WISDOM 深層中国 〜巨大市場の底流を読む 第77回 「中国の夢」の終焉 〜急増する富裕層の移民 経営・戦略 田中 信彦 2016年03月28日 「国家の屋台骨」がカナダに移民 旧正月を終えた今年2月半ば、ある出来事が中国のSNS上などで衝撃を巻き起こした。中国中央テレビ局の著名な司会者、女優、作家でもある倪萍(ニーピン、NiPing)さんという人物が、カナダのバンクーバーへの移民を宣言したのである。 なぜ1人のタレントの移民がそんなに話題になるのか。それはニーピンさんが、かつて「共和国の脊梁(せきりょう=背骨、大黒柱)」という称号を受けたこともある、それこそ国家的なレベルの超有名人だったからである。 マスメディアがほぼ全て国家の統制下にあり、そこで最大の影響力を持つ中央テレビ局の威厳は、外国人にはなかなか実感しにくいほどのものがある。看板番組の司会者や夜7時のメインニュースのキャスターともなれば、国家指導者にも匹敵する影響力を持つと言ってもいい。ニーピンさんは、そこで日本の「紅白歌合戦」に相当する大晦日の看板番組「春節晩会」の司会を13回も勤め、おまけに2002年には映画に出演、中国映画界最高の栄誉とされる「中国電影金鷄賞」主演女優賞を獲得、出版したエッセイは権威ある文学賞を受賞、最近では超人気番組「中国達人秀」(米国で大ヒットした「アメリカズ・ゴット・タレント」の中国リメイク版)の審査員を務めるなど、中国ではまさに知らない人はいないと言っていい人物である。 そんな経緯で2011年には「共和国の脊梁(国家の屋台骨?)」に認定されている。この賞は新聞社などが主催して選定する民間の称号で、公的な権威はないが、要は「国を支えるほどの人物」ということで、彼女が中国を代表する著名人であることは間違いがない。 そのニーピンさんが祖国を去って移民するというニュースに庶民は騒然となった。SNS上にはすぐさま「国家の背骨がなくなったら、共和国はどうやって立つんだ?」という書き込みが現れ、国民的ジョークとなった。本人はその後、反響の大きさに驚いたのか、中国パスポートを示しつつ「移民はしていない」といった趣旨のことを述べたと伝えられるが、すでにバンクーバー市内の学校に子息の入学手続きを済ませており、移民の意志は明らかと受け止められている。 急増する富裕層の移民 最近、富裕層の海外移民に対する関心が急速に高まっている。メディアでもその話題がよく取り上げられるし、私の周囲でもそういう気分を感じる。その背景にあるのは国内景気の先行き不安や政府の「思想的締め付け」の強化、国際的な資産分配(人民元の切り下げへの懸念)といったことだろう。要するに、1990年代半ば以降、20年以上にわたって続いてきた中国経済の急成長で恩恵を受けた層、つまり1960年代生まれ以前の人たちが「まあそれなりの資産もできたし、そろそろこの辺ではないか」と思い始めたということである。 先頃発表された「中国国際移民報告2015」(中国社会科学文献出版社など刊)という報告書に興味深いデータが掲載されている。いま流行りのビッグデータを活用したもので、中国で最も多く使われている検索サイト「百度(バイドゥ)」が公表する「百度指数」(あるワードの注目度をビッグデータ解析で指数化したもの)によると、「移民」は2015年初め頃までは同指数6000ポイント前後で数年間、ほぼ横ばいが続いてきた。しかし2015年に入ると急に上昇を始め、中国の株価が急落した同年夏には40000ポイントと、わずか半年あまりで6〜7倍に急上昇した。株価と移民の確かな因果関係は不明だが、株式相場の急騰、急落をきっかけに富裕層が移民や資産の海外移転に関心を向けた可能性は高い。少なくともこの1年ほどの間に、社会の「移民」に対する関心が急激に高まったことは間違いない。 同報告書によれば、2014年の中国からの海外移民は年間約15万人で、内訳は大洋州(オーストラリア、ニュージーランド)35.3%、次いで北米(アメリカ、カナダ)25.7%、欧州22.5%と続く。この3地域で全体の8割以上を占めている。近年、増加率の伸びが顕しいのは米国、そしてポルトガル、スペイン、ギリシャなどの南欧諸国。例えば米国は2014年(財務年度)の中国人投資移民は9128人と対前年比46%増で、投資移民全体の85%以上を占める。またポルトガルでは投資移民制度を導入した2012年末以来、2016年1月までに2853人に居住権を認めたが、うち79%が中国人だった。 一方、中国人移民の急増に耐えかねて投資移民プログラムそのものを中止する国もある。カナダは5年間に80万カナダドル(約6800万円)を指定の案件に投資すれば永住権が取得できるプログラムを実施していたが、2015年2月、この制度を打ち切った。 「ネガティブ移民」が増加
中国大陸からの移民は以前から存在したが、ブームと呼べるような時期は過去3回あった。今回の「第4次移民ブーム」の特徴は、中国経済の先行き不安や政治情況の不透明感、大気汚染の深刻化といったさまざまな問題で中国での生活に希望を失い、安全・安心な生活先を求めるというネガティブな動機に基づくものが多いという点にある。さらに不動産価格の上昇や株式投資、自身の事業の成功などで一定の資産を築いた層が、より安全・安心な資産の配分先を求めて海外に目を向けているという面もある。 振り返ってみると、中国の第1次移民ブームは改革開放政策が始まった直後の1970年代末〜1980年代初頭にかけて。この時期、合法的に移民するだけの経済力を持つ人はほとんどいなかったので、沿岸地域からの密航や不法就労など生活苦が理由の労働移民が多かった。一種の経済難民といえる。第2次移民ブームは1990年代初頭。1989年の天安門事件の武力鎮圧とその後の政治的抑圧を経験した学生や若手知識層の間に社会体制に対する失望感が広がった。形の上では留学や海外企業への転職といった形態をとったが、実際には海外に定住する覚悟を持った事実上の移民という人が多かった。緩やかな意味での政治難民と言ってもいいかもしれない。この世代の人たちは現在40歳代後半から50歳代で、日本社会で活躍している人も少なくない。 第3次移民ブームと呼ばれたのは2008〜2010年頃である。当時はリーマンショック後の経済対策として打ち出された「4兆元」(当時のレートで約60兆円)公共投資の効果もあって経済は好調、不動産価格も上昇してバブル的様相を呈し、着実に富裕層が形成されてきた時期に相当する。移民の動機はさまざまだが、従来なら「夢」にすぎなかった海外移住が実現可能な選択肢に入ってきたことで、世界に開かれた教育環境で子供を育てたいといった思いも含め、より明るい未来を切り開こうという積極的な移民が少なくなかった。 「守り」に入る富裕層 しかし、今回の移民ブームはちょっと様相が違う。先に「ネガティブ移民」と書いたが、すでに一定の資産を持った人たちの間で、中国での生活に疲れ、そろそろ安定した静かな環境で、ゆっくりした生活に入りたいという「守り」の要素が強く感じられるのである。 ある地方都市で従業員200人ほどの電子機器メーカーを経営している50歳代の友人は「どんなに頑張っても、いい目を見るのは国有企業と役人だけ。商売はどんどん厳しくなっている。製造業に見切りを付けてサービス業へ転換した人もいるが、人手不足で採用が難しく、人件費は上昇の一途。おまけに競争が激しすぎて、すぐに競合が現れ、儲けが出ない」と嘆く。10数年間稼働してきた工場と自宅マンションを処分し、同郷人のコミュニティがあるイタリア・ミラノへの移民を考えていると言う。「若い頃に向こうに行った連中が、“こっちの商売は気楽だから早く来い”って言うんだ。子供も大学を出たし、多少の蓄えもあるから、小さな商売でもすれば夫婦2人ならなんとかなる。もう疲れたよ」と話す。 昨今の政府による情報管理の強化に「文化大革命の再来」を本気で心配する声も出てきた。テレビや雑誌、出版、インターネット上の発言などに対する権力の統制はここへ来て非常に厳しくなっている。 例えば、今年の春節(旧正月)の大晦日に放映された中央テレビ局の「春節晩会」(前述)では、抗日戦争を体験した90歳を超える老兵が舞台上に車椅子姿で登場、当時の体験を涙ながらに語りつつ、弱った足腰にムチ打ってスックと立ち上がり、満場の観衆に敬礼するや拍手喝采の渦――といった演出や、人民解放軍の本物の兵士による模擬大閲兵が舞台上で繰り広げられるなど、「愛国色」の非常に強い内容になった。 演じられる楽曲や舞踊にも党と習近平国家主席への讃歌を高らかに謳い上げる内容が目立ち、一部にかつての毛沢東時代礼賛的な風潮が見られることに強い違和感を持った人は中国人の中にも多い。ある60歳代の日用品工場オーナーは「私の祖父は実は戦前に国民党の高官だった。70年も経ってまさかとは思うが、何を言われるかわからない恐さはある」と話す。 子供の留学+リスク分散=移民
一方、富裕層の厚みが増し、資産管理への関心が高まったことで、資産の海外分散と自分や家族の移民をリンクして考える層が増えてきたのも最近の特徴だ。例えば、私の20年近い友人で、1990年代から縫製工場を経営して日本向け輸出で成功し、その後、ヨーロッパのある食器メーカーの代理店を上海で経営してきた人がいる。昔、上海市内に買った租界時代の洋館が莫大な価値になっていたりして、資産は日本円で20億円を超える。 彼は日本人との商売を通じて日本社会の良さ、日本人の誠実さに感心していて、ぜひ息子を日本で勉強させたいと考えている。息子は来年大学に進学するのだが、幸いなことに息子も日本のファンで、先日、英国の大学での3ヵ月語学研修コースから戻ってきたのだが、「やっぱり日本がいい」と嬉しいことを言ってくれる。先月、親子で東京にやってきてマンションを物色し、いくつかの大学を回った。彼の思惑はこうである。まず東京にマンションを買って、息子を留学に出し、息子が日本で就職するか結婚するか、そのあたりの状況と日本の移民受け入れ政策の進展を見て、いずれ将来は彼と夫人も東京に移り住んで、ゆっくり暮らしたい――。 そんな彼の思惑の背景になっているのが、人民元の先安感だ。人民元のみで資産を保有しているのはリスクが高い。とりあえず一部を円に置き換えておこうというリスクヘッジの思惑と、息子の学業、自分たち夫婦の将来設計がセットになって考えられている。彼の場合、若い頃に東欧のある国で数年間働いたことがあり、そこでも実は永住権と一定の資産を持っているので、より徹底的だ。 中国の富裕層の人民元切り下げに対する警戒感は強い。中国当局は「大幅な切り下げはない」と再三否定するが、人々は信用していない。このあたりの感覚は日本人よりはるかに鋭敏だ。日本では、日本円で資産を持っていても円の減価(対ドルレートの値下がり)にさほど頓着しない人が多く、「どうせ日本でしか暮らせないから同じだ」といった話をよく耳にする。中国人は自分の資産で「中国国内で何が買えるか」よりもむしろ「資産の国際的な価値」のほうに敏感で、ことおカネに関する限り、非常に広い視野で世界を見ている。このあたりに日本と中国人の「国家に対する信頼度」の差が表れている。 「下に対策あれば上にも対策あり」 興味深いのは、こうした国民の海外移民増加の流れに対して、中国政府の側もそれを前提にしたかのような対策を打ち出す構えを見せていることだ。 国内メディアの報道によると、北京市は海外に移民し、外国籍を取得した「元中国人」に対し「華裔(かえい)カード」(仮称)を発行し、ビザなしでの中国在留や投資、不動産取得などでの便宜を図る制度の導入を検討しているという。「華裔」とは「中国人の末裔」、つまり他国に移り住んで外国籍となった中国人を指す言葉で、「華僑」の「僑」が「仮住まい」を意味するのに対し、「現地化した中国人」を指す言葉として使われている。このカードはいわば「元中国人」を「生粋の外国人」よりも優遇しようという制度で、中国政府は公式には「当面、発行の予定はない」としているが、一部では2019年にもスタートという情報もあり、現実化する可能性はある。 また先般、北京で開かれた中国政治協商会議(国政の助言機関)全体会議では、現行憲法にある二重国籍を認めない規定を改め、移民先と中国の二重国籍を認めるべきという議題が提出されたという報道もある。これはまだ議案段階に過ぎないが、「当局は富裕層の大量移民は避けられないと判断し、移民後も中国との関係が切れないようにしておこうとの思惑があるのではないか」と囁かれている。 中国政府にしてみれば富裕層が資産とともに海外に出てしまうのは確かに痛いが、強制的に押し止めるのは難しい。であるならば、移民後も母国と緊密な関係を保ちやすい方策を講じたほうが現実的だ。中国には「上に政策あれば下に対策あり」という言い方があるが、政府のほうも「下に対策あれば上にも対策あり」というわけで、いかにも実利主義の中国らしいやり方だと思う。 「中国の夢」の終わり 移民意向を持つ人にそれぞれの思惑や事情があるのは当然だが、富裕層全般にこうした移民熱が高まる最も大きな背景は、人々の頭の中に「成長も、そろそろこの辺ではないか」という相場観ができつつあることだと思う。かつて貧困のどん底に喘いでいた時代から、少なくとも北京や上海のような大都市では「市民総億万長者」と言ってもさほど極端ではない状態まで、中国は一気に駆け上ってきた。もちろん広くて人が多いから、これからも成長は続けていくだろうが、発展途上国の成長の最も「おいしい」部分は終わってしまったことを中国の人たちはすでに悟っている。 これまでに相応の資産を確保した人は、移民したり、海外に資金を逃がしてリスクヘッジをしたりと、安心・安全を第一に、昔のような勝負には出なくなった。一方、移民もできず、逃がすほどの資金もない圧倒的多数の人々は、上の世代のようにゼロから資産を構築する方途も見えず、日々強まる閉塞感に苛立ちを強めている。 中国という国にはかつて、確かに夢があった。それを実現した人たちもいた。しかし国家の指導者が声高に「中国の夢」を語り始めたいま、皮肉なことに夢は終幕を迎えつつあるように見える。 (2016年3月25日掲載) https://www.blwisdom.com/strategy/series/china/item/10455-77.html
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