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宣伝機関にすぎない欧米の有力メディアに対する信仰を捨てない限り言論の自由を手にできない
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201607200000/
2016.07.20 21:30:03 櫻井ジャーナル
日本のマスコミを批判する際、「中国や北朝鮮と同じ」だと表現する人がいる。それに対し、「アメリカ、イギリス、ドイツと同じ」と書いたり言ったりする人は見かけない。こうした欧米の国々では何も心配せず、支配層に都合の悪い情報を発信し、自由に発言できるとでも思っているのだろうか?
勿論、こうした国々に限らないが、有力メディアは急成長した新興宗教と同じように、情報機関などが関与していることが少なくない。情報を操作し、庶民をコントロールすることが目的だ。「社会の木鐸」でも権力を監視する「番犬」でもない。
モッキンバード
第2次世界大戦後、アメリカの支配層は情報を操作するためのプロジェクトをスタートさせたと言われている。そのプロジェクトの名前は、ジャーナリストのデボラ・デイビスによると、モッキンバード。そのプロジェクトを指揮していたのは4人で、大戦中からアメリカの破壊活動を指揮していたアレン・ダレス、ダレスの側近でOPCの局長だったフランク・ウィズナー、やはりダレスの側近で後にCIA長官に就任するリチャード・ヘルムズ、そしてワシントン・ポスト紙の社主だったフィリップ・グラハムだ。(Deborah Davis, “Katharine The Great”, Sheridan Square Press, 1979)
グラハムは大戦中、陸軍の情報部に所属し、東南アジアで活動していた。そこでCIAの前身であるOSS(戦略事務局)の幹部だったダレス、ウィズナー、ヘルムズと親しくなったと言われている。この関係のおかげでワシントン・ポスト紙は戦後になって急成長し、「有力紙」と呼ばれるようになった。このフィリップ・グラハムはジョン・F・ケネディ大統領が暗殺される3カ月前に自殺、後を引き継いだのが妻のキャサリン・グラハム。
モッキンバードを率いていた4名は巨大金融資本と深いつながりがある。まずダレスとウィズナーはウォール街の弁護士であり、ヘルムズの祖父にあたるゲイツ・ホワイト・マクガラーは国際的な投資家。フィリップの場合、妻のキャサリンの父親が世界銀行の初代総裁になったユージン・メイヤーだ。
クーデター計画
アメリカの情報機関は金融資本と深く結びついている。ドイツ軍がソ連に向かって進撃を開始(バルバロッサ作戦)した1941年6月、フランクリン・ルーズベルト(FDR)米大統領はさまざまな機関の情報を統合する目的で旧友のウィリアム・ドノバンをCOI(情報調整官)に任命する。ドノバンはウォール街の弁護士だった。
1942年6月にドノバンを長官とする戦時情報機関、OSSが創設され、特殊工作を担当させるためにSO(秘密工作部)を設置した。このSOを指揮することになるアレン・ダレスはドノバンの弁護士仲間だった。このSOがイギリスのSOE(特殊作戦執行部)と共同で創設したゲリラ戦部隊がジェドバラで、その人脈がOPCやアメリカ軍の特殊部隊を作り上げている。(こうした経緯があるため、特殊部隊は正規軍よりCIAに近い。)1950年10月にOPCはCIAの内部に入り込み、翌年1月になるとアレン・ダレスがCIA副長官に就任、OPCが中心になって計画局が誕生した。その後、1973年3月に名称は作戦局に変更され、2005年10月にはNCS(国家秘密局)になった。
情報機関の背後に存在している金融資本はFDRが率いていたニューディール派と対立関係にあり、1933年から34年にかけてニューディール派を排除するためのクーデターを計画したとする議会証言が残っている。FDRは退任すべきだという雰囲気を国民の間に広めるため、クーデター派は大統領の健康状態が悪化しているというキャンペーンを新聞にやらせるプランを持っていたともいう。
議会で証言したスメドリー・バトラー少将は名誉勲章を2度授与されたアメリカの伝説的な軍人。軍隊内で人望を集めていたことからクーデター派は彼を抱き込もうとしたのだが、失敗して計画が露見することになった。同じ頃、民主党の内部でニューディール政策に反対する議員がアメリカ自由連盟を設立している。
バトラー少将の知り合いでジャーナリストのポール・フレンチも議会で証言している。彼によると、クーデター派は「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたという。クーデター派はドイツのナチス、イタリアのファシスト党、フランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を学んでいたようだ。
クーデターの誘いを断ったバトラー少将はウォール街のメンバーに対し、ファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分はそれ以上を動員して対抗すると告げたという。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろというわけである。こうした展開になったこともあってクーデターは中止になったものの、クーデター派が摘発されることもなかった。FDR側も内戦を恐れた可能性が高い。
第2次世界大戦で連合国の勝利が明確になると親ファシストのクーデター派を追及する動きが出てくるのだが、これは1945年4月12日に執務室で急死したことで止まり、ホワイトハウスにおけるウォール街の影響力は強まっていった。この頃、すでにアレン・ダレスたちはナチスの高官と接触、ソ連側から抗議されている。
JFK暗殺
メディアと情報機関との関係を示す出来事がジョン・F・ケネディ大統領暗殺の際に見られた。現場を撮影した写真やフィルムが行方不明になる中、エイブラハム・ザプルーダーが撮影した8ミリ・フィルムは残された。
いわゆるザプルーダー・フィルムだが、暗殺事件の翌日、そのフィルムに関する権利をLIFE誌が買い取ってシカゴの現像所へ運び、オリジナルはシカゴに保管、コピーをニューヨークへ送ったが、同誌の発行人だったC・D・ジャクソンの命令で一般に公表されることはなかった。それが表に出てきたのは1969年2月。ルイジアナ州ニュー・オーリンズの地方検事だったジム・ギャリソンの求めで法廷に提出され、映写されたのだ。
このC・D・ジャクソンはドワイト・アイゼンハワー大統領のスピーチライターを務めた人物で、モッキンバードの協力者でもあったが、その裏ではCIA計画局の秘密工作を監督していた工作調整会議の議長を務めていた。ジャクソンの後任はネルソン・ロックフェラーだ。ジャクソン自身、ケネディ暗殺に関与していた可能性があるのだが、1964年9月に62歳で死亡しているので確認はできなかった。
ウォーターゲート事件
ウォーターゲート事件でリチャード・ニクソン大統領を辞任に追い込んだことでワシントン・ポスト紙の評価は一気に高まった。言論の自由を象徴する存在になったのだが、その事件の取材はふたりの若手記者、ボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが行った。
この事件のニュースソースだった「ディープ・スロート」を連れてきたウッドワードはエール大学の出身で、1965年に大学を出てから海軍に入り、69年から70年にかけてトーマス・モーラー海軍作戦部長(後に統合参謀本部議長)とアレキサンダー・ヘイグとの連絡係を務めていた。ヘイグはヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の軍事顧問だった。
ウッドワードをコネでワシントン・ポスト紙へ入れたの同紙のポール・イグナチウス社長は1969年まで海軍長官を務めていた人物。1年間の研修を経てウッドワードはワシントン・ポスト紙の記者になる。その直後のウォーターゲート事件だ。(Russ Baker, “Family of Secrets”, Bloomsbury, 2009)
当時、ウッドワードは記者として素人で、実際の取材と執筆はカール・バーンスタインが行っていたという。そのバーンスタインは1977年にワシントン・ポスト紙を辞め、その直後に「CIAとメディア」という記事をローリング・ストーン誌に書いている。
それによると、まだメディアの統制が緩かった当時でも400名以上のジャーナリストがCIAのために働き、1950年から66年にかけて、ニューヨーク・タイムズ紙は少なくとも10名の工作員に架空の肩書きを提供しているとCIAの高官は語ったという。(Carl Bernstein, “CIA and the Media”, Rolling Stone, October 20, 1977)
反コミュニストで売り出したニクソンだが、大統領になるとデタント(緊張緩和)へ舵を切っていた。そのニクソンが排除され、デタント派は粛清されたことは本ブログで何度か指摘した。ネオコン/シオニストが台頭したのはそのときだ。
好戦派はベトナム戦争で負けた理由をメディアに求めた。一部の記者が戦争の実態を伝え、反戦運動が広がったせいだと考えたわけだ。そこで1970年代の後半から報道統制が強化される。規制緩和で巨大資本がメディアを支配しやすい体制を作り上げ、気骨ある記者や編集者を排除し始めたのだが、そうした流れを日本も追いかけている。
国際テロリズム
ズビグネフ・ブレジンスキーのプランに従い、CIAは1979年4月にイスラム武装勢力を編成、戦闘員を軍事訓練し、武器や兵器を供給し始めている。これは本ブログで何度も書いてきたが、その年の7月上旬にエルサレムでアメリカとイスラエルの情報機関関係者が「国際テロリズム」に関する会議を開催している。
1960年代までアメリカは「アカの脅威」を宣伝、その一方でイタリアのグラディオのようなNATOの秘密部隊を使い、「極左」を装って爆弾攻撃を繰り返したりしていた。人びとを恐怖させるタグを「アカ」から「テロ」へ切り替えたのである。
アメリカから会議に出席したメンバーの中にはジョージ・H・W・ブッシュ元CIA長官(後の大統領)、CIA台湾支局長を経て副長官を務めたレイ・クライン、ブッシュ長官の時代にCIA内でソ連の脅威を宣伝する目的で偽情報を流していたチームBのリーダーだったリチャード・パイプス、「ジャーナリスト」のアーノウド・ド・ボルクグラーブとクレア・スターリングらが含まれていた。
その後、スターリングたちは「テロの黒幕はソ連」という話を流しはじめるが、その宣伝にはポール・ヘンツェとマイケル・リディーンが協力している。ヘンツェはフリーランスのジャーナリストと名乗っていたが、その実態はCIAのプロパガンダ専門家で、ブレジンスキーの人脈に属していた。リディーンはネオコンで、アメリカやイスラエルの情報機関に近く(A. O. Sulzberger, Jr., “U.S. Overseas Radio Stirs Dispute Again," New York Times, May 15 1980)、1980年頃にはイタリアの対外情報機関SISMIで働いていた。グラディオを動かしていた機関だ。その当時、アメリカの国務長官はヘイグ、政策企画本部長はポール・ウォルフォウィッツ、顧問としてリディーンも入り込んでいた。
CIAでソ連関連の情報を分析する部門を統括していたメルビン・グッドマンによると、スターリングの示す「証拠」はCIAがヨーロッパのメディアに植え付けた「ブラック・プロパガンダ」、つまり偽情報だったが、ウィリアム・ケーシーCIA長官はスターリングの話を信じ切っていたという。ケーシーと同じように、日本にもスターリングを「テロの専門家」として崇めていた人がいた。
プロジェクト・デモクラシー
1981年にロナルド・レーガンが大統領になると、メディア操作が本格化する。その中心にいた人物はCIAのオフィサーでNSC(国家安全保障会議)のスタッフだったウォルター・レイモンド。(Robert Parry, “Secrecy & Privilege”, The Media Consortium, 2004)
レーガン大統領は1983年1月にNSDD(国家安全保障決定指示)77に署名、プロジェクト・デモクラシーをスタートさせた。名称に「デモクラシー」が入っているが、勿論、本来の民主主義とは全く関係がない。その目的は、アメリカの巨大資本にとって都合の悪い国家、体制を崩壊させることにある。つまり、デモクラシーを掲げて行うデモクラシーの破壊だ。
その後、1990年代には人道もタグに加えられ、2001年9月11日にニューヨークの世界貿易センターとワシントンDCの国防総省本部庁舎(ペンタゴン)が攻撃されて以降、アメリカをはじめとする西側ではメディアの中から事実を探し出すことが困難になる。例えば、イラクを先制攻撃する際の口実に使われた大量破壊兵器は真っ赤の嘘だった。情報が間違ったのではない。嘘だということを承知で侵略したのだ。
情報機関と報道機関が癒着しているのはアメリカだけでない。2014年9月にはフランクフルター・アルゲマイネ紙(FAZ)の元編集者、ウド・ウルフコテが本を出版、内部告発している。それによると、ドイツを含む多くの国でジャーナリストがCIAに買収され、例えば、人びとがロシアに敵意を持つように誘導するプロパガンダを展開しているという。
同年8月、ドイツの経済紙ハンデスブラットを発行しているガボール・シュタイガートは「西側の間違った道」と題する評論を発表、「西側」は戦争熱に浮かされ、政府を率いる人びとは思考を停止して間違った道を歩み始めたと批判している
日本でもマスコミの劣化は1980年代から急速に進んでいる。1991年に開かれた「新聞・放送・出版・写真・広告の分野で働く800人の団体」が主催する講演会の冒頭、「ジャーナリズムはとうにくたばった」と、むのたけじは発言したという(むのたけじ著『希望は絶望のど真ん中に』岩波新書、2011年)が、その通りだ。
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