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米大統領選の投票日が近づく中、ヒラリーの側近でムスリム同胞団につながるアベディンに注目
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201611050000/
2016.11.06 03:07:50 櫻井ジャーナル
アメリカで展開されている大統領選挙の投票日が近づいている。ヒラリー・クリントンとドナルド・トランプの支持率を競馬の予想屋的な視点から「解説」する人も少なくないようだが、この選挙で最大のキーパーソンはクリントンでもトランプでもなくフーマ・アベディンだとする見方もある。
アベディンは本ブログでも何度か取り上げているが、ヒラリー・クリントンの側近中の側近と言われ、クリントンが国務長官だった2009年1月から13年2月にかけて国務省副主席補佐官を務めている人物。
1976年7月にアメリカのミシガン州で生まれたが、2歳の時に家族と一緒にサウジアラビアのジェッダへ移り住んだ。父親のシード・アベディンはインド出身だが、その時、サウジアラビア政府のイスラム問題担当省の高官として働き、ムスリム同胞団とも緊密な関係にあったとされている。母親のサレハ・アベディンはパキスタン出身で、ムスリム同胞団の女性部門で指導的な地位にあった。
サウジアラビアのムスリム同胞団はワッハーブ派(サラフ主義者)の強い影響を受けている。ムスリム同胞団やワッハーブ派はズビグネフ・ブレジンスキーが1970年代の末に編成した武装集団の中心になった人びとで、アル・カイダ系武装集団の主力でもある。戦闘員を雇う資金を出したのはワッハーブ派を国教とするサウジアラビアだった。
この国でムスリム同胞団とワッハーブ派が結びつきを強めたのは1950年代。エジプトで革命を成功させた自由将校団のガマール・アブデル・ナセルをムスリム同胞団が1954年10月に暗殺しようとして失敗、この団体は非合法化されてメンバーは国外へ逃れたが、多くのメンバーが逃げ込んだ先のひとつがサウジアラビアだった。ナセルがエジプト大統領に就任したのは1956年6月のことだ。
ナセルの命を狙ったのはムスリム同胞団以外にも存在する。イギリス、アメリカ、イスラエルなどだ。イギリスの対外情報機関MI6(SIS)はナセルが大統領になる4カ月ほど前からナセル暗殺の検討を開始したと言われている。ロンドン駐在のCIAオフィサーだったジェームズ・アイケルバーガーからワシントンのアレン・ダレスCIA長官に宛てたテレックスの中に、MI6がナセルを殺す話をしていたとする記述があるという。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
ダレス長官は兄のジョージ・フォスター・ダレス国務長官と同じようにイギリスの考えに同調していた。大統領に就任した翌月、ナセルはスエズ運河の国有化を宣言、それに対してイギリスは反ナセルの宣伝を開始、フランスも同調してイスラエルに武器を提供しはじめた。(前掲書)
イスラエルのデイビッド・ベングリオン首相もイギリスと手を組む。イーデン英首相はベングリオン首相やモサドと連絡する際、英外務省をバイパスするため、暗号化した内容をMI6の無線でイスラエル側へ伝えていたともされている。(前掲書)
1956年8月にMI6のジュネーブ支局長はムスリム同胞団のメンバーと会談、自宅に軟禁状態だったモハメド・ナギブ元大統領を解放して大統領に復帰させ、反ナセル派の将校は市民とナセルや閣僚の暗殺について協議すると伝えたという。(前掲書)
その当時、イギリスは空調装置を使って神経ガスを送り込む、あるいは紙タバコ入れに仕込んだ毒矢を発射するといった暗殺方法を考えていたようだが、フランスには特殊部隊を潜入させてビルを爆破するという計画があった。イスラエルはケイタリング会社の従業員を買収し、毒薬をナセルが飲むコーヒーに入れさせようとしている。(前掲書)
しかし、ドワイト・アイゼンハワー米大統領は運河の国有化を理由にして内政干渉することに反対、ダレス国務長官に対して10月にそうした内容の通告をしている。MI6のナセル体制転覆計画を持ち出しても大統領の意見に変化はなかったようだ。
1980年代のアフガン戦争と同じように、2010年に始まった「アラブの春」ではムスリム同胞団とワッハーブ派が重要な役割を果たし、エジプトではホスニ・ムバラク政権が倒された。ムバラクに替わって大統領に就任したモハメド・ムルシはムスリム同胞団で、サラフ主義者(ワッハーブ派)から支持されていた。支持母体はアル・カイダ系武装集団と同じだ。
そうした背景があることからムルシに反発する人もいて、退陣を要求する100万人規模の抗議活動が展開されている。そこで軍最高評議会のアブデルファター・エル・シーシ議長が憲法の停止を宣言、アドリー・マンスール最高憲法裁判所長官を暫定大統領に指名したわけだ。
2012年8月にDIA(国防情報局)の作成した文書は、シリアにおける反乱の主力はサラフ主義者、ムスリム同胞団、そしてAQI(アル・カイダ系武装集団)だと指摘している。アル・カイダ系武装集団の主力もサラフ主義者(ワッハーブ派)やムスリム同胞団だ。この構図はリビアでも同じ。この当時の国務長官はクリントンで、アベディを介してサラフ主義者(ワッハーブ派)やムスリム同胞団とつながっていたと見られている。
リビアではNATOの空爆とアル・カイダ系武装集団の地上戦が連携し、ムアンマル・アル・カダフィ体制を倒した。その際、カダフィ自身が惨殺されているが、それを知らされたクリントン長官は「来た、見た、死んだ」と口にして喜んでいる。その半年前、ロシアのウラジミル・プーチンは「誰がNATOにカダフィを殺す権利を与えたのだ」と侵略勢力を激しく批判したが、それと対照的だ。
リビアでの戦闘でアメリカをはじめとする侵略勢力がアル・カイダ系武装集団と結びついていることが明確になってしまう。そして登場してくるのがダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)だが、中身は同じだ。
カダフィ体制が崩壊した後、アメリカは武器/兵器や戦闘員をシリアへ移動させる。ベンガジにあるアメリカの領事館がその拠点だったが、そこが2012年9月11日に襲撃されてアメリカのクリストファー・スティーブンス大使も殺されてしまう。
スティーブンスはリビアで戦闘が始まってから2カ月後の2011年4月に特使として同国へ入り、11月に国外へ出て、翌年の5月には大使として戻っていた。領事館が襲撃される前日、大使は武器輸送の責任者だったCIAの人間と会談、襲撃の当日には武器を輸送する海運会社の人間と会っている。
運び出された武器/兵器の中に化学兵器も含まれていた。これをシリアで使い、政府軍に責任をなすりつけてNATO軍が直接、介入する口実に使用とした可能性が高い。こうした工作をスティーブンスは熟知、彼の上司だったクリントン国務長官も知っていたはずである。
2012年11月、デイビッド・ペトレイアスがCIA長官のポストを辞しているが、この人物はクリントンと緊密な関係にあることで有名。スティーブン大使から報告されるまでもなく、ベンガジでの工作をクリントンは知っていたと見るべきだ。
本ブログでは何度も書いたことなので今回は詳しく書かないが、クリントンの夫、ビルが大統領だった時代のアメリカ政府は戦争に消極的だった。そうした中、戦争へ導こうとしていたのが、マデリーン・オルブライト(国連大使から国務長官)やビクトリア・ヌランド(国務副長官の首席補佐官)を含むヒラリー人脈。オルブライトの師にあたる人物はズビグネフ・ブレジンスキーであり、ヌランドはネオコンだ。アベディがインターンとしてホワイトハウスへ入り、ヒラリーと親密な関係になったのもその当時だった。
ヒラリー・クリントンの周辺にはブレジンスキー(デイビッド・ロックフェラー)、ネオコン、そしてムスリム同胞団のネットワークが張り巡らされている。しかも戦争ビジネスや巨大金融資本という後ろ盾もある。こうした存在がヒラリー・クリントンを守ってきたのだが、フーマ・アベディンの問題にメスが入ると、こうしたネットワークが明るみに出てしまう可能性がある。司法省やFBIもこうした問題をいかに隠蔽するか、必死に考えていることだろう。
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