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2016年 01月 11日
昨年末から、政権に対して批判的なキャスターが次々と降板させられていることから、不穏な空気が流れているのであるが・・・。
安倍官邸は自民党は、TV局は免許事業であるので、放送法の定められた公正中立性を守らなければならないと主張して(免許を盾に)、TV局に目に見えぬ圧力や脅しをかけ、報道の現場をどんどん萎縮させているような感じがある。(ーー)
しかし、「公正中立」をあまりにも厳格にとらえれば、メディアが政治権力を監視して、国民にその問題点を知らしめる(必要あらば非難もする)という重要な使命を果たせなくなってしまうわけで。放送法にいう「公正中立」のあり方を、再考する必要があるように思われる。(・・)
<何か安倍官邸は、ちょっとでも自分たちの政策が多めに批判されたら、すぐ中立性に欠ける、偏向報道だと受け止めちゃう感じ。たとえば、「アベノミクスの効果を実感できますか?」という街頭インタビューを行なった場合、どの世論調査でも8割前後は実感できないって言ってるのだから、客観的に考えたら、5人にきいたら「実感してない」と答える人が4人いて、公正中立な報道になると思うのだけど。安倍官邸は「実感できる」「できない」と答える人が同数いないとむくれちゃうみたいだけど。それだと逆に政権にヨイショの捏造、偏向報道になっちゃうのではないかと思うです。(@@)>
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ちなみに田原総一朗氏は、昨年12月に古館伊知郎氏の「報ステ」降板が発表されたときに、「報道ステーションは古舘さんなくしてはあり得ない番組だった」とコメント。
また、偏向報道と言われることについて、このように語っていた。
『田原総一朗さん、「報ステは偏向」批判に反論「局全体でバランス取れていればいい」
ジャーナリストの田原総一朗さんが、テレビ朝日系「報道ステーション」に対する偏向報道との批判に、持論を展開した。
12年間にわたって「報道ステーション」のメーンキャスターを担当してきた古舘伊知郎が、来年3月いっぱいで降板すると発表された。24日に開かれた会見で、古舘キャスターは、番組に対する「偏向報道だ」との批判にも言及。「客観を装っても、主観内の客観でしかない。偏向もある程度は仕方ないと思ってやっていた」と語っていた。
田原さんは25日にTwitterで、「報道ステーションは古舘さんなくしてはあり得ない番組だった。キャスターとしての技術も抜群だし、番組の内容にも深くかかわっていた」と古舘キャスターをねぎらった。また、「古舘さんの番組が偏向だと言うのはあたらない」と断言。「テレビ朝日全体がバランスが取れていればいいので、それぞれの番組は偏向していなくては面白くない」と主張して擁護した。(RBB TODAY 15年12月25日)』
<このTV局全体でバランスをとるという方法もありかと思う。>
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でもって、mewは昨年来、改めて、放送法や中立性については、どのようにとらえて行けばいいんだろうな〜とアレコレ考えているのだけど・・・。
Newsweek日本版に、武田砂鉄氏が「ニュースの延長戦」に書いていた『「政治的中立性」という言葉にビビりすぎている』という記事がなかなか興味深かったので、昨年11月とちょっと古いものなのだが。ここにアップしたい。(・・)
もはや自民党議員やその支持者の多くは、「触らぬ神に祟りなし」ならぬ「触らぬ安倍に祟りなし」みたいになっていて。たとえ安倍官邸の考えや強引な手法に疑問を抱いても、その権力にびびっているので何も言えず。半分、考えるのを辞めてしまっているため、自民党がどんどん偏った方向に流されてしまっているのだけど。(ーー)
もしメディアやひいてや国民「政治的中立性」なんて言葉にびびって、思考停止したら、日本がとんでも偏ったアブナイ国になってしまうわけで。「ペンは剣より強し」の精神を思い出して、頑張って欲しいと願っているmewなのだった。(**)
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『「政治的中立性」という言葉にビビりすぎている
2015年11月04日(水)18時00分
「政治的中立性」という言葉が思考停止のスイッチになっていないか
放送大学の「日本美術史」の試験問題に安倍政権を批判する文言が用いられたことを受けて、大学は該当部分の問題文を学内専用サイトから削除してしまった。「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる」などの記載が問題視されたが、自衛が戦争を呼び寄せてきたのは、確かな史実である。
こういった事例の度に繰り返される言い分が、放送法にある「政治的中立性」だ。今回も、「放送法の規制を受け、一般大学より政治的中立性を配慮しなければならない」(来生新・放送大学副学長/東京新聞10月21日朝刊)との弁解が出ているが、すんなりとは受け止められない。
「放送法」が定める政治的中立性。具体的な文言としては第4条「放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない」の2項目「政治的に公平であること」による。
この第4条には4項目が併記されており、その4つ目には「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」とある。一つ前の第3条には「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない」ともある。そもそも第4条の「公平であること」と「多くの角度から論点を」の双方をクリアするのは難儀である。角度をいくつも投入すれば、どうしたってバランスは崩れてくる。しかし、この2つを天秤にかける前に、安っぽく「公平」を優先してしまう。
放送だけではない。放送大学副学長の言葉を逆説的に借りるならば、放送大学よりも「政治的中立性に配慮する必要のない」はずの立教大学は、「岐路に立つ日本の立憲主義・民主主義・平和主義 ――大学人の使命と責任を問い直す」という名のシンポジウムの会場使用を拒否した。政治的である、という理由だが、そんな判断が学び舎で下されるならば、政治的ではない学問とは一体どこにあるのか、ご教示願いたい。日頃の講義で、教授が見解を述べ、生徒が反応する。こうして持論を大勢に投じること、引き受けて学ぶことは、常に政治性を帯びているのではないか。特定の思想を強いるのは問題だが、誰かが持つ思想を投じることを安易に手放しすぎではないか。
沖縄の普天間基地移設をめぐって、翁長雄志知事が辺野古への埋め立て承認を取り消したものの、政府はわずか2週間で取り消しの効力停止を決定、辺野古の本体工事に着手した。基地の前で語気を荒げる市民の様子を各紙で確認したが、その中のいくつかで「文子おばあ」の姿を見つけて、こみあげてくるものがあった。
基地移設の反対運動を追ったドキュメンタリー、三上智恵監督『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』で、「私を轢き殺さないと通れないよ。死なせてから通ってみろ」と基地の前で体を張っていたのが文子おばあだった。15歳の時に地上戦を経験し、母親は米軍の手榴弾と火炎放射器にやられて左半身を大火傷、視力を失った。沖縄の怒りを背負った文子おばあは、もう何度目か分からない憤怒の渦の中に巻き込まれていた。
この『戦場ぬ止み』の自主上映会の後援を「政治的色合いが濃い」との理由で断ったのが千葉県山武市である。この映画では、沖縄経済を活性化させるためには基地は止むなしと考える県民たちの意見も入っているし、県民よりもアメリカ軍人を守らなければならない任務に矛盾を感じている(と信じたい)若き沖縄県警の警察官の表情も追っている。多角的な目線を入れこみながら、確かに「政治的色合い」は強い。しかし、機動隊が文子おばあを引き倒し、救急車で運ばれていく姿を見てもらう機会を「政治的」との理由を用いて剥奪するならば、どちらが政治的だ、とオウム返ししたくなる。
判断する側は「今回は特例」と言い聞かせたり、「誰かに言われる前に」と譲歩したり、いずれも些事として処理しようとする。しかし、こういった積み重ねはいつのまにか恒常化する。今、「政治的中立性」という言葉に慣らされることでその手の事態が頻発していないか。「中立性」にビビる、って、その言葉がもはやフラットではないことを教えてくれる。政治的中立性が、思考を停止させるスイッチになりつつある。この言葉で増殖する自粛を真に受けすぎてはいけない。』
THANKS
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