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https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190830-00066854-gendaibiz-soci
芸術が抗議に屈するとき…あいトリで露呈した「政治的不寛容」の正体
8/30(金) 6:01配信
現代ビジネス
「マック・ジーザス」問題
「美術館は、宗教的もしくは政治的圧力に屈することはない」
「私たちは、発言の自由、芸術の自由、文化の自由を擁護し続ける。そしてそれらを壊すつもりもない」
急増するアートフェスの功罪…アートと地方のキケンな関係とは
あいちトリエンナーレの芸術監督、津田大介氏の言葉ではない。
今年1月、イスラエル北部にあるハイファ美術館のニッシム・タル館長が、当時同美術館で開催されていた消費品の聖化に捧げる展覧会「Sacred Goods(聖品)」の一環として設置された展示物に対しての抗議活動が起こった際に発したものである。
仏紙「ラ・フィガロ」によれば、問題の発端は「マック・ジーザス」と題された十字架に張り付けられたドナルド・マクドナルドの彫像だ。
他にも血まみれのイエス・キリストと聖母マリアを模したバービー人形などがあり、これらが「芸術的抗議行動としての提示が宗教の神聖なシンボルを軽視している」としてアラブ人キリスト教徒による抗議運動を引き起こし、デモが行われるに至った。
博物館側は「マック・ジーザス」は「多国籍企業による宗教的シンボルのシニカルな使用」を表現したものと回答、「展示会はあくまで社会が狂信的に崇拝する資本主義に対する批判を主旨とするものであり、撤回はあり得ない」との態度を表明し、教徒側との話し合いの上、作品の前に注意書きを設置する等の対処を行った。
しかし、暴徒により火炎瓶が美術館へ投げ込まれ、投石によって3名の警官が負傷。イスラエル警察当局が催涙ガスやスタン弾を用い、群衆を追い散らすなど騒動は拡大した。
この事態にイスラエルのミリ・レジェブ文化スポーツ大臣は作品の撤去を要請する書簡を美術館側に送り「芸術的な抗議行動の手段として神聖な宗教シンボルを軽んじることは違法であり、そのような作品を公共の文化施設に展示することはできない」と表明。芸術への検閲として非難されることとなる。
一連の事態に対し「屈しない」としていた美術館側だが、程なく撤去することを決断した。
世界各地で相次ぐ「抗議」と「撤回」
こうした一連の流れはあいちトリエンナーレでの経過ともかぶるが、実はこうした美術館での展示作品の「表現の自由」をめぐる動きは世界的に見ると近年あちこちで見られる現象でもある。
たとえば2014年の光州ビエンナーレ20周年特別展で朴槿恵(パク・クネ)大統領を風刺したホン・ソンダム氏の絵画「セウォル、五月(オウォル)」の展示に対して光州広域市側が修正を求めたが作家は拒否、展示自体が取りやめになり市の姿勢は検閲ではないかとの論争を呼んだ。
また、2017年のホイットニー・バイエニアルやグッゲンハイム美術館で行われた天安門事件の起こった1989年から、北京オリンピックが開催された2008年までの中国現代アートを総括する「Art and China after 1989」展も、大規ペン・ユーとスン・ユアン、シュー・ビン、ファン・ヨン・ピンの動物が用いられたを作品が「芸術のもとに行われる動物虐待」であると非難され、展示が取りやめとなった。
一方で展示を継続した美術館やギャラリーもある。
2017年、ニューヨークのチャイナタウンにあるジェームス・コーハン・ギャラリーで開かれたオマー・ファストの個展では、一部の作品が再開発で活性化される以前のチャイナタウンを想起させる人種差別的表現で、チャイナタウンに付随するネガティブなイメージをネタにした「貧困ポルノ」だとして展示の中止を要求したが、作者が不快な思いをしたギャラリー側は「どのような意見も真剣に受け止め尊重する。作品に対しどのような解釈を加えるのも自由であるが、検閲や脅迫という形態には与しない」と表明し、展示を継続した。こうした経過は「美術手帖」の記事に詳しい。
國上直子氏はこの中で「トランプ政権発足後、アメリカすら人種・文化・宗教・ジェンダーを巡る衝突がより顕在化し、異なる意見を受け入れる寛容さが急速に失われつつある。アートの世界では『検閲』というかたちで、この状況を目にすることが多くなった」と指摘している。
作品をジャッジするのは誰か
日本でも美術展覧会の展示品に対して「表現の自由」をめぐる論争はあいちトリエンナーレ以前にも起こっている。
2012年森美術館で開催された「会田誠展: 天才でごめんなさい」の際、児童への性的虐待を肯定する表現があるとして、市民団体から公共空間である美術館で展示することへの抗議が起こり、また2015年には東京都現代美術館「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展に会田家として出品した「檄」という作品が、東京都現代美術館友の会会員1名のクレームから、撤去要請が行われ、安倍政権批判を含む政治的意図を持った作品とされているのではないかとの論争になったことは記憶にある人も多いだろう。
ただ、あいちトリエンナーレでは会田誠氏ならびに会田家の作品は選ばれていない。
会田氏は自身のツイッターで芸術監督を務めた津田氏が「檄」を「不自由展」に加えたいと提案したが、委員が反対したため実現しなかった等の経緯を明かしている。
それは津田氏と「不自由展」の委員5名が一枚岩ではなく対立もあった証左とし、「芸術祭全体は、偏りより総合性を目指すべきとも思う(ヨーロッパの芸術祭などは、全体が一人のキュレーターの思想で偏ってることもありそうだけど、日本ではまだ時期尚早かな)」とした上で「ただし「檄」は性的な作品ではないので、たとえそれが参加したとしても、表現規制問題の議論がより広くなったとも限らないが」と自身の考え方を示している。
会田氏は今回の津田氏をこう評している。
「津田氏は男女比を同じくする大改革をした。しかしそれは世界の芸術祭の中では普通の流れ。同じように、政治的意見が明確な「不自由展」も大胆に選んだ。これも世界の〈普通〉を取り入れる考えだったのでは?」
「日本の美術館所属のキュレーターは、そういったことに慎重な人が大半である。日韓問題、天皇問題というセンシティブなものを忌避する傾向。それが美術外部の津田氏には物足りなく感じていたのではないか? 自分がやるからには、そこを突破したい、と」
「ネットには津田氏を追い落とそうと待ち構えている敵が、潜在的にものすごい数いた。それは普通の美術キュレーターではありえない前提条件だった」(ツイッター抜粋 全文はhttps://twitter.com/makotoaida/status/1159318999311585280)。
確かに日本の美術キュレーターが忌避してきたものを越えようとした「美術外部」の津田氏の試みには反発が強かった。ただ、ある意味「炎上」は津田氏の狙うところでもあり、無難なところにとどまる展示で話題を呼ばず、では展覧会の開催意義自体がない。問題は展示の撤回で議論が遮られたことにあるのだ。
今回の展示の中で最も話題となった「少女像」は2012年に東京都美術館でミニチュア版が展示された際、「運営要綱に抵触する」として撤去されるに至った作品だ。2015年ギャラリー古藤で抗議や忖度等で「表現の自由」が与えられなかった作品を集めた「表現の不自由展」が開催され、あいちトリエンナーレへと続いていく。
美術館内の展示に対してどこまでが芸術であるのか、芸術表現の中での公序良俗とは何かを判断するのは難しい。
そもそも芸術が内在するメッセージに恣意的な意味を与えることは何より避けなければならないことであろう。作者が意図していない場合でも、鑑賞者がそう思ったならば、それは「政治的作品」とされ、さらには権力者や行政機関がそれを固定化して良し悪しの判断をするのは「検閲」そのものとなる。
美術家の横尾忠則氏は2016年、東洋経済オンラインのインタビュー「日本は芸術の『社会的役割』を理解していない 尾忠則氏『芸術作品は社会的発言をする』」の中で、作者の立場からこう述べている。
「プロパガンダ的なことは絵の中にいっさい入れない。だが、見る人によって絵自体が作家から自立して何らかの発言をしているかもしれない。同じ絵を見ても、人によってとらえ方は違う。それでいい。(中略)つまり意識しなくても、作品は社会的発言をするものなのだ。ポール・セザンヌがよくリンゴの絵を描き、パブロ・ピカソがしばしば裸の女性を描いているが、その絵が世界の歴史を変えたり、個人の意識革命にかかわったりしている。たった一個のリンゴや一人の女性を描いた芸術がそれなりの役割を果たす」
現実的な話として、マーケットがなければ人材も育たない。余談だが、日本において「表現の自由」を志向する作家はむしろ漫画やアニメに吸収されている傾向もあるという。
前出の横尾氏も「今の日本では、芸術は大きな問題を語っていると見ない人が多い。海外のほうが芸術の社会的役割は認識されている。日本では見える部分ばかり評価して、社会や人々にジワッと影響を与えるような見えない部分は評価しないし、感応しない。たとえば、日本ではアニメが社会的な評価を得ている。アニメは見えるものがすべてとして、言葉としても語らせている。だが、絵はそこまでやらない。むしろ言葉にならないもの、語れないものを描いている」との認識だ。
表現の不自由を最も感じているのかもしれない。
「裸婦」は良くて、「少女像」はダメな理由
知人の美術評論家の話によれば、美術館には少なからずの不展示作品が所蔵されているという。問題が起きることが予想される場合、美術館は展示を回避することも珍しくない。
特に作品の解釈や評価が固定化されていない現代アートの場合は、現在進行形で新しい作品が入ってくるという事情もあり、議論になりそうな作品は文字通り「お蔵入り」となったまま時の熟成を待つということになる。
評価が定まった「裸婦」や「リンゴ」は良いが、現在進行形の課題を想起させる「少女像」はダメ――。逆に言えば、展示撤回を求める側はそれだけ「少女像」が美術館という箱の中で、芸術的価値を持って展示されることで起こる波及に関し影響力を認めているということにもなる。
美術品の価値は誰がどういう経過で取得するに至ったのか、どの展覧会で展示されたか等の「履歴」「来歴」等の背景も大事であるから、そうした意味でも展示されたこと自体も含めて意味を持つとしているのかもしれない。
今回、作品は等身大で、作成意図を説明した作者の言葉と「戦争と性暴力をなくすための『記憶闘争』のシンボルとして、世界各地に拡散している」などと解説も加えられた。
にもかかわらず、「撤去」派は、慰安婦側の「少女像」に関する一連の活動が、日本政府に対する抗議が主目的であり、朝日新聞記事が誤りだったことを認めた以降も「強制連行」的行為が存在したとの主張を続け、世界中で「少女像」の設置や展示をすることプロパガンダを行っていると考えているということだろう。それを美術館で展示し、何らかの価値付けをすること自体が日本を貶めることになるからこそ「撤去」を求めるのだ。
この作品が「強制連行があったかなかったかという問題」ではなく、「戦時の性暴力への怒り」であると説明しようとも、一部はそうとは受け取ってはおらず「主張を隠蔽しながら、本来の目的を達成しようとしているのではないか」そして「展示を続けることによってその目的(日本を蔑むこと)達成してしまうのではないか」と思っているからこその抗議であろう。
相次ぐ政治家の発言とこだわり
慰安婦問題となると、どこか冷静でいられない政治家が存在するのはなぜなのだろうか。
既知の通り、名古屋市の河村たかし市長は「あいちトリエンナーレ2019」内の企画展「表現の不自由展・その後」を視察したのちに、「平和の少女像」について即刻展示を中止するよう大村秀章・愛知県知事に申し入れを行った。
河村市長は、慰安婦問題について「事実でないという説も強い」などと発言。少女像展示には「表現の不自由という領域ではない。多額の税金を使ったところでしなくてもいい」との評価である。
また、神奈川県の黒岩祐治知事は8月27日の定例会見で表現の不自由展に関して「私なら認めぬ」とした。その理由として日本軍「慰安婦」を象徴する「平和の少女像」は「事実を歪曲したようなもの」と「慰安婦」の強制連行の事実を否定したが、少女像が「表現の自由から逸脱している」「県の税金を使って後押しすることは県民の理解が得られない」などと述べた。
黒岩知事は加えて「(少女像は)政治的なメッセージとして事実を歪曲したようなものですから、そういうこと自体がおかしい」「(『慰安婦』を)強制的に連行していったような、そう伝えられていますよね」と言った。
こうした「少女像」を否定する政治家の共通点は、河野談話ですでにその存在を認められていることには触れずに、前述したように朝日新聞記事の「強制連行」に関してとことんこだわるという共通点がある。
ちなみに河村たかし市長は「いわゆる南京事件はなかったのではないか」と南京大虐殺に否定的な見解を従来から示している。しかし、人権意識が鈍い訳ではなく、たとえば河村氏が衆議院法務委員として関わった名古屋刑務所受刑者放水死事件については強い贖罪の気持ちを持っているということを筆者に語ってもいた。
河村氏はこの事件の初期に刑務官による犯罪であるとして国会で追及していた。しかし途中から刑務官らは冤罪だという考えに変わっていった。誤った情報をもとに、冤罪を作り上げる側に自分がいたのではないかということに対して、責任を感じていた。
拙著『無戸籍の日本人』(集英社)で、河村氏と法務省民事局長のところを訪れる時のことを書いているが、国会から法務省へ行くタクシーの中で、河村氏はこの事件に関して「わしは間違ったことをしたんよ。許されんのよ。取り返しはつかんけど、そのまま見過ごすのはダメ」と事件については詳細に追い続けていると言っていた。刑務官の家族に対してもすまないとも。そうした感覚があるにもかかわらず、なぜ慰安婦問題や南京事件等の戦争関連のことについては頑ななのだろうか。
こうした発言をする政治家の中には、実は第二次世界大戦に「負けた」ことを受け入れられず、未だ植民地支配を心の中に残しているのではないか。それは世代を跨いで若い世代の一部にも浸透していっているのではないかと思う。
「わが国が敗戦後、戦争責任と正面から向き合ってこなかったことが多くの問題の根底にあり、さまざまな形で表面化している」
これは韓国政府が日韓の軍事情報包括保護協定(GSOMIA)の破棄を決めた際に自民党の石破茂元幹事長の発信だが「戦争責任と正面から向き合ってこなかった」のはそもそも「負けていない」と心の奥では思っているからこそ、その「責任」と対峙することができないのである。
慰安婦問題に関しても、河野談話が出ようがそこにいたのは「売春婦」だと女性を軽蔑、侮蔑、下に見ることで、彼女たちの痛みは当然なのだと転換させる。
戦争時においては「植民地支配」は国策であり、女性の中にも差別を設けることが是とされた時代に決着をつけることができていない、まさに不寛容の潜在的理由を、あいちトリエンナーレは芸術というスコープを通して可視化して見せたのである。
私たちも「表現の不自由」に晒されている
自分が真実で、正義だと思うことについて発信する事柄については「表現の自由」であり、逆に気に食わないこと、真実だと信じたくないことに対しては境界線を設け、制限する。
たとえば、河村市長も、黒岩知事も「マック・ジーザス」の展示は許可するだろうか。興味あるもの、自分の自尊心と直結するものに対しては反応するが、それ以外に関しては無反応か、もしくは逆に評価をするといったこともあるかのしれないなと思う。
ちなみに「マック・ジーザス」は他国での展覧会も、またイスラエルでの当該展覧会も開催から数ヵ月はなんら問題なく展示されていた。ある時にSNSで写真が投稿され、そこから批判が一気に増えたということだ。
作品の表層だけでイエス、ノーの流れができ、本来議論されるべきことが取り残されることは、作品を生み出した作家も、鑑賞者も、また美術館に行かないが興味を持っている人々をも多様で意見や表現の豊かさから遠ざかることにもなり、最終的には自由な議論にも繋がらないのである。
今回のあいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」は近年公共の文化施設で「タブー」とされがちなテーマの作品が、当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示するといった趣旨であった。
「慰安婦」問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判……こうしたテーマは美術館やだけが排除しているのであろうか。
私たちは家で、学校で、職場で、SNSでどこでも自由にこの問題を語ることができるのか。日々「表現の不自由」に晒され、逆に晒してもいるのではないだろうか。
例えば「表現の不自由」を克服するために、匿名性が使われるのはなぜか。それは「自由」なのか、「不自由」なのか。
そこで得た「表現の自由」の開放性と攻撃性に関する評価をどう見たら良いのだろうか。
あいちトリエンナーレが開いた議論の扉を閉じてはならない。
井戸 まさえ
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