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チャべスは自らジープを運転し元気だった
世紀の謎! カストロはチャべスを暗殺したのか?(下)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/8522
2016年12月31日 風樹茂 (作家、国際コンサルタント) WEDGE Infinity
前回記事
世紀の謎! カストロはチャべスを暗殺したのか? (上) (WEDGE)
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2009年秋、私は身近にチャべスを見る機会があった。職場を訪れたのである。ジープを自ら運転し、元気に現場を歩きまわる外見からは全く健康そうに見えた。その4年後に死んでしまったことが、いまだ、私には信じられない。チャべス死の謎に挑む。
■前立腺癌が発覚、手術後一気に悪化した
チャべスはいつごろからか、歩行時に足が痛むと言い始めていた。大統領官邸のキューバ人医師たちを通じて、それを最初に知ったのはカストロである。2011年1月カストロはチャべスの元にスペイン医師ガルシア・サブリィノを送った。医師は前立腺癌を疑い、チャべスにきちんと検査したほうがいいと助言したが、医者嫌いのチャべスは受け付けなかった。
けれども、5月の初めには左足の膝が痛み、歩行に困難を伴った。カストロの勧めもあり、チャべスはハバナへと飛び立った。外科・検査センター(Cimeq)で検査すると、前立腺癌が発覚し、骨盤に移転していた。
6月10日、キューバ人医師が手術をした。その後、ロシア人医師が派遣され2度目の手術が行われた。6月30日、手術後療養中のチャべスはハバナからベネズエラ国民向けに伝えた。「偉大なフィデルが癌の辛い告知をしてくれた。癌細胞はすべて削除された」
ベネズエラ政府も、チャべスは完治したと発表した。翌年12月に大統領選挙が迫っていた。その時から、チャべスは10回を超える頻繁なキューバ詣でによる治療を続けることになる。チャべスは化学療法(抗がん剤治療)を受け続け、ステロイド療法の力を借りて歩行困難を克服し、外遊などの政治活動を続けた。顔はむくみ、髪の毛は抜け落ちた。
翌年1月8日にはチャべスは熱帯雨林のど真ん中に位置する、イランとの協力プロジェクト、セメント工場「セーロ・アスル」の前にいた。石油公社の職員を前に、日曜日のテレビ番組「こんにちわ 大統領」を7カ月振りに中継し、5時間しゃべり続け、サルサバンド「マデラ」が演奏する明るいリズムに乗って、南米の民族楽器レコレコを奏でながら踊った。癌を克服したかに見えた。
けれども、2012年2月には同じ部位に癌が再発。2月26日にキューバで再手術を受け、放射線治療も始まった。手術後、チャベスは、カラカス沖160 キロ にあるカリブ海のラ・オルチラ(La Orchila)島で秘密裏に療養したといわれる。陸軍・空軍の基地があり、軍・政府の高官のみが訪れる場所だった。
皮肉だった。2002年のクーデター時にチャべスが幽門された場所である。そのときは、命を奪われるか、キューバに亡命するか、それとも大統領で居続けるかの瀬戸際にいた。今は選挙までは生き続ける必要があった。
2012年7月1日、選挙選の火ぶたが切られた。投票日は2カ月早められていた。チャベスは全国を巡る選挙キャラバンカーの上で、まだまだ元気に見えた。ボクサーの真似をし、ギターを弾き、歌い、踊り、叫んだ。「ビバ! ボリバル革命!」「勝利の日まで!」いつもと同じ空虚なお祭り騒ぎだった。熱狂する民衆は、めったに現実化しない幻想に酔わされ続けた。
実際はチャべスは疲労、吐き気、痛みに耐え、モルヒネを打ちながら選挙戦を戦ったともいわれる。命をかけた甲斐があり、10月7日、得票率55%で、野党統一候補のエンリケ・カプリレス(44%)を退け4選を果たした。
その後の動静はあまり伝わらない。選挙キャンペーンの無理がたたり、容態はかなり悪化していたのではなかろうか。また、当時、不都合な事実が暴かれていた。年初にチャべスが訪れた「セロ・アス―ル」のセメント工場は中途で挫折し、機材は野晒になり、労働争議が頻発していた。中途で放棄されるプロジェクトのひとつにすぎなかった。
11月24日からチャべスの病状は急変した。下腹に激痛が走り、2度意識を失い、喀血した。27日に急遽キューバ空軍機でハバナへと送られ、翌日には癌の専門チームがロシアから派遣され、高圧酸素療法が施工された。
12月7日、チャべスはカラカスに飛んで帰り、8日に政府幹部とともにテレビに出演した。チャべスの右に政府ナンバー2の国会議長ディサード・カベ―ジョ、左に副大統領に昇格したニコラス・マドゥロ(現大統領)が座った。
チャべスはサ―タディ・ナイトフィーバーの映画の思い出を語り、自身の革命を総括し、もう一度ハバナで手術をする必要があると言い、もし帰国できないときにはと、マドゥロを大統領候補に指名した。そして祖国を称える歌をうたい、叫んだ。「勝利の日まで、ベネズエラ万歳!」。全員が復唱した。
カストロが、ベネズエラ最大のコカインカルテル「ロス・ソレス」に君臨する個性の強い軍人上がりのディオサードではなく、元バスの運転手で、組合活動家だった従順なマドゥロを好んだのだ。マドゥロは大卒ではないが、24歳のときには、キューバで政治教育を受けている。
■最初の手術から2年もたたずに死ぬ
チャべスは12月9日ハバナに戻り、11日に最後の手術を受けた。癌はすでに膀胱、腹部、肺に移転していた。手術中に動脈を傷つけ、大出血があったともいわれている。その数日後から、呼吸困難が繰り返され、12月31日、チャべスは死んだ(チャべス死の日は様々な説があるが筆者はこの日がもっとも確度が高いと考えている)。
不思議である。チャべスは最初の手術から2年もたたずに死んでしまった。前立腺癌の5年生存率は日本では100%だ。チャべスは足の痛みを感じていたのだから、ステージCぐらいで発見されたのだろう。その場合も5年生存率は50%前後である。なぜ、最初から前立腺癌Cステージの標準治療である、ホルモン療法と放射線治療が行われなかったのだろうか?
ベネズエラ政府は、2013年2月13日に、チャべスは夜中にカラカスに帰国し、陸軍病院に入院したと発表した。誰一人、チャべスの生きた姿を見たものはいなかった。身体が横たわっているストレッチャーは、キューバ人に囲まれていた。9階にある病室には誰一人入ることが許されなかった。チャべスと最も親しかったボリビア大統領のエボ・モラレスさえも、入室を拒まれた。
そして、3月5日、マドゥロはチャべスの死去をテレビで発表した。3月8日には盛大な国葬が行われた。遺体の防腐処理をするために、ロシアから専門家が来るとか、バチカンから来るとか言われていた。だが、それはうまくいかなかったと伝えられた。不思議だった。棺に防腐剤やドライアイスが入っていたようには見えなかった。
しばらくして、キューバを逃がれた情報機関G2に属するキューバ人スパイ、フアン・アルバロは、チャべスは暗殺されたと証言している。彼はチャべスを個人的に知っている。
「2011年の経済危機の中で、チャべスはキューバへの援助を縮小する態度を見せた。チャべスは全く健康であったが、キューバ人医師は体内にバクテリアを植付け、意味のない手術を行い、抗がん剤を処方し、骨髄を損傷し、死にいたらしめた」
■チャベスの死に対する様々な憶測
信ぴょう性は分からないが、カストロにとってチャべスの命と自分が支配する国の重みの違いは、火を見るよりも明らかだったに違いない。一方、マドゥロは米国により暗殺されたと言っている。
その後、2014年、チャべスの死の内幕を描いた本『とてつもない嘘』(El gran engaño)が発刊された。ベネズエラの書店からはすぐに消え去った。著者は、一時チャべス派にいた政治家のパブロ・メディナだった。また、2015年発刊の『チャべスのブーメラン』(Bumerán Chavez)もやはり死の内幕をつづっている。
私は一時ベネズエラを離れたが、再び2014年〜16年夏まで滞在した。原油価格の低下もあり、15年からはモノ不足が焼結を極め、いたるところで略奪が始まっていた。車両泥棒、銀行強盗などの犯罪は日常茶飯事で、私の知人夫婦も殺され地中に埋められた。産油国なのにベネズエラ人の月給は30ドル〜100ドル前後。世界最貧国のひとつである。
また、現大統領マドゥロの妻の甥っ子二人が800キロのコカインをアメリカに持ち込もうとしてハイチで逮捕され、アメリカで収監された。その一人エルフィン・カンポはこういっている。
「チャべスの死後、ディオサードとマドゥロはベネズエラの富を山分けすることで、合意した。ディオサードは税金、鉱山、湾港、飛行場をもらいうけ、マドゥロは石油を手にした」
私は思い出す。チャべスが死んだと発表された翌朝、ホテルで出された朝食は、いつもの決まり切った卵と豆ではなかった。ステーキがふるまわれたのだ。
フィデル・カストロが11月25日に死去し、キューバは9日間の喪に服した。そしてなぜか、いや、当然というべきか、ベネズエラも3日間、喪に服した。かつての私の職場のプエルト・カベージョに滞在しているキューバ人たちは、歓びに沸き、お祭り騒ぎだったと聞く。
ベネズエラ人は自嘲気味にいう。「キューバ人はベネズエラ人以上にベネズエラ人だ」。
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