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憲法改正選挙で、終身大統領を目指したチャベス
世紀の謎! カストロはチャべスを暗殺したのか? (上)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/8519
2016年12月30日 風樹茂 (作家、国際コンサルタント) WEDGE Infinity
2009年末か2010年の初めころだろうか。当時ベネズエラ大統領チャべスは「キューバに石油を市場価格で売る」と言い始めた。原油価格70ドル/バレルの時代である。キューバのベネズエラ原油の日量輸入量は10万バレル。もし実費清算となると、年間25億5500万ドルの支払いだ。チャべス死の謎に迫る。
■カストロはチャべスにナオミ・キャンベルを引き合わせた?
チャべスがカストロに初めて会ったのは、1994年12月14日、ハバナでのことだった。このとき、老獪なカストロ(当時68歳)は、青年将校チャべス(当時40歳)を与し易しと、見てとったはずだ。人間味に溢れ、自惚れが強く、度過ぎた女好きである。
当時、キューバはソ連崩壊後の未曾有の経済危機で、キューバ人4万人は自国を捨て、命がけで筏をカリブ海に漕ぎ出し、フロリダ半島マイアミを目指していた。ソ連がなければ近隣の石油大国ベネズエラがある。カストロが狙うのは原油である。
幸いチャべスは1998年に選挙で大統領の座についた。選挙キャンペーンでは聴衆の中で彼の演説や歌を聞いて夢心地でいる女を物色していた。目配せで気にいった女を選び、側近が夜の密会を手はずした。関係のあった女性の多くは公務についた。
ウルグアイの元大統領のホセ・ムヒカはそのような行為をやんわりと批判していたが、カストロはこの性的放縦を利用した。カストロは、以前から知り合いだった世界的なモデル、ナオミ・キャンベルをチャべスに紹介したのだ。名目は英男性誌GQのためのインタビューと、ネルソン・マンデラ財団への寄付であったといわれる。
2008年の1月カラカスの大統領官邸を訪れたナオミ・キャンベルは「チャべスはゴリラみたいじゃない。闘牛だわ」と呟いたという。ちなみに、日本でも手に入るConcha y toro(=貝と闘牛)というチリのワイン銘柄は男女の性愛を暗喩している。その後も二人の親密な関係はしばらく続いたといわれている。
■カストロはベネズエラの富をしゃぶりつくした
カストロに最大のチャンスが訪れたのは2002年、米国に後押しをされた、財界、軍部、国営石油公社、民主勢力によるチャべス追い落としのクーデターが失敗したときだった。危うく生命の危険に瀕して以来、チャべスは自国民を信じなくなった。暗殺を恐れたのである。
カストロはカラカスの大統領官邸に料理人、ウェイター、専属医を派遣した。大統領警護官のトップもキューバ人となった。両国は150もの協力文章を署名した。キューバの石油精製所、発電所、道路、鉄道、ホテルなどにベネズエラの資金が投じられた。一方、カストロはスポーツ、農業、電気通信に至るまで専門家と称される4万5千人をベネズエラに派遣した。うち、3万3000人が医療関係者である。
これら人的サービスが原油や投資などの支払いに充てられた。一人当たり年8万2000ドル。総計36億9000ドル。キューバ総輸入額の40%前後をベネズエラが占めることを考慮すると、キューバには実にうまみのある取引だった。しかも、キューバ人専門家には月1500ドルが支払われた。実際に彼らの手に入ったのは、100ドル以下で、残りはカストロ・キューバに支払われた。その後、キューバ人医療関係者は、薄給とベネズエラの経済危機から続々とコロンビアへと逃げ出した。
チェ・ゲバラ存命だったころには、革命の輸出はキューバの代名詞だったが、今はもう余裕がない。代理人となったのはベネズエラだった。
チャべスは、ボリビア、エクアドル、ニカラグア、アルゼンチンなどの左翼政権には資金協力を惜しまなかった。中東のシリアには石油公社のオフィスを置き、レバノンの反米勢力ヒズボラには国営会社コンビアサの飛行機で戦略物質のコカインを送った。コロンビアの革命軍(FARC)にはコカイン精製のための尿素と、武器を送った。
チャべス政権下、世界一の犯罪大国となった観光国ベネズエラは閑古鳥が鳴いた。観光客が来るのはキューバだった。キューバはアメリカと寄り添い始めた。そして多大な利益を得て、ベネズエラは収奪された。カストロ・キューバはベネズエラの富をしゃぶりつくした。
なぜ、チャべスはこれほどカストロに傾倒したのか? 自身の100年王国を作りたかったからである。40年間も独裁政権を保つカストロは、父親であり、憧れであり、指導者だった。チャべスは叫んだものだ。「2021年まで大統領だ!」
■カストロはこうしてベネズエラを植民地化した
2009年末ころからだろうか。ベネズエラ第一の港プエルト・カベ―ジョ港近辺にある私の定宿のクンボート・ホテルはキューバ人たちで一杯になった。予約がとれないこともしばしばであった。彼らの半数は港に勤務し、半数は遠い昔日本の大企業が作った火力発電所の修理に来ているとされる者たちだった。
レバノン系コカインカルテルの長マクレッド・ガルシアが支配していた港は、コロンビアで彼が逮捕された後、国営化され、私の知人の港オペレーションのトップだった民間人もパージされ、軍人が後釜に座り、その後キューバ人が管理職として入ってきた。それまでも最悪だった港の機能は一層失われた。
一方、水力発電に頼るベネズエラは、当時エル・ニーニョの影響で降雨不足。度重なる停電を招いていた。2010年2月、その解決のために派遣されたキューバ人専門家集団の長は、カストロとともにキューバ革命を戦った英雄ラミロ・バルデスだった。キューバの諜報機関G2を作り、内務大臣にもなった政治家である。その当時は情報通信大臣であり、電力との接点は全くなかった。10%程度しか稼働率がない火力発電所は、まったく改善する予兆はなかった。
ラミロ・バルデスの目的はまったく別だった。ベネズエラ人の身分証明書とパスポートを含めた出入国管理の新たなシステムを作ること。さらに、キューバとベネズエラを海底光ファイバーケーブルで結ぶプロジェクトの進展だった。
ベネズエラは既存の一般回線は不安定でしばしば不通となり、電話会社の支払い遅延などから国際電話がかけれないこともある。キューバの通信状況はさらにひどいと言われる。クーデターなどの緊急事態時にキューバと相談できない。
光ファイバーケーブルは、計画よりも数年遅れて、チャべス死後の2013年初めには稼働した。アクセスできる人間は政府の上層部、政府系科学者などに限られているという。こうしてベネズエラ人の個人情報はキューバに筒抜けとなるとともに、他国の諜報機関に傍受されることなく、カストロ・キューバの指令がカラカスの大統領官邸に送られるようになった。
■チャべスは憲法改正選挙に勝ち、まだまだ元気だった
第二回目の憲法改正選挙(2009年2月15日)が迫っていた。勝てば終身大統領への道が開かれるチャンス。政府系企業では仕事そっちのけで職員が選挙キャンペーンに動員された。
2月2日にこんなことがあった。道路は珍しくがらがらで、オフィスは人影がなかった。町中も閑散としている。店はみなシャッターが閉まっている。もちろん、学校も休みである。病院も開けていると、罰金を取られる。
一昨日、チャべスは他の閣僚や将軍と元気にソフトボールの試合をしていたとき、突然、言った。
「明後日、2月2日は祝日とする。政権樹立10周年記念祝日である。労働は禁止だ」
50代になるベネズエラ人はこう嘆いた。
「こんなばかげたことは生きていて初めてだよ。ああ、恥まみれの10年周年記念か」
それでも、チャべスは憲法改正選挙にきわどく勝ち、終身大統領の道が開かれた。いずれにしろ、チャべスはソフトボールを問題なくこなすほど元気だったし、翌年の2月にもプロの野球選手とともに試合を楽しんでいる(続く)。
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