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カンボジア・プノンペンの街並み(筆者撮影)
アジアの後発新興国の中で投資効果が最大の国は? 「キリング・フィールド」と呼ばれたカンボジアは今
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47794
2016.9.8 茂木 寿 JBpress
2016年7月9日、ピューリッツァー賞受賞者(1976年)のシドニー・シャンバーグ(Sydney Schanberg)氏が82歳で逝去した。
同氏は、1984年製作の英国映画「キリング・フィールド」(The Killing Fields)の主人公のモデルとなった人物である。キリング・フィールドは、ポル・ポト(1928〜1998年)が率いるカンボジアの親中共産勢力「クメール・ルージュ」(ポル・ポト派)による大量虐殺を描いた映画だった。
シャンバーグ氏はニューヨーク・タイムズ紙の特派員として、1970年代から南アジア、東南アジア等で活躍し、その間、東パキスタン(現在のバングラデシュ)、ベトナム戦争、1972年からはカンボジアで取材活動を行い、1975年4月17日にポル・ポト派の攻撃によってプノンペンが陥落した後も取材活動をしたジャーナリストであった。
■日本企業が続々と進出
アジアにおける後発新興国CLM(カンボジア・ラオス・ミャンマー)3カ国の中で、カンボジアは最も投資環境、投資効果が高い国とされている。かつてキリング・フィールドと呼ばれた国には今、日本を含めた世界中から熱い視線が集まっている。
2015年10月時点でカンボジアには224社の日本企業が進出している。この進出企業数は、2005年と比べると4倍以上である。日本企業のカンボジアへの関心は高まっており、今後も進出が大きく拡大するものと見られている。
その背景には、カンボジアの投資環境が比較的良好であることが挙げられるだろう。
カンボジアでは、ポル・ポト時代(1975〜79年)から内戦時期(1979〜91年)にかけての長期間にわたる混乱からの復興のため、1992年3月から国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による統治が開始され、治安維持、政治的安定が図られた。さらに、日本の政府開発援助(ODA)によるインフラ整備も進められた。法制度の面でも、東南アジア諸国の中で整備状況は高い部類に入る。
また、他の東南アジア諸国と比べ、外資に対して参入障壁が非常に少ない(投資奨励法)ことも魅力となっている。特に小売業のようなサービス業に関しては、他の東南アジア諸国では外国企業の出資比率に上限を設けたり、出資は可能でも特定地域内での寡占化を阻むような規制があったりするケースが多いが、カンボジアではサービス業での外資出資に制限はない。
また、ベトナム、タイ、ラオスを結ぶ回廊に位置していることから、生産拠点としての地理的優位性が高い。その上、1998年にフン・セン首班連立政権が発足してからは国内政治が安定していることもあり、日本企業の関心を集めている。
■観光産業、縫製産業が目覚ましく成長
カンボジアの主要産業は農業、漁業、林業等の第1次産業であるが、近年は観光産業、縫製産業が成長しており、2000年以降の経済成長率も高い伸びを示している。
アンコール・ワットの寺院(筆者撮影)
2015年のGDPは181.55億ドルであるが、1人当たりのGDPは1168.04ドルとなっており、国連からは最貧国(後発開発途上国:LDC)に指定されている。
産業別GDP構成比は、第1次が28.6%、第2次が27.9%、第3次が43.6%、産業別労働人口比率は第1次が48.7%、第2次が19.9%、第3次が31.5%となっており、ミャンマー同様に第1次産業が主体である。
国土の約3割が農地として利用され、その内の8割以上が水田である。作付面積は米が圧倒的に多いが、その他、トウモロコシ、キャッサバ、サツマイモ、野菜類、緑豆などの食料作物が生産されている。しかしながら労働生産性が低いため、主な農産物は国内需要を満たすに過ぎない。
■交通インフラはまだ脆弱
インフラの整備ランキングは、総合で世界140カ国中102位(World Economic Forum “Global Competitiveness Report 2015-16”)であり、整備状況は新興国の中でも低い部類となっている。
ただし、ランキングはミャンマーよりも高い。ミャンマーと比べた場合、河川航路、南部経済回廊が整備され、タイやベトナムなどと物流網が一体化していること、工業団地の整備が進んでいることなどの優位性がある。これは既述の通り、1993年以降、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)および日本のODAを中心とした支援に基づいてインフラ整備が進められたことが大きな要因となっている。
一方でインフラには問題も山積している。例えば、国道1号線および5号線はベトナムのホーチミンからプノンペンを経由してタイのバンコクまで続く重要なルートであり、南部経済回廊の一部となっている。これらの道路は舗装状況に問題はないものの、片側2車線以上のレーンが整備されている箇所は限られる。また街灯の整備が行き届いていない地域も多く、特に夜間の走行は危険が伴う場合も多い。
プノンペン市内および郊外の道路は舗装などは問題ないが、一般車両、トラック、バイク、さらには「トゥクトゥク」と呼ばれるバイクタクシーなどで終日混雑しており、特に市内中心部は渋滞が激しい。また、市内中心部から南西部にある工業団地に通じる幹線道路も車線数が少ないことから、大規模な渋滞が発生することも珍しくない。
鉄道も脆弱である。カンボジアには、プノンペンと南部シアヌークビルを結ぶ南線と、プノンペンから北部タイ国境のポイぺトを結ぶ北線の2本しかない。南線はリハビリ工事が完了し、現在1日1本の貨物列車が運行しているのみである。北線は内戦の影響もあり、まだ開通していないが、2016年末までには開通する見込みである。
空港は、定期便が発着する国際空港が3つ(プノンペン、シェムリアップ、シハヌークビル)あるが、計器着陸装置(ILS:Instrument Landing System)を装備しているのは、プノンペン、シェムリアップの2つの空港のみとなっている。シハヌークビルおよびその他の国内空港はILSを装備していない。また、プノンペン空港およびシェムリアップ空港の利用が急拡大しており、能力が限界に達しつつあるとも言われている。
カンボジアのインフラの中で最大の問題が電気である。カンボジア国内の電力供給の主体は、国営企業、独立系電力業者、民間業者、小規模認可業者、地方電気事業者など、多岐にわたっているが、国内で使用する電気の多くは周辺国からの輸入に依存している。特に近年では電力需要が急拡大しており、電力需給は逼迫している。なお、電気料金は周辺国に比べ、大幅に割高となっている。
■ポル・ポト政権がカンボジアに与えた影響
ポル・ポト政権は、急進的な共産主義に基づき、都市の無人化・農村への強制移住、集団生活化、市場・通貨の廃止、宗教活動の禁止、学校教育(労働、農業および政治を除く)の禁止などを行い、カンボジアの伝統的な社会制度を破壊した。
これらの政策に反対する者もしくは反対者とみなされた者は次々に捕らえられ、残虐な拷問を受けた後、処刑されたという。特に高い教育を受け、フランス語、英語などの外国語を学んだ国民はインテリ層というだけで処刑され、その後の国家再建においても、大きな支障があったとされている。
1975年4月から1979年1月にかけて、カンボジア政府によるとポル・ポト政権によって300万人が虐殺された(虐殺された犠牲者数には諸説ある)。当時のカンボジアの人口は1000万人以下と推定されることから、3人に1人の割合で虐殺されたことになる。カンボジアの現在の人口(約1560万人)がマレーシアの半分程度の人口にとどまっているのは、この虐殺事件の影響とも言われている。
トゥール・スレン虐殺犯罪博物館(かつては政治犯収容所だった)の建物と展示(筆者撮影)
プノンペン郊外のチュンエクと呼ばれる処刑場。この処刑場は当時カンボジア国内に数百あったとされる処刑場の中で最大規模の処刑場で、トゥール・スレン政治犯収容所から移送された受刑者が多く処刑された(筆者撮影)
2005年にカンボジア政府が発表した人口ピラミッドは「ひょうたん型」となっている。高齢者から30代までは、きれいなピラミッドとなっているが、20代、特に20代後半は非常に少なく、これがひょうたんのくびれた部分となっているのだ(ポル・ポト政権下で出産が非常に少なかったことと乳幼児死亡率が非常に高かったためとされている)。
なお、ポル・ポト政権崩壊後は、出生率が急激に高まったことから、現状では24歳以下の年齢層が全体の50%以上となっている(人口の中央値は23.9歳)。
カンボジア人口構成(2005年度、出所:Wikipedia)
■日本への好感度は高い
カンボジアには中国系住民も多く、中国企業の進出が目覚しい。市内にある企業の看板は、クメール語、英語と共に中国語(簡体字)の表記が併記されているものがほとんどである。
また、援助関連でも中国の進出が目覚しい。例えば、プノンペンには「日本友好橋」と呼ばれる橋がある。この橋は日本の支援で1966年に完成したが、1970年代の内戦で破壊され放置されていた。1994年に日本が無償支援し修復した橋である。これに対し中国は、日本友好橋のすぐ隣に平行するように「中国友好橋」を建設し、2015年に開通している。
カンボジアは外交的にも親中政策をとっている。2016年7月にラオスのビエンチャンで開催されたASEAN外相会議では、常設仲裁裁判所(PCA)が南シナ海の中国の領有権を否定した直後にもかかわらず、共同声明では仲裁裁判に言及しなかった。これを主導したのがカンボジアであったとされる。
ただし、一般のカンボジア人の中国への好感度は決して高くないと言われる。この背景には、「ポル・ポト派を背後で中国が支援していたことが大量虐殺を引き起こした」と考えるカンボジア人が少なくないからとされている。
一方、日本への好感度は高いと言われる。既述の通り、1966年に日本友好橋が開通したことに始まり、1992年3月から国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による活動を主導していたのが現地トップの明石康国連事務総長特別代表であったこと、国際平和協力法に基づいて国際連合平和維持活動(PKO)の一環として日本の陸上自衛隊が初めてカンボジアへ派遣され、道路補修、地雷除去等の活動を行ったこと、その他ODAを含め多くの日本人の文民が現地に赴き復興活動に努力したことなど、日本に対する好感度は非常に高いとされている。
■映画「キリング・フィールド」のその後
最後に映画「キリング・フィールド」について改めて触れておこう。
キリング・フィールドはシャンバーグ氏のカンボジアでの取材活動等の実話が原作となっている。ポル・ポト政権下の一般国民の悲惨さが淡々と、かつリアルな映像で描き出され、世界中の多くの人に衝撃を与え、1985年のアカデミー賞助演男優賞・編集賞・撮影賞の3部門を受賞した。
大まかなストーリーは次の通りである。
プノンペン陥落後、ポルポト政権が外国人の活動を大幅に制限したことから、シャンバーグ氏を含めた外国人は旧宗主国であるフランスの大使館に避難した。もう1人の主人公であるシャンバーグ氏のカンボジア人のアシスタントであるディス・プラン(Dith Pran)氏も同大使館に避難した。シャンバーグ氏をはじめとする多くのジャーナリストがプラン氏を外国人として第三国へ避難させることを画策するが、結局失敗し、プラン氏はカンボジアにとどまることとなった。シェンバーグ氏は約2週間後、タイを経て米国に帰国した。その後、プラン氏は死んだと思われていたが、シャンバーグ氏が1979年にタイを訪れたところ、2人は難民キャンプで再会する。
ちなみに、この映画でディス・プラン氏を演じ、助演男優賞を受賞したハイン・S・ニョール(Haing S. Ngor)氏は、米国に亡命したカンボジア人の医師である。プラン氏と同様にポル・ポト政権下で強制労働等に従事し、その間、医師であることも高い教育を受けていることも伏せて、1979年にタイに脱出し、1980年に米国に移住した。全く演技経験はなかったが、1984年に同映画のディレクターに見出され、アジア人として初のアカデミー賞助演男優賞を受賞し、その後も多くの映画に出演した。
高い演技力から、次第に俳優として活躍が期待されていたが、1996年2月、ロサンゼルスの自宅近くで強盗により射殺された(享年55歳)。約4年にわたり、キリング・フィールドを生き抜いたカンボジア人が米国で強盗に射殺されたという事実は衝撃的であった。
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