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OPEC史から読み解く、将来の石油市場はどうなる?
2016年07月05日(火)石 雄太郎 (石油アナリスト)
ウィーンには、OPEC(石油輸出国機構)本部がある。
去る6月2日に開催された総会では、OPEC全体の原油生産目標の設定や増産凍結などの国際石油市場に向けた需給安定策が見送られた。6月4日付日経新聞記事は「原油相場の回復基調を背景に、加盟国の間で早急な対応への危機感が薄れたためだ。加盟国は利害対立が再び原油安を招くことを避け、結束のアピールに腐心した」と報じている。
OPEC本部があるウィーンの街並み(iStock)
OPECの設立は、古く、1960年に遡る。50年を越えるOPECの歴史を語る先達は大勢おられるので、本稿では、国際石油マーケットの変遷に大きく関係した節目のみを取り上げ、後段の「未来のOPECと原油価格」の話につなげたい。
OPEC登場
OPECは華々しく登場した。
73年10月、第4次中東戦争が勃発し、OPEC加盟国の一部OAPEC(アラブ石油輸出機)が石油戦略を発動、親イスラエル国向け原油を禁輸、価格を4倍に引き上げた。以来、OPECの盟主であるサウジアラビアが標準原油価格を“公示”する、という値決め方式となる。価格決定の権力(Price Maker)はOPECにあった。消費国の石油精製会社は、産油国の“勝手決め”価格で買ったのだ。
その後、北海、メキシコなどのいわゆる非OPEC原油の供給力がOPECと拮抗してくる。が、「今の国際原油価格は30ドルである」と宣言できる力、すなわち価格決定の権力はOPECにありつづけた。なぜか。OPECがカルテルを組んでいるからだ。非OPEC産油国は各国バラバラで、この権力を持ち得なかった。
では、OPECが価格決定権を手放して、誰かほかのプレイヤーの決める価格を受容する立場(Price Taker)に転落した節目は、いつだったのかというと、それは大きく2つあった。
第一の節目1985年
第一の節目は85年。
80年代前半の世界経済は、イランのホーメイニー革命に端を発する石油価格の急騰(第2次石油ショック)に因り低成長に転じ、また、消費国側が省エネを強化した。そのため石油需要が減退した。
ところがOPECは協調減産に合意できない。会議ではいつもサウジとイランが激しく対立した。サウジは自国の生産量を削ってOPECカルテルを維持しようとしていた。
そして85年年初、イランが原油値決め方式を“革命的に”変えた。アメリカ、ヨーロッパ、それにアジア向け価格を、それぞれの地域で取引されている石油製品のスポット価格を参照して決める、という提案をしてきた。石油精製会社が原油を製品化すると、たとえば、ガソリンが30%、灯油15%、軽油20%、重油35%の4製品が得られる。
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石油製品はそれぞれに、ローカル国際市場で相場が建つ。そこでイランの新原油値決め方式はこうだ。例えばシンガポール市場のガソリンのスポット価格を30%、灯油15%、軽油20%、重油35%、を加重平均すると原料としてのイラン原油が、シンガポールを中心とするアジア地域で精製・販売される場合の製品価値の見当がつく。この価値から、精製企業の精製費や利益要素、イランからアジアに原油を運ぶ船賃を差っ引くと、イランの積出港渡しの原油価格、すなわちFOB価格が逆算できる。イランは、この価格決定方式を「リアライゼイション」と呼んだ。「実質的な原油価値」と仮訳しておきます。
シェア奪還へと動いたサウジ
これは革命的だった。原油の買い手である石油精製企業には精製マージンが残る。ローカル製品市況が軟調になれば、原油価格が値下げ調整されるのだから。イランは販売シェアを伸ばした。が、サウジもシェア奪還に動く。85年10月から同工異曲の方式を工夫し、これを「ネットバック」と呼んだ。原油を、需要地での製品化価値として評価し、サウジの積出港渡しすなわちFOB価格まで“ネットバック”して値付けするのだ。サウジとイランが、新フォーミュラを競いあった。
既出の図によれば、シンガポールのガソリンスポット価格を54ドル/バーレル、灯油56ドル、軽油56ドル、重油35ドル、と想定すれば、これら製品価格を加重平均した「実質的な原油価値」が46.3ドルになる。精製企業側の精製費と利益分を3.8ドル、中東/シンガポール間の船賃を1ドル、と想定すると、シンガポール製品市場における「実質的な原油価値」から産油国の積出港(FOB)まで、「ネットバックした」原油価格が、41.5ドル/バーレル、と値付けられる。
こうなると、精製企業側は石油製品価格を需要家に高値で売り支える必要が薄れてしまう。そして1986年に、原油価格がスパイラル的に落ちて、10ドルを割った。
この大事件をOPECウオッチャーは「サウジとイランの対立が解決できず、シェア競争が加速し、カルテルが崩壊して原油相場が崩壊した」と説明する。
が、筆者はこう考える。産油国側は、消費国の石油製品需要サイドに原油価格決定権力を手渡してしまったのだ、と。だから、サウジとイランは大失敗に気付き、やがてネットバック方式を撤回した。そして、決定権は供給者側に回収されたのだ。(参照:『石油を読む 現物石油価格決定の裏事情〜相場崩落の原因は供給サイドにあり?』2016年02月25日)
金融化した石油市場
第二の節目は、石油市場の金融化である。
1980年代後半、ニューヨークとロンドンに石油先物市場が生まれ、やがて、先物市場が日々宣言する原油先物価格が、現物価格を支配するようになる。リーマンショック後の石油先物市場と現物市場での、急激な価格崩壊の物語は繰り返さない。現物原油の売り手たるOPEC産油国は、先物市場のプレイヤーに価格決定権を譲ったのだ。
未来のOPECと原油価格
さて、OPECは将来、どうなってゆくのだろう。
日経記事は「政治的に敵対するサウジとイランも、相場の回復基調に水を差すことを懸念し、対立が表面化するのを回避したとみられる。米モルガン・スタンレーのアダム・ロングソン氏は「対話は建設的で、最近の会合で見られた内部対立はなかった」と評価し、OPECは市場への影響力を失っていないとみる」と書く。
この観察でよいのか。OPECカルテルが原油需給調整能力を持ち得ている故、国際市場での価格決定権力を維持している……これでよいのだろうか。
ヴィム・トーマス氏は、シェルグループの首席エネルギー顧問官。最近、OPECの中長期的未来像について以下のように話している。
OPECは13か国が加盟する国際機関。組織運営の形態には、いろいろな可能性があろう。
第1の形態は、加盟国が、それぞれの立場を理解尊重しつつ、全体目的すなわち国際石油市場への影響力保持のために協調している。この運営形態が現れるのは、石油需要が堅調で、シェールオイルの生産量が予想よりも伸びない場合で、OPEC総会は、つど適切な需給調整策を実施する。イラク、イランとロシアの生産政策のコントロールが鍵。この運営形態を「NewPEC」と呼ぼう。石油価格は、“熱すぎず、冷めすぎず、ちょうどよい”、つまり“ゴルディロック”相場で推移するだろう。
第2の形態は、世界経済の低成長がつづき石油需要が鈍化する場合。しかもシェールオイルは、生産性が向上して低価格に耐えている。サウジは、イラク、イラン、ロシアそれにシェールオイルとも生産・販売シェアを競いつづける。これを「NoPEC」と呼ぶ。低位の価格レベルがつづき、探鉱開発投資は低調。世界的に原油増産余力がなくなってゆく。今や、金融化した国際石油市場では、供給危機が格好の材料になる。だから相場の変動幅はおおきくなる。
第3は、イランとサウジの政治対立が深刻化し、中東域が不安定化する場合。サウジ国内が、油田地帯のシーア派の騒擾で不安定化、サウジは増産余力を失ってゆく「WarPEC」が出現する。原油価格は高止まりし、石油代替エネルギーへのシフトが加速する。
総括
OPECの中長期未来の姿を「NewPEC」、「NoPEC」、「WarPEC」と三様に想像してみたら何が判っただろうか。
まず、シェールオイルの生産量、とりわけ北米以外の地域のシェールプロジェクトの今後の成否が、OPEC生産量に大きく影響するだろう。従って、OPECはシェールオイルプロジェクトの経済性を観察しながら価格政策を打ち出すことだろう。サウジの原油生産コストは十分に低い。が、加盟国には価格下落に耐えられない国も出てくる。どうやら価格変動の大きな世界になるのではないか。
トーマス氏は4月下旬に来日し、このような話を、安倍首相と黒田日銀総裁らにレクチャーしたのだ。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7052
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