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アンジェイ・ワイダの遺言
1.虫の知らせ?
それは、「虫の知らせ」だったのだろうか?「体育の日」の休日であった10月10日(月)、私は、時間が有ったので、朝と夕方、私にしてはかなり長い時間、ピアノを練習した。その際、朝から、何故か、ショパンの『革命』を何度も何度も弾いたのである。
周知のとおり、『革命』は、ショパンがドイツに滞在して居た際、故国ポーランドでポーランドを支配して居たロシアに対する「革命」が勃発したものの、その「革命」がロシアによって鎮圧され、多くのポーランド人が殺される悲劇に終わった事を知った際、激情に駆られて作曲した練習曲である。
その日、朝と夕方、ピアノを長時間弾くことが出来た私は、何故か、その日に限って、本当に、その『革命』ばかり練習したのである。そして、夜、家に帰って驚いた。ポーランドの映画監督アンジェイ・
ワイダ(1926−2016)が死去した事をインターネットで知ったからである。
私は、もちろん、ワイダ監督と面識は無い。だが、若い頃から、ワイダ監督の作品に深い影響を受けて来た人間である。これは「虫の知らせ」だったのだろうか?と、私は思った。
2.ワイダとポーランド
10月9日、『灰とダイヤモンド』、『地下水道』、『大理石の男』、そして、『カティンの森』などの作品で知られるポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダ(1926−2016)が死去した。90歳だった。
若い頃、ワイダ監督の作品に深い影響を受けた一人として、同監督の死去には感慨を抱いた。彼の映画から受けた影響と感化は、私にとって非常に貴重な物であった。又、思いだしたのは、ポーランドで民主化運動が高まっていた1981年の夏、たまたま、日本で複数のポーランド人と関わりを持った時期に、私が会ったポーランド人たちが、全員、ポーランドの戦後の暗部を取り上げたワイダの『大理石の男』を絶賛していた事を思い出した。その時、一人の映画監督が、ひとつの国民の代弁者になり得る事を痛感した事が忘れられない。
2011年に日本で公開された『カティンの森』は、題名が示す通り、「カティンの森事件」と呼ばれる、ソ連によるポーランド人将校大量殺害を主題にした作品であるが、ワイダ監督の父親も、その犠牲者であった事を知ったのは、ポーランドが民主化された後の事であった。「愛国者」とは、ワイダ監督の為にある言葉ではないか、と私は思う。ただし、ワイダ監督は、決して、盲目的な「愛国者」ではなかったと、私は思う。それは、例えば、ワイダ監督の次の言葉などに現れている。
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ワイダ ヒロイズムはポーランド人にとっては欠かせない要素である。しかし、私の描くヒロイズムにはあるアイロニーがある。ヒロイズムはしばしば別の目的に利用される。ナポレオン時代に、ポーランド人はナポレオンを革命的な皇帝だと思った。そこでナポレオンに従ったポーランド軍は、サント・ドミンゴという島に派遣された。ところがそこでは黒人が自由をめざしてフランスに反抗しているのを弾圧する側にまわされた。自由を望むポーランド人が、自由を望む人びとを弾圧することになったのだ。
(佐藤忠男『現代世界映画』(評論社・1970年)382ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%98%A0%E7%94%BB-1970%E5%B9%B4-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BF%A0%E7%94%B7/dp/B000J92LXQ/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1363910933&sr=8-1
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こうした自国民への醒めた目を持っていたことも、ワイダ監督の優れた資質であったと思う。個人的な事を言うが、私は、イラク戦争の後、ポーランド軍がイラクに派遣されたのを見た時、ワイダ監督のこの言葉を思い出した事を述べておく。
3.日本美術との出会い
そのワイダ監督について、日本人が記憶すべきことは、ワイダ監督が、深く、日本と日本文化を愛した事である。その日本と日本への愛情の深さは、「親日的」などと言う言葉で言い現されるようなものではない。特に、美術や映画をはじめとする日本文化に対するワイダ監督の見識の深さは、単なる「親日家」などと言う人物のそれではなく、優れた芸術家でなければ持ちえない深いものであった。その一例を示そう。
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−−黒沢の名が出たのでお聞きしたいが、日本映画には関心をお持ちですか?
ワイダ もちろん、ほんとに大きな関心をもっています。世界に、真に民族的な映画がふたつある。・・・・・いや、みっつと言いたいところだが・・・。ひとつはアメリカ映画で、もうひとつは日本映画です。ふたつの国は、自国内の観客の数が多いので、外国で受けることを気にしないでつくっている。つまり媚態がない。まあロシヤ映画にもそういうことがいえますね。ヨーロッパの映画は、外国に対する媚態がある。日本映画の構図の美しさはまったく独特で、一眼見ただけでこれは日本映画だと分ります。広い空間に人間がひとりだけいるというような構図ですね。調和があり、ハーモニーがある。歴史ものだけではない。『野火』のような作品でも、ひじょうに大きな風景の中に人間がひとりだけ立っていて、形而上的なものを感じる。風景と人間の間に、一種のヒエラルキーがある。ちょっとなんとも比較できない非常に美しいものだ。北斎という画家は富士山を百とおり描いたそうですね。日本の残酷ものについていえば、ひじょうに私に近いものを感じるのだが、それが理想的な完璧なものになっている。神さまの眼でみているような秩序を感じるのだ。人間は問題をもっているけれど、そのバックには偉大な秩序がある。
(佐藤忠男『現代世界映画』(評論社・1970年)383〜384ページ)
http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%98%A0%E7%94%BB-1970%E5%B9%B4-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BF%A0%E7%94%B7/dp/B000J92LXQ/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1363910933&sr=8-1
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初めてこのインタビューを読んだ時、ワイダ監督が、「日本映画の構図」について、これだけ深い分析と感情を持っている事を知って驚かされた事が忘れられない。私達日本人は、それ(日本映画の構図)に余りにも慣れ過ぎていて、こうした事に気が付かないが、ポーランド人であり、そして、元々画家を志した映画人であったワイダ監督は、こうした視点から日本映画を見、そして、北斎にまで言及して、その「日本映画の構図」の背景に在る日本の文化について、考察を行なっていたのである。
ワイダ監督が日本文化と出会ったのは、第二次世界大戦中の事であった。ポーランドがドイツの占領下に在った1944年、当時18歳だったワイダ監督は、ポーランドの古都クラクフで、ドイツが開いた浮世絵展で、日本の浮世絵を見た。それが、ワイダ監督と日本美術の出会いであったと言う。この時の浮世絵との出会いは、若き日のワイダ監督にとって、強烈な体験だったようで、その時の浮世絵との出会いが、戦後、美術学校に入学する切っ掛けのひとつに成ったようである。
ワイダ監督の日本美術、特に浮世絵への愛情はその後も失なわれる事無く、1987年(昭和62年)に、京都賞を受賞した際には、何と、受賞した4500万円の賞金を全額寄付し、自身が浮世絵と出会った場所であるクラクフに、日本美術の美術館を建てたほどである。そして、上のインタビューでも語られている通り、黒澤明や市川崑の作品をはじめとする日本映画への愛情、情熱も、非常に深い物であった。
ワイダ監督は、それほど、日本と日本文化を愛したのである。
4.ワイダの遺言
そのワイダ監督が、生前、残した言葉の中で、私が、日本人が、いや、全世界の人々が記憶し続けるべきであると思う言葉がある。それは、1980年代の始め、ポーランドで民主化運動が起こり、ソ連の介入が懸念され始めた頃、日本を訪れたワイダ監督が、NHKのインタビューに答えて語った言葉である。「(社会主義国ポーランドで)映画を作る際、検閲が、障害になりませんでしたか?」と言う意味の質問に対して、ワイダ監督が口にした「答え」がそれである。検閲が、映画作りの障害ではないか?と言うNHKの質問に対して、ワイダ監督は、こう答えたのである。
「検閲は怖くない。怖いのは、映画を作る側の自主規制だ。」
この言葉を聞いた時の感動は忘れる事が出来無い。処女作『世代』から、『灰とダイヤモンド』、『地下水道』、『大理石の男』などで、「社会主義ポーランド」の検閲に対峙し続けて来たワイダ監督が、「検閲は怖くない」と言ったのである。そして、「怖いのは、映画を作る側の自主規制だ。」と言ったのである。
私は、この言葉は、当時の「社会主義」ポーランドだけの問題ではなく、「民主主義社会」とされる日本や欧米でも意味を持つ言葉だと思っている。そして、この言葉は、映画のみならず、小説をはじめとする文学でも、そして、言論、報道、の世界でも全く同じ意味を持った警告であると強く確信するものである。怖いのは、検閲ではないのである。怖いのは、作品を作る側、言論、報道を行なう側の自主規制なのである。「検閲」と闘い続けたワイダ監督の言葉であるからこそ、この言葉は、金言だと、私は思うのである。実際、私は、何事についてであれ、自分が「言論」を行なう時、いつも、ワイダ監督のこの言葉を思いだしている。
ワイダ監督のこの言葉は、私達日本人のみならず、全世界の芸術家、言論人、に対する遺言である。
ワイダ監督の御冥福をお祈りする。
(終はり)
西岡昌紀(にしおかまさのり)1956年東京生まれ。北里大学医学部卒。内科医(神経内科)。主な著書に「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)、「ムラヴィンスキー/楽屋の素顔」(リベルタ出版・2003年)、「放射線を医学する/ここがヘンだよ『ホルミシス理論』」(リベルタ出版・2014年)が有る。趣味は、ピアノ、クラリネット。
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http://www.nikkei.com/article/DGXLASGU06004_Q6A011C1000000/
アンジェイ・ワイダ氏が死去 映画監督
2016/10/10 10:11
ロイター
【欧州総局】ポーランドの映画監督、アンジェイ・ワイダ氏が9日、死去した。90歳。入院中だった。ワルシャワ蜂起など史実に材を取った作品を撮り続けた。第2次大戦前後のポーランド社会の流転を描いた「灰とダイヤモンド」(1958年)など「抵抗三部作」が著名。2000年には米アカデミー賞名誉賞を受賞した。親日家としても知られた。
26年ポーランド北東部のスバウキ生まれ。第2次大戦中は侵攻したナチス・ドイツに対する抵抗運動に参加。戦後、クラクフ芸術大を経てウッジ映画大に進んだ。
デビュー作の「世代」に続く「地下水道」(56年)がカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。ポーランドの対ソ連地下抵抗運動を描いた代表作「灰とダイヤモンド」と共に、抵抗三部作と呼ばれる一連の作品で不動の地位を確立した。
81年には民主化を率いた自主管理労組「連帯」を取り上げた「鉄の男」でカンヌ映画祭の最高賞、パルムドールを獲得。民主化前後の89―91年には上院議員を務め、連帯議長から大統領に就任したワレサ氏の諮問機関「文化評議会」の議長に就いた。
晩年まで創作意欲は衰えず、07年にはソ連によるポーランド軍人らの大量虐殺事件が題材の「カティンの森」を発表。13年には「ワレサ 連帯の男」で再びポーランドの民主化への歩みを取り上げた。
若き日に浮世絵などの日本美術に感銘を受けたのが芸術を志すきっかけだったこともあり、親日家だった。87年に受賞した京都賞の賞金を基金に母国の古都クラクフに日本美術技術センター「マンガ」を設立した。同センターは日本の伝統工芸品や美術作品で中・東欧随一のコレクションを誇る。
(日本経済新聞)
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