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ナチスの制服に似た衣装を使ったグループに謝罪を要求した団体の拠点がある米国はナチスと関係
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201611020000/
2016.11.03 06:23:59 櫻井ジャーナル
いわゆるアイドル・グループのひとつが10月22日のライブ・イベントで使用した衣装がナチスの制服に似ていると話題になり、アメリカの「サイモン・ウィーゼンタール・センター」なる団体がグループの所属するレコード会社やプロデューサーに謝罪を要求したという。
このサイモン・ウィーゼンタール・センターはユダヤ人の人権を守るため、第2次世界大戦が終わってから32年後の1977年にアメリカで設立された。団体の名称になっているサイモン・ウィーゼンタールはナチ・ハンターとして知られているユダヤ系オーストリア人。2005年に96歳で死亡している。
本ブログではすでに書いたことだが、アメリカでは1970年代にシオニストとキリスト教系カルト(聖書根本主義派、あるいは福音派と呼ばれている集団)と手を組んで政治的な影響力を強めた。イスラエルではリクードが主導権を握り、アメリカではジェラルド・フォード政権でデタント(緊張緩和)派が粛清され、ネオコンが台頭する。そうした状況の中でサイモン・ウィーゼンタール・センターは作られたわけだ。
団体の拠点があるアメリカでは、「ユダヤ人の国」とされるイスラエルによるパレスチナ人弾圧を批判したり、パレスチナ人の人権を守ろうとする人びとは激しく攻撃されている。ユダヤ系の人びとも例外ではない。
例えば、イスラエルを厳しく批判してきた研究者のノーマン・フィンケルスタイン。母親はマイダネク強制収容所、父親はアウシュビッツ強制収容所を生き抜いたという歴史を背負っているのだが、いや背負っているからこそ、イスラエルのパレスチナ人弾圧を許さないという姿勢を鮮明にしている。
デポール大学で働く任期制の教員だったフィンケルスタインが終身在職権を得ることが内定した際、シオニストとして有名なハーバード大学のアラン・ダーショウィッツ教授はフィンケルスタインと大学を激しく攻撃した。反フィンケルスタインのキャンペーンを数カ月に渡って展開、大学に圧力をかけて彼との雇用契約を打ち切らせてしまったのだ。
それ以外にも、フィンケルスタインの著作が世に出ると聞くと、ダーショウィッツ教授はカリフォルニア大学出版やカリフォルニア州の知事だったアーノルド・シュワルツネッガーに働きかけて出版を止めようとしている。
フィンケルスタインのような人物を攻撃する際、シオニストは自己憎悪(Self-hating)という標語を使う。安倍晋三首相の「お友だち」が使う「自虐史観」という表現と似ている。
一方、ナチスと深く関係しているアメリカ人にシオニストは無神経なところがある。第2次世界大戦では、1942年8月から43年2月にかけてドイツ軍とソ連軍との間で行われたスターリングラード攻防戦でドイツ軍が壊滅しているが、ドイツの劣勢が明らかになるとナチスの幹部たちはアレン・ダレスなどに接触している。
例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)
ウルフはイタリアにいる親衛隊を統括、アメリカ軍のイタリア占領を迅速に実現させることができる立場にあった。イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)
ダレスはウォール街の弁護士であり、巨大資本の代理人。1933年から34年にかけて反ルーズベルトのクーデターを計画した巨大金融機関と密接な関係にあり、ビジネスでドイツの支配層ともつながりがあった。
こうした動きをソ連は察知、ドイツにソ連を再攻撃させる動きだとアメリカ政府を非難しているが、フランクリン・ルーズベルト大統領はそうした交渉はしていないと反論している。実際、ルーズベルトはそうした秘密交渉を知らされていなかっただろう。そしてドイツが降伏する前の月にルーズベルトは執務室で急死した。
1945年になるとジョバンニ・モンティニ、後のパウロ6世はナチスの大物にバチカン市国のパスポートを提供し、逃走を助けはじめた。ナチスの元高官をラテン・アメリカへ逃亡させるルートは一般に「ラット・ライン」と呼ばれているのだが、このルートは1947年になるとアメリカの第430CIC(米陸軍対諜報部隊)のジェームズ・ミラノ少佐が動かすことになる。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
また、アメリカの国務省はナチスの残党やソ連の勢力下に入った地域から亡命してきた反コミュニスト勢力、つまりファシストを助け、雇い始める。「ブラッドストーン作戦」だ。アメリカの支配層は大戦の前も後もナチスと結びついていたということだ。
こうした流れの中、イギリスのウィンストン・チャーチル首相はJPS(合同作戦本部)に対し、ソ連へ軍事侵攻するための作戦を立案するように命令している。そして5月22日に提出されたのが「アンシンカブル作戦」。その作戦によると、7月1日に米英軍数十師団とドイツの10師団が「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)
ルーズベルトが急死した後、副大統領だったハリー・トルーマンが大統領へ昇格するのだが、この人物のスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニストで、後にイスラエルの核兵器開発に資金を提供した富豪のひとりだ。リンドン・ジョンソンの後ろ盾としても知られている。
現在、イスラエルで主導権を握っているリクードはウラジミール・ジャボチンスキーの流れを汲んでいる。このジャボチンスキーが創設した武装集団のハガナは後にイスラエル軍の中核になるが、第2次世界大戦ではイギリスの訓練を受けている。ハガナから分かれる形で1931年に登場するのがイルグン。1940年にジャボチンスキーはパレスチナに住むユダヤ人に対し、イギリス軍へ参加するように求めた。
これに反発、イルグンを飛び出して1940年8月にロハメイ・ヘルート・イスラエル(レヒ)を新たに組織したのがアブラハム・スターン。創設者の名前からスターン・ギャングとも呼ばれている。スターンは1940年9月にイタリアのベニト・ムッソリーニ、さらにアドルフ・ヒトラーのドイツにも接近する。
レヒの創設とほぼ同時にジャボチンスキーは心臓発作で死亡、その後継者に選ばれたのがメナヘム・ベギン。後の首相だ。アメリカで活動していたジャボチンスキーの秘書だったベンシオン・ネタニヤフの息子が現在のイスラエル首相、ベンヤミン・ネタニヤフである。
当時、ユダヤ人の間でシオニストの人気はなかった。シオニストはナチスのユダヤ人弾圧を利用してパレスチナへ移住させようと目論むが、多くの人はアメリカなどヨーロッパ文明の影響を受けた国々を目指していた。
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