス)は報道や表現の自由を最大限に活用している。そのこと自体は何一つ批判されるべきではない。問題は、そこに寛容性があるのか、ということだ。沖縄メディア(琉球新報や沖縄タイムス)の報道に違和感を抱く人たちが、大勢に怯え、声を上げることをためらっている現状にある。 報道や表現の自由は沖縄メディア(琉球新報や沖縄タイムス)の専売特許ではない。現状ではサイレント・マジョリティ(声なき多数派)に追いやられている沖縄県民が声を上げるようになれば、沖縄は劇的に変わるのではないか。 沖縄タイムスは2014年4月、「新聞と権力」をテーマにした企画記事を5回連載した。第4回のタイトルは「対沖縄 牙むく国」。普天間飛行場移設問題などで一貫して政府に批判的な沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)に対し、政府が露骨に圧力をかけているという内容である。 では、その「圧力」とは何かというと、沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の記者だけ防衛省のオフレコ懇談から外されたとか、石垣島への自衛隊配備をめぐる石垣市長選告示日の報道で防衛省が抗議文を出して来たとか、揚げ句は当時の仲井眞弘多知事が沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)の購読をやめたと発言したとか、そんなレベルの話ばかりだ。沖縄県民の1人として肩透かしを食った感じだった。 紙面では「牙むく国」などと大仰な見出しが躍っているが、国が本当に報道機関に牙を、ういて来るようなことがあれば、言論弾圧はそんなレベルでは済まない。こんな記事そのものが紙面に載ることもない。例えば中国で政府を批判する報道が有り得るのか。そんなことを試みる記者はどのような目に遭うのか、沖縄のメディア(琉球新報や沖縄タイムス)関係者は冷静に考えたほうがいい。民主主義の政府と戦うのもいいが、独裁国家と戦うことはもっと重要だ。そしてそれこそ、現在の沖縄に課されている国境の砦としての使命だろう。 しかし、こういう記事を掲載したこと自体、報道に対する内外の批判の高まりを、沖縄県紙(琉球新報や沖縄タイムス)が自覚するようになったことを示しているようだ。
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