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NHK同様に何故、関東大震災時に233人の朝鮮人の殺害(司法省調査)が起きたのか、読者を洗脳し肝心なことを報道しない産経新聞
http://gansokaiketu.sakura.ne.jp/newsindex7-naiyou.htm#2017-09-04-何でこうなる? 関東大震災時に数千人の朝鮮人大虐殺があったように読者を洗脳する愛媛新聞
IRONNA
政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49733?page=4
西崎 雅夫
政府による徹底的な隠蔽
「顔を血で真赤に染めて後手に縛られた一人の男が、林檎箱の上に引き据えるように腰かけさせられていた。大勢で取り囲んでいたにきまっているが、その人々の印象はぼやけてしまっている。縛られていた男の、一点を見据えていた眼が忘れられない。
〔略〕その男が朝鮮人であることは、少年の私にも自然に分かっていた。爆裂弾を投げつけたとか井戸に毒を入れて回っているとかいう“不逞鮮人”の噂は、もう9月2日には私も聞かされていたのではないかと思う」(木下順二『本郷』講談社、1983年)
1923年9月1日に発生した関東大震災時、現在の文京区大塚で被災した劇作家・木下順二が目撃した光景である。
東京だけでも6万人以上の死者を出したといわれるこの震災に乗じるように、「朝鮮人が火つけをしている」「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などの流言蜚語が流れた。
この噂を真に受けて警戒した住民たちは自警団を結成、これに軍隊も加わり、多くの朝鮮人や中国人が虐殺された。その数は数千人とも言われているが、実際に何人の方が犠牲になったのか、じつは震災から93年がたった現在でも詳細はわかっていない。
その要因のひとつとして、当時の政府の徹底した事実の隠蔽があげられる。
次の2つの証言を見比べてもらいたい。当時尋常小学校5年生の生徒が、震災直後に書いた作文である。
「3日に伯母さんから「朝鮮人が火をつけて歩く」というお話をきいて僕は驚いた。するとその夜「わあっ」というさわぎがあちこちから起こり、同時に「ぢゃんぢゃん」と半鐘が鳴り出した。間もなく「ずどん」とピストルの音がした」
「3日に伯母さんから「しっ火がある」というお話をきいて僕は驚いた。するとその夜「わあっ」というさわぎがあちこちから起こり、同時に「ぢゃんぢゃん」と半鐘が鳴り出した。間もなく「どしん」となにか崩るる音がした」
上が元の作文、下が検閲後に発行された作文集『子供の震災記』(目黒書店、1924年)に所収された作文である。「「朝鮮人が火をつけて歩く」というお話」が「「しっ火がある」というお話」に、「「ずどん」とピストルの音」が「「どしん」となにか崩るる音」にあらためられているのがわかるだろう。
これは、私が証言を集める中で偶然、検閲前の『子供の震災記』を発見したことにより明らかになった改竄である。本書ではこのような改竄が全編にわたって徹底的に行われている。
一般に出回っている検閲印の押されたものだけを読んでも、朝鮮人虐殺についてはなに一つわからないようになっているのだ。
虐殺の証言とともに歩く 両国
私は「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」「一般社団法人ほうせんか」という市民運動に参加している。
この会は1982年に発足して以来さまざまな活動をしてきた。2009年には朝鮮人虐殺が行われた現場近くの墨田区八広に追悼碑を建てた。そして毎年9月には荒川河川敷で追悼集会を行っている。
私たちは、追悼碑の見学に訪れた市民団体をはじめ、高校生・大学生などのグループに向けて、虐殺が行われた現地を実際に歩くフィールドワークも行っている。そんな中でときどき、企業関係からもフィールドワークを依頼されることがある。
たとえば大阪に、「同和・人権問題企業連絡会」という団体がある。同和問題をはじめとするさまざまな差別の解消に向け、「人権を尊重する企業づくり」に取り組むとともに、企業の立場から「人権が確立した社会の実現」をめざす団体だ。そこに所属する企業の人たちが、研修の一環として追悼碑を訪れるのだ。
このフィールドワークに私が関わるようになってからもう10年以上になる。回数としては、大小の規模の差はあれ、100回ではきかないほど実施している。
フィールドワークはまず、墨田区両国の横網町公園へ行く途中から始まる。両国国技館の北西にあった旧御蔵橋跡が最初の解説場所である。当時の写真(御蔵橋上で縛られて遺棄された遺体の写真・下)を見せながら目撃証言を紹介するのが常だ。
「5〜6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、『親の敵、子供の敵』等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く」(成瀬勝・当時20歳)
両国横網町公園は、関東大震災時には陸軍被服廠跡の広大な空き地があり、ここに避難した3万8千人が焼死した場所だ。現在ここには、関東大震災と東京大空襲で亡くなった16万3千柱の遺骨が納められた納骨堂と慰霊堂があり、その隣に1973年に建立された「朝鮮人犠牲者追悼碑」がある。
その碑の前でも目撃証言を紹介する。
「被服廠跡のわずかの空き地で血だらけの朝鮮人の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイで押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そうしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです」(浦辺政雄)
虐殺の証言とともに歩く 旧四ツ木橋
次いで電車で移動し、荒川放水路土手近くの京成八広駅で降りる。2分ほど歩くと、土手下に「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」がある。すぐ近くの土手にあがると、そこは旧四ツ木橋があった地点だ。
震災時、この旧四ツ木橋は火災を逃れた避難民が集中した。同時にここは、荒川放水路開削工事や街中の工場で労働に従事していた多くの朝鮮人もまた多く避難した場所でもある。ここで自警団と軍隊による虐殺の目撃証言を紹介する。
「たしか3日の昼だったね。荒川の四ツ木橋の下手に、朝鮮人を何人もしばってつれて来て、自警団の人たちが殺したのは。なんとも残忍な殺し方だったね。日本刀で切ったり、竹槍で突いたり、鉄の棒で突き刺したりして殺したんです。女の人、なかにはお腹の大きい人もいましたが、突き刺して殺しました。私が見たのでは、30人ぐらい殺していたね」(青木(仮名))
「四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、10人ぐらいずつ朝鮮人を縛って並べ、軍隊が機関銃で撃ち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね」(浅岡重蔵)
証言を聞きながら現場に立つフィールドワークはこうして終わる。
企業の一般的な人権研修がどのようなものか私は知らないので「こんな内容でいいのか」と思いながら案内しているのが実情だが、「何があったのか」という事実から出発しないと空論の研修になってしまうので、今後もこのような形式で行っていくつもりだ。
「証言を集めるしかない」
私自身がこうした活動をするようになったのは大学4年生の時からだ。
荒川が流れる墨田区八広の旧四ツ木橋付近の河川敷に「関東大震災の時に殺された朝鮮人の遺骨が今も埋まったままになっている」という話を聞いて、1982年に「追悼する会」が発足すると同時に参加した。
それからもう34年目になるが、上記の証言を聞いた時の衝撃はいまだに薄れない。自分が中学生の時に毎日のようにサッカーをして遊んでいた場所のすぐ近くが虐殺の現場だったからだ。
1982年9月に最初の追悼式と河川敷の遺骨の「試掘」を行ったが、遺骨を見つけることはできなかった。それからも再度の遺骨発掘をめざしてさまざまな調査をしたが、震災の年の11月の新聞に遺骨が警察によって2度にわたって発掘・移送されたことが記載されており、発掘は断念せざるを得なかった。
冒頭でも書いたが、関東大震災時の朝鮮人虐殺事件の全体像はいまだにわからないことが多い。
それは当時の政府が事件を隠蔽してしまったからであり、その後の政府が真相究明のための調査を行なってこなかったからである。したがって事件の公的資料はきわめて少ない。
そうした状況で知られざる虐殺の実態に迫る一つの方法として、証言を集めるという結論にたどり着いた。
「追悼する会」に参加したことで、墨田区北部での朝鮮人虐殺事件については多くの証言に触れる機会を得て、ある程度実態を知ることができた。では、自分が生まれ育った東京全体ではどうだったのだろう? そんな疑問がふと湧き上がってきた。
事件から90年近く経ってしまった現在、事件を語れる人はほとんど生存していない。
しかし刊行された本(自伝・日記等)の中から事件の体験・目撃証言を探し出すことなら素人の私にもできるのではないか。そう考えた私は、主に東京23区内の図書館をめぐってひたすらに関連する証言を集め続けた。
図書館で書棚を猟渉するうちに、朝鮮人が住んでいた地域では必ずといっていいほど虐待・虐殺事件が起こっていたことにあらためて気づいた。
例えばば上野では、
「朝鮮人を1人つかまえたといって[上野の]音楽学校のそばにあった交番のあたりで、男たちは、手に手に棒切れをつかんで、その朝鮮の男を叩き殺したのです。わたしはわけがわからないうえ恐怖でふるえながら、それを見ていました。小柄なその朝鮮人はすぐにぐったりしました」(女優・清川虹子『恋して泣いて芝居して』主婦の友社、1983年)
という証言があり、神楽坂では、
「[神楽坂警察署の前で]突然トビ口を持った男が、トビ口を高く振りあげるや否や、力まかせに、つかまった2人のうち、一歩おくれていた方の男の頭めがけて振りおろしかけた。わたくしは、あっと呼吸をのんだ。ゴツンとにぶい音がして、なぐられた男は、よろよろと倒れかかった。ミネ打ちどころか、まともに刃先を頭に振りおろしたのである。ズブリと刃先が突きささったようで、わたくしはその音を聞くと思わず声をあげて、目をつぶってしまった」(フランス文学者・中島健蔵『昭和時代』岩波書店、1957年)
という証言がみつかった。
気がつけば、有名無名、老若男女にかかわらず、集めた証言は1100を超えていた。
これら一つ一つの証言には、体験した本人にしか語れない“具体性”があった。こうした証言からのみ、朝鮮人虐殺の実態が皮膚感覚として伝わってくるように思う。
どんな歴史的事実も知るすべがなければわからないままで終わってしまう。それは同時に「なかったこと」にされてしまう危険性を孕む(とりわけ加害の歴史はその傾向が強い)。震災時の朝鮮人虐殺事件もその例に漏れない。だが体験者・目撃者たちの声に耳を傾ければ、私たちは事実に向き合わざるを得ない。
1100の証言が訴えかけるのは、何か。それは、悲劇から90年後を生きる私たちが、事実を知り、見つめること、そして亡くなった方を悼む気持ちのたいせつさではないだろうか。
こうした証言を集めた本がやっと完成した。『関東大震災朝鮮人虐殺の記録 東京地区別1100の証言』(現代書館)である。この本が多くの人の目に触れることを願っている
西崎雅夫(にしざき・まさお)
1959年、東京都足立区生まれ。明治大学在学中、「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」(のちに「追悼する会」と改称)発足に参加(事務局・文献史料班・発掘準備班に所属)。1984年より、足立区・江東区・江戸川区で中学校教諭として勤務のかたわら、1993年、社会教育団体「グループほうせんか」設立時、代表世話人となる。2010年、「一般社団法人ほうせんか」設立。現在理事。
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https://www.youtube.com/watch?v=GunUE-z1TBY
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