そもそも財政赤字はなぜ膨張したのか 税負担の恩恵見えづらく 「減税のち増税」も空転 2016年1月22日(金)田村 賢司 (日経ビジネス2015年9月7日号より転載) 国と地方の債務残高は1000兆円を突破し、なお膨張を続ける。増税前に減税を実施して痛税感を和らげようとしても、国民の抵抗は強い。税負担と給付の関係が見えづらいのが、強い増税アレルギーを生んでいる。 日本の借金はほぼ一貫して増え続けている ●国と地方の債務残高、GDP比の推移 出所:財務省資料を基に本誌作成(写真=時事通信フォト) 財務省の奥深くにしまい込まれた1つの資料がある。「戦後財政史 口述資料」。戦後、歴代の事務次官や主計局長、主税局長らが退官後に、自身が現役時代に関わった政策について、その背景や経緯、政治との関わりなどを赤裸々に語ったものだ。基本的に公開を前提としていないため、時々に同省幹部がどう思ったのか、本音が書かれている。 今回本誌は、1959年から2001年までの次官と、財政を預かる主計局長、税制を受け持つ主税局長、国債発行を担当する理財局長ら、のべ60人の口述資料を情報公開請求によって入手した。 この資料を読み込み、またその官僚OB、あるいは政治家たちに取材し、1つのテーマを迫ってみた。既に1000兆円を超え、今も刻々と増え続ける「国の赤字はなぜ膨らんだのか」という大きな大きな問題である。 その中から浮かび上がってきたのは、財政の状況を無視してでも減税を繰り返して景気を維持、押し上げようとする政策が続けられ、その結果として赤字の膨張に歯止めがかからなくなってきたという実態だ。 財政政策は、その特徴の違いで大きく3つの期に分けることができる。1期目は、戦後の復興を終え、東洋の奇跡と呼ばれた高度成長を実現した首相・池田勇人の時代に始まる。池田は首相の座に就いて2年目の1961年度に所得税の最高税率を5%引き上げ、一方で大きな所得減税を実施した。 多額の減税を繰り返した池田勇人・元首相(写真=毎日新聞社/アフロ) 高度経済成長のまっただ中。池田が引き上げた最高税率は75%(国税)に達し、法人税と共に税収は黙っていても増え続けていた。
そこで池田が考えたのは、徴収した税の一部を国民に戻し、成長を加速することだった。同年10月の国会で、経済政策を聞かれた池田は、胸を張ってこう答えている。「経済成長は、社会保障の充実、公共投資や減税政策の推進に依存するところが大きいのであります。私は全体の施策の調和ある展開を期しておる次第です」。 社会保障費は増え続けるが、満足度は低い ●社会保障費の推移 注:2025年度は予想 出所:財務省資料を基に本誌作成 [画像のクリックで拡大表示] しかしこの年、池田の下で大蔵省(現・財務省)主計局長に就いた石野信一は、口述資料の中でこう述べている。「僕は減税で皆を喜ばすだけじゃあんまり効果がないんじゃないかという考えの方が強かった」。 もっとも、池田は大蔵省主税局出身の税の専門家。大蔵省が池田の減税策を拒むことなどできはしなかった。池田は約4年の首相在任中、自然増収で国庫に入ってきたお金の一部を減税で納税者に還元した。そして、池田の後を襲った佐藤栄作もそれを踏襲し、75年度まで続いた。池田は自然増収分の8〜16%を減税に充てたが、佐藤はさらに拡大。減税で民間活力を引き出し、さらに成長を遂げるというパターンを定着させようとした。 財投活用で社会インフラを整備 この時、池田が取った財政政策には、もう一つの特徴があった。一言でいえば、税負担とそれを原資にしたインフラ整備や社会保障、教育などの給付の関係を国民に見えにくくしたことだ。 当時の大蔵省には、予算をなるべく拡大しないという考えが強かった。戦後すぐのハイパーインフレが生々しかったからだ。予算を膨張させれば歳出増から景気過熱につながり、インフレの可能性が高まることを恐れた。そこで税収を国民所得の2割に抑え、予算も徹底して管理しようとした。 そのために取った政策が、高速道路や空港など大型インフラの整備に、郵便貯金や年金資金の運用をする財政投融資を活用することだった。この結果、池田の就任時に一般会計の37%程度だった財政投融資の規模は、10年後には約50%に達し、以後も膨張を続けた。 これが大きな影響を及ぼした。「(財投を活用したことで)国民は目の前で作られている道路や橋が自分の税金でできているとあまり考えなくなった」と慶応義塾大学教授の井手英策は語る。 税財政政策について財務省幹部らが語った「戦後財政史 口述資料」 そして、この財政政策は73年の第1次石油危機で高度経済成長が終わりを告げると第2期に入った。ここでの特徴は、経済成長の鈍化で、所得税の自然増収が難しくなったにもかかわらず減税を続けたことだ。池田以来の所得税減税は75年度まで継続し、1年置いて77年度にも実施された。
とはいえ、所得税の自然増収が見込めない中で減税をどう実施するか。そこで登場したのが法人税増税という一策だった。例えば74年には、当時首相だった田中角栄が法人税を3.25%引き上げる一方、2兆円の所得減税を実施した。 同年7月まで主税局長で、のちに次官になった高木文雄は口述資料の中でこう語っている。「(法人税を大きく上げるという)相当勇敢なことをやってのけた。我々にすれば、法人税は重く、所得税は軽くして、法人(の社員)が飲んだり食ったりするのを抑制する方向にする」と。 これに財界は猛反発した。以後、行政改革を政治に強く迫り始める。「増税の前にムダを削れ」の大合唱だ。しかし、法人税の増税を財源にした所得税減税は84年にも繰り返され、増税をするなら「行革や景気回復などを“条件”にする」という財界の姿勢は一段と強くなっていった。 戦後70年の日本財政は経済危機の度に赤字を拡大してきた ●日本の財政・税制政策の推移と経済環境の変化 年代 項目 概要 1949年 (昭和24年)8月 シャウプ税制勧告 個人所得税、富裕税を基幹税とした。戦前から始まっていた所得税改革をさらに見直した。 1953年 (昭和28年) 財政投融資本格化 大蔵省資金運用部(現・財務省)が郵便貯金や年金積立金などの資金を元に高速道路などの建設、中小企業への事業融資、国民の住宅建設資金融資などを行った。 1955年 (昭和30年)10、11月 社会党再統一、保守合同で自民党誕生 55年体制がスタート。 1960年 (昭和35年)7月 池田勇人内閣発足 所得倍増計画で高度成長へ。池田内閣の頃まで、均衡財政主義を取る。 1965年 (昭和40年) 戦後初の赤字国債発行 東京オリンピック開催後の不況で税収が落ち、戦後初の赤字国債発行。 1966年 (昭和41年)1月 建設国債発行 建設国債は、国が公共事業費などの財源に充てるために発行する国債。 1972年 (昭和47年)7月 田中角栄内閣発足 日本列島改造政策で公共事業拡大。年金増額などで福祉元年と称されたが財政膨張の出発点に。 1973年 (昭和48年)10月 第1次石油危機 原油価格急騰で狂乱物価に。 同年 2兆円減税 田中首相、自営業者の所得捕捉へのサラリーマンの不満に対応。大型減税実施。 1975年 (昭和50年) 赤字国債発行再開 石油危機による歳入不足で、1965年以来の赤字国債発行。 1978年 (昭和53年)7月 日米独、機関車論 米国と西ドイツ、日本が世界経済の牽引役にとボン・サミットで議論。日本は内需拡大のため公共事業拡大へ。 1979年 (昭和54年)1月 第2次石油危機 原油価格、再び急騰で世界経済へ打撃。 同10月 一般消費税導入断念 大平正芳首相が財政再建のため、導入を目指したが、反対強く、総選挙途中で断念。増税なき財政再建路線へ。 1982年 (昭和57年) ゼロシーリング導入 財政赤字削減のため、予算編成に際しての各省の概算要求で増額を認めないこととした。 1985年 (昭和60年)9月 プラザ合意 先進国5カ国(日・米・英・独・仏=G5)がドル高是正を決定。急激な円高に。 1989年 (平成元年)4月 消費税導入 竹下登内閣で税率3%の消費税導入。 1990年 (平成2年) 赤字国債発行ゼロに バブル景気による税収増と消費税導入で赤字国債を発行ゼロに。 1994年 (平成6年) 赤字国債を再び発行開始 バブル崩壊後の税収減で再び赤字国債発行。 同年 6兆円減税 1997年からの消費税引き上げによる国民負担軽減のため所得税減税。 1997年 (平成9年)4月 消費税引き上げ 橋本龍太郎内閣で消費税率を3%から5%に。 同年 財政構造改革法成立 2003年まで赤字国債発行を毎年減らし、政策経費も圧縮。財政再建を図ろうとしたが、翌年停止。 同年 金融危機 山一証券、北海道拓殖銀行、三洋証券が相次いで事実上破綻。アジア危機も大きく影響した。 1998年 (平成10年) 6兆円減税実施へ 小渕恵三首相は財政再建を転換。景気回復を優先へ。6兆円の大型減税実施。 2001年 (平成13年)4月 小泉純一郎内閣発足 構造改革路線を打ち出し、国債発行額を30兆円に抑えるなど財政再建へ。 2008年 (平成20年)9月 リーマンショック 世界的な経済危機へ。 2012年 (平成24年)2月 社会保障と税の一体改革 民主党の野田佳彦内閣が、最大経費である社会保障改革と税制改革を一体で推進へ。一体改革案を閣議決定。 2012年 (平成24年)12月 アベノミクス始動 安倍晋三政権発足。事業規模・20兆円に上る財政出動など、金融、経済の3本の矢政策で景気浮揚を図る。 2014年 (平成26年)4月 消費税率引き上げ 5%から8%へ。 同年11月 消費税率再引き上げ延期 安倍首相は2015年10月に予定していた10%への再引き上げを2017年4月に延期した。 消費税を導入してもまた減税 この第2期に財政は急激に悪化していった。高い成長が見込めない中で、減税を実施しても民間活力が高まるわけもなく、むしろ景気を支えるために公共工事を拡大していったからだ。例えば77年当時に首相だった福田赳夫は、内閣の発足時から支持率が低く、景気回復のために財政出動を求める経団連会長の土光敏夫ら財界の要求を聞き入れざるを得なかった。 公共工事が膨らんだのは、経済界の要望があったからだけではない。同じ時期、低迷する世界経済の牽引役を期待する米国の要望もあって日本と当時の西ドイツは財政出動を求められた。その結果、76年には1桁だったGDP(国内総生産)比の国債残高は、10年で42.4%に急膨張していった。日本の公共事業は既に先進国ではトップクラスだったが、それをさらに拡大して景気を押し上げようとした。 公共工事がどれだけの波及効果を生むのか。対象事業が地方、特に過疎地域にいくほど、経済にもたらす効果は小さくなる。慶応大の井手はインフラ整備の一部を財投で賄ったことで、国民は税金とインフラ整備の因果関係が見えにくくなったと指摘したが、第2期では赤字国債の発行で経済効果の薄い公共工事を連発したため、「税の費用対効果」が分かりにくくなった。 しかも、石油危機後の低成長の中で、企業の所得は伸び悩み、法人税の増税などでは税収不足はとても補えなくなった。政府は80年代にかけて「増税なき財政再建」を掲げて経費削減に注力。その柱となったのは「国鉄、電電公社、専売公社の民営化など行革路線」(元衆院議員の柳沢伯夫)だった。 しかし、これも財政再建の達成には遠く、間接税の本格導入を目指すことになる。これが第3期だろう。 時の政権は79年に一般消費税、87年に売上税という名称で間接税を導入しようとしたが、ともに導入は失敗に終わっている。89年4月、首相だった竹下登がどうにか導入にこぎ着けたのは、「3度目の正直」だった。 それにしても、財政再建のための増税が繰り返し挫折するのはなぜか──。85年から3年間、主税局長を務めた水野勝は、口述資料の中で、元首相、中曽根康弘が86年に打ち出し、失敗に終わった売上税構想に触れ、こう言っている。「総理の考えは『最初から新税だとかいうな。減税を先行して、これはいいと納得してもらったら財源はどうすると(増税に)持っていく』だったと思う」。 本丸の増税を実施する前に減税をする。恐らく方法論として、それは正しい。しかし、結果として所得税や法人税、相続税などの減税の方が大きくなり、税収は増えなくなっていった。 もちろん増税は誰もが嫌がること。しかし、日本はとりわけ増税アレルギーが強い。「増税を実施しようとすると、必ずと言っていいほど『増税の前にムダを削れ』といった批判が出る」と東京大学教授の加藤淳子は指摘する。 その原因の一つは、税負担とその見返りとしての給付(インフラ整備や社会保障、教育など)のバランスの問題だろう。欧州、特に北欧は、税収で社会保障や教育、インフラなどの整備をし続けた。そのせいで増税はインフラの充実など給付増に直結していると、国民に納得されやすいといわれる。 一方日本は、かつてインフラの相当部分を財投で賄ったように、個人の納税と給付の関係がわかりにくい。いきおい、「税は取られるだけで見返りが少ない」と考えられやすくなり、増税へのアレルギーが強くなりがちだ。 さらに90年代以降、給与所得者の名目賃金は約10%減り、世帯所得も20%落ちている。このため、わずかな支出に過敏になる人が増える一方で、増税アレルギーはさらに高まっていくことになるだろう。 バブル崩壊後、税収は増えなくなった ●国の一般会計歳入の推移 出所:財務省の資料を基に本誌作成 [画像のクリックで拡大表示] 行政への満足度高める改革か これまで見た、税財政の変遷の第1期では、「経済成長の果実としての増収を生かし切れないほど、増税が大きすぎた」(元財務相の伊吹文明)といった側面もある。第2期では、法人税の増税で減税を行うといっても限界があった。法人税自体が、国際競争の中にあって高くしにくくなり、主要な減税財源としては力不足になってきた。そして第3期でようやく、消費税引き上げまでこぎ着けたものの、そこに古くて新しい課題が出てくる。 負担に見合う給付を、国民が感じ取れるようにできるかどうかである。首相の安倍晋三は2017年4月に消費税を引き上げるというが、実は10%になったとしても国の取り分は7.8%だけ。残りは地元自治体のものとなる。 しかも、国税分(税率10%時の増税分は3.8%)のうち、社会保障の機能充実に充てられるのはわずか1%分だけ。それ以外はこれまで社会保障費の不足分を埋めていた借金の返済に回ることになっている。このままでは、負担に見合う給付を実感させるのは難しい。 今必要なのは、増税で借金を返し、国の財政再建を達成することにのみ目標を置く考え方を離れ、国民に何をどう給付すれば、満足感を与えられるか、という視点で財政再建の道筋を考えることではないか。増税をすればいいのではなく、行政サービスの満足度を高めて、税を出してもらう。そうした発想の転換から入らなければ、減税病から抜け出すことは難しい。 =文中敬称略 このコラムについて 戦後70年の日本経済 日本は昨年、第2次世界大戦から70年の節目を迎えた。高度成長から1980年代バブルを経て、90年代半ばからデフレ不況へ。古希の日本経済はどう変わったのか。シリーズで見る。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/011900002/012100003/?ST=print 若者に「偽装離婚」を考えさせる社会ではダメだ 森田 朗×出口治明 特別対談(1) 2016年1月21日(木)森田 朗
人口構造の変化を、歴史的に見ると? 出口:僕は国立社会保障・人口問題研究所の将来人口推計に、いつも注目しています。その数値をもとに、コラム記事を書いたこともあります。だから今日、森田所長とお話できるのを楽しみにしてきました。 森田:こちらこそ、ありがとうございます。 出口 治明(でぐち・はるあき) ライフネット生命保険会長兼CEO(最高経営責任者)/1948年三重県生まれ。京都大学を卒業後、1972年に日本生命保険に入社。企画部や財務企画部にて経営企画を担当。ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを経て、同社を退職。2006年にネットライフ企画株式会社設立、代表取締役就任。2008年にライフネット生命保険株式会社に社名を変更、生命保険業免許を取得。2013年6月より現職。 出口:さっそく人口問題の話に入りたいと思うのですが、僕は歴史オタクなので、ついつい人口問題も歴史的な観点から見てしまいます。例えば、中国の最古の戸籍登録人口は、西暦2年の59,594,978人、つまり約6000万人が住んでいた。でも三国志の時代に入ると、2000万人を割り込んで、6000万人まで人口が回復するのは隋の文帝の時代になります。 森田:歴史的に見ると、人口が一様に増えてきた、あるいは減ってきたというわけではないんですね。地域ごとに増えたり減ったりしながら、世界全体として人口が増えてきた。 出口:ペストが流行したときはモンゴルを含め、ユーラシア全体で人口が減りましたからね。人口が減るのは基本的には、病気が流行する、戦いが起こるなど、人類の繁栄が妨げられているときです。先ほど例に出した中国で言うと、人口が減っている間は、統一政権が出現していません。イタリアの人口学者が書いた『人口の世界史』という本では、人口の増加こそが、長期的に見れば繁栄であり、安全であり、豊かさであると書かれている。だから、安易に「これまでの人口が多すぎたのだから、減っても別に問題がない」という意見には、同意しかねます。 森田:長期的に見て人口が減り続けているというのは、日本にとって初めての状況なんです。そこはちゃんと認識しなければ、対応を誤ることになるでしょう。 出口:人口の増え方もやはり歴史的に見ていく必要があると思います。我々の先祖はだいたい4〜5人の子どもを生む動物だったようですね。でも、小さい頃にかなり高い確率で死んでしまうので、残るのは1〜2人だった。これが人間の動物としての基本で、だからこそ昔の平均寿命はかなり若かった。中世やそれ以前の世界の平均寿命は20歳代で、30歳以上になってくるのは産業革命あたりからです。このあたりから医療や公衆衛生が進歩して、文明も発展してきたので、子どものうちに亡くなることが少なくなってきた。人間の動物としての増え方とは、違う構造になってきたのです。 森田:そうですね。昔の人口構成は、よく言われるようにピラミッド型だったわけです。それはまさに出口さんがおっしゃったように、たくさん生まれて若いうちに亡くなっていったから。上に行くほど人口が少ないというのは、そういうことです。飢饉やら病気やらで、50歳、60歳になる前に亡くなる人がすごく多かった。ところが今の人口構成は、頭でっかちのつぼ型になってきている。 出口:ある程度の年齢まで、容易に人が死なない社会になってしまった。 「人が死なない社会」に、どう向き合うか 森田:日本の15歳未満の「年少従属人口」と言われる世代が一番多かったのは、1954年なんです。そして、15歳から64歳までの「生産人口」世代のピークは、1995年です。そして、65歳以上の高齢者の人口が歴史上もっとも多くなるのは、2040年と予想されています。つまり、1955年から若い人が減り始めていた。人口減少の芽は出てきていたんです。 出口:生まれる子供の数が減って、下の方の段が小さくなってきていた、と。 森田:でも容易に若い人が死ななくなったおかげで、ピラミッドの下の段が減らずに上に上がっていって、全体的に人口は増えていた。ところが、その1955年にたくさん存在していた若者も、いまや60歳以上になりました。すると、少しずつこの世からいなくなって、全体の人口も減っていく。それが今の状況です。この構造自体は人口学の見地から見ると、20世紀の終わり頃からある程度わかっていたのですが、政策には反映されてこなかった。全体の数字だけ見ると、まだ人口も増えていたので、「がんばれば、この人口を維持できる」と錯覚してしまったんですね。それにともなってまだまだ経済成長もする、という勘違いも生まれてしまった。 出口:新しい人が増えて人口が増えているのと、人が死ななくなって人口が増えているのとでは、それから先に待っている未来がまったく違います。 森田:そうなんです。また、日本の経済成長は人口ボーナスがあったからだとも言えます。人口ボーナスは、生産人口に対し、従属人口の比率が少なくなっていくときに起こります。従属人口とは、15歳未満と65歳以上の養われる人口のことです。子どもとお年寄りですね。養われる人口が少なくなると、生産人口の生産余力が投資に向かって、それが高度成長をもたらします。日本では1960年代から1990年代くらいまで、人口ボーナス期でした。 出口:その頃は高齢者もまだ少なくて、かつ少子化が同時に始まりだしたので、従属人口が減ったのですね。 森田:日本は比較的人口ボーナスが早い段階から始まって、その時代が長かったと思います。急速に成長を遂げたアジアの国では、従属人口の比率が減ってからそれほど間を置かずにまた上がりだして、社会保障制度の整備や経済成長がなかなか追いつかなかったと言われています。人口ボーナスが終わると、人口ボーナス前よりも大変な状況になってしまいます。従属人口といっても、子どもより高齢者が多くなっているから。そこからまた経済成長をするのは、コストがかかるし、そうとう生産性を上げないと難しい。 出口:そうですね。 森田:いまだに「失われた◯◯年」という言い方をする人がいます。この言い方は、人口ボーナスの時代が"通常運行"で、今はちょっと例外的に悪くなっているだけ、というニュアンスがある。でもよく考えると、東京オリンピックが1964年で、日本の経済成長のピークが1990年だとすると、その間26年。そして、1990年から今年までが、ちょうど26年です。つまり、成長していた期間と失われた期間が同じということは、その失われた状態が、新しい基準になっているということです。以前の人口構造で起きたような経済成長はまず起こらないんだと、頭を切り替えないといけません。 「偽装離婚を考えている」というメールが 出口:人口構造を踏まえて政策を考えることは、非常に重要です。適切な対応策をとれば、増やすのは無理でも、下げ止まらせる、減るスピードを遅くすることくらいはできると思います。例えば、保育の問題。子どもを産めと言いながら、保育園に入るのに熾烈な競争があるなんて変じゃないですか。ある人から「保育園に入れるために偽装離婚をしようかと考えている」という相談メールをもらったことがあるんです。 森田:それは深刻ですね……。 出口:若い母親にここまで悩ませるような国に未来はあるのか、と憤りを覚えました。これって、ただ保育園を増やせばいいとか、そういう問題じゃなくて、もっとベースの部分から議論しなければ解決されない問題だと思います。人口を下げ止まらせるためにはなにをなすべきか。数字をきちんと見て、ベーシックな部分から考えるべきです。 (次回へ続く) (構成:崎谷実穂) 人口減少時代のウソ/ホント 私たちが生きるのは人口減少時代だ。かつての人口増加時代と同じようにはいかない。それは分かっている…はずだが、しかし、具体的にどうなるのか、何が起きるのか、明確な絵図を把握しないまま、私たちは進んでいる。このあたりで、しっかり「現実」をつかんでおこう。リアルなデータを基に、「待ったなしの明日」を知ること。それが「何をすべきか」を知るための道だ。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/275866/011000006/?ST=print
マタハラは人権問題であるだけでなく経済問題 根絶に向け企業に求められる働き方改革 2016年1月21日(木)庄子 育子 働く女性が妊娠・出産・育児などを理由に職場で嫌がらせや不当な扱いを受ける「マタニティ・ハラスメント(マタハラ)」。セクハラ、パワハラなどと比べて対応が遅れがちな企業も多い。 自身の受けたマタハラ被害の経験をもとに、2014年7月にマタ二ティ・ハラスメント対策ネットワーク(通称マタハラNet)を立ち上げ、マタハラの根絶と女性が働き続けられる社会の実現を目指す小酒部さやかさん。その功績が認められ、昨年3月には米国務省から「世界の勇気ある女性賞」を日本人で初めて受賞した。 マタハラの実態や原因、解決策について小酒部さんに話を聞いた。 (聞き手は庄子育子) 小酒部さやか(おさかべ・さやか)氏 NPO法人マタハラNet代表理事。2005年多摩美術大卒、大手広告代理店の正社員を経て、契約社員として転職した会社でマタニティ・ハラスメントの被害に遭う。このときの経験をもとに、2014年7月、マタハラNetを設立。マタハラ被害者の情報を収集し、マタハラの実態について調査・分析するほか、マタハラの理解を促進するための講演活動を行う。2015年3月、米国務省の「世界の勇気ある女性賞」を日本人として初受賞。2016年1月に初の著書「マタハラ問題」(ちくま書房)を刊行。スキンケアのSK‐U公式サイトで、「運命を変えた女性たち」の一人として動画が公開(2016年1月21日から) 小酒部さんご自身、マタハラ被害に遭われた経験をもとに、マタハラNetを立ち上げられたと伺っています。 小酒部:ええ。2013年はマタハラ被害のまっただ中にいて、会社との間で厳しくつらい闘いを余儀なくされました。最終的には労働審判までいってそこで決着した後の2014年7月にマタハラNetを設立しました。 どのようなマタハラ被害に遭われたのでしょうか。 小酒部:大手広告代理店の正社員を経て、契約社員として転職した会社でマタハラは起きました。私は雑誌の編集業務を担当していたのですが、ある雑誌のリニューアルプロジェクトのメイン担当を一人で任され、やりがいを感じていた矢先に最初の妊娠が判明しました。正直言って、そのときは、「嬉しい」より「どうしよう」という気持ちが先立ったのも事実です。 ホワイトハウスでミシェル・オバマ米大統領夫人、「世界の勇気ある女性賞」の他の受賞者らとともに(小酒部さん提供) 学生のときや結婚前は妊娠しないようにしているわけじゃないですか。それで結婚してみて、妊娠ってどのぐらいでするものかとにかくわからない。ただ、私の場合は運良くすぐにできたんですね。でも自分にとっては、「え、なんで今なのよ!まさかこんなに早くできるなんて」という感じで……。 それで、今振り返ると本当にバカだったのですが、周囲には迷惑をかけられないからと、体調が悪くても職場では何も言わず、無理して出社し、夜遅くまで働いていました。そうしたら、ある日激しい痛みを感じ、産科医に安静にするよう言われて仕事を休んだものの、結局、流産してしまいました。 自宅安静、入院・手術を含めトータルで1週間ほど休んで出社。次なる妊娠を絶対に失敗しないためにも、私は覚悟を決めて、会社の上司Aには包み隠さず、妊娠と流産の事実をそこで初めて伝えました。二度と同じことが起きるのは嫌なので、業務に補佐をつけてほしい旨も依頼しました。けれど、上司Aから返って来たのは、「あと2〜3年は妊娠なんて考えなくていいんじゃないの? 仕事が忙しいんだから」という言葉でした。 流産に対するいたわりの言葉などはなかったのですか? 小酒部:一切ありませんでした。当時35歳を過ぎていた私にとって、この2〜3年はどれだけ大事か。そのことを上司Aは何も理解してくれないんだとショックでした。 切迫流産中に上司が自宅を訪れ4時間にわたって退職強要 小酒部:その後、業務補佐も付けてもらえないまま半年が経過したころ、二度目の妊娠が分かりました。新しく宿った命を今度こそ大切にしたかったので、すぐに上司Aに報告しました。併せて私が休むことになったとしても支障が無いよう、仕事の情報を共有してほしいと頼んだのですが、全く取り合ってもらえませんでした。 痛みがあったので病院へ行くと、切迫流産(流産しかかっている状態)との診断。自宅安静を余儀なくされ、再び会社を休むことになりました。けれど家で寝ていても、毎日のように会社から電話とメールがありました、業務を1人で回していて、情報共有もさせてもらえなかったのだから当然の結果です。こちらもできる限りそれらの問い合わせに懸命に対応していました。 自宅安静になって1週間が過ぎた日、上司Aが今後のことを話したいから私の自宅の最寄り駅に来ると言い出したため、外出を控えたい私はやむなく自宅に来てくれるよう依頼しました。 17時ごろにやって来た上司Aは「契約社員は時短勤務ができない」「アルバイトで来るしかない」「お前が会社に悪いイメージを残す必要はない」「お前は、1年後だろうが2年後だろうが、いつでも今までの仕事のパフォーマンスで十二分にできる」などと繰り返し、実に4時間にわたって私に退職するよう迫ってきました。途中で「酒はないの?」と言って、出前の寿司をつまみ、酒まで飲んでいく始末。こちらも、その時は何としてでも仕事を継続したかったので、上司Aの機嫌を取るしかありませんでした。 話を聞いていて、その上司の常識のなさにあきれます。 小酒部:そうですよね。上司Aがあまりに理不尽なことを言い続けるので、私は区役所で母子手帳を受け取る時に一緒にもらった厚生労働省の「働きながらお母さんになるあなたへの」パンフレットも見せました。ページを開いて、「このような退職勧告は法律で禁止されているんですよ」と説明したものの、法律の知識がないためか、上司Aに不法行為の意識はまるでなく、「こういうのは人事がやったら違法だけど、自分のはアドバイスだからいいの」と独自の理論を展開していました。 21時過ぎにようやくほろ酔い加減の上司Aが帰った後、夫が「あまりにも話していることがおかしいので録音しておいたよ」と言ってきました。この夫のファインプレーが、後で非常に役立つことになりました。 上司Aからの退職強要後、休んでいると辞めさせられてしまうかもしれないと心配になった私は無理して出勤することにしました。すると出社してすぐに今度は上司Aの上役のB本部長に呼び出され、子供の命を軽視していると説教されたのです。「自分の妻に妊娠がわかったときにはすぐに仕事を辞めさせた。それなのに君の旦那さんは一体何を考えているのか」と。大切な夫まで引き合いに出されて、とても腹立たしく、そして悔しく悲しい思いでいっぱいでした。妊娠という幸福な出来事が、こうして責め立てられ、説教され、どんどん突き落とされていくんですよね。 その1週間後、二度目の流産をしました。病院のベッドの上で私はただただ泣くことしかできませんでした。 「妊娠は諦めろ」と言う人事部長 小酒部:会社に復帰後、程なくして担当していた仕事を一方的に下ろされ、他のプロジェクトに回されました。けれど途中でまた元の雑誌の仕事を手伝えと言われたりで、納得できなかった私は上司Aに説明を求めました。すると、いきなり耳をつんざくような大声で「お前が流産するから悪いんだろう!!」と怒鳴られました。上司Aは私を退職させられないことでB本部長から何らかのプレッシャーを受けていたようです。この言葉に私は息ができないほどのショックを受け、その後、2日間会社を休みました。 ひどい暴言ですね。 小酒部:ええ、でもマタハラはまだまだ続くんです。衝撃の言葉から2週間ちょっと経った頃、B本部長の後任のC本部長の面談を受けることになり、妊娠希望の有無と、妊娠した場合はどうするのかということを執拗に聞かれました。そして、また退職勧告が始まったのです。「自分の妻は2人目の子を設けるときに、2回流産を経験した。だから君の苦しみはわかる。引き際を考えているのか?」と。上司A、B本部長同様、自分の価値観を押しつけてくるC本部長に辟易した私は人事部長に相談することを決めました。 人事部長なら法律を分かっているはず。そんな私の考えは大間違いでした。「妊娠と仕事の両方を取るのは欲張り」「仕事に戻って来るなら、妊娠は9割諦めろ」。人事部長にそんな風に迫られ、結局、私はその場で退職に同意させられました。 それで退職されることに? 小酒部:結果的にはそうです。でも、まずはとことん会社と闘ってからということにしました。夫が「この状況に一石投じよう」と背中を押してくれたんです。 労働局の雇用機会均等室に相談したり、経緯報告書を作成したり、交渉に備えました。でも、会社側は最後の最後まで非を認めず、均等室もお役所仕事なのか会社に対し強く切り出すことがありませんでした。 そこで、次の段階として「日本労働弁護団」のホットラインに電話をかけたところ、2人の弁護士が私の担当になってくれ、地方裁判所に労働審判の申立てをしました。会社からの答弁書は嘘だらけで納得できるものではありませんでした。しかし最終的には、私の要求がほぼ盛り込まれた調停案で解決することができました。2014年6月のことです。その翌月にマタハラNetを立ち上げました。(次回に続く) キーパーソンに聞く 日経ビジネスのデスクが、話題の人、旬の人にインタビューします。このコラムを開けば毎日1人、新しいキーパーソンに出会えます。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/interview/15/238739/012000121/?ST=print
高度成長期に破綻の芽、改革先送りが育てた危機_年金不安の源流 2016年1月21日(木)田村 賢司 (日経ビジネス2015年8月24日号より転載) 厚生年金が現在の形になって約70年。その歴史は2つの時期に分けられる。1970年代前半までの給付拡大の時代と、80年代半ば以降の抑制の時代だ。約30年間続く「抑制改革」は先送りの連続で、財政の重荷は増すばかりだ。 (写真=左:kyodonews/amanaimages、右:アフロ) 山口県萩市。今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」の舞台ともなった明治維新の町は、人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)が36%(2013年)と、県内13市で最も高い。 県の高齢化比率も全国4位。一方で総人口は、県、萩市とも1980年代から本格的に減少を始め、以後上昇に転じたことがない。国全体の課題である人口減や高齢化の未来図ともいえる地域なのである。その「高齢化先進地区」で年金を巡る嘆き節が聞こえてくる。 「ものを買うのはぎりぎりまで抑えるようにし始めた。ワシは髪を染めるのをやめたし、商店に行くこともめったになくなった」 萩市小川地区で、果樹園などを営む山岡良夫(75歳、仮名)はあきらめ顔でそう語る。隣にいる妻の寿美子(66歳、同)も「高い服はもう買えないから、安い衣料品チェーンに行くだけ」と言う。 山岡の収入は年間200万円ほど。しかし、その半分以上は肥料や農機具代に消えるから「頼りは年間60万円の国民年金しかない」と言う。 月5万円ほどしかないのに、追い打ちがかかった。一昨年から「特例水準の解消」と呼ばれる引き下げが実施されたため、年金給付額が毎月2000円近く減ったのだ。公的年金は物価連動で給付額を増減することになっているが、政府は物価が下がった2000〜02年度に特例で給付を減らさないようにした。 「特例水準の解消」とは、本来より上がっている給付額をこの3年で無くすという措置だ。「納得はできないが、生活を守るために消費を抑えざるを得ない」と山岡は顔を曇らせる。 今、給付の抑制は特例水準の解消にとどまらない。会社員などを対象にした厚生年金の1階部分と国民年金は、支給開始年齢が2001年から段階的に引き上げられ、男性は2013年以後、65歳になった。さらに今年は、年金の給付水準を現役世代の人口減や平均余命の伸びなどに応じて調整するマクロ経済スライドと呼ばれる仕組みが、初めて発動され、給付額は減る見通しだ。 こうした目減りが高齢者の消費減退をもたらし、地域経済に影響を与え始めている。上の表は、公的年金の総額が、個人の消費支出や県民所得に占める比率の高い都道府県。消費や所得の2割前後を年金が支える地域も少なくない。一方、この比率が最も低いのは東京都の11.4%で、2番目は人口増の続く沖縄。神奈川、埼玉、千葉、愛知の各県が13〜15%と続き、大都市と過疎化の進む地方との間にはっきりとした差がついた。しかも、上位の島根、山口、兵庫、佐賀、岐阜県などの2001年の比率は15〜18%台程度。大都市との差は加速度的に開いている。 年金が個人消費の4分の1を占める県もある ●年金の個人消費、県民所得に対する比率上位地方 注:各都道府県の公的年金総額(厚生年金、国民年金受給額の合計)が民間最終消費支出や県民所得に占める比率を見た。個人消費は民間最終消費支出 出所:県民所得、民間最終消費支出(2011年)、高齢化率(2013年)、厚生年金・国民年金受給額(2011年)などを基に本誌作成(写真=アフロ) [画像のクリックで拡大表示] 地方経済の中で年金の存在感が大きくなる中での給付減は、日本経済を揺さぶる。2014年の全国の高齢者世帯(60歳以上、単身)の消費支出は、前年比0.9%減ったが、賃金が上昇し始めた現役世代(勤労者世帯)は0.1%減にとどまる。景気が上向いても、地方に波及しにくい変化の裏にはこれがある。 年金の70年は「拡大」と「抑制」 戦後70年。国民生活の中で年金は次第に大きな存在感を持つようになっている。高齢化の進展とともに、老後を支える大きな柱として意識されてきたからだ。その年金給付が縮小を始めたのは日本経済の停滞のせいだけではない。その裏には“先送り”の歴史がある。 年金の歴史は、元首相の故・田中角栄が厚生年金の給付額を、それまでの倍以上の月額5万円に引き上げた1973年をピークとして戦前から70年代末まで続いた「拡大の時代」と、一転して80年代半ばから始まった給付「抑制の時代」に分けられる。 「拡大の時代」は「年金給付競争の時代」とも言い換えられる。日本の年金制度は、明治の初めにできた軍人恩給がその出発点だ。その後、船工場の労働者を対象にした年金が42年にできた。これが44年にホワイトカラーまで対象が広げられ、54年に今の厚生年金の原型ができた。 その過程で、公務員などの共済組合の一部が厚生年金から分離して独自に充実策を図り始めたり、一部の市町村が「我が町の住民にも年金を」と、70歳以上の高齢者を対象に慰労年金を創設したりもした。年金の乱立である。 これが政治家を刺激した。工場労働者や公務員などの年金が増えるのに、自営業者や農漁業者は空白地帯に置かれたからだ。 58年1月29日、国会冒頭の施政方針演説で首相の岸信介はこう宣言した。「全国民を対象とする国民年金制度を創設するため調査に着手しました」。 当時は、自民党と旧社会党が競い合う「55年体制」が成立して間もない頃。岸の施政方針演説の4カ月後には総選挙が行われたが、「選挙に勝つには年金の充実しかないという雰囲気だった」。厚生省(現・厚生労働省)で後に事務次官となった吉原健二はそう振り返る。選挙で自民党は勝ち、国民年金法が59年に成立。国民皆年金がスタートした。 すると今度は厚生年金が手厚くなっていった(年表「年金はここ30年、抑制の時代だった」参照)。政府は65年と69年、もともとは月額3000円程度だった厚生年金をそれぞれ同1万円、同2万円と、大幅に上積みした。 大盤振る舞いの背景にあったのは高度成長期の到来だ。当時、厚生省に入省したての若手官僚で、その後、年金局長となった矢野朝水はこう振り返る。「厚生年金は額も少なく、企業からは大したものではないと見られ、『自分たちの退職金を充実させた方がいい』とさえ言われていた。このままでは厚生年金はいらないと言われ始めるのでは、という危機感が省内に渦巻いていた」。 「福祉元年」は「抑制元年」 そこにあったのは、官僚達の「焦燥感」と高度成長で「増える税収・保険料」、そして年金で国民にアピールしたい「政治家」が絡み合う構図だった。これに田中角栄が乗った。 「年金制度については、これを充実して、老後生活の支えとなる年金を実現する決意であります」 悲願だった政権の座に就いた田中は72年10月の通常国会施政方針演説で、だみ声を張り上げ、国民を引きつけた。田中は翌73年、“約束”通り、厚生年金の給付を月額5万円へ一挙に2.5倍に増額。さらに物価や賃金の伸びに応じて支給額を増やす物価、賃金スライド制も導入した。同時に老人医療費の無料化なども実施。この年を「福祉元年」として大々的に打ち上げた。 年金はここ30年、抑制の時代だった ●公的年金の創立以来の歴史 (写真=アフロ) [画像のクリックで拡大表示] 一方で財源の確保は真剣味を欠いた。保険料率(男性)の引き上げ幅は、6.4%から7.6%へとわずか。当時、田中のそばにいたある官僚は述懐する。「財源を心配する雰囲気はなかった。高度成長の中で、税収も保険料も増えていくから大丈夫だという感じだけだった」。 今にして思えば、この「元年」が拡大の時代のピークだった。この年、第1次石油ショックが世界を襲い、以後景気は急速に悪化。狂乱物価が日本を苦しめた。しかし導入した物価スライドの影響などで、年金額は76年には9万円、80年には13万円に増えた。 長い上り坂がある日、突然、下り坂に変わったものの、その下落が長く続くとは思えなかったのだろう。厚生官僚の一部には、将来の年金財政を危ぶむ声が出てきたが、ほとんど相手にされなかった。 「抑制の時代」が始まったのは、それから10年以上たった後である。86年の基礎年金の導入だ。それまでサラリーマンが加入する厚生年金と、自営業者らが加入する国民年金は全く別の制度だった。基礎年金の導入は、この別物の年金制度の一部を一体化するというものだった。1階の基本部分と2階の報酬比例部分からなる厚生年金の基本部分と国民年金を一体化して基礎年金としたのである。 「国民年金と厚生年金、共済年金など、制度が分かれて給付内容や保険料率などに大きな差が生じているので、公的年金の格差を解消するのが目的だった」と吉原は言う。しかし、その裏にはもう一つ別の理由があった。 真の背景は国民年金の危機である。80年代に入って、日本は急速な人口の高齢化と、それに伴う社会保障費の膨張という新たな事態に見舞われた。高齢化率は70年頃にはまだ7%だったが、10年後の80年には9%に。そして、すぐに2桁の10%も超えていくことが分かってきた。しかし「拡大の時代」に給付を膨らませたため、年金の総給付費が激増した。70年まで1兆円に満たなかったのに80年には10兆円へ、わずか10年で10倍に急膨張したのである。 2004年改革、怒声で尻すぼみ 年金給付費の急増がまず財政を直撃するのは、相対的に所得の低い層が多い国民年金。当時、厚生省年金局にいたある中堅幹部が声を潜めて言う。「その頃は、国民年金を救わなければならないという思いが強かった」。悪化し始めていた国民年金財政を安定させるために、厚生年金の1階部分と一体化させ、厚生年金側の財源を使えるようにしようというわけだ。体のいい財布の使い回しである。 「抑制の時代」に入って最初に打ち出された改革は、保険料引き上げという本質的な対策ではなかった。取りやすい所から取るという手法である。改革と銘打ちながら、目的と手段はすり替えられた。 年金改革にとっての痛恨事は、年金財政の改善に大きな効果のある年金支給開始年齢の引き上げが遅れたことだという指摘もある。80年頃、厚生省年金課の課長補佐を務めていて、後に宮城県知事となった浅野史郎は、その当時、15〜65歳の生産年齢人口と、それ以外の高齢者などの従属人口の比率を調べていて確信したという。「60歳の引退(定年)はもう続けられない。65歳まで延ばす必要がある」と。 厚生省年金局は80年に「支給開始年齢引き上げ」政策を打ち上げたが、自民党の強硬な反対で間もなく頓挫した。 ようやく実現したのは94年のこと。ただし厚生年金の1階部分だけ。2階の報酬比例部分の支給開始年齢引き上げが決まったのは、矢野が年金局長だった2000年になってからだ。80年に支給開始年齢引き上げを言い出してから実に20年がたっていた。 公的年金の給付額は減り続けている ●1カ月当たり年金給付額の推移 注:世帯主が60歳以上の無職世帯のデータを使った 出所:家計調査を基に本誌作成 [画像のクリックで拡大表示] 抜本的な対策が遅れ、年金財政は好転しない。むしろ悪化の道をたどった。2002年になると新しい人口推計が出て、さらに少子高齢化が進むことが分かり、再び対策が必要になった。 「この前の改革で大丈夫だと言ったじゃないか」。当時、厚労省年金数理課長だった坂本純一(現・野村総合研究所主席研究員)は、自民党厚労族のボスたちに、こう怒鳴り上げられた。 その怒声とともに始まったのが、自民・公明両党が「100年安心」をうたった2004年の改革だった。この改革は、それまでの発想を一転させた点では画期的だった。 「従来の給付抑制と、保険料率引き上げ中心の方法はもう限界にきている」(東京大学教授で厚労省年金部会長だった宮島洋)として現役世代の負担能力に合わせて給付を抑制しようとした。 マクロ経済スライドに加え、@厚生年金保険料率を2017年までに18.3%に引き上げて固定する上限設定方式の導入A基礎年金の財源の国庫負担比率を3分の1から2分の1へ、が柱だ。 しかしこれも結局、制度の要であるマクロ経済スライドの発動が大幅に遅れたため、年金財政の好転にはつながっていない。 そこにある危機が分かっているのに、見て見ぬふりをする。30年以上にわたる不作為は、「年金が本当にもらえるのか」という不安と、国家財政の破綻懸念を膨らませた。だが、それは歴史ではなく、今なお続く物語である。 =文中敬称略 戦後70年の日本経済 日本は昨年、第2次世界大戦から70年の節目を迎えた。高度成長から1980年代バブルを経て、90年代半ばからデフレ不況へ。古希の日本経済はどう変わったのか。シリーズで見る。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/011900002/012000002/?ST=print
[32初期非表示理由]:担当:要点がまとまっていない長文
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