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2015年9月24日、ニューヨーク・聖パトリック大聖堂での教皇フランシスコ聖下の説教(バチカン出版局)
http://w2.vatican.va/content/francesco/en/homilies/2015/documents/papa-francesco_20150924_usa-omelia-vespri-nyc.html
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私は今日、イスラム教徒の兄弟姉妹に2つの思いを抱いています。先ず、本日の犠牲祭に当たってお祝いを申し上げます。もっと温かなご挨拶をお送り出来なかったのが残念です。次に、皆さんのご信徒の方々が本日メッカで悲劇に見舞われましたが、私は皆さんの近くに居ります。この祈りの時に、私ならびに私たち全員が神に、私たちの全能で慈悲深い神に共に祈らせて頂きます。
私たちは使徒ペテロがこう言うのを聞いています。「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる」(Tペテロ 1:6)と。この言葉は、私たちに本質的な何かを思い出させてくれます。私たちの使命とは喜びの中で生かされることです。
この美しい聖パトリック大聖堂は、多くの年月を掛けて多くの方々の犠牲を通して建設され、米国における教団の設立に貢献してきた幾世代もの米国の聖職者・修道者・一般信者の働きの象徴となっています。どれだけ多くの聖職者・修道者が、教育の分野だけでもこの国で中心的な役割を果たし、親が子供に命の糧となる食料を与える支援してきたでしょうか!多くの人々が、勇気ある慈しみの心で並外れた犠牲を払いそのようにしてきました。私は例えば、彼女は米国の少女たちのために初めて無料のカトリック学校を設立した聖エリザベス・アン・シートンや、米国で初めてカトリックの教育システムを作った聖ヨハネ・ノイマンのことを考えます。
兄弟姉妹たち、私は今夜、皆さん
最初は感謝の精神についてのことです。神を愛する人々の喜びは他の人々を神へと惹き付けます。聖職者や修道者は自らの使命に持続的な満足を見出し、それを周囲に示すことが求められています。喜びは感謝の心から湧き上がるものです。私たちがとてもたくさんの神の愛や神の恵みを受けてきたのは本当のことです。そして、私たちはこのことに喜んでいます。これまでの人生での神の愛についての記憶を振り返ると良いでしょう。私たちが初めて神に呼ばれた時の記憶、旅をした道の記憶、受けた神の愛の記憶…、そして何よりも、その道中で度々イエス・キリストと出会った記憶。イエス・キリストと出会った記憶は私たちの心に驚きを呼び起こします。兄弟姉妹たち、人生を神に捧げた皆さん、そして、聖職者の皆さん!感謝の精神の中で大きく出来るような神の愛についての記憶を探そうではありませんか。自分自身に問いかけてみましょう。私たちは受けた神の恵みを数えることが得意でしょうか、それとも、それらを忘れてしまったでしょうか?
2つ目は勤勉の精神についてです。感謝の心を持つと主に仕えたい、そして、自分の仕事に専念する生活に表現を見出したいとの衝動が自ずから生まれます。神が私たちにどれだけ与えた下さったかを一度理解するようになれば、神や他者のために働くという自己犠牲の生活が神の偉大な愛に応える名誉ある道になります。
それでも私たちは、たとえ誠実であってもこの寛容な自己犠牲の精神がどれだけ簡単に挫け得るものかを知っています。これが起こり得る形が2つ存在します。そのいずれも、神に仕えるために人生を捧げた者たちとしての私たちの決心を弱め、キリストに初めて出会った時の不思議な気持ちや驚きを薄れさせる「俗な精神」の例です。
私たちは使徒としての私たちの労働の価値を、効率・良い管理・表面上の成功という、ビジネス界で支配的な基準で測りたいという思いに捕らわれることがあります。こうしたことが重要でないのではありません!私たちは非常に大きな責任を委ねられており、神の民たちが私たちに説明責任を果たすよう期待するのは正しいことです。しかし、使徒としての私たちの真の値打ちは神の目に映った価値で測られます。神の視点から物事を見て評価することは、私たちが使命を受けた最初の日々や最初の年月に常に立ち返ることを求め、そして敢えて言うならば、非常に大きな謙遜を求めます。成功を測る別の形を十字架が私たちに示しています。私たちの成功とは種を蒔くことです。神は私たちの苦労の成果を見ています。そして、時に私たちの努力や労働が失敗し成果を生まないように思えることがありますが、その時は私たちがイエスに従う者であることを思い出す必要があります…そして、彼の生涯を思い出す必要があります。俗な言い方をすれば、失敗に終わった彼の生涯をです。彼は十字架という失敗をなさったのでした。
もう1つの危険は、私たちが自由な時間を妬ましく思うようになる時に、私たちの周囲にいる世俗的な満足を得た人々が私たちの奉仕をもっと手助けしてくれるだろうと考える時に訪れます。このような思考の問題は、それが私に立ち返りなさい私に出会なさいという、神からの日々の呼びかけの力を鈍らせる可能性があることです。それはゆっくりと、しかし確実に、私たちの犠牲の精神を、私たちの禁欲と勤勉の精神を弱らせます。また、それは物質的な貧しさに苦しみ、人生を神に捧げたわけでもないのに私たちよりも大きな犠牲を強いられている人々を疎外します。休息は必要であり休暇や自分を豊かにする時間も必要ですが、寛容を保ちながら神に仕えたいという思いをさらに深めるように休息をとる方法を私たちは学ばなければなりません。貧しい人・難民・移民・病んだ人・搾取されている人・ひとり暮らしの高齢者・刑務所にいる人・他の貧しい神の民の近くにいることは、キリスト者としてより相応しく、また、より寛容な休息の取り方を教えてくれるでしょう。
寛容と勤勉
特に、私は米国の修道女の皆さんを高く評価し感謝したいと思います。皆さんがいなければ教会はどうなっていたでしょう?力強く闘う女性たち。彼女たちは勇気の精神で福音を表明する歌声の最前列にいます。皆さんに、修道女の皆さんやその姉妹・母親の皆さんに「ありがとう」と言います。本当にありがとう…私は皆さんが大好きだと言わせてください。
皆さんの多くが最前線に在って、激しく変わる環境の中で神の民を導くという難題に直面していることを私は知っています。私は皆さんに求めます。聖ペテロを手本に、皆さんはどのような困難や試練に直面しようとも心の平安を保ちつつキリストが行ったように彼らに応じてください。キリストは父なる神に感謝し、自分の十字架を引き受けながら前を見られたのです!
親愛なる兄弟姉妹、しばし数分の間ですが、マニフィカトを共に歌いましょう。私たちに委ねられたこの働きを歌い手の方が行うことを讃えましょう。私たちも彼女に加わり、神が私たちの内に、そして、私たちが仕える栄誉を与えられた人々の内になさった偉大な事々を、そして、これからもなさっていく偉大な事々を神に感謝しましょう。アーメン。
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(投稿者より)
去年9月、ニューヨークにおけるカトリックの本拠地・聖パトリック司教座聖堂でフランシスコ・ローマ教皇が行った説教です。ニューヨークは言わずと知れた世界の金融経済の中心地ですが、一部の人からは『ヨハネの黙示録』に出てくる「大淫婦バビロン」とも揶揄される街です。
"VESPERS WITH PRIESTS AND RELIGIOUS"「聖職者・修道者との礼拝」、カトリックのヒエラルヒーの中身についてはよく存じ上げないのですが、仏教で言う出家者の集会という建前のようです。それでも、コンサート会場と見紛う程の大きな礼拝堂は満員で動画を通しても熱気が伝わってきます。カネが全て結果が全てという価値の総本山の街に乗り込み、パリッとした多数の紳士淑女を前に、教皇はイエスの十字架の意味を問います。
ヒエラルヒーの頂点に立つ方が底辺にも届くよう言葉を投げています。その言葉は聖俗いずれの道を歩む人の心にも響くよう練り上げられています。イエスの十字架はキリスト教の根本です。
"in the failure of the cross" 「彼は十字架という失敗をなさったのでした」、過去・現在・未来に生きる全ての人々の罪を購うためにイエスは十字架に掛かったのでした。それを教皇は "humanly speaking" 「俗な言い方をすれば」失敗だったと言っています。確かに俗な思考では、地元の有力者集団(ユダヤの司祭階級ですが)に填められ皇帝への反逆という濡れ衣を着せられ死刑に終わった人生はどう考えても失敗した人生ですが、教皇はこれをニューヨークで社会経済的に成功している人々の前で説教しているということを頭に入れておく必要があるようです。
"vocation"「使命」としました。"a person's employment or main occupation, especially regarded as worthy and requiring dedication"(OED)「価値ある不可欠な貢献と考えられる、人が従事する業務あるいは主たる職業」と辞書にあります。ただの「職業」ではなく、神がその人に与えたその人の生きる意味の中核にあるもの、ということだと思います。聖俗いずれの世界を生きる人にもそれはあるでしょう。
"We have been entrusted with a great responsibility, and God’s people rightly expect accountability from us."「私たちは非常に大きな責任を委ねられており、神の民たちが私たちに説明責任を果たすよう期待するのは正しいことです。」例えば企業の経営者なら、これを「4半期ごとに利益を上げてきちんと配当とボーナスを出しなさい。粉飾はいけません」と受け取るかも知れません。それぞれの道でそれぞれの生き方があり、その生き方に応じたそれぞれの受け取り方があると思います。
"apostle"「使徒」、神の使いの徒、あるいは、使命を受けて道を走る人、でしょうか?"a vigorous and pioneering advocate or supporter of a particular policy, idea or cause"(OED)「特定の政策・考え・主義を精力的かつ先駆的に提唱する人、または、それを支援する人」と辞書にあります。イエスに直接従った12人に限定しなくてもいいようです。
"conversion"「神に立ち返る」でいいと思います。 "repentence and change to a godly life"(OED)「悔い改め、神に従順に生き方に変えること」と辞書にあります。
日本のことではないので投稿について暫く考えていましたが、時節柄、社会と関わる宗教の在り方について示唆があるように思えましたので、今回訳してみました。フランス語テキストも参考にしていますが、誤訳のご指摘は歓迎いたします。
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