フランスで「極右」政党の候補者が次期大統領有力候補になる理由[橘玲の世界投資見聞録] ダイヤモンド・ザイ 5月2日(月)12時15分配信 歴史を学ぶいちばんの楽しみは、それまでずっと疑問に思っていたことに「ああ、そういうことだったのか」と納得できたときだ。 1999年、経営危機に陥った日産はフランスの大手自動車メーカー、ルノーから出資を仰ぎ、カルロス・ゴーンがCEOとして乗り込んで業績を立て直した。現在、両者は株式を持ち合う関係にあるが、ルノーの日産への出資比率は43.4%、日産のルノーへの出資は15%で、なおかつ日産が持つルノー株には議決権がない。それでも日産が経営の独立を維持できているのは、ゴーンがルノーのCEOを兼務しているからだ。 ところが昨年、ルノー=日産とフランス政府のあいだに深刻な対立が持ち上がった。オランド政権がルノーに対し、日産と合併するよう圧力を加えているというのだ。 ルノーの筆頭株主はフランス政府で、約15%の株式を保有している。さらにオランド政権は、2年以上保有する株主に2倍の議決権を与える「フロランジュ法」を施行しており、これを適用すると政府のルノーに対する議決権は28%まで高まる。 フロランジュ法の目的は長期保有の株主を保護することだとされるが、1株1議決権が株式会社の大原則で、このような奇妙なルールを課している国はフランス以外にはない(株主の3分の2が反対すれば適用を免れる例外規定はある)。これはフランスがきわめて中央集権的な国家で、政府が株式市場を管理しようとする傾向が強いからだと説明される。 しかしそれ以前に、電力、通信、交通、金融などのインフラ産業ならともかく、自動車のような製造業の株式を政府が大量に保有していること自体が不可解だ。トヨタは日本を代表するメーカーだが、だからといって日本政府が株主になって議決権を行使することなど想像できない。これではフランスは、中国のような社会主義国か、マレーシアのような新興国と同じになってしまう。 しかしこの謎は、70年ほど時を遡ることで解くことができる。ルノーという会社は特殊な「歴史問題」を抱えているのだ。 ■対独協力によって自動車王となったルノー ルノーはパリ生まれのエンジニア、ルイ・ルノーが1898年に創業した自動車メーカーで、当初はオーナー経営者の純然たる民間会社だった。ところが1940年、第二次世界大戦でヒトラー率いるドイツ軍がフランス北部を占領すると、ルノーの工場も接収されてしまう。 フランス敗戦時、ルイは商談のためアメリカに滞在していたが、帰国するとただちにドイツ軍と交渉し、軍用の輸送機器類を製造すると申し出て自社工場の経営権を守ろうとした。ルノーはドイツからメルセデス・ベンツの技術者を受け入れ、軍用自動車、バス、トラクター、戦車に至るまでさまざまな兵器を供給することになる。ルイの対独協力は徹底しており、フランス軍の中古戦車を自社工場で修理してドイツ軍に引き渡すことまでした。 その見返りとしてルノーの工場には優先的に資材が割り当てられ、他の企業が操業短縮・停止に追い込まれるなか、フル操業しても人手が足りないほど仕事が殺到し、閉店した百貨店の店員まで臨時工として雇った。ドイツ軍の戦局が悪化する1943年にはさすがに資材が入手困難になり、電力不足で機械を動かすこともできなくなったが、占領からの3年間はドイツ軍との蜜月によって、文字どおり笑いが止まらないほど儲けたのだ。こうしてルイは、“自動車王”の名をほしいままにする。 連合軍によってフランスが解放されるとルイ・ルノーは一転して“国賊”となり、対独協力者として裁かれることになった。かつてユダヤ人専用の収容所だったドランシー収容所に送られたものの、法廷に立つ前にそこで病死している(獄中で虐殺されたとの説もある)。 こうして創業者がいなくなったルノーは、ドゴールの行政命令によって国有化され「ルノー公団」となった。現在のルノーは戦前の民間会社とは別もので、政府が株式を市場に放出したことで民営化が実現したのだ(長谷川公昭『ナチス占領下のパリ』草思社)。 こうした歴史的経緯を知ると、ルノーと日産を合併させようとするフランス政府の奇妙な行動にもそれなりの理屈があることがわかる。ルノーは「負の歴史」のために純然たる民間企業として振る舞えず、国家に奉仕するのが当然とされているのだ。 ■「極右」の国民戦線が大躍進 フランスの政治でさらに不可解なのは、「国民戦線(FN)」という政治団体だ。アルジェリア独立に反対したジャン=マリー・ルペンが1972年に結成した政党で、EUからの脱退や、通貨をユーロからフランに戻すことなどを綱領に掲げているが、その中心的な主張は移民排斥で、ユダヤ人に対する差別的な発言などから、日本のメディアでは長らく「極右」とされていた。この言葉から連想するのは、「朝鮮人を殺せ」と叫びながらデモをする団体だろう。 ところが2002年のフランス大統領選で、ジャン=マリー・ルペンの得票が二大政党の一角である社会党のリオネル・ジョスパンを上回り、ジャック・シラクとの決戦投票になる前代未聞の事態が起きた。このときシラクは得票率82%という地すべり的大勝をするのだが、それにしても“民主主義の母国”において「極右」の候補者が大統領一歩手前になるようなことがあり得るのだろうか。 ジャン=マリー・ルペンは2007年のフランス大統領選で苦戦し、三女のマリーヌを後継者として11年に政界を引退した。その後、フランス国内のイスラーム社会との確執や難民問題、相次ぐテロ事件などを受けて国民戦線の支持率は上昇し、2014年の欧州議会議員選挙では約25%の得票を得て24議席を獲得、15年11月のパリ同時多発テロ事件直後のフランス州議会議員選挙では第1回投票で全13選挙区のうち6つで首位になった(第2回投票では社会党が、サルコジ前大統領率いる共和党への投票を呼びかけたため第一党にはならなかった)。 こうした躍進を受けて、2017年のフランス大統領選挙ではマリーヌ・ルペンが決戦投票に残るばかりか、共和国大統領に当選する可能性まで取り沙汰されるようになった。もしそんなことになれば、フランスは「極右国家」になってしまう。 そこで最近はマスメディアも国民戦線を「右派政党」と表記するようになり、これまで「右派」だったサルコジの共和党は「中道右派」に変わった。こうしてフランス政治は、左派(社会党)、中道右派(共和党)、右派(国民戦線)の三極鼎立になった。 しかしこの分類はいかにもわかりにくい。「中道右派」と「右派」のどこがちがうのかの説明がないからだ。 ■なぜ極右政党がヴィシー政権を持ち上げるのか 国民戦線という政治団体に興味を持ったのは、政治集会で大きく掲げられた、フランス軍の軍服を着た老人の肖像を見たときだ。その老人はヴィシー政権の首領ペタン元帥なのだが、フランス現代史を学校で習ったひとはこれを奇妙だと思うだろう。ヴィシー政権はナチスドイツによってつくられた傀儡政権で、ユダヤ人の弾圧や強制収容所への移送、レジスタンスへの拷問・虐殺などに加担したことから「フランスの歴史から抹殺すべき4年間」といわれている。フランスの国粋主義者が集まる政治集会に、なぜナチスの走狗となった人物の写真が出てくるのだろうか。 この謎を解くには、1789年のフランス革命にまで遡る必要がある。 「自由・平等・友愛」を掲げたフランス革命は「旧体制(アンシャン・レジーム)」を打倒し、近代的な民主政治を実現した。これをフランスでは、共和政時代のローマをよみがえらせたという意味で「共和主義」と呼ぶ。ヨーロッパの歴史は中世から戦国時代がずっとつづいているようなもので、「天下統一」とはローマ帝国を復活させることだ。フランス革命によって生まれた共和国は「共和政ローマの正統な後継者」で、ナポレオンがエジプトに遠征し、ヨーロッパ征服に突き進んだのは、自らをカエサル(シーザー)に見たてたからだ。 しかしこうした共和主義の歴史観は、王党派と呼ばれる旧体制の既得権層と真っ向から衝突した。フランス革命からの100年間は共和政と王政・帝政がめまぐるしく交代し、共和派は「革命の大義を守る」ために、王党派の精神的支柱であるカトリックを政治の世界から徹底的に排除しようとした。これがフランス共和国憲法の根幹にある「非宗教性(ライシテ)」だ。 フランス国王の系譜が途絶えても、王党派はかたちを変えながら20世紀までつづいていく。彼らは共和主義の価値観のすべてを否定した。 非宗教性(ライシテ)を廃止してカトリックの信仰や道徳を復活させる。フランス語への言語の統一を緩和し、ブルターニュ地方のブルトン語や南部のオック語など地域性を尊重する。フランス革命の歴史観を否定し、学校ではローマ時代やフランク王国からの「正しい歴史」を教える――これが反共和主義者の主張だ。 ■ヴィシー政権の”三本の矢” 産業革命で資本家(ブルジョア)と労働者階級が誕生し、社会主義や共産主義の理想社会が唱えられるようになると、フランスの共和主義は2つに分裂する。富裕層(プチブル)を基盤とする「古い共和主義」と、労働者や大衆の利益を代弁する「新しい共和主義」だ。第2次世界大戦までつづいたフランス第三共和政は、利害の対立する2つの共和政の微妙なバランスで成り立っていた。 第一次世界大戦で戦勝国となったフランスだが、ドイツがふたたび国力を増しナチスが台頭すると戦争への不安が高まってくる。このとき政権を担ったのが「新しい共和主義」の人民戦線内閣(共産党が閣外協力)で、首相となったレオン・ブルムは穏健な社会主義者であり、なおかつユダヤ人だった。 このリベラルな人民戦線内閣が内部の権力闘争で崩壊すると、あとを継いだのは元軍人で反共主義者のダラディエで、こちらは「古い共和主義」の政治家だった。1938年、ダラディエはイギリスのチェンバレン首相とともにミュンヘンでヒトラーと会談し、チェコスロバキアのズデーデン地方割譲を認めた。この妥協は当初、「戦争を防いだ英断」として好意的に受け止められたが、英仏に戦意がないことを見抜いたヒトラーがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦の引き金を引くことになる。 ドイツに宣戦布告したものの、フランス軍はドイツとの国境につくった要塞(マジノ線)に立てこもった。それがドイツ軍に東部戦線の兵力を移動する余裕を与え、戦車を中心とする機械化部隊の急襲で「鉄壁」といわれたマジノ線はあえなく崩壊、装備に劣るフランス軍は敗走一方となり、ほとんど戦闘がないままに緒戦で勝敗は決した。 このとき少壮の軍人ドゴールは政府を北アフリカの植民地に移して徹底抗戦を主張したが、第一次世界大戦の英雄でもあるペタン元帥はパリを無血解放し、ドイツ軍が北部(国土の3分の2)を占領することを認めたうえで、南部の非占領地区(自由地区)で政府を存続させる道を選んだ。こうして誕生したのがヴィシー政権だ。 フランスはなぜ、ドイツに祖国を占領される“国辱的事態”を招いたのか。ペタン元帥らヴィシー派にとって、それは議論するまでもないことだった。戦争勃発まで政権を担っていたのは「新しい共和主義(レオン・ブルム)」と「古い共和主義(ダラディエ)」なのだから、敗戦と占領は共和主義の失敗なのだ。 こうしてペタン元帥は、共和政を廃止して新しい政治をつくろうとする。これが「国民革命」だ。 フランス革命の「自由・平等・友愛」に対抗して「労働・家族・祖国」を掲げたペタン元帥の国民革命は、ドイツ軍やナチスの制約を受けながらも、自分たちの政治的理想を実現しようとした。それは端的にいえば、伝統的な「カトリックのフランス」を復活させることだ。 ヴィシー政権は7月14日の革命記念日を「国民服喪の日」にするとともに、国民革命の第一の矢として政教分離を廃止し、学校で祖国への献身と神への義務を教えることを求めた。カトリック教団には教育権が与えられ、私学助成金を受け取った。 第二の矢は「家族」で、共和政下の高い離婚率と低い出生率を道徳的悪として、離婚を禁止し堕胎を死刑にする一方で、養育手当てを支給して出産を奨励した。主婦の役割と母性が強調され、すべての女性は操正しく、すべての娘は処女であり、すべての男性は品行法制で、すべての子どもは無垢でなければならなかった。 国民革命の第三の矢が労使協調的な同業組合(コルポラシオン)で、経済的自由主義を否定し、共同的で有機的な社会秩序を生み出そうとした。ペタン元帥は農家の生まれで、「大地は嘘をつかない」と農村を理想化し、食糧増産の必要もあり農業保護のさまざまな施策がとられた(渡辺和行『ナチ占領下のフランス』講談社選書メチエ)。 こうしてみるとヴィシー政権の性格がわかるだろう。それは特異な経緯で誕生したとはいえ、典型的な保守・伝統主義の政治を行なったのだ。 フランスには、伝統主義、共和主義、リベラルの3つの政治勢力がある ドイツ軍が敗走し、「共和主義の正統」を自称するドゴールが英雄として凱旋すると、こんどはヴィシー政権が全否定されることになる。それは、ドゴールが「レジスタンス神話」を必要としたからでもあった。 政治的天才だったドゴールは、第二次世界大戦においてフランスがたんなる敗戦国でしかないという現実を自覚していた。その敗戦国が「戦勝国」になるには、ドゴール率いる自由フランス軍がパリを解放するだけではじゅうぶんではなく、ドイツ占領下でフランス市民が一丸となってナチスに抵抗(レジスタンス)していなければならなかったのだ。 現実には、占領下のフランス国民は生きるのに精いっぱいで、抵抗運動に参加したのはごく一部にすぎなかった。だが「神話」では、フランス警察や行政機関がユダヤ人弾圧と強制収容所への移送を率先して行なった「負の歴史」は隠蔽され、不都合な悪はすべてナチスとヴィシー政権が負うことになった。この巧みな策略によってドゴールは、敗戦国を見事「戦勝国」に仕立て上げ、国連常任理事国の座を射止めるアクロバットまでやってのけたのだが、“歴史の粉飾”には代償もともなった。ヴィシー政権といっしょに、素朴な保守・伝統主義まで「悪」として葬り去ってしまったのだ。 「祖国」や「家族」の重視、カトリックの「信仰」、「歴史」への愛着などの心情は戦後のフランス国民のあいだにも根づよく残っていたが、それを公に口にすることは「反共和主義」として憚られた。この抑圧されたナショナリズムが1960年代のアルジェリア戦争を機に噴出し、70年代の移民流入にともなう不安も手伝ってルペンの国民戦線結党に至ったのだ。国民戦線の政治集会でペタン元帥の肖像が掲げられるのは、ヴィシー政権が彼らのなかで、フランスの伝統に回帰しようとした時代として理想化されていることを示している。 戦後日本は保守政党である自民党がほぼ政権を握ってきた。自民党右派の政治家の主張は、ヴィシー政権の国民革命と瓜二つだ。そう考えれば、フランスで(ヴィシー政権の保守主義を受け継ぐ)国民戦線が3分の1の支持を集めるのは驚くにあたらない。逆に不思議なのは、保守・伝統主義の政党が「極右」として排斥されてきたフランスの戦後政治の方だろう。 日本もそうだが、現代社会では伝統を守ろうとする保守派と、人権など近代的な価値を重視するリベラルが対立する。ところがフランスには、カトリックとフランス革命という2つの異なる「伝統」がある。その結果、政治勢力が国民戦線(伝統主義)、共和党(共和主義)、社会党(リベラル)に分かれることになった。これが私たちから見て、フランスの政治がわかりにくい理由だろう。 このことは、ドイツの「ネオナチ」など極右団体と比較するとよくわかる。 ドイツにはゲーテ、カント、ベートーヴェンなどに代表される歴史があり、その栄光ある文化・伝統がオーストリア生まれの「外国人」ヒトラーによって破壊された、というのが戦後ドイツの「正史」だ。保守・伝統派はアンゲラ・メルケルのドイツキリスト教民主同盟など保守政党に包含されており、ハーケンクロイツを掲げるネオナチは「正史」の破壊を目指している。このような構図からは、ドイツの「極右」が保守・伝統派の支持を得て有力政党になる事態は考えられない。 ところがフランスでは、フランク王国からの長い伝統を「破壊」したフランス革命に基づく共和主義が戦後の正史をつくってきた。だがこれは、保守派にとっては祖国の伝統や文化・宗教を否定する“偽の歴史”以外のなにものでもない。この政治的空白を国民戦線という「極右」政党が補ったからこそ、彼らは党勢を大きく拡張できたのだ。 これからのフランスはどうなるのだろう。 マリーヌ・ルペンは反ユダヤ的発言を繰り返す父のジャン=マリーを追放し、国民戦線を「ふつうの保守政党」に脱皮させようとしているが、3つの政治勢力が鼎立するフランスの現状が長期に安定するかはわからない。極右から保守政党に変わった国民戦線が中道に勢力を伸ばして共和党を吸収したり、共和党が伝統主義にシフトして国民戦線の支持者を取り込むようなことが起こっても不思議はないだろう。 不安なのは、「極右というゲットー」に長く閉じ込められていた国民戦線に、保守政党として政治に参画した経験がほとんどないことだ。このままの勢いでその勢力が増せば移民排斥運動がさらに先鋭化して、それが移民たちの反発を生んでフランス社会の混迷はさらに深まるかもしれない。 橘 玲(たちばな あきら) 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。最新刊『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)が発売中。 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160502-00090408-dzai-bus_all
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