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果たして埋蔵金の行方は… (※写真はイメージ)
発端は税務署員の投稿? 20兆円超の「豊臣秀吉埋蔵金」とは〈週刊朝日〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161125-00000165-sasahi-soci
週刊朝日 2016年12月2日号より抜粋
NHK大河ドラマ「真田丸」がいよいよ佳境に入ってきた。このドラマが描く豊臣家の滅亡にまつわる不思議な伝説がある。曰く、かつて太閤秀吉が採掘を進めた鉱山の廃坑道に、豊臣家の運命を託された莫大な黄金が眠っている──。日本全国に何百何千と残る埋蔵金伝説の中でも「埋蔵額ナンバーワン」と言われる有名な伝説だ。朝日新聞尼崎支局の宮武努記者が、その出どころを探ってみた。
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埋蔵金マニアたちの間で「日本3大埋蔵金」と呼ばれる三つの伝説がある。かつてテレビ番組で一世を風靡した群馬県の徳川埋蔵金、戦国時代に北関東で勢力を誇っていた結城家が隠したとされる結城埋蔵金、そして、兵庫県猪名川町の多田銀銅山で語り継がれる秀吉埋蔵金だ。
日本トレジャーハンティング・クラブ代表の八重野充弘氏(69)によると、このビッグスリーは「伝説の知名度や関連資料の多さ、埋蔵額の大きさ、本気で探索した人の多さなどの点で群を抜いている」という。
秀吉埋蔵金の場合、特筆すべきはその額だ。なんと4億5千万両。「当時作られた天正大判の金純度(72〜76%)をもとに含有する金の量を試算すると5千トン以上になります」と八重野氏。骨董的価値を無視したとしても、今の金相場なら20兆円を超す規模だ。
伝説によると、この莫大な黄金が隠されたのは秀吉晩年のことだ。病に伏した秀吉は死の間際に豊臣家の行く末を案じ、大坂城にためこんでいた黄金の一部を隠すことを思い立つ。隠し場所に選ばれたのが、大坂から比較的近く、豊臣政権の財政を支えていた多田銀銅山。秀吉は配下の武将、幡野三郎光照(はたのさぶろうみつてる)に命じて銀銅山を閉鎖し、アリの巣のように無数に掘られた坑道の奥に黄金を運び込んだという。
伝説の舞台である猪名川町銀山地区周辺の山々を歩くと、今も山肌のあちこちに廃坑道の入り口を見ることができる。主要な坑道には、案内板と立ち入り禁止の鉄格子が取り付けられているが、山道から外れた場所で人知れず口を開けたままの坑道も多い。試しに中に入ってみると、内部は枝分かれし、至る所に深さ数メートルの縦穴が口を開け、おまけに落盤の跡もあちこちにあって危険この上ない。猪名川町教育委員会によると、坑道の総数は周辺自治体を含めて推定2千カ所以上。とても探索しきれないような数だ。
さて、この伝説、どれほどの信憑性があるのか。長年、探索者たちの間で伝説の根拠とされてきたのが、光照やその息子が埋蔵の経緯や隠し場所を子孫に書き残したという「極秘の古文書」だ。探索者の手記などによると、この秘文書は複数の巻物や絵図からなる。これが少なくとも2セットあり、大阪と三重の旧家で代々秘蔵されてきたが、太平洋戦争後、その内容が新聞報道で大々的に世間に広まった。全国各地から一獲千金を夢見る探索者が現地を訪れ、地元は一時、ゴールドラッシュの様相を呈するようになったという。
ここで気になるのが秘文書の真贋だ。記者はこれまで、日本最大の埋蔵金伝説を生み出したこの秘文書をこの目で見てみたいと思い、町教委やかつて宝探しに関わった地元関係者らに問い合わせてみたが、残念ながら、実物を持っている、あるいは、その所在を知っているという人物を見つけることはできなかった。
関係者によると、秘文書の原本はそれ自体が探索者の間で高値で売買されるほどの価値を持っているため、所有者が実物を一般公開することはもちろん、宝探しのライバルとなりうる他人に見せることはほぼないという。
そんな秘文書の内容が、なぜ新聞に報じられたのか。埋蔵金伝説をめぐる過去の新聞報道をたどっていくと、戦後間もない時期のある新聞投稿にたどりついた。掲載紙は1949年5月18日の「よろん新聞」。当時大阪で発行されていた日刊紙だ。
投稿のタイトルは「四億両の家宝」。国立国会図書館に保存されているマイクロフィルムからその内容を要約すると以下のとおりだ。
税務署員である「私」がある時、税滞納者宅を訪ね、家の主に財産差し押さえの話を切り出した。すると、彼は家の奥から「わが山本家伝来の家宝」だという掛け軸を出してきて「これは豊太閤時代の絵図で、黄金4億両の軍用金埋蔵場所を記した巻物だが……」と話し始める。この山本家はかつて豊臣家に出入りしていた豪商で、大坂の陣の際に軍資金を埋蔵した絵図を預かったのだという。白昼夢を見ているような気分になった私に、山本氏は「私もいよいよ発掘事業に着手する決心をして下準備にかかっています。これが当たれば差し押さえなんか、おかしくって……」と笑った。
この投稿には「河原田精也」という筆者名が記されているが、住所の記載はない。いかにも小説めいた書きぶりだが、この投稿欄は「実話よみもの」と銘打たれ、投稿規定に「作り話は採らず」と明記されている。とはいえ、この投稿がどこまで本当の話なのか、そもそも投稿者が本当に税務署員なのか、今となっては確認のしようがない。
だが、この投稿がその後の新聞報道の端緒となったのは間違いないようだ。同紙は3カ月後の8月11日、「多田銀山の廃鉱に黄金四億五千万両」と題する記事を1面トップで掲載する。
記事によると、終戦後、兵庫県神崎郡の庄屋の子孫にあたる大阪市浪速区の機械商、山本徳次郎氏が、戦災で傷んだ先祖伝来の木箱を整理すると、巻物3巻と絵図面2枚が出てきたそうだ。巻物は「慶長3年(1598年)、秀吉の命を受けた光照が4億5千万両を多田銀山の坑道に分散埋蔵した。その明細を幡野家代々に伝える」と記述していた、と報じている。
50年代に入ると時事新報、産経新聞、毎日新聞も多田銀山(当時は多田銀銅山ではなく多田銀山と呼ばれていた)の秘文書の存在を相次いで報道。ほぼ同じ内容の秘文書が三重県の旧家からも現れたことが明らかになり、この時期から埋蔵金伝説を扱った各種書籍にも多田銀山の話が頻繁に登場するようになる。
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