http://www.asyura2.com/16/kokusai14/msg/800.html
Tweet |
キューバ北部・バラデロの海岸(筆者撮影、以下同)
誰にも止められないキューバの変化 旅の形、国の形(キューバ)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47540
2016.8.6 原口 侑子 JBpress
ブエナビスタ・ソシアルクラブに登場する老演奏家の多くはもう、死んでしまった。アメリカとキューバが国交を断絶したのは1961年。オバマ大統領が生まれた年でもある。それから今年で55年が経つ。
私が最初にキューバを旅行したとき、中部の町トリニダーから首都ハバナへ戻る乗り合いタクシーの中で、アメリカ人の旅行者と出会った。2013年のことだ。
「アメリカ人ってキューバに来れるの?」と、おそらく少しぶしつけな質問をした私に、アメリカ人の彼は笑いながら答えた。
「大変だけど、来れるんだよ。ほら、現に僕、来てるじゃん」
「大変なの? ビザ取るのが?」
「そう。キューバに家族がいる人、キューバで研究をすることを認められた人、それからその他に芸能人とか要人の特例パス。その3タイプくらいかな、ビザが発給されるのは。たしか、Jay Zとビヨンセも有名人パスみたいなもので来ていたはずだよ」
「あなたはどれなの、有名人なの」
「わはは。そう言いたいけれど、僕は、前二者だね。僕はフロリダ出身なんだけど、両親は亡命キューバ人なんだ。祖父母は今でもキューバに住んでる。さらに僕は、大学院の研究テーマでキューバを選んでる」
「なるほど」
「ビザ取るのは大変だけど、来てみれば家族もいるし、田舎に帰る感じ。アメリカ人だからって敬遠されたりもないよ」
「そういうものなのか」
「そういうものだよ。とはいえ、アメリカドルを替えるのは大変だった。コミッションが付く上に、レートも良くない」
■外貨獲得のための二重通貨制度
それなのに、アメリカドルと、キューバの外国人向け通貨は連動していた。キューバは二重通貨制を取っていて、外国人向けの通貨(CUC、互換ペソ)と、現地人向けの通貨(MN、人民ペソ)が分かれている。1CUCは1アメリカドルと等価で、1CUC=24MN。1CUCが100円ならば、1MNは約4円という計算である。
こんなめんどくさいシステムのあらましは1990年代にさかのぼる。そのころ、アメリカによる経済封鎖の続く中で、最大の支援国だった旧ソ連が崩壊したため、キューバは経済危機に陥っていた(1993年〜94年のGDPはその前までの6割に落ち込んだとされる)。
経済危機を受けて94年、キューバ政府は、国策として観光産業を押し出すとともに二重通貨制度を導入することにした。国内で社会主義経済を維持しながら外貨を獲得するためだった。
2つの通貨の差は大きかった。たとえば道端の商店でキューバ人向けのサンドイッチが5MN(20円)で売っている隣で、外人向けカフェではランチのサンドイッチが5CUC(500円)だったりする。クオリティーは違うのだが、単純化すると、外国人向けの物価がキューバ人向けの物価の24倍ともいえる。
私は宿やカフェでCUCを支払いながら、ときおり地元の食堂や売店に入ってMNを使い、通りを走る50年代のクラシックカーを眺めては、ライブハウスにキューバ音楽を聴きに行った。ヘミングウェイゆかりのバーでダイキリを飲んだり、チェ・ゲバラの葉書を買って友人に手紙をしたためたりした。ラムは強く、カリブ海は青く、道端では男女が音楽に合わせて踊っている。まだ中南米の旅を始めて間もない時期で、「古き良きキューバ」は実際にどこまで特殊なのか、よく分からなかった。
ハバナの通りを走る1950年代のクラシックカー
ヘミングウェイが通ったハバナのバー。お気に入りだったという席に銅像が設置されている
キューバを後にするとき、空港の土産物屋に新聞が積み上げられており、一面には5人の顔が載っていた。新聞を手に取った私は、その5人の視線の真摯さに少しドキッとした。その5人は、キューバがアメリカに引き渡しを要求している亡命キューバ人たちだったらしい。 緊張関係は、当時まだ紙面にもあらわれていた。
キューバを去ってからニュースを見ると、「キューバの二重通貨制は近く解消される」とあった。次に来る頃にはもうCUCやらMNやらを使うことはないのかと、まだ見ぬ変化に私は思いを馳せた。
■「やっと来られるようになった」
二度目にキューバを旅行したとき、バスの待合室でアメリカ人旅行者と出会った。2015年のことだ。隣のベンチに座った彼は大きなサーフボードを持っていた。
「サーフィンするの?」と私は話しかけた。が、返事はない。「このバスで次の町に行くの?」と、目の前に停まったバスを指さしてもう一度話しかけてみる。彼はハッと私の視線に気づいて両耳を指さし、首を振った。続けて懐からペンを取り出し、メモの紙に「locals only」と書いた。そこで私は、彼の耳が聞こえないことに気づいた。
彼は私がバスを指さすのを見て、どのバスに乗るか聞かれたと思ったらしい。私たちの待つ外国人向けバスはまだ来ないと教えてくれたのだった。キューバの長距離バスには外国人向けとローカル向けがあるのだ。
「ありがとう」と身振りで伝える私に、「僕はアメリカ人」と彼は紙に書き、私たちの筆談が始まった。
「私は日本人」
「日本か、いいな、僕も行きたい」
「ぜひ、来て」
「北海道にスノボしに行きたい」
「北海道! よく知ってるね。サーファーでスノーボーダーなのね」
「そう、僕はソルトレークシティー出身なんだ」
「へえ、私は東京。アメリカからキューバに来るのは大変だった?」
「いや、もうそんなことはない。 やっと来られるようになった」
「楽しんでる?」
「もちろん。サーファーの海がここにはたくさんあるからね」
私たちが乗ったバスは、アメリカ軍基地のあるグアンタナモを越えて島の東部を走るバスだった。
■「キューバの良さ」が失われる?
2年が経って、二重通貨制は解消されていなかった。私は変わらず、CUCをMNに替え、ときおり地元の食堂や商店でMNを使った。
クラシックカーはまだ走っていたし、道端では賑やかに音楽が流れ、男女はサルサを踊っていた。ラムは強く、カリブ海は青く、町を行き交う人々は陽気に話しかけてくる。土産物屋にはゲバラ帽が売られ、ゲバラを描いた壁の前で観光客が写真を撮る。私の目に変化は映らない。
「でも変化はひたひたと近づいてきている」と、東部で会ったロシア人の観光客は言う。「北部のビーチも、アメリカの資本家が開発しようとしているらしい」
その言葉の裏には、「ここは僕たちが開発してきたリゾートだったのに」という憤りが見られた。ロシア人にとっては長年の間、キューバは親露的で物価の安い、「訪れやすいカリブの島国」だったのだ。たしかに北部のビーチでは、グアムへ卒業旅行する日本の学生と同じノリで、羽目を外しに来るたくさんのロシア人学生を見かけた。
アメリカと国交回復したら、国際化してしまってキューバの良さがなくなってしまう、というような危惧はよく聞く。でも、キューバの良さとは何だろうか。長いこと経済封鎖の下にあったせいで、時間の進み方が異なっていて、50年代の「昔ながらの」クラシックカーが今も走っているということだろうか。
帯刀した侍たちが残っていた明治維新の日本もそんな風に思われていたのかもしれないと思う。明治維新に奥州へ旅したイギリス人イザベラ・バードの旅行記にはたしかに、そういう「間に合った」感がある。
変化を望むのも、望まないのも、その主体は地元の人だ。秘境であるうちに訪れよ、というのが旅のルールなのだとしたら、旅人というものはなんとも荒っぽい稼業だ。
ヘミングウェイは、まだ国交のある20世紀前半のキューバに暮らしたアメリカ人の文豪だ。彼が好んでフローズン・ダイキリを飲んだハバナのバーに、2度目の訪問では行かなかった。同行の友人がいたので、故人の銅像に出会わなくても楽しく酒を飲めたのだ。2年の歳月は町の上にも、私の上にも降り積もり、2016年に入ってついにキューバはオバマ大統領の訪問を受けた。
今は亡きブエナビスタ・ソシアルクラブの老演奏家たちは、晩年、ニューヨークのカーネギーホールで演奏するために渡米した。まだ国交がない時代だから、有名人パスだ。そのとき彼らが初めて訪れるニューヨークを「いい町だ」と言う映画のシーンを、私は今でも憶えている。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。