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バブル崩壊で表舞台を去った10人の「漢」たち 『バブル 日本迷走の原点』
http://diamond.jp/articles/-/109829
2016年12月2日 成毛 眞 ダイヤモンド・オンライン
■好漢は必ずしも善人とはいえない
『バブル 日本迷走の原点』永野 健二 新潮社 288ページ 1700円(税別)
本書『バブル 日本迷走の原点』は「始動」「膨張」「狂乱」「精算」の4章、全21節で構成された好漢譚として楽しむことができる今年一番のおすすめ本だ。各節ごとにそれぞれ10人ほどの好漢たちが登場し、各々の役割を演じては舞台を去ってゆく。その好漢たちとは時の首相であり、日銀総裁であり、証券会社の経営者であり、銀行の頭取たちだ。もちろんバブル紳士も高級官僚も登場する。
広辞苑によれば、好漢とは「好ましい男」。けっして「正義の男」でも「立派な男」でもない。男として魅力的ではあるが、どこか危ういところを持っている人物たちだ。著者は同時代の取材対象になった好漢たちと密に接しながらも、その妖しい魅力に惑わされることなく、現代政治経済史の証言者に徹したジャーナリストだ。しかし、その彼もまた好漢なのである。
その証左は本書冒頭の一文だ。
「バブルとは、グローバル化による世界システムの一体化のうねりに対して、それぞれの国や地域が固有の文化や制度、人間の価値観を維持しようとしたときに生じる矛盾と乖離であり、それが生みだす物語である」とするのだ。
経済学的な定義としてバブルとは、ファンダメンタルズから乖離した資産価格の上昇、とでもいうべき事象であろう。しかし、著者はそのような静的な定義など無意味だといわんばかりに、物語のなかに時空を見つめるのだ。それが正しいかどうかは判らない。読者が判断するべきであろう。しかし、著者は好漢たる人物たちと戦後の日本システムのなかに、いまを生きる日本人が知っておくべき真実を見出すのだ。
著者も指摘しているよう80年代半ば、イギリスの国際政治経済学者スーザン・ストレンジは『カジノ資本主義』のなかで、金融システムがその機能自体のなかにリスクを内在しているという「システミック・リスク」の問題を、市場と国家との力のバランスの問題としてとらえていた。そして、いま世界市場はブレグジットとトランプ旋風のなかで揺れ動いている。はたまた中国のバブル経済はシステミック・リスクを内包していないのだろうか。
とりあえず、20世紀最大のバブルを俯瞰した本書にあたっておくことは無駄ではあるまい。
「遇洪而開」とは『水滸伝』という物語の発端、百八の魔星が閉じ込められていた「伏魔之殿」に刻まれていた銘文である。洪大尉なる尊大な人物がこの祠を開いたがゆえに、魔星たちは好漢に姿を変えて世に飛び出し、梁山泊に集い朝廷に戦いを挑むのだ。
彼らはかならずしも善人ではなかった。猟奇的な殺人者も妖しげな道術使いもいた。しかもその物語の結末は大団円に終わらない。朝廷の奸臣におもねる者、逃亡して出家する者などがあらわれ、梁山泊は四分五裂のあげく、最後には首領は毒をあおって自害するのである。
本書はその『水滸伝』を彷彿とさせる、好漢たちが奏でる21のオムニバスだ。それぞれの節は読み切りで、しかも全体として一つの物語に仕上がっている。バブルの発端から終局までの悲喜交交を、運命と決断、先見と保身などの切り口で鮮やかに書き通している。まずは経済書としてではなく、人間ドラマとして楽しめる本だと断言しよう。
■邪悪なる善は甘い蜜に潜む
もう少し本書の中身を見てみよう。第2章「膨張」はプラザ合意を発端とした日銀による超金融緩和、大蔵省の特金・ファントラ放置、三菱重工転換社債事件における検察の不明瞭な幕引きなどの事象を取り上げる。バブルが兜町、丸の内、霞が関、永田町という日本橋を起点とした皇居を時計回りに巡る道、すなわち江戸時代から連綿としてつづく日本の中枢から引き起こされたことを描き出す。
もちろん、バブル発生の原因をつくったのは当時の為政者の不見識によるところも大きいだろう。いっぽうで著者は国民の高揚感を背景にした、竹下首相による消費税導入や、中曽根首相によるNTTの民営化など、バブルが結果的にもたらした動きにも目を止める。バブルはデフレという毒薬だけをもたらしたのではなかった。
ジャーナリストである著者は歴史のIFを語らない。しかし、もし消費税導入が遅れていたら日本の財政はどうなっていたのだろう。失われた20年の後になってからの導入では日本は本物の財政危機に瀕していたかもしれない。NTTからはじまる国営企業の民営化がなければ、通信や物流の競争は起こったのだろうか。
つづく第3章「狂乱」では、いよいよバブル紳士たちが登場する。リクルートの江副浩正、イ・アイ・イの高橋治則、麻布土地の渡辺喜太郎、秀和の小林茂、光進の小谷光浩などである。物悲しくもそれぞれの節の最後には、彼らの墓碑銘のような文章が記されている。
「夢破れた江副は、公判中も個人での株式売買に明け暮れ、2013年に帰らぬ人となった」
「小林茂は2011年4月、静かに亡くなったという、このニュースを取り上げるマスメディアはなかった」
まさにピカレスク・ロマンなのだが、本書はかれらの常軌を逸した豪勢な生活などについてさほど興味をもたない。むしろかれらを生み出した、銀行や証券会社などのエリートたちとの相互作用について解析をすすめ、日本の政治経済システムに残した正の遺産をも掘り出そうとするのだ。
たとえば、小林茂については当時の日本には存在しなかった投資銀行の機能を体現した存在だとして、その先見性を再評価する。ピケンズと小糸製作所買い占めを図った渡辺喜太郎については、その後日本企業や投資家が直面し、解決していく問題をことごとく先取りしていたと、事件を見つめ直すのだ。
繰り返しになるが著者はジャーナリストである。報道するにあたって中立性を保つ義務がある。しかし、著者はそれ以上に長期スパンから、バブルの功罪を冷静に分析するのだ。それも後付ではないことは、文中所々にあらわれる当時の記事や取材記録を読めば一目瞭然だ。
「邪悪なる善は甘い蜜に潜む」とは帝政ローマの詩人、オウィディウスの『アルス・アマトリア』からの名言である。邦訳タイトルは『恋愛指南』。たしかにバブルとはある種の恋愛なのかもしれない。国民ぐるみのユーフォリア、すなわち根拠なき熱狂は恋愛のそれに近い。あばたもえくぼという夢から醒めたとき、バブルは「邪悪なる善」として目の前に現れる。そしてまた「甘い蜜」は、姿を変えて再び我々の前に現れてくるかもしれない。
のちにフェデリコ・フェリーニが映画化した同時代の小説『サテリコン』には狂気の饗宴に身を沈める古代ローマ市民が無数に登場する。その饗宴の主催者トルマキオは成金の解放奴隷である。皇帝ネロの時代だった。
本書は80年代のバブルを概観しただけでなく、想像力を古代から現代、ローマから東京に巡らすならば、第一級の歴史読み物としても、この冬楽しめる一冊だ。本書を丁寧に作り上げた編集者にも賛辞を贈りたい。
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