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「時代は変わった!」今こそ市場原理主義
黄金時代(6)
2016年08月22日(月)塚崎公義 (久留米大学商学部教授)
小泉構造改革は、非効率な企業を退出させて日本経済の供給サイドを強化しよう、というものでした。当時は失業が問題でしたから、供給サイドの強化は的外れでしたが、最近は労働力不足になりましたから、供給力の強化が必要になってきました。今思えば、小泉構造改革は間違えていたのではなく、時代を先取りし過ぎていたのですね(笑)。時代の半歩先を行くことは重要ですが、15年先を行くのは問題だということでしょう。そこで今回は、日本経済の供給力の強化について考えてみましょう。
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小泉構造改革は、現実を直視せず、的外れだった
小泉内閣は、構造改革を掲げて登場しました。「日本経済は構造問題を抱えており、これを解決しないと元気になれない」という意味なのですが、彼等の考える構造問題とは、供給側の弱さにありました。つまり、需要不足より供給側の弱さに問題があるので、それを何とかしよう、という基本認識だったわけです。
そこで、たとえば「借金も返せないような非効率な企業は潰れた方が日本経済のためだから、銀行に不良債権を処理させて非効率な企業を淘汰しよう。そうすれば、労働力が非効率な企業から効率的な企業に移ることが出来るので、日本経済の供給力は増すだろう」と考えたわけです。
しかし、当時の日本経済の問題は、失業者が多いことでした。わざわざ非効率な企業を潰さなくても、効率的な企業が雇おうと思えば容易に人が雇えたのです。つまり、必用なのは効率的な企業が人を雇おうと思うほど元気になることで、そのためには需要が必要だったのです。
こうした的外れな政策が打ち出されたため、筆者をはじめとする需要重視派は、大不況が来ると本気で心配していました。しかし、そうはならなかったのです。幸いであったことの一つは、米国の景気が好調だったため、輸出が伸ばせたことで景気が下支えされたことです。
さらに重要だったのは、小泉内閣が劇場型政治を行っていたため、スローガンが過激だった一方で実際の政策は比較的常識的であったことです。たとえば不良債権処理にしても、目立つ大企業を狙い撃ちにした一方で、中小企業などについては、それほど厳しく処理したわけではなかったのです。
今なら、筆者も小泉構造改革を支持する
その後、団塊の世代が引退し、少子高齢化による労働力不足の時代が来ました。そうなると、非効率な企業が淘汰されて失業者が出ても、効率的な企業が雇ってくれるので、失業問題は深刻化しませんし、結果として日本経済の供給サイドが効率的になります。まさに、小泉改革が必用とされる時代になったのです。
今はそれほど不良債権がありませんから、政府が銀行に不良債権処理を強要して非効率企業を退出させる、ということは難しいでしょうが、弱者保護の規制を撤廃して非効率企業の退出を促すことは可能でしょう。
加えて、小泉構造改革の根本思想である「市場原理主義」についても、今ならばある程度推進しても良いでしょう。何しろ、失業より労働力不足が問題となる経済なのですから、非効率企業が競争に敗れて退出することは、困ったことではなく、望ましいことなのです。まさに「時代が変わった」ので、望ましい経済政策も変わったのです。
需要が伸びれば供給側は強化される
バブル崩壊後、長期にわたって経済が低迷し、日本経済は失業の問題に悩まされて来ました。そうした中では、省力化投資をする企業は出て来ません。安い労働力がいくらでも手に入るからです。また、非効率な企業も、労働力や資金が確保できたことから、淘汰されずに生き残っていました。したがって、長期低迷期には、日本経済全体としての労働生産性は向上しませんでした。
しかし、少子高齢化によって労働力不足の時代が来ると、企業は省力化投資を活発化します。また、労働力の需給ひっ迫を映じて賃金が上がりますから、高い賃金が払えない非効率企業は淘汰されて行き、労働力が効率的な企業に流れるでしょう。まさに小泉構造改革の望んだことが実現するのです。
本来であれば、資金需給も逼迫し、銀行が借り手を選別することによっても非効率な赤字企業が淘汰されていくのでしょうが、昨今の金融情勢を見る限り、これは相当時間がかかりそうです。
淘汰による労働力の移動に加え、労働力の新規参入もあるでしょう。労働力が不足してくると、一日4時間しか働けない高齢者や子育て中の女性などが雇ってもらえるようになるからです。
つまり、需要の増加が供給サイドを強くするメカニズムが経済には備わっているのです。あとは、そのメカニズムを邪魔するような規制を撤廃し、メカニズムが働きやすいようにしてやれば良いのです。それが、アベノミクスの第三の矢である成長戦略だ、というわけです。
小泉構造改革を支持していた供給側強化論の誤解
小泉構造改革を巡っては、賛否両論ありました。その根底には、経済が不振である理由を需要側の不足に求めるか供給側の非効率に求めるか、という論争があったのです。供給側に問題があるなら、デフレではなくインフレになるはずなのに、当時はデフレだったのですから、それだけでも、供給側の問題が主因でないことは明らかだったのですが、そうは考えない人も多かったのです。
供給論者は、日本経済のTFP(詳しい説明は省きますが、ここでは生産性のことだと考えて下さい)が伸びていないことを問題としていました。そして、TFPが伸びていないのは、非効率な企業が淘汰されていないからだ。非効率な企業を淘汰すれば、労働力が効率的な企業に移るはずだから、TFPは上がるはずだ、と考えたのです。
しかし、それは二つの意味で間違いでした。一つは、効率的な企業に採用意欲が無いことを考慮しなかったことです。非効率な企業さえ淘汰して労働力を放出すれば、自然と効率的な企業に雇われるだろうと考えていたのです。
余談ですが、リフレ派が「日銀が金融緩和をすれば、資金は世の中に出回るはずだ」と考えていたのと似ています。相手の立場を考えないで、「供給してやれば需要されるだろう」という上から目線で経済を見る人が理論家には多いので、注意が必用ですね。
今一つは、日本企業の省力化投資が少ないために効率化が進んでいなかったことについて、過去のデータの延長線上で将来を論じてしまったのです。日本経済は効率化のスピードが遅いので、このまま需要を増やしても供給力が追い付かずにインフレになるだけだ、と考えてしまったのです。
需要さえ増えれば省力化投資が進むはずなのですが、そこを無視して需要を落ち込ませる政策(非効率企業が淘汰されて失業が増えれば個人消費が減る)を採ってしまったのです。
今後は、労働力不足の時代になりますから、こうした誤解が実害を産むことは無くなっていくと期待していますが。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7573
長期的歴史観で見た日本経済の三つの選択肢
御立尚資の帰ってきた「経営レンズ箱」
限界が見えた「工業化と資本主義」の経済成長。次の原動力はなにか?
2016年8月22日(月)
御立 尚資
(写真:show-m? Fotolia)
人類全体を考えると、現在は、間違いなく喜ぶべき時代だ。グローバルレベルで見ると、20世紀終盤以降、極度の貧困にあえぐ層は半分以下になり、乳幼児死亡率は激減、人類全体の平均余命は歴史上まったく経験したことのないレベルに達している。
具体的に見てみよう。国連のMDG(Millennium Development Goal)レポートによれば、一日1.25ドル以下で生活する極度の貧困層は、1990年時点で途上国の人口の5割を超えていたが、2015年には14%まで激減。世界全体で極度の貧困状態にある人口は、同じ期間に19億人から8.4億人に減っている。
世界の5歳以下の乳幼児死亡率は、1000人あたり90人から43人へと半減。この結果、途上国中心に人口は増えたにも関わらず、5歳以下で命を落とす子供の数は、約1300万人から600万人へと大きく減少した。
普段、メディアを通じて得る情報では、内戦や難民、さらにテロが大きく増えているように感じられるが、紛争による死者は10万人あたり0.7人となっていて、第二次大戦以降の20世紀後半より1桁少ないレベルに下がっている。
また、生活の質の向上も目をみはるものだ。自動車や公共交通機関による遠距離の移動の自由、夜遅くまで自由に使える明かり、さらには清潔なトイレや水道へのアクセス。こういった数世紀前には貴族でも手に入れることができなかった恩恵が、世界中の中間層の手の届くところにある。
たとえば、水道にアクセス可能な人口は、1990年に23億人だったものが、2015年には42億人へと増加している。いうまでもなく、この背景にあるのは、工業社会の広がりに伴う経済成長だ。特に、多くの新興国で経済が離陸し、成長軌道に入ったことが大きい。もちろん、先進国からのさまざまな支援もなされてきたが、途上国自身が豊かになることで、これらの恩恵を享受できる範囲が猛スピードで広がっている。
限界を迎えつつある工業化と資本主義による経済成長
一方で、こういう人類史上かつてないような幸福な時代環境にも関わらず、先進国の多くの人々は、経済・社会のあり方への不満を隠さなくなってきている。Brexitや米大統領選の様相は、その現れの例だろう。また、資源多消費型の地球環境の持続可能性への懸念もあって、将来に対しての不安感を持つ層も多い。
経済的な豊かさと人が感じる幸福感とは、ある程度豊かになるまでは強い相関をもつが、一定レベルの富を手にした後は、相関が下がる。こういう研究結果を見たことがあるが、社会全体としても、一定の豊かさに達した後は、手にしたものに満足し、幸福に感じるのではなく、格差や将来不安の方をより強く感じるようになるのかもしれない。
こういった流れの中で、経済成長をどこまで求めるのか、あるいは成長を前提とする資本主義は変容を余儀なくされるのではないか、という議論がいろいろと出てきている。
水野和男著「資本主義の終焉と歴史の危機」(集英社新書)やトマ・ピケティ著「21世紀の資本」(みすず書房)が広く読まれたのも、その流れの一環ではなかろうか。両書とも、かなり長期的な視点で分析を行い、ある意味で現在は歴史的転換点にあるのではないかという示唆を出しているように思える。
最近読んだ広井良典著「ポスト資本主義:科学・人間・社会の未来」(岩波新書)は、その長期的視点をさらに長い時間軸に置いたもので、なかなか興味深かった。現生人類が登場して以降、現在までを、科学史の視点を中心軸としながら、人口や経済規模の拡大成長期と定常化との繰り返しとしてとらえる、というのが基本的な視点であり、20万年を3つの超長期サイクルで考えておられる。
狩猟採集段階が第1サイクル。そして約1万年前からの農耕開始が人口・経済の拡大成長を生み、その後成熟化する第2サイクル。最後に産業革命以降の第3サイクル。現在は、産業革命による拡大・成長が終盤に入り、「『第3の定常化』の時代を迎えるかどうかの分水嶺に立っている」という認識だ。
科学的視点に立てば、第2、第3サイクルは、エネルギーの利用度合いを高度化させ、ある意味では「人間による自然の搾取」を強めてきたサイクルだと考えられ、サイクルの変化に併せて、宗教や思想、さらには資本主義のような経済システムが登場してきたという。
広井氏は、次の成長・拡大サイクルは、(1)人工光合成等によるエネルギー革命、(2)人類が宇宙に出ていくことによる新しいフロンティア獲得、(3)レイ・カーツウェルのシンギュラリティ論に代表されるような「ポスト・ヒューマン」、すなわち人類自体が新しい存在に変化し、資源・環境のサステナビリティの問題を乗り越える、という3種類のオプションから生まれ得る、としつつ、そのどれにも懐疑的な見方を示されている。
近代資本主義社会の持つ格差、あるいは資源の大量消費といった矛盾を解決しないまま、別の解決策を求めることへの疑問・懸念があるからだということであり、この点については、その通りだと思う。少なくとも、「資本主義の終焉」といった言葉が聞かれる背景である「工業社会に併せて、我々が作り上げてきた資本主義に基づく社会システムの変革の必要性」が、ある程度必要であることは間違いないからだ。
何度もこのコラムでも述べてきたように、おそらく地球上の人口は今世紀終盤から来世紀初頭のどこかでピークを迎え、人類全体が人口減少に直面することになる。その際に、工業化と資本主義をベースにした経済成長追求は、なんらかの限界を迎えるだろうことは、容易に想像できる。
成長をあきらめると生産性向上への希求も弱まる
さて、正直なところ、この本の中の個々の議論については、(さすがに超長期の視点での議論なので、しかたがないかもしれないものの)ひっかかってしまう部分がいくつもあった。
たとえば、サービス産業はそもそも生産性を上げることが困難だ、と断じてよいのかどうか。製造業自体もテイラーの時代以降、さまざまな努力によって、生産性革新を繰り広げてきた。サービス産業は、消費と生産が同時に行われ、在庫を作っておけないこと、あるいは、B2Cサービス業の場合、ユーザーの需要が時間的なばらつきが大きく、平準化しづらいこと。こういった特徴はあるものの、デジタルデータのオペレーションへの活用と価格等を含めたユーザーへのインセンティブの付け方次第では、生産性の大幅向上の余地は十分にあると思う。
特に、日本が米国など他の先進国と比して、サービス業の生産性が低く、かつ産業内でもばらつきがものすごく大きい現状では、サービス産業の特性を言い訳にしないことが重要だと思うので、ついつい(時間軸の長さを忘れて)ひっかかってしまうのだ。
もう少し敷衍して言えば、「定常化」を大前提として、成長をあきらめることが、(成長の如何に関わらず)競争を通じたイノベーションと生産性向上への希求を弱めてしまうのではないか、という懸念だ。
また、私は、AIの進化やシンギュラリティに過大な期待を有してはいないが、デジタル革命全体では、第4次産業革命と呼んでもよいような(資源を大量消費せずに)一定以上の経済成長を可能にする潜在力があると信じている。この潜在力を現実のものとするために必要なのは、人間のイノベーションと生産性向上への希求であり、これを弱めることは徹底的に避けるべきだと思うのだ。
ただ、この本で示された大きな思考の枠組みは大変参考になる。個人レベルでは「短期」の市場経済を生きながら、共同体は「長期」の、そして自然との関わりあいについては「超長期」の持続性を重視する、という考え方など、結論については、いろいろと共感する部分が多かった。また、地域社会のレベルとグローバル、さらにはユニバーサルなレベル、という形で、多層的な課題設定と解決策を考える、という思考方法には、強く賛同したいと思った。
こういった超長期視点での議論、さらには経済を閉じたものと考えず、科学や哲学・宗教、そして社会のあり方と絡めていく統合的な思考はものすごく重要だと思う。これらと中期的視点での具体的な議論をどう組み合わせるかが、実際の政策決定や我々経済人のなすべきことを決めていく上で、極めて大事なのではなかろうか。
イノベーションと新陳代謝を軸とした成長余力はまだ大きい
そういう観点を持ちつつ、現実の政策課題に、少し話を転じてみよう。
今の日本の経済については、大きく3つぐらいの選択肢があり、そのどれとどれを組み合わせるかが問われていると考えている。この問いに答えを出していく際に、「現在があらたな定常化への分水嶺」だと考え、低成長(ないしsecular stagnation)を前提とするのかどうか。あるいは、社会とその構成員が求めるもの、価値観として共有するものが、いまとは変わっていくと考えるのかどうか。このあたりが、単純な経済論争を超えて、非常に大事だと思うのだ。
選択肢は、経済成長の原動力をどこに求めるか、社会保障、さらには健全な社会自体の持続可能性をどう設計するか、に関わる論点だ(繰り返しになるが、これらはイチゼロではなく、どれを重視して、どういう形で組み合わせるか、どういう順序で実行するか、というあたりが、政策と社会的合意形成のキーポイントになる)。
選択肢1
金融緩和で時間を買いながら、いったん思いきった財政出動で需要を作る。現在は、完全雇用状態なので、経済成長を志向するように見えながら、実際にはインフレをもたらすことを主眼とする政策ともいえるだろう。当然ながら、インフレは財政赤字を実質的に減らしていく効果をもつ。明言はされていないが、今年の補正予算はこのあたりが本質的な狙いにも見える。
選択肢2
産業の新陳代謝を進めると同時に、基礎から実用化まで科学技術と研究開発投資へのインセンティブを高めて、経済の成長力を高める。これは、一部トライされている部分はあるものの、中小企業を含め、本格的な新陳代謝政策には政治的なリスクを伴うため、本格的に実行されているとは言えない。もちろん、この選択肢を強調する場合には、雇用のシフトが不可欠なので、教育訓練投資をどうサポートし、セーフティネットをどう高めるか、について、きちんとした詰めが必要となる。
選択肢3
税のあり方を根本的に見直し、分配政策、特に教育支援・子育て政策と併せて、貧困が世代を超えて連鎖しない仕組み作りを強力に実行する。さらに社会保障との一体改革を行い、一定の負担増と給付への厳しいコントロールを行う。これらは、高齢者世代の既得権と思われている部分に踏み込むことになるので、これまた本格的にアクセルを踏むことは、政治的リスクが伴う。
正直なところ、現在の日本の社会では、選択肢2と3は、まだまだ総論賛成、各論は自分への影響次第、というあたりが平均的な受け止め方だという気がする。
また、選択肢1は、ある意味で90年代以降の財政による景気浮揚策(とその効果が限定的であったこと)の後始末として、非伝統的金融政策のリスクをはらむものの、社会的受容性が2に比べて相対的に高く、政治的なリスクが比較的小さいことから、選ばれつつあるのだろう。
2も、一般的なレベルでは日本再興戦略に含まれていることなのだが、新陳代謝を思い切って実行するために必要な個別具体的な政策にまでは落とし込まれていない、と見るのが妥当なのではなかろうか。
もし、これから巨視的な変曲点に差し掛かり、経済成長を中心に社会全体の「幸せさ」を高めることが難しいとするならば、正直なところ、まずは3を経済社会政策の中心に置き、その上で、そのコストを負担する能力を高めるために、1または2をどう組み合わせるのか、ということになる。
いや、日本自体の潜在成長力はまだまだ高め得る、とするならば、2を主軸にしつつ、1の活用の是非を議論し、そこで得られた果実を使いながら3の実行を着実に進めていく、ということになる。もちろん、この場合も、今世紀中のどこかの段階でやってくる世界的な高齢化、そしてその後の人類全体の人口減少にどう立ち向かうか、という大論点は近未来の課題として残る。
昨今の経済論争が、ややもすると立場の違う同士が言いっ放しになっているという状況を見聞きする。迂遠(うえん)かもしれないが、超長期的な歴史観をどう持っているか、を明らかにした上で、何が合意できていて、何が合意できていないのかを、少しずつでもはっきりさせることが、将来の日本の社会を健全に保つ上で、大事だと思う次第だ。
先に述べたように、私自身は、イノベーションと新陳代謝を軸とすることで、一定の成長余地、特に一人あたりGDP(GNI)の伸び余地はまだまだ大きいと考えているし、何より、(ワークスタイルは一定の変更が必要だとしても)イノベーションと生産性向上への希求を弱めることは百害あって一利なしだと考えている。
これと3の同時進行を、どう政治的に可能ならしめるか、が最大のポイントだろう。誰が政権についても、ポリティカルアセットをどう使い、時間をかけてしか達成できない政策目標の実現をどう可能ならしめるか、が政治の意思決定上は極めて重要であることは言うまでもない。民主主義という仕組みの中で、全体のパイ拡大が限定的になってくると、政治の安定性確保と痛みのある政策の実行のバランスは、正直アートの次元に入ってくるのかもしれない。
このあたりの考え方へのご批判も頂戴できればと思う。
このコラムについて
御立尚資の帰ってきた「経営レンズ箱」
コンサルタントは様々な「レンズ」を通して経営を見つめています。レンズは使い方次第で、経営の現状や課題を思いもよらない姿で浮かび上がらせてくれます。いつもは仕事の中で、レンズを覗きながら、ぶつぶつとつぶやいているだけですが、ひょっとしたら、こうしたレンズを面白がってくれる人がいるかもしれません。
【「経営レンズ箱」】2006年6月29日〜2009年7月31日まで連載
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/213747/081800030
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