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セメント業界は合従連衡で巨大化の一途をたどってきた。写真はフランスとスイスの企業が合併して世界最大のセメントメーカーになったラファージュホルシム(スイス)のロゴ
日韓最大級のM&Aに幕、双竜の行方は振り出しに 太平洋セメントが売却した「双竜」の栄光と転落
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47401
2016.7.20 玉置 直司 JBpress
2016年6月29日、太平洋セメントは持分法適用会社である韓国のセメント大手、双竜洋灰工業の保有全株式(32.36%)を韓国のファンドに売却すると発表した。日本企業による過去最大級の韓国企業買収劇は、紆余曲折の末16年で幕を下ろすことになった。
太平洋セメントはこれまでに800億円ほどを双竜洋灰に投資してきた。今回の株式売却額は4500億ウォン(1円=10ウォン)。450億円ほどだ。
すでに16年間の間に株式の評価損を計上しており、太平洋セメントは今回の売却で特別利益を計上することになるが、海外投資としてはほろ苦い案件となった。
■外資誘致のモデルケース
太平洋セメントによる双竜洋灰への投資は、日本企業による韓国企業への出資としては過去最大規模だった。また、韓国から見れば、「外資を誘致した韓国企業再建のモデルケース」だった。
2000年当時は、大きな話題になり、日韓の産業界の強い関心を集めた投資案件だった。
だが、その後16年間、世界のセメント業界も韓国の経済状況もあまりに変化し、日韓M&Aは期待ほどの成果を上げることができなかった。
時計の針を2000年に戻してみよう。
セメントという地味な業界で、日韓の大型M&Aが実現した背景にはいくつかの要因があった。
まずは「売り手」に大きな事情があった。
後で詳しく触れるが、「双竜」は韓国を代表する財閥だった。双竜洋灰はこの財閥の中核企業だった。
■無理な拡大策、IMF危機が直撃
ところが、無理な拡大戦略が裏目に出て、借入金が膨れ上がり、資金繰りに大きな問題が生じていた。1997年、韓国は「IMF危機」という未曾有の通貨経済危機の直撃を受け、双竜も銀行管理になって、「財閥解体」の危機に瀕していた。
1997年の大統領選挙で当選した金大中(キム・デジュン)大統領(当時)は、外資誘致を経済危機乗り切り札の1枚と見た。様々な企業や金融機関が外資に「売り」に出た。
韓国最大のセメントメーカーである双竜洋灰も、銀行管理に入り、外資誘致に乗り出した。2000年に入り、双竜洋灰の首脳から太平洋セメントの今村一輔会長(当時)に、電話がかかる。
「ラファージュから買収の打診があったが、今回は太平洋に支援してもらえるとありがたい」
太平洋セメントはこの打診を機に一気に双竜洋灰への経営参加に動く。
■打診になびいた太平洋セメントの事情
太平洋セメントにも事情があった。日本のセメント業界は1990年代に業界再編が繰り広げられた、1994年に秩父セメントと小野田セメントが合併して秩父小野田が誕生。さらに浅野セメントをルーツとする日本セメントと合併して1998年に太平洋セメントができた。
相次ぐ合併で太平洋セメントは世界有数のセメントメーカーに急浮上した。小野田出身の今村会長にとって、「世界制覇」の夢がほのかに見えてきたときに、双竜から思いもよらぬ打診があった。
もう1つ。仏ラファージュ(現在のラファージュホルシム)が世界で果敢にM&Aを仕かけ、これにセメックス(メキシコ)も反応して世界のセメント業界で大再編劇が始まっていた。
ラファージュは韓国などアジア市場にも触手を伸ばしていた。
「ラファージュが双竜を買収すれば、韓国市場を奪われるだけでなく、大量の低価格セメントが韓国から日本に流入する恐れがある」
双竜洋灰にとっては、大規模合理化の可能性があるラファージュに買収されるより、旧知の太平洋セメントに買収される方がましだ。
双竜洋灰、太平洋セメントともに、異存のない提携だった。
ただ1つ、懸念がないわけでもなかった。双竜洋灰は銀行管理下にあり、銀行が大株主だ。太平洋セメントが銀行の保有株まで取得するには1000億円を軽く超える投資が必要だ。
交渉の末、銀行団と太平洋セメントの奇妙な「協力関係」で同意した。太平洋セメントは350億円を出資して約20%を出資する。銀行団は、太平洋セメントの経営権を認め、大株主としてこれを支援するという関係だ。
2000年9月21日、太平洋セメントは第三者割当増資を引き受ける形で双竜洋灰に資本参加した。
■金大中訪日前日の契約
契約締結の翌日、金大中(キム・デジュン)大統領(当時)が来日し、日韓首脳会談が開かれた。
金大中大統領にとっては是が非でも欲しかった「日本からの外資誘致」のお土産が、太平洋セメントによる双竜洋灰への出資だった。
結局、このときの合意と出資が、その後の「あいまいな提携」の始まりだった。
双竜洋灰にとっては生き残るために太平洋セメントから出資が欲しい。銀行団も「カネを出して経営もしてくれる外資が望ましい」。太平洋セメントは、「ラファージュの恐怖」を抑え、あわよくば世界に打って出たい。
3者の思惑が「太平洋セメントによる出資」までは一致した。だが、3者ともに餅を描いては見たが、その後の戦略に欠けていた。
太平洋セメントはその後、少しずつ株式を買い増し、出資比率は32.36%になった。もちろん筆頭株主だが、一方で銀行団も、国策銀行の韓国産業銀行(KDB)を中心に合わせると46%の株式を保有していた。
太平洋セメントは、米国向け輸出で協力するなど双竜洋灰の経営強化策をそれなりに打った。
太平洋セメントが経営権を握ったことで双竜洋灰の再建が加速したことは間違いない。この点は、銀行団も高く評価している。
倒産寸前だった双竜洋灰だが、ここ数年は業績も安定している。2015年の決算は、売上高が2兆929億ウォン、営業利益2206億ウォンで、売上高営業利益率比率は二桁だ。
株価も、10年前の2006年夏には4000ウォンを切っていたが、最近は2万ウォン近くで推移してる。
■共存はいつまでも続かない
「コハビタシオン(共存)」はいつまで続くのか。
16年間で、最大株主の銀行団と太平洋セメントは何度か、「経営権と株式」について話し合った。
銀行団にしてみれば、そもそも債務を株式に転換して手にした株式だから、経営が軌道に乗れば売却したい。太平洋セメントとしても、口約束で経営権は持っているが、大株主がいては不安だ。
かといって、簡単に解決する問題でもなかった。
何しろ太平洋セメントは800億円も投資した。それでも確保できたのは3分の1の株式。さらに巨額の投資に応じるメリットはあるのか?
太平洋セメントが双竜洋灰に経営参加した際、同社は世界でも有数のセメントメーカーだった。それから16年、セメント業界での再編は進み、ラファージュはホルシムと合併してさらに巨大になった。中国のセメントメーカーも急成長し、太平洋セメントはもはやメジャーの一角ではない。
双竜洋灰にさらに大型投資をして、ここを足場にアジア、世界戦略を考えるような立場でもなくなってしまった。
■KDBの方針転換
韓国側でも大きな変化があった。朴槿恵(パク・クネ=1952年生)政権の発足を機に、KDBの役割を見直す動きが出てきた。
具体的には、ずっと保有している企業の株を早期に売れという方針が出たのだ。政府系の銀行が経営が正常化した企業の株式をいつまでも保有していることはおかしい。
KDBは大宇造船海洋を子会社化してずっと株式を保有している。この間、粉飾会計や不透明な落下傘人事が繰り返された。こうした反省から、KDBが整理できる株の整理に取りかかった。
その一環で、双竜洋灰の株式売却も決まった。太平洋セメントから見れば、勝手に第三者に株式が売却されることは信義にも契約にも反しているとの立場だった。だが、法廷闘争でKDBが勝利して、KDBなど銀行団が保有する双竜洋灰株は、ファンドに売却になった。
この時点で太平洋セメントの経営権も失われ、2016年6月に太平洋セメントは双竜洋灰の保有株をこのファンドに売却することを決めた。
太平洋セメントから見れば、外資誘致を至上命題に掲げていたときに、「国策銀行など銀行団が協力する」ということで出資したのに、急に態度を変えたことが不満であるに違いない。
2015年末には、銀行団の株式を買い取る意向も伝えたが、銀行団は高値でファンドに株式を売ってしまった。
だが、では太平洋セメントは16年間、双竜洋灰の大株主として何をしようとしたのか?
未来永遠に銀行団が「協力」してくれると考えていたのか?
出資して筆頭株主にはなったが、次の戦略が描けなかったことは否定できない。
■双竜はどこへ行く?
ファンドの手に渡る双竜洋灰は今後どこへ行くのか?
韓国ではかつての「大財閥」の行方にも関心が高い。
双竜とはどんな企業だったのか。
双竜は1987年には現代、サムスンなどと並ぶ韓国の5大財閥の1つだった。韓国南東部の大邱(テグ)出身の金成坤(キム・ソンゴン)氏が石鹸工場を設立して起業したのが日本の植民地時代後半の1939年だった。
独立後、綿紡績業、保険業、貿易業などに進出したが、一気に拡大したのは、朴正熙(パク・チョンヒ)政権が発足した1960年代初め以降だ。
金成坤氏は、朴正熙大統領(当時)の実兄と同郷の幼馴染だった縁で、「政権実力者」になる。与党実力者として国会議員にもなり、事業も急拡大させた。
1960年代には、製紙業、海運業と並んで基幹産業であるセメント事業にも進出した。これが1962年設立の双竜洋灰だった。
金成坤氏は、韓国南東部の東海(トンヘ)に世界最大級のセメント工場を建設した。韓国の高度経済成長に乗ってセメント事業は超優良事業に育った。
金成坤氏は1975年に死去するが、あとを継いだ長男の金錫元(キム・ソクウォン=1945年生)会長の時代になっても拡大策に歯止めがかからなかった。
精油、重工業、建設、コンピューター、証券・・・双竜洋灰から生まれるキャッシュを使って次々と事業療育を拡大した。
■2代目会長の自動車進出が破綻の決定打
「双竜」はこうして韓国を代表する財閥にのし上がった。
金錫元氏は、1995年に国会議員に当選する。父親と同様に政治家と経済人の二足のわらじをはいたが、この頃から事業に軋みが出始める。
いくら「キャッシュマシン」のセメント事業があるとはいえ、無理に拡大をし過ぎた。決定打となったのが、自動車事業への進出だった。
1986年に、四輪駆動車などを生産販売していた東亜自動車を買収したうえ、「高級乗用車」の開発にも乗り出した。
1990年代に入り、自動車事業は金食い虫になっていた。それでも自動車事業への執着は強く、投資額と負債はどんどん膨らんだ。1995年から、4兆ウォンを投じる自動車事業拡張計画を打ち出した。
まさにそのとき、1997年、IMF危機が直撃した。
銀行管理となった双竜洋灰の経営権は太平洋セメントに移り、一時は「日韓産業協力のモデル」とまで言われた。
朴正熙大統領時代に急成長した双竜は、ライバルの金大中大統領時代に日本企業に経営権が移り、さらに朴槿恵大統領時代に新たなオーナー探しが始まることになった。
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