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2016年01月15日
以下のコラムは、高堀氏が見た、一次表象な「報ステ」の安倍官邸との絡みの構造と云うことになる。無論、軽いコラムとして充分な説得力を持つ。筆者は、このコラムの解釈を更に深堀して、考えてみようと思う。先ずは、高堀氏のコラムを読んでいただこう。筆者の、深堀した解釈は、その後で短く述べておく。
≪ 「反権力はこれでおしまい」『報ステ』後任に冨川アナが選ばれたことの意味
■古館氏降板で揺れるテレ朝
約12年間にわたって『報道ステーション(報ステ)』(テレビ朝日)の顔を務めてきた古舘伊知郎氏(61)が、3月末をもって番組を去る。4月からの後任は富川悠太アナウンサー(39)が務めるという。 テレ朝の午後10時台の大型ニュース番組のキャスターは、85年に『ニュースステーション(Nステ)』が始まって以来、久米宏氏(71)と古舘氏と いうフリーの花形アナが務め続けてきた。
約30年間、外部の助っ人に頼っていた。局アナで勝負する4月以降の『報ステ』は新時代に入ることになる。 テレ朝にとって『報ステ』が看板番組なのは誰もが知る通りだが、編成戦略上で極めて重要な番組でもある。午後9時台までのバラエティー番組やドラマ で一定の成績を上げて、10%以上の視聴率が見込める『報ステ』に継投するのが、テレ朝の勝利パターンだからだ。だから、ときには同9時台までの番組を2 時間化、3時間化する。
局アナの富川氏がキャスターに就任する4月以降も独自の勝利パターンは通用するのだろうか? 古舘氏の降板と同時に、ディレクターと構成作家を派遣していた古舘プロジェクトも撤退するので、新生『報ステ』が現在と同程度の支持を得られるかどうかは未知数だ。テレ朝は楽観できず、プライム帯の視聴率争いは混沌化するだろう。 古舘氏の降板は大きなニュースとなったが、降板のサインは早くから出ていた。
『報ステ』のキャスターを10年間にわたって務めた後の2014年7月、朝日新聞出版が発行する週刊誌「AERA」のインタビューで、こう述べている。 「もうこれだけやらせてもらっているから、別に明日降ろされても幸せ」(同7月14日号) わざわざ朝日関係者が読む系列の週刊誌で語ったのだから、本音だったのだろう。
■「反権力」のスタンスを失った
『報ステ』 そのころには、古舘氏を神輿にした『報ステ』も少しずつ揺れ始めているように見えた。そして、最近は揺れが顕著になっていた。 とりわけ奇妙だったのは昨年11月6日放送分だ。その日、放送倫理・番組向上機構(BPO)が『クローズアップ現代』(NHK)の出家詐欺報道について、「重大な放送倫理違反があった」との見解を発表。同時に、NHKへの自民党の事情聴取と総務省の行政指導を「介入」などと強く批判したのだが、なぜか『報ステ』はBPOによる自民党と総務省への批判部分に触れなかった。
BPOによる自民党と総務省への批判は極めて異例で、大きな出来事だった。他局と新聞はもちろん報じた。1面で報じた新聞もある。どうして『報ス テ』は扱わなかったのか? 自民党と総務省に気がねしたとは思いたくないが、意図的に報道を避けたとしか見えず、あまりに不自然だった。 自民党による事情聴取は、元経産官僚の古賀茂明氏(60)が、コメンテーターを務めていた『報ステ』内で安倍政権批判を行ったテレ朝に対しても行わ れた。BPOはそれも踏まえた上で政治の圧力を批判したのである。ところが、当事者とも言える『報ステ』は報じなかった。腑に落ちない話だった。
そもそも『報ステ』のスタンスは、誰の目にも反権力色が濃かった。だからこそ、反安倍政権の姿勢を隠さなかった古賀氏をコメンテーター陣の一人に迎えたはずだ。そんな『報ステ』の姿勢に共鳴していた視聴者も少なからずいたに違いない。 にもかかわらず、BPOによる自民党と総務省への批判に目をつぶってしまった。残念ながら、この時点で古舘版『報ステ』はスタンスを見失っていたと言わざるを得ない。
ほかにも痛恨事があった。2014年8月5日、系列の朝日新聞社が従軍慰安婦問題報道の一部を取り消したのだが、このニュースについて『報ステ』は 約1ヵ月以上も沈黙してしまった。ときに政権や大企業を厳しく批判する番組が、身内の問題となると目をつぶってしまうのでは頼りなかった。『報ステ』を “正義の味方”と捉えていた視聴者を落胆させたはずだ。 『報ステ』が沈黙する間、朝日新聞ではジャーナリストの池上彰氏(65)の連載コラムを一度は掲載中止にする騒動も起きた。コラムが従軍慰安婦報道を検証する内容だったため、載せなかった。
池上氏の問題に世間は怒り、失望したが、『報ステ』も同じ意味合いの失敗をしてしまったのである。もちろん、番組関係者の総意とは思えないので、歯ぎしりをしたスタッフもいただろう。 同9月11日になって、やっと『報ステ』は朝日新聞の従軍慰安婦問題報道について約40分間放送する。古舘氏は「視聴者から『なぜ報道しないのか』 という批判が毎日あった。その間、取材を続けていた」と釈明したが、古舘氏も悔しかったのではないか。自分に非はなかったのだから。
■新生『報ステ』こそ「This is tv asahi」
古舘氏はAERAの取材に応じたのは、朝日新聞の問題が起きる約2ヶ月前だったが、意味深な発言をしていた。 「世の中って嘘八百で成り立ってるし、ホントのところは新聞も雑誌もテレビも伝えないし、たまに言外に漂わせたり、におわせたり、スクープで追及し たりってことはあっても、ほとんどがお約束で成り立ってるわけですね。プロレスですよ、世の中。完全にプロレスです」(同誌2014年7月14日号) 世間が大騒ぎしようが、系列の朝日新聞の問題を伝えないのでは、確かに約束事のあるプロレスと同じかもしれない。少なくとも真剣勝負とは言えない。
そんな世界に古舘氏は嫌気が差していたと捉えるのが自然だろう。 また、いくら古舘氏が『報ステ』内で安倍政権を批判しようが、一方で早河洋・代表取締役会長兼CEO(72)と朝日新聞出身の吉田慎一社長 (66)、放送番組審議会委員長の見城徹・幻冬舎社長(65)は官邸詣でをしている。この構図もプロレスに近いかもしれない。古舘氏が本気で権力と戦おう と考えていたとするなら、虚しかったのではないか。
古舘氏がテレ朝側に降板を申し入れたのは昨夏だという。その2年前にも辞意を局側に伝えたが、そのときは早河会長から「まだ契約が2年ある」と引き 留められたそうだ。逆の見方をすると、契約切れ後の慰留はなかった。久米宏氏の場合は最後まで慰留の繰り返しだったので、違いは明らかだ。
テレ朝側も古舘氏が降りるべき時期が到来したと考えていたのだろう。古舘版の『報ステ』は、当事者たちが合意した上で幕を閉じたのだ。 富川アナが登板する新生『報ステ』のスタンスがどうなるかは分からないが、反権力色は薄まるのではないか。記者経験がなく、まだ若い富川アナに社会 や政治を批判させるのは酷だし、安倍政権との関係が悪くないテレ朝の上層部も反権力の立場は取りたがらないと考えるのが自然だろう。 たぶん、プロレスは終わる。
『報ステ』が反権力とされた時代は過去のものになるのだろう。 これまで安倍政権から目の敵にされてきた形の古舘氏と『報ステ』だが、唐突に反権力の姿勢を打ち出したのではない。久米氏と『Nステ』も庶民派の立場を貫き、折につけ権力を批判していた。その『Nステ』を初代プロデューサーとして立ち上げたのは、ほかならぬ早河会長。古舘氏と『報ステ』のスタッフが 反権力を貫くうち、いつの間にか周囲の状況が変わってしまっていたのである。
『Nステ』は久米氏という強力な助っ人を手放したが、後続の『報ステ』も古舘氏の存在も失う。両番組が頼りにし続けてきた朝日新聞ブランドの威光を衰えた。 4月以降の新生『報ステ』こそ「This is tv asahi」のニュース番組であり、テレ朝の地力と真実が現れるだろう。
≫(現代ビジネス:メディアと教養―テレビのヨミカタ・高堀冬彦)
テレビ朝日を象徴する番組、“報ステ”の一連の顛末は、ほぼ高堀氏の言っている通りだ。個人的には、局アナである富川悠太(39)のフットワークの好さを充分に評価している。事件事故レポーターとして、体育系らしい特性が十二分に生かされている。容姿の点では古館よりも総合点で上かもしれない。NHKのニュース9の河野憲治キャスター(記者)も古館も「能面ヅラ(公家面)」で気に食わないので、個人的に、どうせ碌な報道姿勢でないのなら、上っ面専門ニュース番組で良いんじゃないの、そういう感覚を持つに至っている。
似非風味が強い民主主義において、その構造が似非的である限り、すべてが似非であり、迎合であり、「この世の仕組み」にどのレベルで親密度を表しているかと云う、想像以上に些細な「差」で、ニュースを分析や解説するに過ぎないのだから、報ステが終わったという程大袈裟なものではないのだろうと思っている。安倍官邸と云うファッショな思考経路を持つ政権が、「それをやっちゃオシマイよ」と云うことを平気の平左で実行するようになれば、民主主義の欠点を、人格的な矜持(徳)でギリギリのところで言論の自由や報道の自由は守られるものであって、人格的な矜持(徳)を投げやってしまえば、こう云う事は自明的に起きるわけである。
日本に限る話ではないが、テレビや新聞など、マスメディアの類は、この世の商取引と云う大海を泳いでいるのだから、概ね、大海を泳いでゆく商取引ルールに縛られる。21世紀になって顕著だが、この世の権力と云うものは、政府の権力とマネーの権力、この二つにほぼ限定される。つまり、構造的に、マスメディア自体が、多かれ少なかれ、この二つの権力に親和性を持っていないと成立しない仕組みだと云うことだ。この二つの権力と相思相愛(EX:読売、日経、産経系)である必要はないが、彼らの権力行使に対して、強く異を唱えることは、この世の掟破りと見做される。
それでは、マスメディア、或いは一報道人が、ジャーナリズムの精神を発揮して、生き残ることはあり得ないと絶望的になるのが、僅かに、そのような報道姿勢を維持させることが出来る道は残されている。そう、極めて細い道だがある。その道のポイントは、市民からの絶大な支持だ。それも、一過性の熱病に罹ったような支持ではなく、息長く続ける、市民側の人格的な矜持(徳)を基盤としたバックアップ勢力が存在し、二つの権力を、常に牽制する圧倒的パワーの後押しがないと成立しない。現実をみる限り、それは、絶望の繰り返しなのだが、人格的な矜持(徳)が言論、報道の自由を守る処方箋の原材料になるわけで、原材料なしに、ただ権力の横暴を嘆いても、何ひとつ解決しない。
政治も企業も、権力者の座にいられるのは、それこそ、市民の消極的あっても、支持が、何らかの形で表明されている故に、権力者でいられる。つまり、政治家は、選挙で支持されなければ、権力から滑り落ちる。企業も、マスの支持が直接、間接に存在するから、結果的に権力を得ている。こう云う論理を展開していくと、徐々に見えてくるのだが、権力者を生んでいるのは、誰あろう、市民たちであり、彼らが蛆虫のように、根拠なくこの世を腐らせて食い尽しているわけではない。今夜の結論だが、やはり、究極の権力者は、実は市民と云うことだ。ただし、そのように振る舞える市民側には、社会保障や景気を気にする前の、人間としての前提がないと、到底無理と云う結論になる。見捨てたような回答だが、まあ、こんなものだろう。
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