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『そして誰も批判できなくなった「鶴のメディア支配」』
山田直樹(著) 創価学会とは何か
https://blog.goo.ne.jp/c-flows/e/732b86e761eeb013017fd40a5b27708e
マスコミが恐れる”鶴のタブー”をご存じだろうか。巨額の資金を背景にした広告戦略。緻密な人脈による直接的圧力、そして名誉棄損訴訟を利用した力の支配。今や日本のマスコミの最大タブーとなった創価学会は、本来報じられるべき出来事を封じ、代わりに池田大作名誉会長のPR記事や番組を一般マスメディアに報じさせる仕組みと作り上げた。連載第2回は、その驚くべきタブーの実態を暴く。
「誰も批判できなくなった創価学会」──今回はその”ウソのような本当の話”から始めよう。
「創価学会系出版社」の広告出稿量が増大すること、バブル前夜の株価のごとし──。前回は、それら”異様に増殖する広告”のコピーが、学会批判者への中傷・誹謗という陰湿な要素を孕んでいることを出稿量推移も含め、検証した。
果たして学会の目論見は、それに止まるものなのか。メディアの学会報道の変貌、変化をたどる中から見てみたい。
グラフをご覧いただきたい。
これは、主要週刊誌記事のタイトルおよぴ本文中に、「創価学会」もしくは、「池田大作創価学会名誉会長」を含むものをデータ化して作成したものである(学会や池田名誉会長などの略語も含む)。
一見して分かる通り、その惨状たるや「失われた10年の株価」とでも言いたくなるようなものである。
95〜96年にかけてのグラフの高いヤマは、宗教法人法改正問題、新進党結党から解党に向けて揺れた政治状況を受けて、記事の登場頻度が増加したことを示している。
他方、99年10月に公明党が与党入りしてからこの方、各誌記事の激減ぶりはすさまじい。
例えば、95年から97年の3年間に、第1位の「週刊新潮」が122本の学会関連記事を掲載し、最近3年間でも71本の記事を掲載しているのに対し、第 2位だった「週刊文春」は、108本の記事を掲載していたのに最近3年間では、わずか16本。第3位の「週刊ポスト」は同じく80本から12本に激減している。
もちろん、政治社会情勢等の変化があり、この二つの時期を同列には論じられないものの、あまりの変貌ぶりに驚かざるを得ない。
データにはコラムやエッセーのタイトルや記事中にキーワードがあったものも含めているので、明らかな学会や池田氏への批判記事は、レッドデータブックに載るような「絶滅種」に近い。例えば、今年「サンデー毎日」は9本の創価学会関連記事を掲載しているが、それは政治・選挙がらみのものばかりで、実際に学会の検証や批判をおこなったのは、評論家の佐高信氏のコラム2本だけである。
それにしても、なぜ週刊誌から「学会批判記事」が姿を消しつつあるのか。
実は、これは週刊誌に限った現象ではない。新聞、放送の大メディアでも、驚くほど似たような現象が起きているのだ。こうした大メディアが今、どのような状況に置かれているのか。ある事件から検証してみる。
報道されない告発会見
昨年9月、警視庁は3人の創価学会員を逮捕した。創価大学学生課副課長(根津丈伸=学会幹部)、同大学剣道部監督(田島稔=元警視庁巡査部長)、ドコモ関連会社社員(嘉村英二=創大OB)だ(肩書は当時)。直接の逮捕理由は、田島が交際相手のか”不倫”を勘繰り、その女性と女性の交際相手男性らの携帯通話記録を根津を介して嘉村に盗み出させた容疑だった。
もちろん新聞や放送は、この事件を報じたが、彼らに創価学会員という重要な共通項がある点には触れず終い。事件は、「田島の女性問題のもつれ」との仕立てで報道した。
ところが彼らの逮捕5日後、ふたりの女性が相次いで警視庁、深川署の事情聴取を受ける。彼女らも同じく嘉村によって通話記録を盗み出されていた被害者だと捜査官から説明されたのである。このうち一人は、調書まで採られ、立件確実かと思われた。が、今もってそれがなされず、ついに決意した彼女らは東京地検に嘉村を告発(5月14日)した。
ちなみに彼女らは、創価学会に批判的な立場を取る人物であり、当然、通話記録の盗み出しは、学会批判者への諜報活動が疑われる案件だった。
かつて創価学会は、共産党の宮本顕治委員長宅盗聴事件を引き起している。仮に創価学会に批判的な立場をとる人間の通話記録が盗み出されているなら、この持つ意味は決して小さくない。公然と通話記録が盗み出されたこの事件は、大きな疑惑の広がりを予感させるものだった。
東京地検に嘉村を刑事告発したこと自体がニュースで、当然、司法記者クラブで会見を行った代理人や原告の前に、山のように記者たちが集まることになる。
「そういう経験は何度もありますから、記者の質問具合で新聞がどう書くか、だいたい想像できます。約1時間、活発な質疑応答があって、手応えを感じました」
こう述べる原告代理人の松井繁明弁護士は、かつて共産党宮本委員長宅盗聴事件でも民事原告側代理人をつとめたオーソリティだ。
しかし、翌日、会見を報じた一般紙は「東京新聞」のみで、それもベタ記事扱いだった。積極的に会見で質問していた三大紙も含め、ほかのすべての新聞は沈黙した。もちろん、電波メディアも一切報じない。
繰り返すが、個人情報保護法をひくまでもなく、この種の事件には話題性、今日性は十二分にある。それでもメディアは、沈黙したのである。
捜査機関の怠慢を衝くのは、メディアの重要な責務の一つである。
「やっばり、上がねぇ……」
筆者は、そんな担当記者のつぶやきを聞いているが、では、そこまで創価学会をタプー視する新聞の内部で、どんな事態が進んでいるのか、具体的に見てみよう。
蹂躙される新聞の現場
筆者の手元にA4判4枚の興味深い極秘資料がある。タイトルは、<創価学会の新聞広告についての報告>
作成者は日本新聞労働組合連合で、日付は2001年7月。「内部資料」とわざわざ断っているこの資料を、筆者は入手した。
中身は、新聞労連関東地方連合会の常任委員会が、「官公庁や特定団体等の広告と編集紙面〜その現状と問題点」という議題で討議を開き、7県の8新聞労組が報告してきた内容を要旨にしてまとめたものである。
そこには、創価学会の圧力に新聞の現場がいかに苦悩しているか、その一端が垣間見える。
まず、神奈川新聞労組が報告した内容を見てみる。<神奈川新開は25万部の部数を毎日印刷しているが、じつはそのほか、聖教新聞を30万部、公明新聞を 4万部、それぞれ日刊で刷っている。つまり、ウチの部数より多い部数を受注しているわけだ。経営的にかなりのウェートを占める。
そうした状況で、10年ほど前から創価学会との関係が組合でも問題視されてきた。具体的には、神奈川新聞の紙面に「ニュースファイル」という単発ものを扱う欄があるが、9月には2週間のうちに創価学会関係の記事が6回も掲載された。余りに多い回数だけでなくその内容がまた問題で、「鎌倉で池田大作写真展」というのはまだ許容鞄囲としても、「九州の熊本で池田大作写真展開催」とか、さらに「池田大作にベネズエラ○○大学から名誉博士号」とか「パナマ○○ 大学から名誉博士号」など聞いたこともなく(神奈川県の読者とは)何の関わりもない大学の「名誉博士号」の記事がどんどん掲載される。
印刷で大きな収入を得ているため、社員はおかしいと思っても学会との関係に触れるのはタブーのようになっている>
神奈川県民となんの関係もない池田大作氏のイベントや勲章の記事が堂々と新聞紙面を飾る不思議。もちろん、池田氏以外のほかの大教団トップの同様な記事は一切出ない。神奈川新聞の労組員でなくても首を傾げたくなる話である。
そして、この神奈川新聞労組の報告は、広告スポンサーとしての存在だけでなく、聖教新聞の印刷という二重の意味で、学会が地方紙を”影響下”に置いている事実を炙り出している。
実は、この地方紙だけでなく、大手紙も聖教新聞などの印刷を請け負う「賃刷り」を求め、”社運”をかけてその争奪戦に突入しているのは周知の事実だ。
埼玉新聞労組は以下のような報告を行っている。
<経営が厳しく広告に頼っているので、広告のあり方について文句が言いにくい。8月から池田大作の本から抜粋する形で1ページの「記事」が掲載されている。その下に数段の広告が合わせて掲載されているが、広告費はゼロという。しかし、創価学会が掲載日の新聞を数万部購入し、その販売収入は1へ−ジ分の広告費に匹敵するという。月1回か数カ月に1回程度掲載していくようだ。
読者からは、『お前のところはどうなっているんだ』『なんだこれは、がっかりした』などの批判の声が届いている。
また、記事においても『池田大作が名誉市民に』とか『創価学会○○支部が誕生』などという記事が頻繁に出るようになっていて、大量部数購入との関連だと思う。「広告がらみではないか」と言われるが、経営が苦しいのであいまいな答えしかできず、編集のみならず全体の士気が下がっている>
茨城新聞労組も以下のような報告をしている。
<11月には茨城新聞社の編集局長自らが創価学会の記事を書き、『ぜひもの』(優先的に掲載すべきもの)として整理部に記事を出稿してきた。掲載されたその記事は『創価学会 2001年の活動方針決める』というものだった。後日判明したところでは、編集局長は地元の創価学会担当者とつながりがあるらしく、日常的なマスコミ懐柔がこうした『成果』を生んでいるようだ>
以上が新聞労連の内部資料の抜粋だが、池田大作氏が登場するのは、何もこれら地方紙だけではない。大新聞も同様だ。いくつかその実例を挙げてみよう。
朝日新聞──「私の視点」への池田氏の寄稿(01年5月23日)。
読売新聞──政治部長による池田氏へのインタビュー記事掲載(01年7月4日)。
毎日新聞──主筆とのインタビュー(01年9月25日)。「発言席」への池田氏の寄稿(02年8月19日)。
産経新聞──論説副委員長による池田氏へのインタビュー記事掲載(01年9月17〜20日)。
ブロック紙では、
・西日本新聞──編集局長と池田氏の対談を掲載(01年12月3、4日)。
・中国新聞──寄稿「広島の心と平和教育」(02年1月3日)。
言うまでもなく、これらはほんの一部にすぎない。
大手紙の代表で、朝日の中堅幹部の声を開いてみた。「『聖教』紙の全面広告、学会系出版社の書籍広告。これらは、新聞社の収入として無視することはできないでしょう。聖教新聞社は法人でなく、創価学会に含まれている組織なのだから、広告は宗教団体の宣伝にあたるはずです。しかしそこにも言い訳があって、『あくまで書籍の広告なのだ』という理屈で、これを許している。社内で、この問題に議論が起こらないこと自体が不思議です」
新聞労連関東地方連合会で、前出の「報告」をまとめた片岡伸行氏(新聞労連争議弾圧対策部長)はこういう。
「やはり、新聞と学会の関係には、賃刷りの問題があります。創価学会は自前の印刷会社を持たず、聖教新聞の印刷を新聞社に依頼してきた歴史がいまも続いているわけです。そして、90年代以降、学会は広告に分野を広げてきました。新聞社にとっては広告も重要なウェートを占めていますから、これも危惧される材料です。さらには記事。もはやクライアントですから、名誉会長の動静などを記事として取り上げる。新聞社として頭は一応正常だけれども、胃袋を掴まれてしまっている状況とでもいうのでしょうか。背に腹は代えられないのです」
かつて創価学会広報部副部長を務めた小川頼宣氏がいう。
「今や新聞社の幹部にシンパは多いですからね。池田大作の”広宣流布は言論活動だ”の声のもと、昭和40年代前半から創価学会は言論部という機関を設け、気に食わないメディアへ手紙や電話などの抗議をするようになりました。しかし、言論弾圧事件が起こり組織的な妨害が問題視されると、言論部は消滅。代わりに、力を入れたのが、広報室の強化です。全国に広報委員を置いて、記者たちにシンパを増やすことを熱心にやりました。地方支局にいる若手記者の時代から積極的にアプローチし、気脈を通じるようにしておく。いざとなった時になにかと頼みやすく、少なくとも反学会の記事を書くようなことのないように味方にしておくんです。そうやって獲得してきた記者が出世していく。いろいろな頼みごとはもちろん、そうやって学会批判を封じることができるようにしているんです」
かくして新聞は、創価学会の思い通りのメディアとなってしまったのである。
礼讃番組が次々と……
活字メディアがそうならば、電波はどうか。
かろうじてテレビのキー局では大手企業からのCMのおかげで、学会提供番組の放映は見られないが、ここにも新聞同様、地方局への浸透が続けられてきた。
民放労連関係者がいう。
「今から4年ほど前、99年の夏のことでした。ちょうど自民党の総裁選挙を控え、公明党の連立政権入りが取り沙汰されていた最中でしたが、そこにタイミングを合わせるように創価学会が全国各地の民放にいっせいに自分達の礼賛番組を売り込んで来たんです。『平和への道〜人間 池田大作』というタイトルのドキュメンタリー風番組で、時間は30分もの。内容は全て池田大作をこれでもかと賞賛するPR番組です。通販番組などがそうですが、放送局側が内容にタッチしない”ハコモノ”(完全パッケージ)の状態で持ち込まれました。最終的には全国で14局が放映を決め、同年の8月下旬頃から随時放映されていきました」
純粋に考えれば、特定の個人や団体をただひたすら賞賛するような内容は、放送の不偏不党を定める放送法第1条などに違反している疑いがある。しかし、実際には、そんな議論も起らず、番組は放映されている。『母に贈る詩』と題する池田大作氏の詩の朗読をおこなう30分番組、『自然との対話──池田大作写真展』『平和への対話──池田大作 世界と語る』『教育は子どもの幸福のために──牧口常三郎が目指したもの』『インドからのメッセージ SGI会長の平和行動に注目』等の番組が地方局で次々に放映されるようになった。
もちろんラジオ番組でも、文化放送をキー局に、『新・人間革命』の朗読番組が流されたり、気がつけば、知らず知らずに創価学会の宣伝番組がお茶の間に進出しているのである。
大阪毎日放送(ラジオ局)は、全国で唯一、学会提供番組を流さない局といわれる。しかし、ここにも昨年夏、『新・人間革命』の放送依頼が電通から舞い込む。事情通の証言である。
「依頼を受けた毎日放送は、一貫して『社内の議論が尽くされてから放送する』という態度を取り続けました。結局、番組を持ち込んだ電通側には、議論が尽くせず、全社的な意思統一が図れなかった、つまり時間切れでダメになってしまったという理由で放送できないと伝えたのです」
しかし電通は、ナイター中継のスポンサーを引き受けてもらうなど、決してソデには出来ぬ相手。この番組も「ハコモノ」で持ち込まれ、早朝で低聴取率しか得られぬ時間帯に、月500万という破格のスポンサー料が提示されていたという。
かろうじて同局は反対派がもちこたえ、その後も別番組の放送依頼を断り続けているが、「人事異動でこれ以上賛成派が増えればどうなるか」との危惧は社内から消えていない。
完成したメディア支配
冒頭の雑誌メディアの話に戻ろう。
創価学会問題は、以上挙げたような理由で批判的立場に立てない新聞や電波メディアに代わって、雑誌メディアが役割の多くを担ってきた歴史がある。
しかし、グラフが示すように、その批判記事の激減ぶりはすさまじい。
あらゆる人脈を通じて編集・営業を問わず、その会社の幹部に接近し、丹念に自分たちの意向を浸透させる創価学会のやり方は、ほかの宗教団体ではとても太刀打ちできないものだ。
そして、一方で批判記事を名誉毀損として裁判に訴え、司法を巻き込んでメディアを押さえつけようという動きも、創学会の大きな特徴だ。その結果、雑誌の記事は、グラフが示すように極端に少なくなったのである。
ある週刊誌では、学会批判のテーマを提案しても、「部数につながらない」という一言で、悉くボツにされるようになったという。
創価学会に対する批判・検証記事が激減していく中で、それに反比例して増えていったのが、やはり創価学会の礼讃記事だ。特に、大手出版社ではなく、資本基盤の弱い小部数の雑誌にその傾向は顕著だ。
定期的に創価学会擁護記事を掲載しているある経済誌(月刊誌)の編集幹部は、匿名を条件にこんなことを打ち明ける。
「実は、学会擁護の記事というのは、編集部マターではなく、一見記事のように見せかけた創価学会からの広告なんです。編集部で作るのではなく、版下でそのまま入ってくるものですから、編集部では一字一句手が出せない。入ってくる時には写真も原稿も完璧に揃って来るのです。予算はもちろん学会本部。これが入るようになったのは、うちの広告スポンサーである大手ゼネコンの紹介からです。このゼネコンは学会の会館建設を請け負っていて、そこから”学会の幹部と会ってやってくれ”と言ってきた。通常の広告料から考えると破格の額で、記事が載るようになりました」
潤沢な資金にモノを言わせた創価学会の緻密なメディア戦略である。
しかし、メディア論が専門の田島泰彦・上智大学文学部教授がいう。
「創価学会を含む宗教団体の広告は、一般企業の広告とは異なる特質を持ちます。もし、宗教団体の広告を扱うことで、それに対する自由な取材・報道が損なわれるようなことがあるとすれば、民主的な社会にとって大変な問題だということを、メディア側は再認識すべきでしょう。宗教団体の広告は、”布教活動の一環”という見方もあります。広告を受け容れるメディア側はこういう声にも耳を傾けて、宗教団体との付き合いを合理的な範囲に留める必要があるのではないでしょうか。メディアは、いかなる宗教団体であれタブーとすることなく、自由闊達に批判し、議論できる条件を確保しておくことが肝要です。広告を受け容れるとか、印刷を引き受けるという商行為上の関係から、自由な批判や議論ができなくなってしまうとすれば、許されないことです。メディアやジャーナリズムの根幹が問われる事態だと思いますね」
その結果、先に紹介した創価学会員による通話記録盗み出し事件もほとんど報じられず、今年5月の池田大作氏重病説に揺れた政界の有り様も、週刊新潮以外はほとんど報じないという異常な現象が生まれているのである。池田大作氏は与党公明党の事実上のオーナーであり、その健康状態は、政治的にも極めて大きな意味を持つものだったにもかかわらず、である。
日本のメディアをほぼ制圧した自信からか、秋谷栄之助・創価学会会長は本部幹部会でこんなスピーチをおこなっている(01年5月22日の本部幹部会)。
「これまで(池田)先生に対するこうした世界からの顕彰や、創価学会・SGIの平和・文化・人権・教育の運動について国内のマスコミでは、なかなか報道されませんでした。それが21世紀の開幕とともに、大阪新聞、富山新聞、千葉日報をはじめとする、全国40を超える地方紙が、先生の名誉称号の受賞やアメリカ創価大学の開学などについて、全面カラーで特集記事を掲載するなど、大きな変化が起こっております。(略)新聞だけでなく、テレビでも、先生の写真展やアニメによる童話を放映する番組の数が、各地で増えてきています。時代は大きく変わりつつあります。学会の正義が、あらゆる分野で理解されつつあります」
学会の正義が、あらゆる分野で理解されつつある──これは、メディアに対する高らかな勝利宣言にほかならない。日本のメディアはこうして創価学会に支配されているのである。
しかし、創価学会がいう「正義」が果していかなるものであるか、その恐るべき実態を次回に詳しく検証したい。
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