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中国で育ってほしい「善き経済」
「善き生」を提供しうる経済とは
2016.7.2(土) エドマンド・フェルプス
米配車サービス「ウーバー」、世界各地で問題 急成長にブレーキか
中国で「Uber」のようなイノベーションは生まれるだろうか(資料写真)〔AFPBB News〕
(ニューヨークより)
2008年の通貨危機を含めた、何十年に及ぶ足取りの重い成長によって、世界経済に対する見方は劇的な変化を遂げざるを得なかった。今、資金は投資から消費へ、重工業から“サービス産業”へ、民間部門から公共部門へ回すという議論がある。
しかし私が衝撃を受けたのは、こういった議論が経済の中で生産物の改良や進化にのみ焦点を置き、労働者には注意が向けられていないということだ。
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中国のケースでは顕著である。見方によれば中国は世界最大の経済圏である。中国が巨大な製鋼所や無人のアパートに対するさらなる投資をやめるべきなのは疑いようがない。しかし同時に中国は、労働者に目を向けて、彼らの労働技能を上げなければならない。これは、アダム・スミスからカール・マルクス、アルフレッド・マーシャルに至る経済学者たちが関心の中心に置いていた議題だ。
みながみな同意するというわけではない。特に労働技能の議論になると、特に大陸部のヨーロッパでは、必要なものは最適配分およびそれに伴うきちんと機能する組織だけだ(教育に対する投資が伴っているのならば)と考える者も多い。
大陸ヨーロッパのイタリア人、ドイツ人、フランス人は比較的短い時間にしてはよく働く。結果として彼らの時間単位の生産性・労働賃金は、アメリカやイギリスよりも高くなる。
しかし大陸のヨーロッパ人たちは仕事に対して特に満足しているようには見えない。彼らの満足度が低いことを示す間接証拠としては、彼らが過去最長の休暇を希望しているということと、比較的低い就労率が挙げられる。そして、仕事に対する満足度のデータという直接的な証拠もある。西洋諸国の中で、大陸ヨーロッパの労働者の満足度は最も低いレ ベルを示した。
これは驚くことではない。ヨーロッパの会社はもはや、労働者の心をとらえる新しい刺激や挑戦が起こる場所ではないのだ。
しかし、もし中国が、効率性を求めるヨーロッパ型モデルを避けるべきだというのなら、どのモデルを採用すればいいのか?
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私が著書『なぜ近代は繁栄したのか――草の根が生みだすイノベーション』(原書“Mass Flourishing”)で議論したのは、正しいモデルは「善き経済」であり、それは「善き生」を提供する経済であるということだ。
リソースの最適配分(生産性はその一部である)は、「善き経済」にとって必要であるが、十分ではない。実際に、国内消費を向上させるという1つの目的に向かうことに専念した考え方は、良き経済のために必要な他の政策から、中国の指導者の目をそらすことになりやすい。
私が他の経済学者と異なった論説を唱えるのはこの点だ。他の経済学者としては例えば、私の友人でもあるジョセフ・スティグリッツ、ジャン・ポール・フィトゥシ、ウラジミール・クヴェントの諸氏が挙げられるが、彼らが好む尺度は生活の質、つまり「クオリティ・オブ・ライフ」である。この尺度に基づいて、彼らは主に、公共財と共にある豊かな消費と豊かな余暇の必要性を唱える。たとえば、きれいな空気、安全な食料、治安のよい市街。そして市営公園や競技場といった公共設備だ。
これは、ギリシャ・ローマ時代までさかのぼる理想像の陳腐なバージョンだ。私は、これらサービス自体や、サービスが国家により提供されることに反対しない。しかし、これらが、哲学者たちの唱える概念「善き生」につながるわけではない(アリストテレスは、我々は明日の仕事に向けて回復するためにこういったサービスが必要なのだと冗談を言っていた)。
また別の友人でもある経済学者アマルティア・センは、経済学者たちが消費ばかりに焦点を置いていると、人々の「何かをしたい」という欲求を無視することになると指摘する。しかし彼もまだ十分に議論を習熟させてはいない。人々は、主体的になれない仕事から逃れたいのである。
善き生のために、人々は仕事に主体性を欲する。彼らは仕事に主導権を持てるようになることを望み、人を惹きつける仕事をできるようになることを望む。人々は彼らを表現する場所を評価する。それは、彼らの考えを話したり、資質を示したりできる場所だ。
言葉を変えると、人々は、自らの努力によって達成したものを評価する。
私は「prosper/繁栄」という言葉を(ラテン語古典で「望まれるように、期待されるように」を意味するprospereから)、仕事においての成功体験を示して使ってきた。工芸職人が自らの技術を他人に評価されて満足するということや、商人が大金を儲けて満足すること、学者が名誉ある教授職をもらって支持を受けた感触を得ることなどが「繁栄」だ。
人々はまた、キャリアを通じた個人としての成長にも価値を置く。私は「flourish/興隆」という言葉を、未知なるものへの旅路からの満足を指して使ってきた。挑戦による興奮、障害を克服することの魅力がそれだ。
実際、「attain/達成」も「prosper/繁栄」も「flourish/興隆」も、お金ではなく経験上の褒賞を指して使われる。
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それではどのような種類の経済が「善き生」を提供しうるのか?
歴史に学べるのは、善き生を提供できる経済とは、起業家精神にあふれた「アントレプレナー」の人々(隠れたチャンスを見逃さず、率先して新しいことを試みる人々のこと)や、創造力に富む「イノベーティブ」な人々(新しいことを想像し、革新的な概念を商品や手法に取り込み、潜在的顧客にマーケティングする人々)に担われる経済だということだ。このような善き経済に参加する者は、草の根から社会的に恵まれた人々まで幅広い。
私は、中国経済はこういった経済に育ってほしいと思うのだ。もちろん、逆境にあるときに、国家が即座に良き経済を育てる余裕があるとは限らない。人々はまずはきれいな空気と安全な食料を求めるだろう。しかし、公共サービスに対する多種多様な要求のすべてを満たすということは、公共セクターが巨大になり、民間セクターにおける革新的な行動を阻害するというリスクがある。
中国は、民間セクターが今後多くのサービス業において、現在サービスを提供している公共セクターに対抗し、時には公共セクターをしのぐものになるだろうということを肝に銘じなければならない。
かつては民間起業家の創造したものといえば地下鉄だった。今では、都市交通における急進的な役割は「Uber」が担っている。近い将来は、おそらく自動運転が最も急進的な変化を巻き起こすだろう。これらはどちらも、民間セクターの創造したものだ。
もちろん、中国国民はイノベーションを起こせるほど啓蒙されていないし、気質もイノベーションにはふさわしくないと皮肉る者もいるだろう。しかし、中国およびG7の中で国ごとのイノベーションを評価すると、中国がすでに1990年代には第4位にあるということが分かる。そして次の10年、イギリスやカナダが後退していく中で、中国は2位に躍り出るだろう。それも、アメリカからそう遠くない2位に。
実際に現実を見ると、アメリカから出てくるイノベーションも以前と比べるとはるかに少なくなったし、ヨーロッパからはほとんど出てこない。つまり中国は、世界経済に向けたイノベーションを起こす、アメリカと同等かそれ以上の主要な源になりうる。
私にとっては、これは中国にとって計り知れないチャンスであるように思える。そしてその発展は他の世界にとっても、歓迎すべきことである。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47218
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