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「TPPの未来示す中南米の経験 貧乏人大量生産する新自由主義 多国籍企業が支配する社会:長州新聞」
http://sun.ap.teacup.com/souun/21019.html
2016/10/31 晴耕雨読
TPPの未来示す中南米の経験 貧乏人大量生産する新自由主義 多国籍企業が支配する社会 2016年10月21日付 から転載します。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/tppnomiraisimesutyuunanbeinokeiken.html
安倍政府が今臨時国会で環太平洋経済連携協定(TPP)承認を強行しようとしている。その内容については国民には秘密主義を貫き、6000nにものぼる合意内容は黒塗りで隠蔽され、それを国会議員たちが中身がわからないまま「審議」するという理解し難い光景となっている。この間、知識人やジャーナリストたちが警鐘を鳴らしてきた内容からして、TPPは新自由主義政策の最たるものであり、世界的に見るとすでに80年代初めから90年代にかけてアメリカの多国籍企業が中南米諸国に乗り込んで先行実施し、手痛い反撃を受けた代物である。傍若無人な多国籍企業をたたき出して独立の課題に挑んできた中南米の経験をTPPの未来と重ねて見てみた。
長続きしない社会体制 最後に叩き出される強欲資本
チ リ
チリは中南米諸国のなかでも最初に新自由主義政策が持ち込まれた。
1973年に社会主義を掲げたアジェンデ政府が、アメリカの後押しを受けた軍部のクーデターによって崩壊した。クーデターで政府の座についたピノチェトに対して、アメリカはアジェンデ政府のもとで国営化されていた各種事業の私企業化、外資の積極的な導入、貿易と資本取引の自由化、財政赤字の削減、関税の引き下げ、労働市場の柔軟化等の政策を採用するよう「指導」した。
その時代は、ちょうど1979年にイギリスでサッチャー政府が登場し、81年にはアメリカにレーガン政府ができ、さらに82年には日本に中曽根政府が誕生した時期と重なる。規制緩和政策、国営企業の私企業化、市場経済化、金融自由化、行財政改革などの構造改革、教育バウチャー(利用券)制度の導入などが推進された。
1970年のアジェンデ政府登場以前は、チリの豊富な鉱物資源や電信電話事業はアメリカの多国籍企業の手中にあった。ここから得ていた膨大な利益を、アジェンデ政府の国営化政策によって失うことを恐れたアメリカの多国籍企業は、ピノチェトに軍事クーデターをやらせて政府を乗っとり、「新自由主義政策の実験地」とした。
国営企業の一部を民営化し、最先端の新しい形の投機的金融を許可し、長年チリの製造業者を保護してきた障壁をとりのぞいて外国からの輸入を自由化し、財政支出を10%縮小した。ただし軍事費だけは大幅に増大した。さらに価格統制も撤廃した。チリでは何十年間にもわたってパンや食用油など生活必需品の価格を統制してきたが、それを撤廃した。
こうした経済政策の結果、1974年のチリのインフレ率は375%にも達した。これは世界最高の数字で、アジェンデ政府下の最高時の2倍にものぼった。価格統制の撤廃によってパンのような基本食品の価格は天井知らずに高騰した。他方で失業者は増える一方であった。「自由貿易」実験によって、国内には安い輸入品が溢れた。国内企業は国際競争に負けて閉鎖をよぎなくされ、失業率は記録的に上昇、飢えが蔓延した。一連の新自由主義政策で恩恵を被ったのは外国企業と投機で大もうけしていた「ピラニア」と呼ばれる投機家の小集団ぐらいであった。製造業者の多くは倒産の憂き目にあった。
1975年には公共支出を一気に27%削減し、1980年にはアジェンデ政権下の半分にまで公費を切り詰めた。もっとも大きく削減されたのは医療と教育の分野だった。500近くの国営企業、銀行を民営化し、ただ同然で売り渡したものも少なくなかった。
さらに多くの貿易障壁をとりのぞいた。その結果1973年から83年までのあいだに工業分野で17万7000人の職が失われた。80年代には製造業が経済に占める割合は第2次世界大戦中のレベルにまで落ち込んだ。
チリ経済は15%縮小し、アジェンデ政府下で3%だった失業率は20%にまで跳ね上がった。「生活資金」(ある一定の生活水準を保つために必要な賃金)の74%が食費に費やされた(アジェンデ政府下では17%)。学校での牛乳の配給が停止され、牛乳が飲めず授業中に失神する生徒も出た。医療費は利用する度の現金払いとなり、幼稚園や墓地も民営化された。とりわけ社会保障制度の民営化が進んだ。
新自由主義政策導入から10年後の80年代半ば、対外債務は拡大し、超インフレになり、失業率は当初の10倍の30%にものぼった。この背景にはアメリカのエンロン型の金融機関があらゆる規制から自由になり、借入金で同国の資産を買いあさった結果、債務が140億jにふくれあがったことにある。
1988年には、45%の国民が貧困ライン以下の生活を強いられ、上位10%の最富裕層の収入は83%も増大していた。
アルゼンチン
1976年アメリカの支援を受けた軍事政府が誕生した。この政府が最初におこなった政策はストライキの禁止であり、雇用主に労働者を自由に解雇する権利を与えたことだった。価格統制も廃止し、食料品価格は急騰した。他方で外国の多国籍企業を歓迎すべく外国資本の出資制限を撤廃し、何百社もの国営企業を外資に売却した。
1年以内に賃金は40%目減りし、多くの工場が閉鎖され、貧困は悪循環に陥った。軍事政府以前の貧困人口は9%で、フランスやアメリカより少なく、失業率も4・2%だった。しかし、新自由主義政策によって貧困地域では水も満足に出ず、予防可能な疫病が猛威を振るった。
89年に発足したペロン党のメネム政府の下で、通貨ペソとアメリカ・ドルとの等価交換制度導入とともに国有企業の民営化と市場経済化が進み、外資への市場開放を強行した。関税率を下げて貿易を自由化し、国営企業を民営化し、投資制限を解除して海外から資金流入を増やし政府による経済規制を減らして市場原理にまかせる新自由主義を徹底的に進めた。
89年11月には投資法を改定し、同年12月に資本移動や資本取引を自由化した。90年に電話公社やアルゼンチン航空の民営化を皮切りに、石油、鉄鋼、石油化学、自動車、造船、金属加工などの国営企業の売却、鉄道や道路公団の民間委託、電力、電気通信、航空、ガス、水道、港湾、海運など公益事業を民営化した。91年4月には、関税の引き下げと農産物の輸出税を撤廃し、平均関税率が88年の26%から91年に10%に低下した。
さらに公務員の人員削減計画をうち出し、国家公務員を2年以内に7割削減して32万〜30万人にする方針を出した。そして対外債務が大幅にふくらんだ。それは91年に808億jで国内総生産の46・4%だったものが、2000年には1400億jで49・1%、01年に1549億jで54・7%に達した。それとかかわって過酷な緊縮政策によって貧困層が増大し社会的弱者が切り捨てられ、貧富の格差が拡大した。92年には国民の45%が生存に必要な食料さえ十分に購入できない状態になった。
01年には経済成長率がマイナス11%という深刻な事態に至った。失業率は03年には22%にのぼった。政府の定める貧困者の基準は、1世帯(夫婦と子ども2人)の収入が月750ペソ(約2万6000円)以下であった。全人口に占めるスラム街住民の割合が93年の1・7%から2003年には5%(180万人)へと増加した。
首都ブエノスアイレスには郊外のスラム街から2万〜3万人の失業者や貧窮者が集まり、紙類や段ボール、缶ビンなどを回収し、闇のリサイクル業者に販売して生計を立てる状態となった。失業率が20%にも達し、4000万人の人口のうち1400万人が貧困層となった。
ベネズエラ
ベネズエラは石油や天然ガス、鉄鉱石、ボーキサイト、金、ダイヤモンドなど豊富な鉱物資源によって、88年ごろまでは1人当りの国民総生産は南米第2位であった。だがこれは数字上だけのもので、実際のベネズエラの富はアメリカの国際石油資本シェブロンなど外国資本と一握りの支配階級に握られ、大多数の労働者、勤労人民は貧困を強いられてきた。とりわけ米ソ二極構造崩壊後の90年代以降、アメリカ主導の新自由主義、グローバル化が推進された。
ペレス政府(89〜93年)は、累積債務問題の解決策としてIMFと合意書をかわし、緊縮財政・経済政策、総需要抑制政策、経済自由化を柱とした新自由主義政策を急速に実施した。財政赤字削減のために公共料金の大幅値上げ、各種補助金の廃止、低所得者の生活を支えていた基礎生活物資(コメ、小麦粉、粉ミルク、医薬品など)の価格の自由化、公共サービス企業の民営化などを強行した。
ペレス政府は90年末に、政府管理下にあった銀行2行の売却を皮切りに本格的な民営化を推進した。91年8月にVISA航空を、同年11月に国営電気電信会社CANTVを民営化した。VISA航空にはスペインのイベリア航空が45%の資本出資をおこない、CANTVにはアメリカの電機メーカーGTEや電話会社のAT&T、スペインのテレフォニカが地元企業と連合を組み、出資比率40%で経営権を獲得した。
価格自由化によって、物価が2〜3倍に急騰し、国民生活には大打撃となった。他方で所得税の最高税率や輸入自動車の関税は引き下げ、経済自由化は富裕層を優遇するものとなった。89年2月にはガソリン価格とバス運賃を大幅に引き上げた。92年9月の調査では総世帯数の80%が貧困線以下の生活を強いられ、44%が最低限の食料を購入できない貧困状態にあった。
98年には対外累積債務が374億jに達した。89〜98年のインフレ率は年平均53%にのぼった。90年から99年までの国内総生産(GDP)成長率は年平均1・9%と低迷した。国家財政赤字が慢性化し、99年の国内総生産の7・8%に達した。貧困層が1982年の33・5%から99年の67・3%へと増大し、そのうち半数以上が極貧層であった。住民の30%の富裕層が全所得の61・3%を取得していた。
ブラジル
ブラジルでは90年3月に発足したコロル政府が輸入を全面自由化し、90年中に約1300品目の関税をゼロにしたほか、繊維機械、自動車部品など約300品目の関税を引き下げた。市場は海外からの輸入品にさらされ、競争力のない国内企業は倒産した。2年間で1人当りの国民総生産は6%低下した。失業率は85年以来最悪を記録し、サンパウロ市だけで92年3月に約14万2000人が職を失い、失業率は約14・6%になった。倒産件数は過去60年間で最高を記録した。
貧困のために捨てられ、路上生活を強いられた子どもの数は400万人にのぼった。貧困化は極限に達し、92年4月から5月にかけて、リオデジャネイロやサンパウロなどの大都市の低所得者居住区のスーパーや百貨店では略奪事件があいついだ。
そして南米各国と同じように民営化も本格化した。90年4月に初めて民営化に関する法律「国家民営化法」が制定された。法制上の整備とともに、民営化執行委員会が設置され、実施機関として国立経済社会開発銀行の指定が決まった。民営化第1号は、91年10月に実施された中南米最大の鉄鋼企業ウジミナスの民営化であった。フランコ政府(92〜94年)は94年の3月から8月にかけて、内外投資家の差別撤廃を認める政令などをあいついで公布し民営化を促進した。91年から98年までに63社が外資に売却された。国営の製鉄6社、肥料5社、石油化学33社の大半、国鉄、国策鉱山会社リオドセが民営化された。民営化総額は687億jにのぼり、中南米で最大規模となった。民営化における買い手としての外資の参加比率は、95年まではわずか4・2%であったが、電力、電気通信、総合資源会社CVRDの売却によって急上昇し、28・5%になった。民営化にあたっては主にアメリカ系の企業コンサルタントや会計法人を活用する事例が増え、企業経営におけるアメリカの評価基準が浸透していく契機となった。
反米独立の政府を樹立
中南米諸国では、80年代はじめに債務危機が爆発し、地域全体の累積債務総額は75年の685億jから82年には3184億jへと急膨張した。
累積債務危機からの脱出策として80年代にアメリカ政府がIMFや世界銀行をつうじて中南米各国に押しつけたのが、構造調整計画と呼ばれる新自由主義政策であった。債務の返済を最優先するという名目で、それまでの国家主導の輸入代替工業化のもとでとられてきた国内産業保護、外資の規制・制限、労働者保護、社会福祉政策、貧困対策などを根本から覆し、規制緩和、自由化、民営化を各国に強要した。
財政支出の削減のために公務員の削減や「合理化」、社会保障・社会福祉支出の削減、増税や公共料金の引き上げがおこなわれ、おもに外資への売却による公共企業の民営化や貿易の自由化を推進した。
その結果中南米各国で経済成長はマイナスとなり、国民経済は破壊され、失業者は増大し、賃金は低下、高インフレのもとで貧困化は急速に進んだ。80年代に始まり米ソ二極構造が崩壊する90年代に本格化した中南米各国での新自由主義政策によって、各国の経済は破たんし貧困化はさらに深刻化した。
1980年代、90年代と20年にわたってアメリカ主導の新自由主義のもとで苦難を押しつけられた中南米諸国では、2000年代に入るころから米州自由貿易圏に反対する斗争を軸に新自由主義との斗争がくり広げられていった。
新自由主義に反対する斗争を背景にして、99年2月のベネズエラを皮切りに、03年1月にブラジル、エクアドル、5月にアルゼンチン、8月にパラグアイ、10月にボリビア、04年にウルグアイで新自由主義と米州自由貿易圏を支持する親米政府があいついで打倒され、かわって反米的な政府が誕生した。
ベネズエラでは、98年の大統領選挙で、40年間続いた親米2大政党体制をうち破ってチャベス政府が誕生した。チャベスは中南米の解放と統合を掲げ、アメリカの支配からの独立、新自由主義反対、富の平等な分配を訴え、貧困層の圧倒的な支持を得て勝利した。
チャベス政府は教育予算を2倍化し、貧困層の児童の就学や無料給食を保障し、公共投資を拡大して雇用を拡大した。また未使用地や荒廃地を収用し、03年末までに約200万fの農地を約8万人の農民に分配した。05年10月にはイギリス精肉会社の50万fの農地を接収し、50にのぼる大農場を貧しい農民に分配する方針をうち出した。5年間で全農地3000万fの3分の1にあたる1000万fを50万の農家に分配し、協同組合を組織する計画を立てた。ベネズエラでは人口の5%以下の大地主が国土の80%の土地を所有していた。
03年4月には食料公社を創設し、メルカル(人民の店)計画を推進した。人民の店は政府の支援によって全国2000カ所で基礎食料や生活必需品を市場価格の25〜50%引きで販売し、900万人にのぼる貧困層の生活を支援した。また、極貧困層の救済策として無料の食堂を設置し、50万人が利用した。医療分野では2万人のキューバ人医師がベネズエラの貧民街や僻地に入り、04年末までに7600万件の診察をおこなった。
なお、経済封鎖であえぎながらも、近年のキューバの医療レベルは世界的に一目置かれるほどめざましい発展を遂げている。世界で大災害が起きる度に大量の医師団を各国に派遣し、生命を守る事業に国として力を注いできた。
チャベス政府のもとで、失業対策としては「見つめ直そう計画」が開始された。失業者や恵まれない市民に仕事の紹介や職業訓練をおこない、100万人を雇用し、失業率を15%から5%に低下させる目標を掲げた。また、03年には150万人にのぼる文盲の一掃のために10万人の教師を配置して識字運動計画を始めた。05年には150万人が読み書きできるようになり、全国的規模で文盲を克服した。
チャベス政府は05年にはアメリカとの軍事的関係を断ち、アメリカ軍事顧問団の受け入れ中止を発表した。
ブラジルでは02年の大統領選挙で労働党のルラ候補が約6割の得票で親米派候補を破り圧勝した。ルラ候補は「民族の主権、民主化と社会政策の充実、農地改革」などを掲げ、新自由主義反対、米州自由貿易圏反対、南米共同市場強化を訴えた。ルラ政府は貧困や飢餓をなくすことをめざす社会政策をうち出すとともに、アメリカ追随ではない独自外交を模索した。
エクアドルでも02年の大統領選挙で民族主権を擁護し、労働者、人民の権利を尊重し促進するとの公約を掲げた候補が、アメリカがてこ入れした候補を破った。アルゼンチンでも03年新自由主義との決別を唱える政府が発足した。ボリビアでも03年、アメリカやIMF・世界銀行の指図で新自由主義政策を推進してきた親米政府が打倒された。きっかけとなったのは、民営化、市場開放の一環としてボリビアの天然ガスをアメリカに輸出するという政府の計画であった。利益の82%をアメリカ企業が奪い、ボリビアには12%しか残らないというもので、労働者のストライキや農民の決起が高揚した。
中南米諸国での新自由主義政策はアメリカを中心とする外国多国籍企業が民族の富と資源を略奪するもので、その結果、貿易赤字、膨大な対外債務、貧困と失業の増大がもたらされ、国家経済は大破たんした。先行実施された中南米での事例は、TPP発効後の日本の未来をわかりやすく映し出している。多国籍企業が好き勝手に他民族を侵略し、国家の主権を奪って富を略奪し、国民を貧困と失業、さらには飢餓状態に陥れていく。しかしその結果、10〜20年後には「独立」「反米」の旗を掲げた民族の強固な反撃にあい、たたき出されるという経験まで含めて、避けることのできない矛盾関係とあわせた未来を暗示している。
TPP批准阻止のたたかいは、戦後71年にもおよぶ対米従属の鎖を断ち切るたたかいと一体のものであり、安保法制、沖縄基地問題、原発問題、貧困や失業、子育てや介護の困難、医療費の問題など、社会に生起するさまざまな問題と切り離れたものではない。経済的土台や構造も含めて、日本社会の在り方を根底から揺さぶるものにほかならず、国民一人一人の運命や「個人の幸福」もこれと無関係にはあり得ない。1%の金融資本や多国籍企業のための利潤追求社会ではなく、社会的利益や公益性を優先させる力を強め、人間が生きていける社会を創造することが待ったなしに求められている。そのことが日本だけでなく世界的な共通課題となっている。
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